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川面東地車製作年代私なりに考察してみました。
江戸末期から明治初期と言われてます。間違ってはないでしょう。江戸中期とは考えにくいですし、明治14年より前は明らかですから。
なんとかもうちょと時代絞れないか推測してみます。
彫物が一番推測しやすのかと考えてます。基本は地車製作時より現彫物が一緒に新調されたとします。のち追加となると特定できませんので。
おそらく川面東地車の彫物は、私が誰よりも眺めているはずです。その感性・感覚で他地車・相野一門と言われている地車と比べて年代探ります。
彫物研究の第一人者多数いらっしゃいます。その方々は、数多くの地車を古くから研究されていると思います。その方々が推測されている彫物師参考にあえて私の感性で判断します。
なんかえらそうなこと言ってますが、そんなに数みてません。その数台からの判断ですので後日まだ見ていない地車みて考え変わるかもしれませんのでご了承ください。
製作年代わかっている地車で同じ彫師又は、弟子、師匠等近い人物の作品と思える地車
吹田・川面地車 木鼻獅子・牡丹様獏が似ています。嘉永7年製作
天満宮・市場三ッ屋根地車 木鼻獅子・見送板獅子が似てます。嘉永5年製作
製作年代不詳で江戸末期と言われている地車
尼崎貴布禰・北出地車 後屋根飾目獅子
尼崎貴布禰・中在家地車 木鼻獅子
灘区河内国魂・畑原地車 木鼻獅子
宝塚・山本西地車 木鼻獅子 枡合麒麟
江戸時代年号西暦の確認・古い順に
1844年=弘化元年=天保15年
1852年=嘉永5年
1854年=嘉永7年=安政元年
1858年=安政5年
1860年=万延元年=安政7年
1868年=明治元年=慶応4年
1875年=明治8年
1881年=明治14年
1891年=明治24年
宝塚地車のさきがけが小濱とするなら、米谷・上中筋製作年、万延元年=1860年以前かと、彫物から考察すると、嘉永年間前後。
宮大工築造木造住宅なら50年以上は、耐用年数あると思います。地車の場合年4回(夏・秋として)の曳行とはいえ激しく動かすので、同等耐用年数とすれば、明治24年の大修理より約50年前が1841年=天保12年、嘉永5年より9年前。
彫師が師匠・弟子であった場合の面影が残る年数を5年ぐらいと考える。
以上より私は、川面東築造年を嘉永元年=1848年~万延元年=1860年の12年間のいずれかではないかと推測します。特に安政年間が匂うのですが。
彫師ですが、相野伊兵衛説がありますが、伊兵衛の銘がある地車、海老江・東之町、高槻・前島この地車が銘通り相野伊兵衛が彫師なら川面東の彫師は相野伊兵衛ではないと思います。
川面地車誌内容と違いますね(笑)製作委員ですのに。私的意見で確証はありません。
機会があれば、伊兵衛の銘地車、門真・上三ツ島 柏原・中殿垣内は是非観に行きたいと思います。
江戸末期から明治初期と言われてます。間違ってはないでしょう。江戸中期とは考えにくいですし、明治14年より前は明らかですから。
なんとかもうちょと時代絞れないか推測してみます。
彫物が一番推測しやすのかと考えてます。基本は地車製作時より現彫物が一緒に新調されたとします。のち追加となると特定できませんので。
おそらく川面東地車の彫物は、私が誰よりも眺めているはずです。その感性・感覚で他地車・相野一門と言われている地車と比べて年代探ります。
彫物研究の第一人者多数いらっしゃいます。その方々は、数多くの地車を古くから研究されていると思います。その方々が推測されている彫物師参考にあえて私の感性で判断します。
なんかえらそうなこと言ってますが、そんなに数みてません。その数台からの判断ですので後日まだ見ていない地車みて考え変わるかもしれませんのでご了承ください。
製作年代わかっている地車で同じ彫師又は、弟子、師匠等近い人物の作品と思える地車
吹田・川面地車 木鼻獅子・牡丹様獏が似ています。嘉永7年製作
天満宮・市場三ッ屋根地車 木鼻獅子・見送板獅子が似てます。嘉永5年製作
製作年代不詳で江戸末期と言われている地車
尼崎貴布禰・北出地車 後屋根飾目獅子
尼崎貴布禰・中在家地車 木鼻獅子
灘区河内国魂・畑原地車 木鼻獅子
宝塚・山本西地車 木鼻獅子 枡合麒麟
江戸時代年号西暦の確認・古い順に
1844年=弘化元年=天保15年
1852年=嘉永5年
1854年=嘉永7年=安政元年
1858年=安政5年
1860年=万延元年=安政7年
1868年=明治元年=慶応4年
1875年=明治8年
1881年=明治14年
1891年=明治24年
宝塚地車のさきがけが小濱とするなら、米谷・上中筋製作年、万延元年=1860年以前かと、彫物から考察すると、嘉永年間前後。
宮大工築造木造住宅なら50年以上は、耐用年数あると思います。地車の場合年4回(夏・秋として)の曳行とはいえ激しく動かすので、同等耐用年数とすれば、明治24年の大修理より約50年前が1841年=天保12年、嘉永5年より9年前。
彫師が師匠・弟子であった場合の面影が残る年数を5年ぐらいと考える。
以上より私は、川面東築造年を嘉永元年=1848年~万延元年=1860年の12年間のいずれかではないかと推測します。特に安政年間が匂うのですが。
彫師ですが、相野伊兵衛説がありますが、伊兵衛の銘がある地車、海老江・東之町、高槻・前島この地車が銘通り相野伊兵衛が彫師なら川面東の彫師は相野伊兵衛ではないと思います。
川面地車誌内容と違いますね(笑)製作委員ですのに。私的意見で確証はありません。
機会があれば、伊兵衛の銘地車、門真・上三ツ島 柏原・中殿垣内は是非観に行きたいと思います。
次は地車本体の製造年代の話題ですね。
記録がないからには、やはり彫り物師の特定がてっとり早いのでしょうが、そのマニアックな世界ではまっしゃが出る幕がありません(笑)。
ただ、その分野に長けたオタクな皆さんも、脇障子や後ろの鬼板の「唐獅子」あたりに「相野の特徴がよく表れている」といった程度までで、それが伊兵衛さんだと断定するのは難しいようです。とにかく相野を名乗った彫り物師はたくさんいますからね。年代的には伊兵衛さんの名前を挙げておけば無難なところなのでしょうが、それを断言できないのは多少の違和感があるから?確かに伊兵衛さんの銘が残る地車は比較的たくさん発見されていて、それを川面東と見比べると少し違った印象がありますか。
そもそも、伊兵衛説も一連の小浜伝説の一部ですから、変な先入観を捨てて考えることが賢明でしょう。
少々忙しく、プログ作成できません。ネタもないのも事実ですが。
小濱伝承・相野伊兵衛=たしか、小濱T氏によると村の年寄りの話ではなく。川面東地車が宝塚まつりに出た当初にだんじり本も出されている著名Y氏が見られ彫師を推定されたそうですよ。
とにかく私はあれは龍、これは獅子くらいのことはわかっても、あれは相野、こっちは小松と言われてもまったく区別がつかないのです。
その限られた知識の中で話をつなぐなら、少なくとも山本西の枡合は川面東の麒麟と同じ(腰肉あたりのたるみが特徴的)ですよね。「だからどうした?」と言われると困ってしまいますが、伊兵衛さん作とされる地車に、あるいは違う彫り物師作の地車に、これと似た麒麟を見かけたことはありませんか?といった程度の話です。(この麒麟は本当に格好いいですよね~)
山本では、西が先で東が後、といった程度の伝承しかなく、伊兵衛さんに結びつく話は聞けそうにないし。
私も自町地車年代の彫師はなぜか小松も相野もごっちゃになり、見れば見るほど解らなくなります。
実は、人気の彫師を真似るすご腕彫師が多数存在したのとちゃいますか?とそんな疑問を憶えます。