神話では、天の下に積もったものをスサノオ神の罪にして描かれた所があります。
天に起こることは地におこるのかな。
スサノオ神は、地上で八岐大蛇を退治します。八岐大蛇とは、様々な自然災害かなと思っています。
人身供養をもって、太古は若い娘を生贄に自然災害を食い止めるよう祈っていたのかもしれません。
自然災害は、自ら一人一人が悪い気を生み出している事とまるで関係ないかのように、八岐大蛇に姿を変えた化け物に描き、人はオロオロとし自分を省みることなく、他責にし、ヒーローが現れ助けて貰うのをまちます。
日本の国土は海に浮かぶ龍体のようです。龍が八尋から八岐に自然災害を産みだすことを悪とみなしたものが八岐大蛇とよばれたのかなと思います。
日の元の国の国土の神、国常立神は、巨大な龍神としての御はたらきをなしているときいたことがあります。人から見ると悪とみえるような大災害でさえ、宇宙の中の地球の運行にはやむを得ない事で、無慈悲にみえますが淡々と起こってしまうため、国常立大神は、艮の金神や祟り神と呼ばれているのかなとも思います。
大災害は、天地人として天と地を繋ぐはずの役目を放棄した大多数の人が実は作り、その重くのしかかる刧の蓄積を龍体、身体、大地全身で受け止めて、実は、耐えているのが国常立大神ではないかと感じます。
縄文時代は、アマツチの運行と人の内にある働きは繋がり、故にその運行に龍神のお働きを感じ、祀ったのかもしれません。
しかし、龍神を祀る人を鬼と呼んだり歴史から抹殺します。隠された神々はそうして闇に葬られ、人は自らの内にある大切なものに気づかないようになったのかもしれません。
そうして自分の外にばかり目を向けて、善悪を自分の都合で解釈し、その因果が自分にあるとは思いもよらず、悪い事が起こると他責したり、罪を擦りつけ、または、悪神の祟りなんて言ってしまったのかなぁと思います。
荒ぶる神、祓の神は、災害を未然に消そうとしている神のようでもあります。災害は、国土にニョキニョキ現れた人の想念や気が綺麗に流れなくなり、詰まり溜まり出現した全体責任の結果かなと思います。
故に、荒ぶる神、スサノオ神は、邪が強くなれば破壊し、岩戸を閉めるしかなく、岩戸を閉めることで陰が極まり、自然の運行の中で陽転し、創造が始まる機運を待つ神の象徴のようにも感じます。
災害を未然に防ぐには、人が全体意識を重くしない、ヒト一人一人が自らの「気」を純化させ地球に負担をかけないことが大切かなとも思います。
気の純化には坐して、静を雑多な生活の中にあっても、静の時間を継続して入れることが良い気がしています。
昨日の話の続きになりますが、妙見菩薩は、神仏習合や陰陽道の中で、鎮宅霊符(チンタクレイフ)神とありました。
鎮宅霊符は、「家内の安全を保つこと、また、そのために行われる祈禳の総称。 安宅ともいう。 人間が住む家屋及びその下の地域、土地などには様々な鬼神が満ちている。 それらが人間の行う不適切な行動によって穢れる」とあります。
私は、これを読んで、鎮宅の宅は、人間が住まう外の家屋のことではなくて、「自分という身魂の器」のことだだなぁ、と思いました。
自分をおさめなさい、自分の中にいるさまざまな穢れに気づき、鎮めなさい、静めなさい。自らを常に省みて、起こる出来事に対する負の感情を他責にせず、自ら鎮めなさい、静心しなさい。と言われているように感じました。
目に映る現象により、掻き乱されて重くなるその感情は、本当のあなたではない、
自分の中の悪蛇(邪)を見抜きなさい、
地球に負荷をかけるな、
と言われているようにも感じました。
自らの器を先ずは綺麗にして、そうする事は、ひいては、様々な悪因を断つことなんですよ、自然にも良いんですよ。
と言われているようにも感じています。