この小学校は、
原子爆弾の爆心地から
460mの位置にあります。
被爆当時、
地下1階地上3階。
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鉄筋コンクリート造だったこの西校舎だけが
外郭のみ原型をとどめました。
現在は、ほんの一部が保存されています。
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地下と、2階へ上がる階段が途中までしかありません。
小さな資料館です。
平日の午後、訪れました。
係の方が入口に座っていらっしゃるだけで、
他に誰もいません。
ここには、原爆投下により、
消息が不明になった家族や知り合いを探すために、
記された「伝言版」が残されています。
被爆直後、小学校は、
被災者の救護所となりました。
辺りの木造建物は倒壊、焼失しています。
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写真の伝言板は復元です。
(撮影禁止とありますが、許可をもらいました)
壁が黒板のように黒いのはなぜかというと、
原爆は瞬間に熱線を放ち、爆風を起こします。
そのため校舎は熱く焼かれました。
焼かれススで黒くなったのです。
散らばったチョークを拾い集め、
伝言が、記しはじめられました。
大きな子は疎開する子が多かったので、
被災を免れることができたそうですが、
残っていた児童のほとんどが、
命を奪われました。
私の母の姉も11歳で被爆し、死んでいます。
この場所とは違いますが、
小学校の校庭で直撃を受けました。
疎開の話があったのを親が断りました。
「死ぬときは(家族)みんな一緒に」と、
親は思っていたのに、
結局、死んだのは、
逃れられる機会のあったその子だけでした。
誰が悪かったのだという気持ちにはなりません。
運が悪かったのと言うことしかできません。
先のことはわかりません。
平和な時代を生きていても
いつどこで死ぬかわかりません。
反面、こんなふうにも思います。
運が悪かったと片付けてはいけない。
戦争は起きなくてもいいことなのです。
起こらなくてもいいことが、
起きてしまったことで、
奪われなくてよかった命が、奪われてしまうのです。
あの日、袋町小学校に来ていた児童で、
助かったのは、
たまたま地下にいたり、
外に出るのが遅かったというだけだったと聞きました。
「死んだ人も助かった人も大変な思いをした。
ひどい時代だった」と、
係の方が話して下さいました。
子どもの行方がわからなくなった親。
疎開先から戻ると、
親が亡くなっていた子どもいました。
今、折り鶴を携えて、
全国から子どもたちが、訪れます。
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この小学校に「行きたい」と、
子どもたちが、希望するそうです。
それには
教科書の影響があるらしいです。
三省堂の教科書に数ページにわたり
袋町小学校のことが紹介されています。
起きたことを伝えることの大切さを感じます。
あの日、どんな人がここにいて、
どんな思いを抱いていたのか。
親が子供を思うこと、
人が人を思うことを
自分のことのように、想像できる場所です。
原子爆弾の爆心地から
460mの位置にあります。
被爆当時、
地下1階地上3階。
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鉄筋コンクリート造だったこの西校舎だけが
外郭のみ原型をとどめました。
現在は、ほんの一部が保存されています。
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地下と、2階へ上がる階段が途中までしかありません。
小さな資料館です。
平日の午後、訪れました。
係の方が入口に座っていらっしゃるだけで、
他に誰もいません。
ここには、原爆投下により、
消息が不明になった家族や知り合いを探すために、
記された「伝言版」が残されています。
被爆直後、小学校は、
被災者の救護所となりました。
辺りの木造建物は倒壊、焼失しています。
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写真の伝言板は復元です。
(撮影禁止とありますが、許可をもらいました)
壁が黒板のように黒いのはなぜかというと、
原爆は瞬間に熱線を放ち、爆風を起こします。
そのため校舎は熱く焼かれました。
焼かれススで黒くなったのです。
散らばったチョークを拾い集め、
伝言が、記しはじめられました。
大きな子は疎開する子が多かったので、
被災を免れることができたそうですが、
残っていた児童のほとんどが、
命を奪われました。
私の母の姉も11歳で被爆し、死んでいます。
この場所とは違いますが、
小学校の校庭で直撃を受けました。
疎開の話があったのを親が断りました。
「死ぬときは(家族)みんな一緒に」と、
親は思っていたのに、
結局、死んだのは、
逃れられる機会のあったその子だけでした。
誰が悪かったのだという気持ちにはなりません。
運が悪かったのと言うことしかできません。
先のことはわかりません。
平和な時代を生きていても
いつどこで死ぬかわかりません。
反面、こんなふうにも思います。
運が悪かったと片付けてはいけない。
戦争は起きなくてもいいことなのです。
起こらなくてもいいことが、
起きてしまったことで、
奪われなくてよかった命が、奪われてしまうのです。
あの日、袋町小学校に来ていた児童で、
助かったのは、
たまたま地下にいたり、
外に出るのが遅かったというだけだったと聞きました。
「死んだ人も助かった人も大変な思いをした。
ひどい時代だった」と、
係の方が話して下さいました。
子どもの行方がわからなくなった親。
疎開先から戻ると、
親が亡くなっていた子どもいました。
今、折り鶴を携えて、
全国から子どもたちが、訪れます。
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この小学校に「行きたい」と、
子どもたちが、希望するそうです。
それには
教科書の影響があるらしいです。
三省堂の教科書に数ページにわたり
袋町小学校のことが紹介されています。
起きたことを伝えることの大切さを感じます。
あの日、どんな人がここにいて、
どんな思いを抱いていたのか。
親が子供を思うこと、
人が人を思うことを
自分のことのように、想像できる場所です。