壱岐島は、ひとつひとつの神社が小さく、思いの外早くまわれていたので、寄ることにしました。
壱岐は中国の史書『魏志』倭人伝に登場する「一支国」と考えられています。
こちらの博物館も「壱岐国」ではなく、「一支国」博物館です。
夫は音声ガイドを聴きながらゆっくりみてましたが、私は気にいったとこだけをみました。
撮影禁止以外の所を紹介しますね!
まずは、この博物館で古代(弥生時代)の壱岐島の人々の暮らしのビデオをみました。
博物館の近くに原の辻遺跡があり、弥生時代前期から古墳時代初期にかけての大規模環濠集落を中心とする遺跡です。
学芸員の方に話を少しききました。
壱岐島の原の辻遺跡は、静岡 登呂遺跡と佐賀の吉野ヶ里遺跡と並ぶ国の特別遺跡のようです。
壱岐島に60か所以上遺跡がある中で、最大のものが原の辻遺跡です。
大陸から渡ってきた最初のものも色々あるようで、例えば、動物でいうと、馬や猫が初めて壱岐島に伝えられたようです。
馬は貴重で沢山の馬を飾る宝具が出土しています。馬の話は宗像大社のガイドさんにも聞いていました。神宝館でも馬具の宝を見てきました。
しかし、私は馬より、猫に反応しました。ネコが最初??に🐱?
じつは、織幡神社で、武内宿禰と瓜二つだった身代わりとなって命を差し出した壱伎直祖真根子(いきのあたいがおや まねこ)、を思い浮かべたのです。
夫に、猫が初めて来たっていうのは、真根子氏のことじゃないかなぁというと、確かに、そうかもと。真相はわかりませんが、
学芸員さんは、猫はネズミ対策だとか言ってましたけど。😙
真根子氏については、ウィキペディアによると、
『日本書紀』で、応神天皇の命で武市宿禰が筑紫へ派遣された際、弟の甘美内宿禰が兄を廃そうとして天皇に讒言し、天皇は武内宿禰を殺すため使いを出します。
しかし、武内宿禰と容姿がよく似ていた壱伎直祖の真根子が武内宿禰の身代わりとなって自刃した。その後、武内宿禰は朝廷に至って天皇に弁明し、甘美内宿禰との探湯の対決を経て疑いを晴らしたといいます。
一方「松尾社家系図」では、真根子命は神功皇后の三韓征伐で父(雷大臣命)に従って三韓に至ったとするとあります。
そして征伐後は壱岐島に留まり、その子孫は本姓をもって中臣氏または卜部氏、または地名をもって壱岐氏を称したとしている。
以上
中臣大祓えとか今でもありますし、卜部氏の卜は、亀卜の占いの「卜」ですし、壱岐島にて真根子命が、最初に祭祀に関わった一族であったのかもですね。
そして、あとひとつ思いだしました。
安心院の共鎰山の霊石に行った際、神武の家来であり、ウサツヒメと結婚したのが種子(タネこ)であり、御幣のみ立てられた場所でしたが、種子神社と確かにありました。そこにも、中臣の祖とあったのです。
宇佐市安心院の妻垣神社
真根子🟰種子?なのでしょうか。
そういえば、時代は遡りますが、崇神天皇の時、オオタタネコも神事をして祟りを鎮めました。
ネコは「神主」を表します。「禰子(ねこ)」です。
杓子は「僧侶」を表す「釈氏・釈子(しゃくし)」で、「禰子も釈氏も(神主も僧侶も)」が変化して「猫も杓子も」になったとする説があるようです。
全く関係ないかもですが、
鬼滅の刃の禰󠄀豆子って、どっかネコっぽいですね😊
九州の宇佐神宮は太古より、神託が降ろされる地であり、その元を辿ると、もしかして、この壱岐島が大陸由来の初期の祭祀を根付かせた土地なのではないか?
空想が膨らみます。
最初の月讀神社が壱岐島にありましたし、太陰暦の月を読む、暦を読む、宮中祭祀と結びつきの強い土地のようにも感じます。
調べると、対馬が日で壱岐島が月と書いたものもありましたし、
武内宿禰と瓜二つの真根子様は、武内宿禰の身なりを真似っこして身代わりになられ、お隠れになった御方で、日陰になりながら宮中を支えた御方、故に壱岐島が天比登都柱(あめひとつばしら)、一柱とよばれるのかもとも推測します。
もう少し古代天皇の忠臣と言われた武内宿禰や神功皇后の生きた時代辺りを調べてみたくなりました。
↓甕は、故人の棺でした。
壱岐島は、私の住む神奈川県の川崎市よりも小さいぐらいの島内です。
そんな小さな島に、大小合わせて約1000ともいわれる神社や祠が点在する、まさに神々の島が壱岐島と言われています。
明治末期には全国で神社合祀政策が行われましたが、離島であったことが幸いしてか、壱岐には多くの神社が現存しています。
荒い海で有名な玄界灘に浮かぶ亀のような形をした壱岐島。『古事記』の国生み神話で、淡路島、四国、隠岐、九州に次ぐ5番目の島として生まれたと伝わります。
その後、対馬、佐渡、本州が生まれて大八島国(日本の原形)となります。
壱岐は、先述しましたが「天比登都柱(あめのひとつばしら)」と呼ばれ、神々が行き来するための、天と地をつなぐ1本の柱であるとも記されています。
島内の貴重な出土品とともに、近世から弥生時代へと遡る通史を重文以外はケースに収めずオープンに展示されていました。
一支国の王都と特定された原の辻遺跡の暮らしを165体のフィギュアで再現したジオラマ「一支国トピック」は、可愛くて、弥生時代の壱岐の人々の生活を垣間見ることができました。
↓こちらは人面石。こちらは写真をとっていなかったので、画像をお借りしました。かなり貴重なものらしいです。
大変学びのある博物館でした。
九州の佐賀にあります古代遺跡吉野ヶ里遺跡や徐福にまつわる話がYouTube にありました。
壱岐島の原の辻遺跡とは違いますが、九州で太古に、自然と共に生きた人々の生活を感じます。