大善人へ身魂磨き

善でありたいと思う。日々精進。感情の渦に呑み込まれそうな時もあるけれど最後には明るく静かな大海原に和合したい。

内経図 上丹田

2023-06-27 05:14:00 | 神仏について
前回からの続きです。内経図から。

今日からは、上部を。


上部との境には、十二重の塔が描かれており、「十二樓臺藏秘訣(じゅうにろうたいぞうひけつ)」と書かれ、喉が後天の気(食物など)を取り入れる入り口を意味している。


12という数は、干支の数であり一周周るイメージがあり、それは螺旋🌀のようでもあり、螺旋階段を登るように、一歩一歩果てしなくという感じです。


喉が後天の気を取り入れる入口。とありますが、


この話を読んだ時、易の兌を思いました。口に関係あるとか、沢や水場、のほか、少女などのワードが目につきます。女+少で、妙。微妙なこと。





易経ネットより。


私は坐をするとき舌を前歯の後ろにそっとおきます。さい兌といいます。任脈、督脈のキの流れを繋ぐと聞いたことがあります。


この微妙な感じ、易の話とも合わせ、いつも、お釈迦様が苦行をしてもう生きていられない程の時(陰極まった時なのか)、少女が差し出したお粥🥣により救われ、救われた話、悟りを開いた話を思います。


兎に角、陰極まった先に陽転するような陰陽を繋ぐ微かなところが喉辺りにもある気がしています。


頭部の2つの丸は両目を表すと同時に太陽と月を象徴している。顔の部分の帯状のものは、上側が督脈、下側が任脈を表し、任脈は四角い池の橋に入っている。この池から気は下の中丹田へと流れ行き、生命の循環を象徴している。

とあります。(Wikipediaより)


この図は頭部。太陽と月が目🌕☀️→👀なんですね。言われてみるとそう見えますが、目だけにも見えませんか?





視覚を用いて認識することを「見る」といい転じて「読む」「会う」「試す」ともいい、「試す」の意味での見るは、やって「みる」など、通常は仮名書きされていて、遠くから大局を眺めるというニュアンスや、深い認識の過程(いわゆる「心の目」)は、「観る」とも書きます。


内経図に描かれているのは太陽と月を持っている大きな目。目の水晶は碧色。これは、超越的眼力かなと想像💭が膨らみます。つまり、見るよりもっと大きなニュアンスを含む、「妙を見る(妙見)」🟰「観る眼かもとも勝手に思いました。

形や色を見分ける「視細胞」が特に密集しているところを「黄斑部(おうはんぶ)」といい、網膜の中心です。黄斑部という名前の通り、黄がかった色で斑点状の部分のようですが、網膜全体から見るととても面積の狭いこの部分は感度がとてもよくなっており、特にはっきりと見える場所のようです。


内経図では、☀️が描かれ、また、黄斑の黄色🟡は、陰陽5行では中心、目にとっても中心的な色なんですね。




黄色🟡の黄斑が視覚の中心、人体の不思議を感じます。


昔、絵画教室に通っていた時、絵を描きながら🖼️、「物を見る事は、本来、観る眼を養うことよ」と絵画教室の先生がよく言っていました。なるほど、先ずは実体の姿を月🌕で弱めてから、本当の実相☀️、真の姿を内なる眼で観る、妙を見る👁️のが、目👀の本来の役割かも、なんて思いました。


また、内経図の説明によると、

その下には両手を上げ天を支えている僧が立っている。「碧眼胡僧手托天」と書かれた碧眼の胡僧とは禅宗の開祖とされる達磨大師である。(Wikipediaより)とあります。


碧眼。子供が赤ちゃんの頃、瞳の白いところが、碧いと感じたことがあります。あぐらとは座と書きます。座を身体が麻痺するまでやりつづけた達磨。そして達観した境地。手托は、手で支えること。碧眼胡僧手托天は、坐を通し自らを純化して超越的眼力を得て、物の実相を観るようになった達磨のありのままの名前かもなと思いました。達磨は仏となり、天を支える、自然の化育に参加したのかもです。稀有な真人のお一人といえそうです。



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