↓説明です。
沈鐘と巨石
昔の人は、金崎は鐘崎で、ここには海の向こう(韓半島)から来た釣鐘が沈んでいると語りつぎ、信じて来た。そして宗像興氏や黒田長政など、その権力にまかせてこの釣鐘を引揚げようとしたが、失敗に終った。ところが大正8年に山本菊次郎なる人が万金をつぎこんでこれを引揚げることに成功した。しかし姿を現したのは釣鐘ではなくして、このような巨石であった。
人びとはがっかりしたが、いまでも本当の釣鐘は海底に沈んでいるとおの思いを捨てかねている。
このような話は沈鐘伝説といって諸国に例があるが、ここのは、そのもっとも有名なものである。
沈鐘と巨石。夢と現実。まことに面白い郷土鐘崎の物語である。
昭和49年10月 碑文 福岡県文化財専門委員 筑紫豊
とあります。後日、宗像大社のガイドさんがこのあたりは金の鉱脈が沢山ある地区だと聞きました。金の岬と言われていたとか。
金鉱入り口10から15ヶ所はあったでしょうとのことでした。
平家が源氏にこの地で捕まったとき、殺したら、金鉱脈の場所や精錬方法は教えないぞと言って命拾いした話しがあるみたいです。
炭坑王が大金をはたいて凄い物が沈んでいるはずと釣り上げたら石だった。
ガッカリした😮💨
とは思いますが、なんだか、それはそれで意味がある気がします。
釣鐘伝説は、諸国にあると書いているので調べてみました。長くなりますが、興味ある方はお読みください。
鐘が沈んでいるという伝説で有名なのは、
「筑前の鐘の岬・越前の鐘が崎・隅田川の鐘が淵」の3つのようです。
筑前の鐘の岬は、まさに宗像市、鐘崎。他は、敦賀市金ヶ崎町と、鐘ヶ淵駅のある墨田区墨田のあたりです。どこも、カネの名がついてますね。
それでは、福井県敦賀市金ヶ崎町の話から。
画像はお借りしました。
金前寺に「芭蕉翁鐘塚」があり、芭蕉の話と共に沈鐘の話があります。
月いづく鐘はしづめる海の底
宿の主人から「この海に釣鐘が沈んでいるのを、殿様が海士に潜らせて探させたところ、龍頭がさかさまになって海底にめり込んでおり、引き上げる方法がない」と芭蕉は聞いた。
「せっかくの名月が見えないのは、龍頭がさかさまになっているので龍神様がお怒りになっているからだろうか。雨雲の向こうにある月、暗い海の底に沈んでいる鐘、手の届かない二つの間にいるこの私だ」としみじみ思った。
この鐘は、延元二年(1337)に金ヶ崎の戦いで敗れ、城を枕に討死した新田義顕が沈めたものと伝えられているようです。
一方、貝原益軒『筑前国続風土記』巻之十七宗像郡下「鐘御崎」の項には次のような内容の記述があります。
越前の金ヶ崎には、朝鮮から持って来る途中で沈んだ鐘がある。気比神宮の海のほとりだ。これはさかさまになっている。
芭蕉が耳にしたのは、果たして、南朝勢の陣鐘なのか、朝鮮渡来の梵鐘なのか。
以上。
こちらは、本物の釣鐘がまだ沈み最中だから、モナカかな?😆
この沈んだ鐘の来歴については複数の説がある。
一中略一
この鐘は、千葉常胤が娘の夕顔姫の菩提のために建立した瑞応寺のものであったが、1552年に千葉氏が北条氏に降った時に、戦利品として北条氏が持って帰ろうとした。船で運んだところ、突然若い女の泣き声が聞こえだし、それが唸り声に変わると、遂には嵐のように川が波だったために鐘を沈めたのだという。
この伝説に興味を抱いた、8代将軍の徳川吉宗は鐘を引き揚げよという命を下した。江戸市中の女性数百人分の黒髪で編み上げた綱を鐘の竜頭に結びつけて引っ張り上げようとした。そして名人の水夫がその綱を持って川の底へと潜っていったのである。
鐘を見つけた水夫は早速、髪の毛で出来た綱を竜頭に結びつけた。すると目の前に若い美しい女性が一人現れた。
女性は「この鐘は主のあるもの。勝手に持ち出すことは出来ません」と言う。
水夫は将軍の命に背くわけにはいかないと応えると、「ならばあなたの顔も立てることにしましょう」との返事であった。
水夫の合図で綱はゆっくりと引き上げられ、鐘は川底から浮き上がってきた。そしてその先端の竜頭の部分がいよいよ水面から出ようとした。
しかしここで突然、髪の毛の綱が何者かの力で断たれるよう切れ、鐘はまた川の底に沈んでいったのである。ほんのわずかに竜頭だけが水面から顔を覗かせたところであったいう。その後将軍が再度鐘を引き上げるよう命じることはなかった。
以上が3大沈鐘🔔🔔🔔伝説でした。
釣鐘の頭は龍頭というだけに、
逆さまの鐘や沈んだ鐘は、
龍が頭を隠す?
易では、龍頭は出さない方が世俗にまみれず、静かでいられるから吉ともあるようです。
ロマンはロマンのままがいいですね。
私は、モナカより、マロン🌰派。🤭
つづく