ひふみ神示 第23巻 海の巻 第十一帖のなかに、
「だました岩戸からはだました神が出て、ウソの世となったのぢゃ、この道理判るであろう、ニセ神やら、だました神やら、次々に五度の岩戸閉めと申してあろが、タンバはタニハ、田庭とは日の本の国ぞ、世界の事ぞ、タンバとはタンバイチとは世界の中心と云ふ事ぞ、日の本と云ふ事ぞ、キミの国ざぞ、扶桑の国ざぞ、地場ざぞ、判りたか。」
だました岩戸とは、周りが鶏を鳴かせ、天照大御神は岩戸から出るものの自発的に岩戸を開いたのではない、ということかなと思います。
日本は、太陽の昇る日の本の国、扶桑の国。
タンバは、丹波とも、ニワとも読めます。田庭と記されていますので調べてみると記紀その他の古書には丹波・旦波・但波・丹婆・谿羽などの文字が当てられているが、「諸国名義考」には「田庭なるべし」とあり、かつて豊受大神宮(外宮)が丹波国真奈井にあり、皇大神宮(内宮)の御食事の稲🌾を作っていた広く平らな場所の意味だとありました。
また、「蓬莱山」と「扶桑樹」は、古代神仙思想が育んできた幻想で、海東のかなたには、亀の背🐢に乗った「壺型の蓬莱山」が浮び、海東の谷間には、太陽が昇る「巨大な扶桑樹」がそびえ
古代の人々は「蓬莱山に棲む仙人のように長生きし、扶桑樹に昇る太陽のように若返りたい」と強く願い、蓬莱山と扶桑樹への憧憬を募らせてきたともありました。
扶桑国の描写の中に「暘谷」というものがあるようです。暘は湯とも書かれ、山海経の注には「湯は熱水なり」「湯谷は谷中の水熱きなり」とあるようです。
また、「太陽が昇ると扶桑山上の玉鶏が鳴き、玉鶏が鳴くと金鶏、石鶏と鳴き、石鶏が鳴くと天下の鶏が鳴く(神異経)」ともあり、
扶桑から、米、亀、日の出や、鶏。「にわ」、暘谷、などのキーワードが結びつきます。
ところで、「にわ」とも読める丹波国(たんばのくに)は、現在の京都府、兵庫県(および大阪府の一部)で、丹波郡(たにはぐん / たんばぐん)中部。 京都の古称で、京都丹波とも呼ぶ。中丹のうち舞鶴市を除いた区域と南丹からなるとありました。
また、丹波国一宮は桑田郡にあり、出雲大神宮があります。
出雲大神宮(亀岡市千歳町千歳)、出雲神社(亀岡市本梅町井手)の論社二社は亀岡千歳町にあり、亀🐢や千歳(長寿)に、不老不死の地名縁起を感じます。
桑田の桑は養蚕やら、機織り、七夕の織姫を思わせ、田は米を。また、本梅町の梅は、三千世界に咲く梅の花を思わせる地名縁起です。
三千世界に咲く梅の花、出口なおさんに懸かったのは国土の神、国常立神でした。大本教は京都の綾部や亀岡に本部や支部があり、綾は機織りを思わせます。
丹波の南丹には亀と関係がある地名があり、そこには、出雲大神宮があり、また、
京都の中丹地域北には舞鶴があり、天橋立があります。天橋立近くには、籠神社があり、奧宮は御神水で有名な真名井神社です。天と地を繋ぐ橋が天橋立。
人の身体には上丹、中丹、下丹と、主要な丹田があるようです。その中丹は、気が交わる丹田だとも言われます。下丹の陰部あたりには水の要素があり、扶桑国の暘谷のように、温まるのが理想なのかも。太陽が無理矢理ではなく自然と温まった水から天橋立のような脈を上昇するイメージが体内にもある気がしています。鶏を鳴かせて太陽を出すのではなく、太陽が出て自然の摂理で鶏が鳴くのかな。自然に、無為に。
地名縁起と、亀(陰)と鶴(陽)から、空想ですが、陰陽☯️併せもつ人が、丹を練って米を耕すように、身体の中でも、気を純化させ、地と天と人の交わりをする。
日本という龍体の国は国土全体で様々な磁場で地球エネルギーの純化をさせようとしているのかも。日本は最初に日の昇る国だから、🇯🇵、天と地の間で身体全体を神の器として気を巡らせ、自然の静かな平らな気を養う大切さを多くの人が感じ善をなす人が増えるのを期待されている気がします。
日本に住まう人はもしかして地球の気を巡りへ大きな影響と役割を果たす責務があるのではないかと京都の地名から感じました。