大善人へ身魂磨き

善でありたいと思う。日々精進。感情の渦に呑み込まれそうな時もあるけれど最後には明るく静かな大海原に和合したい。

滝行

2021-08-16 22:49:00 | 神社仏閣

急に途切れず書いていたブログを休んでしまいました。継続が自分の中で目標でしたが、、。


スマホやテレビなどから実は数日離れておりました。


その間、お寺の指導のもと夫と滝行をしました。小雨のふるこの時期にしては肌寒い日でした。入る前から寒かったです。


しかし、入る前に逃げたい気持ちは皆無でした。岩になりたい、水になりたいと思い入りました。かなり心を込めて入ってきました。気迫に驚いたと夫に笑われました。


入ると、はじめは冷たかったですが、滝に打たれている時は全く冷たさを感じませんでした。


あらゆる困難にうち勝てる自分になりたいと思いました。どんな時にも負けない思いは大切です。大切な人にも、困難に負けないで欲しい。


これからも、夏休みのためブログが不定期になるかもしれませんが、また、お付き合いください。


ご訪問ありがとうございました。


光と共に、光を求めて

2021-08-13 02:06:00 | ひとりごと

ハンセン病被害を闘っておられる徳田弁護士のお言葉から引用致します。


私は太平洋戦争で父親を失いまして、私の母は二十六歳で、いわゆる戦争未亡人になって、当時二歳であった私を残されたわけで、心を病んでしまったんですね。


私を育ててくれたのは、母の両親なんですね。物心がつくまでは、爺ちゃんが私の父親で、婆ちゃんが私の母親である、と思い込んでいたんですね。小学校入る前ぐらいに、「そうじゃないんだ」ということを知らされたんです。


お父さんと思っていたその人はお爺ちゃんで、もう一人はお婆ちゃんだった。一緒に暮らしている、時々急性症状で大声を出したりする若い女性が自分の母親だと知らされた時期だったんですね。だから非常に子供なりに精神的にはショックを受けたんですね。


そういう私に近所に住んでいた障害児学級で先生をしていた方が聖書を教えてくれたんです。日曜学校をその方が開いておられて、日曜日にその先生のところに行って聖書を読む。


子供なりに自分の人生というのはどうなるんだろうというようなことを考えていたときに、その先生の言葉が聖書を読んだ感想から二つ学んだんですね。  


一つは、「私よりつらい思いをしている人が、この世の中にはたくさんいる」ということでした。もう一つは、「神様という目には見えないんだけれど、自分をじーっと見てくれる人がいる。何かあったらその人とお祈りという形を通して、会話というか、それができる」ということを学んだんです。子供心にすごく楽になりました。


自分が見られているその人に、見られても「大丈夫、僕やっているよ」って言われるような行動をしなければいけない。もちろん時々外れることいっぱいあるんですよ。その時は本当に「ごめんなさい」で、すごく落ち込んだりもするんですけど、基本的にはそういう聖書との出会いが、自分の場合には、救われたというか、どんな生き方を、どんな行動をするのか、という、いわば決めてくれたというんですかね。


ここまで


神様がずっといてずっと見てくださっている。竪山さんもそう信じておられました。ハンセン病になって、悲惨な現状を経験した上で、天が自分に臨んだ天命を果たすために自分は何ものかに生かされていると。大きな器には大きな天命が託されるんだと感じる御方。


人は、それを天命とも、使命とも呼びます。


心の底から自分を片時も離れず見てくださっている神様がいると信じると、人は神様からみて、今の自分は恥ずかしくないかなと、いつも自問自答して生きていけると思えるのかもしれません。


私は、自分なりの器に見合った、自分なりの使命を果たしていければなぁと思います。

神様に恥ずかしくない生き方をして生きていきたいと思っていきています。 




【写真は、竪山さんと徳田弁護士。竪山さんよりお借りしました】




父の目に映った戦争の記憶

2021-08-12 01:19:00 | ひとりごと

私の母は戦争を知りません。田舎でしたが不自由を感じない生活だったようです。年をとって生まれた子であり、幼少期に大病を患ったことから大切に育てられたと言います。


父は、満洲から引き上げ、敗戦の雑踏の中迷子になり、孤児になりかけた話をしてくれた事があります。戦後、食べ物が無い時代の記憶は強くあるようで、お腹一杯食べたいって小さい頃は思ったと言います。


夫の父は、私の母よりひとまわり上なので、年頃に戦争を経験し記憶も鮮明に残っているようです。以前、子供心に空を飛ぶ軍の飛行機があれは空襲する飛行機、あれは違うと見分けられたと言っていました。防空壕に隠れた話しなんかもしてくれたことがありました。


あの当時は、赤紙がきたら万歳と言って愛する家族を戦地に送らなければならなかった話しは有名な話しです。硫黄島からの手紙や、当時の映画を観るとわかります。火垂るの墓は、日本の誇るアニメ映画として多くの子供達にずっと見てほしいです。


義父は、大分県の田舎で親戚のお兄さんに赤紙が届いた時のことを話してくれました。本来なら、万歳と言わなければならないのに、重くるしい空気が流れ、お兄さんの母(義父の親戚のおばさん)は息子に駆け寄り、死ぬな。生きて帰って来るんだ。必ず生きて帰って来るんだ。と言ったようです。


当時、誰かに聞かれ通報されたら非国民です。幼い義父は、その話をただ淡々と事実だけ語ってくれました。


赤紙が来て、出兵する我が子に両手をあげて万歳しなければいけなかった時代。しかし、心から本当に喜んで戦地に愛する息子を送り出したい母がいたとは思えません。


言わなければならない言葉の裏に、皆が口に出来なかった重いを、多くの先人は持って、異国の地で愛する人、祖国を思い散っていったと思います。


義父の親戚のお兄さんは帰って来ることはありませんでした。


暑くなり、蝉の鳴き声が聞こえる8月終戦日近くあたりには、毎年この話を思い出します。


同じ事が繰り返されませんように。


平和に生きることが出来ますように。


過去の過ちに向き合い、今を生きる人が考え、自分の心にしっかりと刻むことは大切だと思います。



合掌。


彼岸花

2021-08-11 01:31:00 | ひとりごと
一言主神繋がりて今日は彼岸花について書いてみたいと思います。
葛城一言主神社は彼岸花の名所とコメントをいただいた方から教えてもらいました。彼岸花は、不思議な雰囲気の花だなぁとずっと思っていました。


彼岸花はなぜ赤い?これは、一説では地獄からもこの花だけは見えるようにとかも言われています。別名曼珠沙華。


「彼岸」花という名前は、あの世を連想させます。お彼岸の頃墓地に咲く真っ赤な彼岸花。

彼岸花が墓地に多く植えられているのには、実は理由があるようですね。昔は人が亡くなると土葬されました。津野山では、私が幼いころに亡くなった祖母は土葬でした。


写真は、妹が津野山で撮影したものです。


昔は土の中で生活するモグラなどが遺体を荒らすことが多く、それを防ぐために植えられたのが彼岸花でした。彼岸花には毒がありモグラなどの生物を寄せ付けない効果があるようです。

 

つまり、彼岸花は、ご先祖さまの遺体をを守ってくれていたんですね。実は花、葉、茎、根要するにすべての場所に彼岸花は毒があるようです。

 

特に毒製物質が多く含まれるのが「鱗茎(りんけい)」と呼ばれる球根です。彼岸花は花が終わり葉や茎が枯れた後も、鱗茎が土の下に残り、何年も花を咲かせ続けるんです。

 

触る分には大丈夫ですが、食べると嘔吐、下痢、呼吸困難を引き起こすようです。

 


彼岸花の別名のひとつ、曼珠沙華。サンスクリット語で「天界の花」という意味だそうですね。


また、「死人花」「幽霊花」「地獄花」とも言われています。お彼岸はあの世とこの世が通じるとされる時期。そんなときに咲く彼岸花ならではの別名かもしれません。

 

彼岸花は花の咲いている時期には葉なく、葉をつけている時期には花がないようです。つまり、彼岸花のサイクルは、芽が出て茎が伸びて、花が咲くという一般的な植物のサイクルとは異なります。彼岸花は茎が伸びた後花が咲き、そして、花が散ると葉が出てくるようです。


このことから、「捨て子花」という別名もあり、名前は葉を親に見立て、葉(親)に捨てられた花=捨て子花という別名が生まれたようです。


ひとつの花に昔の人は色々名前をつけたのですね。それだけ、美しさと、咲き方と咲く時期の不思議、物悲しさを感じたのですね。


乳イチョウ、母を亡くした乳飲み子が乳イチョウからしたたる雫でいきられるようになった話が葛城一言主神社の御神木にはありました。


そして、葛城一言主神社は彼岸花の名所であることを知り、何故か、一言主の神様は、両親を失った子供、悲しみと共にある人を、曼珠沙華の花びらのように情熱をもって助ける神様なのかもしれないと思いました。


親との縁は強い人もいれば、薄い人もいます。また命も長い短いがあります。この世は何が起こるかわかりません。命尽きるまで生きるのみだとも思っています。


また、あの世のどの世界に逝ったとしても、真っ赤に咲く彼岸花の花だけは、どの御霊も見捨てず、また、カンパネルラのような逆縁と呼ばれる悲しみを胸に亡くなった御霊にも、年に一回この世を訪れる道標となる花なのかもしれないとさえ感じました。


なんと優しい華なのでしょう。「慈悲華」と私は名付けます。彼岸花は、「慈悲の華」。一言主神は、「慈愛の神」。


どうか、暑さ、寒さの境目のお彼岸に「慈悲華」をたよりに、多くの悲しみをもって散った御霊が昇天できますように。


8月のお盆の時期。コロナ禍で里帰りしてお墓参りすることも難しい時代。終戦記念日も近いですね。


どこからでも届くと信じて、亡き御霊に手をあわせたいと思います。彼岸花のような慈悲の心を持ちたいです。


修験道と女人禁制について

2021-08-10 04:53:00 | 神仏について
一昨日のつづきです。


奈良県天川村の「大峯山」は、修験道の聖地のようです。役行者が約1300年前に開いたとされていて、断崖絶壁からつり下げられる荒行「西の覗(のぞ)き」で知られています。ここは、今でも女性の立ち入りを禁止する「女人禁制」の慣習が約1300年前から続くようです。





山伏姿の先達に連れられて山を登り、行場(崖)から縄で吊るされて落とされそうになります。先達に「親に孝行するか」「女遊びをしないか」などと怒鳴られ、「はい」と答える。大人の男になるための一種の通過儀礼とされています。





この修行、私もできる!と思う女性もいるかもです、とても、怖そうです。地元ではこんな言い伝えが起源とされています。


大峰山で修行に励む役小角を案じた小角の母親が、麓の町・洞川に住む小角の弟子を伴い、大峰山に登ろうとします。

谷にさしかかったところ、大蛇が大きな口を開けて襲いかかろうとし行く手をふさぎます。

2人はあきらめて洞川の里に引き返し、里に庵を結び、大峰山に手を合わせて小角の無事を祈ると、光の中から「阿弥陀如来」が現れ、「お前たちは小角の修行を妨げてはいけない。小角が下山するまで里で待ちなさい」と告げます。

以来、その谷が蛇ケ谷と呼ばれ、女人禁制の結界口と定められた。里人は庵跡に堂宇を建立し、「母公堂(ははこどう)」と呼ぶようになりました。


この話には、重要なポイントが隠されていて、女人禁制の理由も納得できるような気がします。


良かれと思って助ける事が、相手の為にならない事、転ばぬ先の杖を出すことは、転んでこそ解る痛みを回避させます。しかし、転ぶことでしか解らない得難い経験の道を閉ざします。


子供の成長を願う母。一方で子供に痛い思いをさせたく無いのも、父よりは、産み出した母かもしれません。転ばぬ先の杖を出していたり、子供に安易な道を用意したり、本人が道を作る邪魔を実はしやすいのも母なのかもしれないとも思いました。


また、山岳修行の究極の目的は自然(神)と溶け合う事かなと思います。そこには、厳しい自然と自分とのせめぎ合いも有ると思います。それに臨もうとするような強靭な精神の持ち主を自負していても、人は弱い部分があります。


特に人間の3大欲求による弱さは多かれ少なかれあると思います。そこを踏み外すと、身体を壊したり、家庭を壊したりします。


悟りに修験道のような過酷な修行がいるかどうかは判りませんが、修験道のような過酷な死と向き合うかも知れない経験は、余分なものを削ぎ落とすようにも思います。


亡くなる直前の方が本当に大切なものを悟ったり、または、大切なものを大切にしてこなかったと後悔したりすると聞きますから、それを修験道の修行により生きているうちに体得していたのかもです。


生きているうちに、命ある限り、家族を愛し、出会えた人を大切に思い縁に感謝し、生かされた命を片時も離れずに自分の内にいて見てくださる神様に恥ずかしくないように生きていきたいです





【画像は、修験道、大峯山西の覗き検索画像よりお借りしました】