最後に先代幕そのものを検証してみます。
製作年代どうですか?もちろん専門家でないのでわかるわけがないのですが、金糸のほころび川面西と比べてみても相当痛んでますから同年代以上の気がしますが。
川面西幕がその残された箱から安政5年と考えられます。
平井先代幕が同じく箱の墨書きより、安政4年製作とあります。ちなみに製作者は岩城某です。
又、米谷地車新調文献に幕洗濯が書かれていますので新調時の万延元年にはあったことになりますのでそれ以前。
近隣地車幕の年代も考慮すると同年代の可能性膨らむので、安政年間又はその前後ですかね?
それと龍の配置がきっちり見送り背面の位置にくるよう考えて刺繍していますのでいかにも腕のたつ職人、昔ながらの気質職人が作成したのがわかります。
特長的なのが、房(ふさ)部分です。この部位は手直しや修理可能部分とは思うのですが、川面東の内幕と見送幕の房模様は同じで、川面東のみの独自の模様です。これは、川面他2町・小濱とはまったく別の模様です。
内幕は、社紋の刺繍から川面東で地車購入のち新調したか、あるいは、先代地車より引継いだかは不明ですが、ほぼ川面東製作で間違いないと思います。すなわち、小濱より購入したものではありません。
内幕も相当古いもであるのは間違いありません。
なんと言っても獅子が猫風ですから。(へたと言ってしまえばそれまでですが)
明治14年以降は記録が多く残されていますが、どの記録にも内幕の新調が出てきません。幕修理等も同じくありません。以上より内幕は、明治14年以前製作の可能性あります。もちろん記録が抜けている年数もあるのでその時の可能性もありますが。
もしも見送幕の房は一切取り替え修理をせず、内幕が先代地車よりの使用であれば、間違いなく見送幕は元々川面東にあった物となります。
少なくとも川面東先代見送幕は、小濱先代見送幕とは、構図の感じからまったく別の製作者だと推測できます。
長々と元々あったなかったと推論してきましたが、紛れも無い事実は、川面東先代幕は、川面東・小場町、大道町の先代幕であり。大切貴重な財産である。
これからも永遠に保存引継がれていくでしょう。
幕話完
製作年代どうですか?もちろん専門家でないのでわかるわけがないのですが、金糸のほころび川面西と比べてみても相当痛んでますから同年代以上の気がしますが。
川面西幕がその残された箱から安政5年と考えられます。
平井先代幕が同じく箱の墨書きより、安政4年製作とあります。ちなみに製作者は岩城某です。
又、米谷地車新調文献に幕洗濯が書かれていますので新調時の万延元年にはあったことになりますのでそれ以前。
近隣地車幕の年代も考慮すると同年代の可能性膨らむので、安政年間又はその前後ですかね?
それと龍の配置がきっちり見送り背面の位置にくるよう考えて刺繍していますのでいかにも腕のたつ職人、昔ながらの気質職人が作成したのがわかります。
特長的なのが、房(ふさ)部分です。この部位は手直しや修理可能部分とは思うのですが、川面東の内幕と見送幕の房模様は同じで、川面東のみの独自の模様です。これは、川面他2町・小濱とはまったく別の模様です。
内幕は、社紋の刺繍から川面東で地車購入のち新調したか、あるいは、先代地車より引継いだかは不明ですが、ほぼ川面東製作で間違いないと思います。すなわち、小濱より購入したものではありません。
内幕も相当古いもであるのは間違いありません。
なんと言っても獅子が猫風ですから。(へたと言ってしまえばそれまでですが)
明治14年以降は記録が多く残されていますが、どの記録にも内幕の新調が出てきません。幕修理等も同じくありません。以上より内幕は、明治14年以前製作の可能性あります。もちろん記録が抜けている年数もあるのでその時の可能性もありますが。
もしも見送幕の房は一切取り替え修理をせず、内幕が先代地車よりの使用であれば、間違いなく見送幕は元々川面東にあった物となります。
少なくとも川面東先代見送幕は、小濱先代見送幕とは、構図の感じからまったく別の製作者だと推測できます。
長々と元々あったなかったと推論してきましたが、紛れも無い事実は、川面東先代幕は、川面東・小場町、大道町の先代幕であり。大切貴重な財産である。
これからも永遠に保存引継がれていくでしょう。
幕話完
整理すべき事実関係として少し補足しておきます。実は、この問題の当事者は小浜と川面だけではありません。
川面東は小浜から地車を購入するにあたり、それまで所有していた先代地車を中山寺村へと売却しています。また、その中山寺村は同じくそれまで使ってきた地車を西谷の長谷村へと売却。こうして4つの集落の間で計3台の地車が玉突き的に売買されたことがわかっています。
ちなみに小浜東之町地車の値段は525円、川面東の先代地車が212円、中山寺の先代地車は74円で売却されています。
さて、中山寺から地車を購入した長谷は同じように先代の地車を所有していたのでしょうか。74円の価値しかない古地車に買い替えるほどの地車?おそらく、長谷はこれが初代の地車でしょう。では、その地車に飾る幕は?
もし、中山から地車とともに譲り受けているなら、中山寺には幕が残っていない。玉突きの連鎖で、いずれの場合も幕付きで売買されいる可能性が高くなります。でなければ、どこかの集落が幕を新調していなければつじつまが合いません。
反対に「長谷は幕だけを新調し、それを中山寺から買った古地車に飾りつけた」とすればどうでしょう?最初の小浜が幕付きで売却していれば、どこかで玉突きが詰まってしまいます。どこにも幕がだぶっていないのなら、東之町の幕は小浜に残っているはずです。
長谷にはこの時に購入した地車の痕跡はまったく確認できないため、残された手がかりは中山寺だけとなります。中山寺にはほぼ同じ図柄の新旧2枚の幕が現存しています。これは何を意味しているのでしょう?
追伸:25円の酒肴料についてですが、3台の玉突き現象の値段を見比べてください。500円に対して25円、200円に対して12円、70円に対して4円。ただの偶然かもしれませんが、キリのよい「言い値」に5分程度のイロを付けるのが当時の慣習だったのかも?と思ったり。
まっしゃさん幕の行き先だぶり等は、そう単純ではないと思いますよ。東地車にとらわれるとたしかにそうかもしれませんが、それでも疑問点ありセットであるはずの前幕(内幕)どうですか?なんとなく見送り幕と数が合いませんね。それぞれの売却町で処分?購入町で処分?
同年代購入、鴻池地車先代?小濱北地車幕はどこに?川面西・南の購入先は?どうしたのか?考えるとそう単純じゃありません。
その町に合わない幕はあえて購入はしませんよねなんぼついてきても処分しずらくないですか?私は、いらない幕は、売却町が処分又は、他に活用したと思ってます。
考え方は色々あり、元中山寺先代であれば、長谷には幕は譲っていないとも考えられるし、元川面東の幕である場合は元中山寺先代幕を長谷に譲ったことになります。現長谷山車(先代山車)は、太鼓ですので幕が合いませんね。
古地車を解体利用、太鼓に改良したとしたらどうですか?地車用見送幕要りませんよね。
NORIさんが言うように「地車と幕は一体のもの」と言われれば、確かに幕のない幕式地車を地車とは呼べないといった考え方も道理だし、西や南が地車と幕をまったく別個の年代に揃えていることを考えれば、必ずしもそうとは言い切れないような気もする。
もうひとつの記録を見ると「檀楽車買得代」が500円、「旧檀楽車売渡代金」が212円とあって、長谷の記録でも「地車代価」としかない。刺繍幕が地車本体に相当するくらい高価なものだったとすると、これらの記録のどこにも「幕」が登場しないのはやっぱり不自然?幕付きなら「幕も添えて」と書くような気もする。
あにき殿が迷走するように、考えようによってどちらとも考えることができる。何より「東」の文字が川面東の「東」であって何らおかしいところはないのである。
そして小浜の伝承に矛盾が多いことも確か。でも、断言するにはもう少し決定的な根拠がほしいです、あにき殿。何とか「これだ!」って証拠を見つけて、で「改訂・川面地車史」を作りましょうね~。
実は考えようでどっちとも言えるよね。私は、皆さんに当たり前でないことをわかってもらえればと思います。
今日は何とか最後まであにき殿の味方でいたいと、小浜の伝承の矛盾について。
小浜には3台の地車があって、その幕にはそれぞれ西・東・北の文字があった。
東之町地車は川面東に売却し、幕はそのまま川面東が使った。(だから東の文字がある)
北之町地車は鴻池に売却し、幕は北の文字を取り除いて鴻池が使った。(だから北の文字はない)
西之町地車は小浜に残り、幕は西の文字を巴紋に置き換えて使った。(だから西の文字はない)
小浜の伝承を「整理」するとこういったことになるのですが、根拠が曖昧な伝承を論理的に「整理」したばかりに全体像が歪んでしまうことはよくあることです。
1)小浜には3台の地車があったが、うち2台は売却した
2)川面東地車の幕には東の文字がある。これは東之町が地車といっしょに売却したものだからである。
3)東之町の幕に東の文字があるのなら、ほかの2台にも同じように文字があったはずである。
4)鴻池地車の幕には北の文字がない。これはもともとはあった文字の部分を取り除いたからである。
5)小浜地車の幕にも西の文字がない。これはもともとはあった文字の部分を巴紋に置き換えたからである。
ここで、かろうじて事実関係がはっきりしているのは1と2の前半部分まで。以下は、2の後半部分、つまり東之町の幕は地車といっしょに川面東に売却されたはず、という仮説を前提にした推測であることがわかる。
北之町のものと言われてきた竜虎の幕が、実は鴻池で新調されたものとわかってしまうと「文字を取り除いて左右の図柄を寄せた」とは、少々強引なツジツマ合わせと言わざるをえないし、小浜の幕についてはあまり言及したくない(これは小浜の判断に任せるべき?)けれど、正直なところ私にも「文字の痕跡はない」ように見える。そう思い始めると刺繍を剥がして図柄を変更するなんてことも非現実的な気もする。
否定はできないけれど、小浜の伝承がかなり疑わしいことは間違いない。だからと言って、そのすべてを、つまり、東の幕についてもそうかという確証にはならないのだけれど。
孫「じぃちゃん、ここ(川面)のお祭りは賑やかだねぇ。いいなぁ、地車が3台もあって。」
爺「そうじゃなぁ。でも、うち(小浜)だって昔は3台あって、ここに負けないくらい賑やかだったんじゃぞ。」
孫「えっ?じゃあ、どうして今は1台なの?」
爺「3台で祭りのたびにケンカばっかり繰り返していたもんじゃから、東の地車は川面へ嫁入りさせたんじゃ。」
孫「へぇ~、川面へ?じゃあ、この中に小浜からお嫁に行った地車があるの?」
爺「ほれ、あそこじゃ。後ろに大きく「東」って文字が見えるじゃろ。」
孫「ほんとだ。あれが東の地車?だから幕に「東」って字があるんだ。」
爺「そうじゃ、そうじゃ。小浜東の地車だったんじゃからのう。」
孫「じゃあ、もう1台の地車はどうしたの?」
爺「北の地車も売ってしまったのう。そうそう、あれはたしか鴻池じゃ。」
孫「ふ~ん。その地車にはやっぱり「北」って字があるの?」
爺「そりゃそうじゃ。東の地車にあるんじゃから、小浜の地車はみんな同じじゃ。」
孫「でも、じぃちゃん。うちの地車は神社のマークだよ。」
爺「う~ん、昔はそこに「西」って文字があったんじゃろうが、1台になってしまったからのう。みんなで仲良く使いましょ、って三つ巴の紋に付け替えたんじゃな。」
孫「そっかぁ。それって、じぃちゃんが子供のころのお話?」
爺「いやぁ、ワシなんぞが生まれるより、もっともっと昔の話じゃよ。」
孫「ふ~ん。じゃあ、今度は北の地車を見に連れてってよ。」
爺「よしよし。ちゃんと「北」って字があるか確かめに行こう。」
こんな会話があったか、なかったか。まっしゃの妄想第2弾でした。でも、伝承の始まりなんて、こんな程度のことじゃないかと思うのです。
私はどちらか、良く解りません。しかし、引っ掛かる所があるのです。口伝は信用などはしていません!口伝ほど、ええ加減な話はありません。ただ、元小浜東之町だった川面東の先代幕に左右に龍が入り真ん中に「東」と入っている事実と、小浜の先代幕に左右に虎が入り真ん中に「巴」が入っていたと言う事実が引っ掛かるのです。「四神」の考え方から言っても、「東の龍」に「西の虎」は正当な考え方では?
もし、川面東の先代幕が元々川面東に存在していたのならば、小浜の先代幕が「左右に虎」である必然性が無いのではないだろうか?また、元小浜東之町に存在していたはずの「幕」は何処に行ってしまったのだろう・・・?
確かに川面東の先代幕と小浜の先代幕は刺繍の雰囲気などが全く違う様にも思える?
そこで仮説。
①小浜の先代幕は、「西」の文字が入っていた物を元に後の時代に新調された。
②川面東の先代幕も、「東」の文字が入っていた物を元に後の時代に新調された。
こう言う考え方はどう?
あながち無いとは、言えないのでは?
幕を新調する時に、全く違うデザインにするって言うのは、今の時代と違って余程の事が無い限りやらないのでは?それって非常に勇気がいる事だと思いませんか?事実、家の(米谷)幕の新調の時も先代幕を元に、そのまま新調しました。(あまりにそのまま作ったので、古くなって欠損していた所もそのまま出来上がりましたが?)川面の大修理の時も、そうだったのでは?「幕のデザインを変えよう」と言う意見は出たのでしょうか?意外と「昔からそうだったから」が理由になっている事って多いのでは?