月の晩にひらく「アンデルの手帖」

writer みつながかずみ が綴る、今日をもう一度愉しむショートショート!「きょうという奇蹟で一年はできている」

夏日記つづき(第3週目)

2019-09-10 01:19:14 | writer希望を胸に執筆日記


8月12日(月)晴
盆あけ提出の仕事が進まない。
それで取り寄せた田辺聖子さんの本を一気読み。
やわらかい関西弁の中に人情が織りなす機微や大事な事をやんわり教わる。
あの頃のあの風土。
お聖さんという温泉で心の芯まで湯浴みしているような気持ちよさ。
登場人物の根っこは善良、悪人は1人も出さない。







8月13日火 晴
昨晩からトータルで9時間半も寝た。
眠すぎる日は宇宙から交信だと思って寝るに限る。おかげでもやもやした心の澱も全て忘れた。 仕事、はかどり、2本半完成。前回執筆の記事を見本誌と照らし合わせてみて、考察も終える。
夜。母から「今にも死にそうな気がします」などという電話が入る。死にそうにしては気丈な声で。

(母の方から掛けてくるのは珍しい。翌朝は早朝に家を出ようと緊張感の中に寝た)




8月14日(水曜)晴
お盆の帰省。今日はNの誕生日だ。着いた途端、2回もコープへ行き、ごはんづくり。
沢村貞子さんが26年作り続けた料理の記録、NHK「365日の献立日記」にならい、前日テレビでみた「冷やし茶碗蒸し」「枝豆のおろし和え」を。加えて、鯛と鯵のお造り、ピーマンの甘辛煮、トマトサラダをこしらえる。

母の家でつくる食事は、普段、家でつくるそれよりは品数が多くなる。基本はやはり母の食卓だ。
私のは、母の食卓にバリエーションをつけている、みたいなものだから。それでも食べてくれる「人」が一人でも多いと俄然張り切るのだ。



8月15日(木)晴

今日の台風は、家族みんなで迎えた(といっても母と私と主人の3人だけど)

実家にふらりと一人で帰省した日には一気に時間が逆もどりし、過去の時間軸を必死に駆け抜けている錯覚に陥る。 やっとここまで進んできたというのに。すごろくでまた、振り出しに戻ったような妙な焦燥感も。そんな時には、母の機嫌のいい時をみはからって、喫茶店にコーヒーを飲みに行く。









できるだけレトロで、寡黙な店主がコーヒー豆にこだわって自家製焙煎をしているような店がいい。そこで本をよんだり、原稿を進めたり。そうして日常の時間を恢復させるのだ。




そんな折、主人がひまそうな顔で「こんにちは」と居間の部屋に顔を出して、ストンと座ってテレビなどをみはじめたりすると、だから少しホッとする。時間がまた逆もどりして、現在の時間軸に近づいてくるのだ。

さて、今日は昨日に続いて2回、買物に行き盛大に食事をつくり、夫婦で母の家を掃除&修理をした。
4時。クーラーの取付工事の職人さんが二人やってきたので、金額交渉などをして、パンとポカリスエットをお盆にのせて、機敏に、実家暮らしの娘のように立ち働いた。私たちがいくら立ち働いていようと、母はビクともせずやはりどこか威厳があり、ちょっとやそっとで慌てたりはしない。焦った風にみえても、片頬でふわふわっと笑っていられるゆとりがある。
6人きょうだいで長女の母は、やはりいつまでたっても家長の貫禄でいきっている。すごい人だ。




8月16日(金)晴

母を一人残して帰ることがきがかりで、「お盆の休憩がてらにこっちの家においで」と誘ってみるが、「庭の花に水やりをしないと枯れてしまうから」とどうしても聞き入れてくれない。

帰りに、父と先祖代々のお墓参りをした。夕方近くなのでヒグラシの鳴き声に、
高照寺から木魚を(ぼくぼく)叩く音がかぶさって安らかな夏の和音に。
清い白檀の匂いを漂わせて、線香が香る。
途中で、手にもった10本ほどの束に両隣の線香から火がぼおっと大きく燃えうつり、大きな火玉になるので慌てて、しゃっ!しゃっ!と払うが消えないので5本ほど土に投げてしまった。

階段を5段ほど上がって水道の蛇口がある水栓をひねる。
白と紫の小菊と黄色いおみなえし。それと、丸いぼんぼん(赤紫と白)が茎の先についたが盆花に、枯れないように水をつぎたしてまわる。

両手をあわせると、父の笑った顔がぽっと瞼の中に宿った。変わらない元気そうでやさしい顔。
般若心経を知らないとこだけ、あらふやにして、でも最後まで唱えた。

「また来ます。それまでごきげんよう」。
「ありがとうございます。私たちのことを見守ってくださいませ」。

帰り際。いつものように墓地の左側の道からわが墓の地へ広がっている山桜を見上げる。
耳に響くのは墓地や木々に響きわたる蝉時雨。


ずっと前のこと。
京都の法然院で、谷崎潤一郎、松子夫妻の墓参りをした。この時、墓石の背後からかぶさるように垂れ桜が植えられていたのが忘れられなかった。墓に桜か、なんて粋な、と思っていたら。

それから数カ月後の墓参りで、空をあおいだら、墓地の敷地いっぱい傘の下に覆い込むほどの大木の山桜が、隣との境目にあたる道からなだれのごとく緑の葉をこちらへ、たれこめていたのだ。不思議だった。急に桜が植わったのもおかしい、単に気付いていなかったのか。

見惚れていたら、母がこんなことをいった。

「一年中、落ち葉がうちの墓地に落ちるので根から切ってしまいたんだけどなぁ。本当は。(ビックリ!)
いーちゃんに思い切って枝を落としてもらってだいぶスッキリなったけど。全部、根から切ってしまおうと思ってお寺さんに相談したんだ。そしたら『それは絶対止めんさったほうがいい』といわれた。掃除しても掃除しても、落ち葉。それだけじゃなくて、墓地ごと崩れてこないかと心配でなぁ。でも、お寺さんにいわれたでな、切れんしなぁ。困ったなぁ」


母は冗談ではなく本当に困ったようだった。

お寺さんよ、ありがとう。

樹齢のいった桜である。
私はこの木の満開をみたことがない。
いつか、墓参りと花見を同時開催する計画を立てなくては。