亀卜(きぼく)の伝承に関連してイカツオミという審神者のお話があります。
日本神話から
仲哀天皇の死に際し、神功皇后は自ら祭主となり、武内宿禰に琴を弾かせ、中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)を、神意を解釈する審神者としました。この中臣烏賊津使主の子が壱岐島の壱岐直真根子氏です。
対馬の伝承・異伝から
神功皇后の外征を支えたのは、個性的で有能な家臣たちでした。特にイカツオミ(雷大臣)は、皇后の凱旋後に対馬に留まり、古代の占いの技術である亀卜を伝えたとされます。
日本と大陸の間にあった、対馬や壱岐島は、大陸からきた亀卜をやり始めた場所ですね。
イカツオミ(雷大臣)は 対馬の太祝詞神社横に墳墓があるようです。
名称に「雷(霹靂)」「能理刀(のりと)」がつく神社では亀卜が行われていたケースが多く、全島に分布しているとのことです。
雷⚡️。霹靂(へきれき)。能理刀をノリトと読む。日本語は面白いですね。
田んぼに刀を突き刺さして雷を落として、豊作を祈り土地を中和させる話や、刀を逆さにして座った武甕雷(タケミカヅチ)神を私は思い浮かべてしまいました。
ミカヅチは、イカヅチ、元はイカツオミ(雷大臣)からかなぁ、とも思えてきます。
タケミナカタ神と戦って勝ったのが、鹿島神宮の御祭神タケミカヅチ神です。雷神かつ剣の神様です。
地震や天変地異に縁ある鯰を祀る神社は九州に多いので、この雷大臣は⚡️少し気になります。
亀卜は亀の甲を一定の作法で焼き、生じたひび割れによって吉凶を占う方法ですから、ひび割れから、イカツオミ(雷大臣)の名前がついたのでしょうか。
卜部と呼ばれる人々は、伊豆・壱岐・対馬から、卜占の技術に長じた者が選ばれて、宮中で祭祀をしていました。
日本列島においては、弥生時代から動物の骨を用いた骨卜が行われていたようですが、神祇官において採用されたのは渡来系の知識に基づくと思われる亀卜だったようです。
記紀には、5世紀に対馬と壱岐の神社の祭神が亀卜の人々と一緒に、奈良に移ったという有名な記事があるようです。
この時期には、国造りが盛んに進められており、対馬や壱岐の進んだ祭祀、亀卜などが卜部氏によって中央に持ち込まれ、記紀の編纂作業にも反映されたようですね。
鹿の神事をする志賀大神は安曇族。タケミナカタ神を信濃でサポートする流れがありました。タケミナカタ神は国譲りの際、最後まで闘い、最後はタケミカヅチ神に負け信濃に逃れます。
雷神であるタケミカヅチを祀る鹿島神宮は、中臣氏を祖としています。
タケミナカタ神vsタケミカヅチ神の国譲りに纏わる戦いは、鹿の神事vs亀の神事のような祭祀にまつわる側面もあった?のかもです。
祭祀において宮中で神祇官により使われたのは、鹿の骨でなく亀卜でした。
祭祀が太古は政治に密接に関わっていたため、祭祀方法の違いは、権力者が変わればやり方も変わったのかもしれません。
ところで、対馬には対馬文字という古代文字がありました。神事でひび割れがでて、それを適当によむだけなら信頼性も確かに無いですから文字へ変換して意味付けしたのですね。
亀卜のト兆から生まれた文字とされ、対馬の雷(いかつち)神社で行われる亀卜神事では、卦を読む際に対馬文字やアナイチ(神代文字)が用いられたようです。
アナイチ、天名地鎮(あないち)は、ウマシアシカビ字とも呼ばれるようです。今日では「神代」に実在した文字ではないとされているようですが、
しかし、ウマシアシカビヒコヂという神様は、日本神話では天地開闢において現れた別天津神様の一柱ですから、そんな名前がついた文字って神代に実在したのではないとか言われても、かなり古そうですけどね。🤭
日本にもこんな甲骨文字があったとは
驚きですね。日本の古代文字とか、じつはもっと掘り下げて研究すると面白い気がします。
中国の殷の卜占では、亀の甲羅や獣の肩甲骨に小さな穴を穿ち、熱した金属棒(青銅製)を穴に差し込むと、表側に卜形のひび割れが生じるようです。
事前に占うことを刻んでおき、割れ目の形で占い、判断を甲骨に刻みつけ、爾後占いの対象について実際に起きた結果が文字で追記され、それが甲骨文であるとありました。
何となく対馬文字もこんな感じで、神事の結果を記したのかもですね。
文字は大陸から漢字が伝わるまで無かった、とかいわれていますが、そんなことはなくて、結縄みたいに何かをキープする記すための形や文字を模索していた時代が、太古の日本にもあったのかもですね。