最近気になりだしたのは、遺伝子組み換えと古来種の野菜だ。遺伝子組み換えは、関心が安心・安全に傾いていた。本当に人が食べ続けることで、異変はないのか。人が食べ続けて間もないので、その意味では検証されていないとも言える。遺伝子組み換えのトウモロコシや大豆はどこで作られているのか。中心はアメリカだ。日本では、バラだけが栽培されている。良く考えるとグローバル企業が種を独占している。除草剤に強いが売りだ。モンサント社のラウンドアップが有名。つまり、種を売り、除草剤を売っている。しかも種は、買い続けなければいけない。ある意味の「支配構造」が作られている。耕作地は元に戻らない。種は、アメリカが集中的に保管していると言う。これは、安全保障上の国家戦略と言える。日本人は、安全・安心のみに関心を寄せるのではなく、現地で生産しているファーマーに寄り添わなければいけない。
一方で、日本には古来野菜が全国各地にあると言う。勿論、流通することはない。限られた地域のみで食されている。この古来野菜をどうして作り続けているのか。農民は言う。「畑では、いつも笑顔でなくてはいけない。怒っていると、野菜が硬くなる」と。これは、栽培方法ではなく、人の生き方を問題にしている。こんな気持ちを持ちながら、先輩の○○さんから引き継いだので、絶やすことはできない。生産性の低い野菜を作り続ける意味は何か。高橋一也氏は「それは、美味しいからです」と。画一化された社会の中で、我々が失った物は大きい。この古来野菜もそのひとつかもしれない。今からでも間に合うはずだ。生産効率が低い。流通にのせるには量の確保ができない。理由は何でも良い。そうではなくて、日本の文化としての古来野菜の味をそれぞれの地で味わえる豊かさを感じる地域は素敵ではないですか。人を養うのには、ある程度の量と質が問われるのはしかたない。だからと言って、それだけの生活で良いのだろうか。今からでも遅くはない。忘れ物を捜しに出よう。