大善人へ身魂磨き

善でありたいと思う。日々精進。感情の渦に呑み込まれそうな時もあるけれど最後には明るく静かな大海原に和合したい。

天手長男神社 in長崎県 壱岐島

2022-09-14 06:46:00 | 神社仏閣
壱岐島に博多港から向かいました。高速船で1時間くらいです。何故壱岐島に行こうと思ったかというと、島の神社密度が高いからです。

神社庁に登録されているだけで150社以上で小さな社や祠も加えると1000を超えるようです。
その密度は日本一とも。歴史的に重要な神社も多く鎮座している島のようです。

また、島の名前に惹かれました。
壱岐。一支とも太古は記載された島。
一を支える。
壱がわかれる(岐)。

元寇の際、盾となり日本を守った島。また、宗像大社の海の御祭神、市杵嶋(イチキ)姫さまのご神名も似てるなどなど。

というわけで、最後の一日は私の希望で壱岐島です。
長々と旅を書いていますが、全て8月初旬の約1週間の記録で、備忘録です。

お読みいただきありがとうございます。

壱岐島の宿泊先にこんなのが書いていて興味深く読みました↓







倭(ヤマト)の祖先は大陸から渡ってきた、とあります。

九州にくるまでは、九州王朝の真偽、渡来人、様々な人の交わりがどのようなものかわかりませんでした。 

今もわかった訳ではありませんが、確かに、海を渡来して日本に太古にすみ、そして、村をつくり、海を基点に交易をし、戦い、服従し、和しながら、全国各地に広がったのではないかという空気を遺跡や残された伝承から感じます。

古事記には、イザナギ神、イザナミ神が8つの国を作った5番目に生まれたのが伊伎嶋(壱岐島)で、アメノヒトツバシラとも呼ばれる地です。

柱は神々を一柱、二柱と数えますが、天地を結ぶ交通路の意味もあります。

壱岐島1日だけは、夫が私に全てのスケジュールを任しましたので、来る前から調べて沢山ある神社からいくつかをピックアップして、短時間でまわるスケジュールを動線まで考えました。

まずは、天手長男神社。

小高い山頂に社殿がありました。壱岐の一の宮です。車を停めてかなりのぼります。

階段は137段。階段途中に満神社の鳥居も。寳は宝。宝が満つる神社です。








頂上の鳥居には天手長男神社と書かれています。



天手長男神については、

宗像大社の『宗像大菩薩御縁起』によれば、

「金崎織幡大明神は本地は如意輪観音、垂迹(すいじゃく)は武内大臣の霊である。

神功皇后の三韓征伐の時、紅白二流の旗を織り、宗像大菩薩の御手長に取り付けられたので織幡の名がある。異国襲来の海路守護のため海辺に居り給う」とあります。

つまり、神功皇后の三韓征伐に際し、宗像大社の神が「御手長」という旗竿に、武内宿禰が持っていた紅白2本の旗をつけ、これを上げ下げして敵を翻弄し、最後に息御嶋(沖ノ島)に立てたといわれています。天手長男の社名はこの「御手長」に由来するようです。

また、この紅白の旗は、前日の早朝に参拝しました宗像の織幡神社に縁があります。↓

「織幡宮縁起」(天和3年)
神功皇后及び武内宿禰、洞の海より高津山に登られ、神々に祈られ、次いで波津(はつ)の浦で軍(いくさ)の旗を織らしめ給い、その所を名づけて「はたの浦、大旗、小旗という。今のはつの浦とは言いなまりなり。ここに織幡大明神とは号するなり

織幡神社で織られた幡を宗像大菩薩(鎮国寺に祀られていました)の御手長につけたのですね。ハタは渡来人の秦氏と関係がありますね。


『大日本国一宮記』(『一宮記』)には、天手長男神社と天手長比売神社が物部村にあり、天手長男神社を壱岐の一宮としたとあります。
「物部」の地名もこちらに出てきます。

『一宮記』では天思兼神を祭神としているとありましたが、

今の御祭神は

主祭神

みたいですね。


早朝参拝してきました。


隣には古い祠がありました。


また、産着が沢山奉納されている拝殿もありました。



こちらが天手長男神社の拝殿。百合若大臣の鬼だこが右上にありました。

色んな昔話が百合若大臣にはありますが、ウィキペディアによりますと、

百合若大臣は、蒙古襲来に対する討伐軍の大将に任命され、神託により持たされた鉄弓をふるい、遠征でみごとに勝利を果たすが、部下によって孤島に置き去りにされる。 
しかし鷹の緑丸によって生存が確認され、妻が宇佐神宮に祈願すると帰郷が叶い、裏切り者を成敗する、という内容である。




鬼だこは、壱岐島の伝統工芸品です。壱岐島は昔は鬼ヶ島とも言われていたようです。蒙古襲来により大打撃をうけた壱岐島。伝説は事実に脚色が加えられて残るのでしょうか。








参拝を終えました。
カラスがなきます。おはようの合図でしょう。(^^)