なんか東北XX大祭りとかしっくりこない。祭事ではなくてケタがでかい催しものにしか感じられない。祭事はカミサマに感謝、祈りを捧げるものだと生まれ故郷では教えられてきたので、ジュンヨウムケイブンカザイ?とか、そこで祭事を行う住民には迷惑なものである。祈りをすることで少しでも住民の明日が「しあわせ」になるように、今の「しあわせ」に感謝することが祭りであることと生まれてから教えられてきた。まぁ、確かにサラリーマンであれば企業から養われているのであるから、スポンサーになっている催しごとに参加するのは義務であるかもしれない。それは、カネという接着剤があるからではないのかなと。本来の祭事は、カネとかの接着剤無しで、偶然の積み重ねで、災い無く過ごしてきたことに感謝することであると自分では理解している。その、偶然の積み重ねが「しあわせ」になるか、ならないか、それもカミ様が知っているんである。

というところでこんな本にでくわした→ 不幸論 中島義道 著
人間は、幸福、しあわせ、身近で一番気にしている。しかし、実態はつかめずに、手に入れるために突き進む幸福の成立条件①盲目であること、②怠惰であること、③狭量であること、④放漫であること、で成立している。それが著者の基本的考えらしい。んー、確かに。では、辞書ではどのように定義されているのか?
①自分の特定の欲望がかなえられていること、②その欲望が自分に一般理念にかなっていること、③その欲望が世間から承認されていること、④その欲望の実現に関して、他人を不幸に陥れないこと、らしい。
久しぶりにゲージツっぽい、書籍と向き合った。ある人は涙ぐみ明日への糧とし、ある人は便所の落書きとみなし、ある人は、批判することによって己の不満をぶちまける、そんな感じと思いながら読んでいた。哲学的なコンセプトなのかもしれないが、電子書籍で読むにはドライブ感が少なかったような気がする。筆者、独特の美学にどこまで付いてゆくか、理解できるか、同意できるか、誠に理解が分かれる書籍と思う。誰もが抱く死に対する恐れを最初と最後にもってきた構成はあるとも思うし、えっ?と思う反面もあった。今流行のすがりつきたい人間のための書籍とは一線を画している。最後は著者も記述していたとおり、受容が一番大変なのかなと。それは震災が起きたからではなく、個人的にそう思った次第である。幸福、不幸も人間の内面から自然と発生されるものではない。自分としては、幸福、不幸とアタマを抱える前に「嬉しい」「悲しい」「苦しい」、「楽しい」を正直に表すことができる人間でいたいと思った。

というところでこんな本にでくわした→ 不幸論 中島義道 著
人間は、幸福、しあわせ、身近で一番気にしている。しかし、実態はつかめずに、手に入れるために突き進む幸福の成立条件①盲目であること、②怠惰であること、③狭量であること、④放漫であること、で成立している。それが著者の基本的考えらしい。んー、確かに。では、辞書ではどのように定義されているのか?
①自分の特定の欲望がかなえられていること、②その欲望が自分に一般理念にかなっていること、③その欲望が世間から承認されていること、④その欲望の実現に関して、他人を不幸に陥れないこと、らしい。
久しぶりにゲージツっぽい、書籍と向き合った。ある人は涙ぐみ明日への糧とし、ある人は便所の落書きとみなし、ある人は、批判することによって己の不満をぶちまける、そんな感じと思いながら読んでいた。哲学的なコンセプトなのかもしれないが、電子書籍で読むにはドライブ感が少なかったような気がする。筆者、独特の美学にどこまで付いてゆくか、理解できるか、同意できるか、誠に理解が分かれる書籍と思う。誰もが抱く死に対する恐れを最初と最後にもってきた構成はあるとも思うし、えっ?と思う反面もあった。今流行のすがりつきたい人間のための書籍とは一線を画している。最後は著者も記述していたとおり、受容が一番大変なのかなと。それは震災が起きたからではなく、個人的にそう思った次第である。幸福、不幸も人間の内面から自然と発生されるものではない。自分としては、幸福、不幸とアタマを抱える前に「嬉しい」「悲しい」「苦しい」、「楽しい」を正直に表すことができる人間でいたいと思った。