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感想です。

袋町小学校平和資料館を訪れて。

2014-11-16 | 日記
この小学校は、
原子爆弾の爆心地から
460mの位置にあります。

被爆当時、
地下1階地上3階。

鉄筋コンクリート造だったこの西校舎だけが
外郭のみ原型をとどめました。

現在は、ほんの一部が保存されています。

地下と、2階へ上がる階段が途中までしかありません。
小さな資料館です。

平日の午後、訪れました。

係の方が入口に座っていらっしゃるだけで、
他に誰もいません。

ここには、原爆投下により、
消息が不明になった家族や知り合いを探すために、
記された「伝言版」が残されています。

被爆直後、小学校は、
被災者の救護所となりました。
辺りの木造建物は倒壊、焼失しています。

写真の伝言板は復元です。
(撮影禁止とありますが、許可をもらいました)

壁が黒板のように黒いのはなぜかというと、
原爆は瞬間に熱線を放ち、爆風を起こします。
そのため校舎は熱く焼かれました。
焼かれススで黒くなったのです。
散らばったチョークを拾い集め、
伝言が、記しはじめられました。

大きな子は疎開する子が多かったので、
被災を免れることができたそうですが、
残っていた児童のほとんどが、
命を奪われました。

私の母の姉も11歳で被爆し、死んでいます。
この場所とは違いますが、
小学校の校庭で直撃を受けました。
疎開の話があったのを親が断りました。
「死ぬときは(家族)みんな一緒に」と、
親は思っていたのに、
結局、死んだのは、
逃れられる機会のあったその子だけでした。

誰が悪かったのだという気持ちにはなりません。
運が悪かったのと言うことしかできません。

先のことはわかりません。
平和な時代を生きていても
いつどこで死ぬかわかりません。

反面、こんなふうにも思います。
運が悪かったと片付けてはいけない。

戦争は起きなくてもいいことなのです。
起こらなくてもいいことが、
起きてしまったことで、
奪われなくてよかった命が、奪われてしまうのです。

あの日、袋町小学校に来ていた児童で、
助かったのは、
たまたま地下にいたり、
外に出るのが遅かったというだけだったと聞きました。

「死んだ人も助かった人も大変な思いをした。
ひどい時代だった」と、
係の方が話して下さいました。

子どもの行方がわからなくなった親。
疎開先から戻ると、
親が亡くなっていた子どもいました。

今、折り鶴を携えて、
全国から子どもたちが、訪れます。

この小学校に「行きたい」と、
子どもたちが、希望するそうです。

それには
教科書の影響があるらしいです。
三省堂の教科書に数ページにわたり
袋町小学校のことが紹介されています。

起きたことを伝えることの大切さを感じます。

あの日、どんな人がここにいて、
どんな思いを抱いていたのか。

親が子供を思うこと、
人が人を思うことを
自分のことのように、想像できる場所です。