宗像大社資料館のカフェテリアにて
小説「海賊とよばれた男」のモデルとなった方で、出光佐三さんは明治18年(1885)、福岡県宗像郡赤間村(現宗像市赤間)に生まれます。
明治44(1911)年に出光商会(現出光興産)を開店させました。1911年といえば、やっと不平等条約が撤廃され、日本の関税自主権が回復されます。
その後、太平洋戦争の戦前・戦後と、世界中が荒波の渦にあり、日本も焦土化します。そんな折、苦節の中、出光商会は急激な成長を遂げます。
出光佐三の経営理念は、「人間尊重」「大家族主義」です。
太平洋戦争敗戦によって、従業員の大量解雇やむなしと幹部たちが考えていた頃に、「馘首(かくしゅ)してはならぬ」―、(馘首とは解雇のことです)と言います。
従業員たちの雇用を確保するため、佐三は奔走しました。それは農業や漁業、醤油の製造にまで及んだそうです。
このように従業員を大切にする出光興産ではかつて、定年・解雇、さらには出勤簿もなかったそうです。
そんな、出光佐三は、幼いころから宗像大社を崇敬していたと言われています。
戦争中、佐三が宗像大社に参拝に訪れたところ、神社の荒廃した姿を目の当たりにし、心を痛めた話があり、宗像大社再興のため、出光佐三を中心とした宗像神社復興期成会が結成されます。
佐三自身も初代会長に就任しました。
そして再建のために活動していく中で、神社史の作成をし、戦争によって、一時的に作業は中断されましたが、昭和36(1961)年に上巻、その後下巻と附巻が完成します。
神社史を編纂していく中で、沖ノ島の学術調査が必要となりました。
実はそれまで沖ノ島に関することは、あまり良くわかっていなかったそうです。
日本がGHQの占領下から本土が独立を果たした後辺り、1954年、初めての調査が行われました。
その調査の結果、4~9世紀のものとみられる祭祀の跡と大量の宝物が発見されます。
出光佐三が、沖ノ島が“神宿る島”であることを明らかにしたと言っても過言ではないようです。
なお、この時発掘された宝物は約8万点、そのほとんどが国宝に指定されました。
現在では、宗像大社辺津宮境内にある神宝館で見ることができます。
出光佐三が宗像大社再建のために費やしたのは、約30年という時間と数十億という私財でした。沖ノ島の調査費用の他にも、辺津宮本殿の修復工事や神宝館の建設などにも援助を行ったといいます。
このように、出光佐三は宗像大社に多額の寄進を行ったにもかかわらず、境内にはその名前は残されていません。宗像大社側は名前を残すことをお願いしたそうですが、出光佐三は「畏れ多い」との理由で、それを拒んだと言われています。
境内に名前が刻まれた碑などはありませんが、太鼓橋の前にある燈籠は出光佐三が寄進したものです。
また、第二宮・第三宮の手前にある手水鉢に刻まれた「洗心」という文字は、佐三の揮毫(きごう)のようです。
宗像大社にて
神を大切に思う人の姿だと私は感じました。滅私です。尊敬します。
日本が、戦後独立国となった後、出光興産の日章丸事件 のことを併せて知り神懸かりだなとも思い、己の信じた道を突き進んでいく九州男子に感動しました。
これらを知り、その後
海賊と呼ばれた男
の映画を観ました。とても良い映画でした。