あすか塾

「あすか俳句会」の楽しい俳句鑑賞・批評の合評・学習会
講師 武良竜彦

あすか誌 3月号  2025 令和7

2025-03-02 18:16:07 | あすか誌 2025年

     あすか 3月号

 

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あすか塾 2025年 2月号

2025-02-21 16:13:42 | あすか塾 2025年

あすか塾 70  

                        

《野木メソッド》による鑑賞・批評              

「ドッキリ(感性)」=感動の中心

「ハッキリ(知性)」=独自の視点

「スッキリ(悟性)」=普遍的な感慨へ

 

 野木桃花主宰 二月号「枇杷の花」

日を紡ぎつむぎ膨らむ冬木の芽

 「紡ぎつむぎ」のリフレーンに春到来の予感と期待感の籠ったリズムを感じる表現ですね。

地のいろとなる冬耕の暮れ残る

 日差しの中の、冬耕の土の色にあった輝きが、日暮れとなって落ち着いた「地のいろ」に戻ってゆくという、時間の推移の表現がいいですね。

寒鯉の影追ふやうに水動く

 大きな鯉がゆったりと泳いでいるさまが見えますね。「影追やふうに」という表現が光っていますね。

花舗ばかり覗く二人に日脚伸ぶ

 どんな二人連れなのか想像させられます。恋人同士、熟年の夫婦、姉妹、親友で景が違って見えますから楽しいですね。

白湯含み今日をつましく枇杷の花

 健康な人でも「白湯」を飲む習慣をつけることが勧められています。そんなことをきちんと守って生活している生き方まで感じられる表現ですね。

 

 感銘秀句 「風韻集」2月号から 

点々と庭の露草朝まだ来        磯部のり子

「朝まだ来」は大和言葉で、未だ夜が明けきっていない時のことで、上五に「点々と」を置いた表現がいいですね。

鉄塔が校歌となりて秋高し       大木典子

 校歌の作詞はその地の象徴的な風物が詠い込まれていることが多いですね。この句の「鉄塔」は河川沿い、小高い峯沿いに設置されている景が浮かびますね。近代化の象徴のように、町の誇りにもなっているような立派な鉄塔のようですね。

穭田の短き命賢治の忌         大澤游子

 穭田の穂は実をつけることはないですね。賢治文学は生前にはあまり世に知られず評価もされない状態だったのを、弟の清六氏たちの努力によって、後に名作の評価が定まりました。そのことに思いを寄せた表現ですね。
そよぐもの無きも安らぎ大枯木     大本 尚

 枯木は俳句などでは通常、うら寂しさや冬に向かう厳しさが詠われる傾向がありますが、この句は逆に、そこに「安らぎ」を見出しているという独創的な視座の表現ですね。背景に深い仏教観を感じますね。

子沢山母の鮟鱇吊るし切り       風見 照夫

 鮟鱇の吊るし切りは、大変な体力が要るさばき方ですね。それを豪快にこなしている景が浮かびます。上五の「子沢山」が効いていますね。

雲の翳走り枯野の動き出す       金井 玲子

 枯野原の上を雲の翳が、上空の雲の動きと同時に流れていっている、大きな景ですね。それを枯野全体の動きのように表現して、ダイナミックですね。

野面積み穴太の剛力天高し       近藤 悦子

「穴太(あのう)」、歴史的仮名遣での読み仮名は「あなふ」。穴太衆(あのうしゅう)は、安土桃山時代に活躍した石工の集団ですね。主に寺院や城郭などの石垣施工を行った技術者集団で、石工衆、石垣職人ともいいます。「剛力」は歩荷(ぼっか)や登山案内を生業とする日本古来の運送業者で「強力」とも書きます。この句では石垣を見揚げての句ですね。

各駅の秋を乗せたり小海線       坂本美千子

「小海線(こうみせん)」は、山梨県北杜市の小淵沢駅から長野県小諸市の小諸駅までを結ぶ鉄道路線で、南側区間は八ヶ岳の東南麓を走り、全線は「八ヶ岳高原線」の愛称で親しまれていますね。中七の「秋を乗せたり」が高原らしい表現ですね。

玄関に来し蟷螂も一過客        鴫原さき子

 「過客」は芭蕉の「おくの細道」でも使われていることばで、時の旅人のことですね。この句は実際には玄関に偶然、蟷螂が迷い込んできていた景だと思いますが、それを生きもの目線で詩情豊かに表現した句ですね。

此処までと津波碑小さき新松子     摂待信子

 歴史的に津波被害が繰り返された地には、平地より少し高い位置に、津波の到達地点を示す石碑が建てられていて、後世の人たちに注意を促していることが多いですね。「新松子」の季節に、作者はそのことを改めて噛みしめているようです。

筑波路は秋色早し息子を見舞う     高橋光友

いつも目にしている「筑波路」がどこよりも早く秋色に染まり始めているようです。それを「秋色早し」と詩的に表現して、具合を悪くされているご子息の見舞いの景に詠みましたね。

茶の花やつましき寡婦の暮らしむき   高橋みどり

 地味だけど可愛らしく趣のある茶の花で、「寡婦」の暮らしぶりを簡潔に詩的に表現して味わいがありますね。

黒い雲光踊るや初しぐれ        服部一燈子

 空一面の黒雲に光が踊るように走っている、という景。稲光でしょうか。その不気味さを巧に表現した句ですね。しかもそれが「初しぐれ」だった、というのですね。

籾袋積み込む蔵や窓一つ        宮坂市子

 収穫して詰めた籾袋を積みあげて保管する、厚い漆喰壁の倉の、高い位置にぽつんと小さな窓が一つだけある景を視たことがあります。中のひんやりとした空気感も伝わりますね。

冬あたたか転校生の国訛        村田ひとみ

 クラスに転校生がやってきた時の記憶を詠んだ句でしょう。違う地方から転校してきたようで、そのお国訛の言葉遣いに、冬日のような温かさが感じられたのでしょうか。

柿の実の色となりたる村ひとつ     柳沢初子

 素朴な文化を守っている過疎の村の雰囲気を感じる句ですね。初子さんの今月の句は、他に「萩ゆれて風の噂を聞き流す」「朝毎に雨の一刷毛もみづれる」「ねこじやらし千の穂先の陽に遊ぶ」と秀句揃いでした。

馬手に筆弓手に酸素日向ぼこ      矢野忠男

 侍の馬上姿の「馬手」「弓手」という言葉を使い、酸素マスクをして日向ぼこをしながら短冊に筆文字で作句をしているのでしょうか。その心意気が伝わります。

曼珠沙華ときを逃さず咲いて消ゆ    山尾かづひろ

 植物の自然に身をゆだねている姿に、ある種の清々しさを感じている表現ですね。自分もあれこれ悩んだりせずにそんな心境でいたいという思いの表現でしょうか。

庭去らぬ冬蝶吾子の化身とも      吉野糸子

 子に先立たれた親の心境を詠んだ表現のようですね。その思慕の深さが伝わります。

歯ブラシに噛み跡しるき寒さかな    安齋文則

 東北の身震いするような寒気を具象的に描き出した表現で、訴求力がある句ですね。

◎共感好句 「あすか集」2月号から 

初針や背守りの赤き糸を張る      須賀美代子

「背守り(せまもり)」は子供の着物の背中に縫い付けるお守りのことですね。着物を作る時には左右の身頃となる布を縫い合わせるために、背骨に沿って「背縫い」という縫い目ができます。
 昔の人は「目」には魔除けの力があると信じており、背縫いの「縫い目」にも背後から忍び寄る魔を防ぐ力があると考えていました。ところが、赤ちゃんが着る着物はとても小さく背縫いがありません。そこでお母さんたちは、子供に魔が寄り付かないように背縫いの代わりとなる魔除けのお守りを付けました。それが「背守り」ですね。この句ではその「お守り」が「赤き糸」なのですね。親の愛が籠っている赤ですね。

秋草の種を土産に山下る        須貝一青

秋の野山への散策の帰りに、記念のお土産として「秋草の種」を摘んで来たのですね。自宅の庭に植えて、来年を待つという言外の時間を詠みこんだ表現ですね。

小春日や壁に凭れてズボン穿く     鈴木 稔

 足腰が弱ると片足立ちのとき、よろけてしまいます。だからズボンを立って穿くことが困難になり、壁などに凭れて穿いているのでしょう。上五の「小春日や」のせいで、それを嘆くでもなく、ゆったりと淡々とこなしている表現になっているのがいいですね。

妙義山奇岩彩る冬紅葉         砂川ハルエ

「妙義山」は群馬県甘楽郡下仁田町・富岡市・安中市の境界に位置する日本三大奇景の一つとされる山ですね。奇岩がいたるところに見られる妙義山の中でも中之嶽の景色は、中腹を巡る第一石門から第四石門を始め、ロウソク岩・大砲岩・筆頭岩・ユルギ岩・虚無僧岩といったユニークな名前の岩石群があり、日本屈指の山岳美と讃えられています。その奇岩と紅葉の競演は見ものですね。

冬天へメタセコイヤの温き色      関澤満喜枝

「メタセコイヤ」の葉は短枝に羽状に対生し、秋に紅葉して枝とともに落ちます。公園や並木などに植えられています。大きなものは高さ五十メートルにもなります。幹の樹皮が若木のときは赤褐色、成木では灰褐色になり、縦に細長く剥がれ落ちます。この句はその赤褐色を「温き色」と表現したのですね。青い冬空との対比が鮮やかですね。

選に漏れし句の音律や風の秋      高野静子

 屋外を散策しながら、頭の中で句の推敲をしているような表現ですね。選に漏れたから駄句というわけではなく、自分では気に入っていた句があったのでしょう。その韻律のいい句を秋の風の中で味わっているのでしょうか。

一隅に無口決めこむ石蕗の花      高橋富佐子

 石蕗の花はものいわぬ植物ですが、そこに無口な自分の思いを投影した表現ですね。石蕗の咲き方は、路傍や庭の角に孤立しているようにぽつんと咲いていて、びったりの表現ですね。

りんご捥ぐ実習ありし頃思ふ      滝浦幹一

 実習で林檎園での林檎の収穫があったようですが、青森県ならそんなことが普通校でもありそうですね。何か楽し気な雰囲気で郷愁を誘います。

カピバラになつたつもりの柚子湯かな  立澤 楓

 鑑賞文など無用で、読者の実感的な共感を誘う、ユーモラスな句ですね。

迷いなく手の平サイズの手帳買う    千田アヤメ

「日記買ふ」という季語はありますが、「手帳買ふ」という季語はありません。ここは手帳を日記に替えて鑑賞しました。手の平サイズの手帳を兼ねた日記を買ったのでしょうか。上五の「迷いなく」とこのサイズ感に詩情がありますね。

和菓子屋に花鉢並ぶ冬日和       坪井久美子 

 店先に何もないよりも、手入れの行き届いた花鉢が飾られていると気持ちがよく、売られている和菓子まで美味しく感じられるでしょうね。

団栗を星座のように並べあり      中坪さち子

 星座だとわかる形に団栗が並んでいたのを発見して、少し驚き、微笑んでしまったのでしょう。十字や四角や三角では星座とは分かりにくいですから、北斗七星かオリオンの形くらいには整っている置き方だったのでしょうね。まさに地上の星ですね。

空澄めり警策の音迫り来る       中村  立

 禅寺に参拝して座禅の体験をしたときの句でしょうか。「警策」は坐禅の際に修行者の肩に打ちつけて、注意を与えたり眠気を払ったりするために用いられる法具で、曹洞宗では呉音で「きょうさく」、臨済宗などでは漢音で「けいさく」と読みます。この句ではその音が自分の位置まなどってきていることを意識している表現ですね。「上五」の「空澄めり」。そんな澄み切った境地になりたかったのですね。

柿紅葉誰れが名づけし鴉山       成田眞啓

「鴉山」という名の山は全国にいくつかありますが、関東圏では川越の鴉山でしょうか。鴉山稲荷神社は、太田道真が河越城築城に際して当地を伐採したところ小祠・及び源氏の祈願文を発掘したことから社殿を建立、鴉が群棲していたことにより鴉山稲荷神社と称されるようになったと言われ、境内が広いので川越七社の第一位とされているそうです。この句はその名の由来に思いを馳せているようです。紅葉の季節に登山されたのでしょうか。

先生を借りて走るや運動会       西島しず子

 運動会の徒競走の種目に「借り物競争」というのがありましたが、今も行われているのでしょうか。「先生を借りて」はその「借りて」ですね。楽し気な雰囲気が伝わります。

絵馬殿の歴史の重み冬日さす      乗松トシ子

 神社・寺院で奉納された絵馬を掲げておく堂を絵馬殿、額堂といいますね。それがあるのは大きくて歴史のある神社で、古いものが遺されていて趣がありますね。この句はどこの神社でしょうか。

冬の蜘蛛時計の隙間に迷い込み     浜野  杏

 蜘蛛自身は自分が隠れたのが時を測る機械だとは思っていないでしょうね。まるで時間の迷路に迷い込んだ自分の気持ちの暗喩ともとれる表現になっていますね。

見るべきものまだ見ぬうちに年始め   林 和子

 初日の出を見逃した、という表現かなと解しました。元旦は年末の慌ただしさの余韻があって、あっという間に時が過ぎる実感が籠っている句ですね。

いつの間に炬燵の上の物あまた     平野信士

 解ります。いつの間にか、ですね。普通は果物やお菓子の入った籠、テレビのリモコン。高齢者なら老眼鏡など。新聞、チラシ、ティッシュペーパー、炬燵に入ったまま何か作業をしてその道具が置きっぱなしされている…そんな景ですね。

ガス灯は明治そのまま秋深む      曲尾初生

 横浜や神戸など、明治時代に港町として開かれた街には、今も残っているのを見かけますね。ただしそれはお洒落にデザイン化され、ガスではなくLEDランプに変わっていますが。

虫たちも塒に帰る枯野かな       幕田涼代

 これは実景ようで、実は心象景の句ですね。虫は遠目に視えませんから、塒に帰る姿は、作者の心の中によぎった景ですね。小さな生き物に寄せる作者の優しい眼差しを感じますね。

どんぐりを拾ひて捨てて散歩道     増田綾子

 これは誰もが経験のある、共感される句ではないでしょうか。無意識にどんぐりを拾ってしまうのは、子供時代、大好きな遊具だった記憶のせいでしょうか。

サンタにも廻る順番寝落ちの児     水村礼子

 サンタさんが来るのを今年は見るんだと、頑張って起きていた子が寝てしまったのでしょう。親の立場からは自分がサンタなのですが、心の中での子供との会話「サンタさんにも廻る順番があるからねー」を独り想像しているような表現で楽しいですね。

船漕ぐも笑いの渦も冬の寄席      三橋光枝

 寄席の笑いに満ちた温かい雰囲気が伝わる句ですね。高名な落語家が高座の最中に居眠りをするという珍事が起きたとき、お客が「いいから、少し寝かしとしてやんな」と言ったという逸話もあるほどですね。

こりもなく三年日記九冊目       緑川みどり

 合計二十七年も三年連用日記帳を使っているのですね。それを「こりもなく」という心情吐露で詠んだのは、もうその習慣がすっかり身についていることの自己確認ですね。継続は力なり、です。きっと何かプラスになっているはずです。

声出して語り合ひたし冬鷗       望月都子

 鷗はあまり声も出さないで、水面に浮かんでいるように見えます。集団性を持つ鳥なのに、仲間同士の親密性など感じませんね。その姿に自分の気持ちを投影した表現ですね。

瓦礫とて聖樹を飾る紛争地       保田 栄

 ウクライナか、ガザ地区か、あるいはその他の数多の紛争地のテレビ報道を見ての感慨でしょうか。瓦礫と煌びやかな粉飾ツリーが対照的で、よけい無惨さが際立ちますね。

入院の日々の空白日記果つ       矢吹澄子

 入院中は、習慣になっていた日記をつけることもままならないことが多いですね。かといって、退院後、思い出してその空白を埋める気にもなりませんよね。そして年末に……。

箸使い見事に秋刀魚食す人       吉田 史

 幼いころから食事のマナーや作法を習って、きちんとそれを身に付けている人を見たのですね。佇まいまで美しく見えますね。

風やみて片削ぎの月かかる村      安蔵けい子

 中七の「片削ぎの月」という表現には初めて出会いました。冬空の荒れた感じに相応しい、見事な表現ですね。

干柿を食めばつくづく汚染郷      内城邦彦

 熟したまま落ちてしまう柿、放射線汚染で村ごと帰還のできない里のことを思っての句ですね。自分はこうしてちゃんと干柿になったものを食べているのに、という感慨ですね。

雪載せて貨車百両の通り過ぐ      大谷 巌

 貨物専用列車は全国各地に散在するようです。この句は寒い地域の景ですね。こう表現しただけで、その寒気まで伝わりますね。

日を溜めて刻惜しむがに帰り花     大竹久子

 帰り花には二種類あって、気候の乱れで偶然咲いたものと、品種で違う季節に二度咲きするものがあります。この句はどちらでしょう。上五中七の表現に詩情がありますね。

鉢の土干して片付け冬隣        柏木喜代子

 一つの季節の役目を終えた鉢の土を、天日に干して殺菌する作業を冬になる前にしているのですね。よく民家の庭先で植物が枯れっぱなしになっていて、土も干乾びるにまかせている、だらしない景を見かけますが、みなさん、この柏木さんを見習って欲しいものですね。

煤払ひ友の遺せし絵にサイン      金子きよ

 友人が描いた絵が部屋に飾ってあるようです。普段はそのサインまで気にかけていないのに、煤払いの季節にハタキがけをする時に、そこに目がゆき、その筆跡にそのことが思い出されているのですね。そこを切りとった表現が効果的ですね。

不喰芋描く画伯や冬に入る       神尾優子

 「不喰芋(くわずいも)」と「蘇鐵(そてつ)」は、画家・田中一村の晩年の傑作で、生涯の集大成とも言える一枚ですね。「アダンの海辺」と合わせて畢生の「大作二枚」の一つに数えられます。奄美大島移住後に創作の柱となった自然信仰が画面の中に凝縮されていますね。優子さんはもう一句〈回顧展「蘇鐵とアダン」と対峙の冬〉とも詠まれています。

葉牡丹の深き懐ひかり満つ       木佐美照子

 葉牡丹は中心部に向かって色がグラデーションになって、その色合いに深さを感じるものがありますね。中七下五の表現に詩情がありますね。

備はりし知恵をつくして渡り鳥     城戸妙子

 普通「本能だよ」とか言ってしまうところを、上五中七のように表現して、味わいがありますね。作者の思い入れも伝わります。

ズンバダンス派手なもの着てクリスマス 久住よね子

「ズンバ」という言葉に特定の意味はなく、ブランド名として名付けられたものですね。ダンサー兼、振付師であるアルベルト・ベト・ペレスによって創作されたフィットネス・プログラムで、世界的に有名なエクササイズですね。色々なリズムの音楽が融合した楽しいダンスです。それをクリスマスにみんなで踊っている陽気な景が浮かびます。

初雪と単身赴任の息子より      紺野英子

 俳句的な省略法を利かせた表現がいいですね。ご子息の手紙、声か、今時のメールでの便りでしょう。母子の暖かい普段からの交流のさままで想像されますね。

沢渡の翁独りで茸売る        齋藤保子

「沢渡(さわんど)」は中部山岳国立公園の裾野に位置していて、上高地に向かう拠点となっています。現在沢渡温泉として知られているエリアは、かつて日本各地と鎌倉を結ぶ旧街道の宿場町でした。沢渡という地名は、飛騨と信州を結ぶ中継地点であったことから「沢を渡る」場所とされたことに由来します。この句は高齢の翁が独りでその山で採れた茸を売っている様子に歴史的な、詩情を感じたようですね。

白足袋の一日の疲れはたきけり    笹原孝子

 足袋姿ですから、普段から和服で過ごしていらっしゃるのか、改まった和装で外出されての帰宅後の景ですね。その仕草で意志的に疲れを吹き飛ばしているようで、爽快ですね。

 

 

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あすか 2025年(令和7年)2月号

2025-01-29 18:56:16 | あすか誌 2025年

 あすか 2025年(令和7年)2月号

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あすかの会 1月 

2025-01-26 18:50:10 | あすかの会 2025年 令和6年

あすかの会 1月   兼題「線 寒」 あすかの会会長 大本 尚

 

野木桃花主宰

雪吊の縄の直線定まれり     武良推奨句

大空へ直線飛行寒日和

日に溶けて三寒四温の吹溜り

覚束ぬ足取り雪の境界線

 

野木主宰特撰 最高得点句 大本会長・武良推奨句

寒禽の光となりて声残す        かづひろ

武良特撰 準高得点句 

冬鳥の声五線譜にのせきれず      市 子

 〇準高得点句 野木主宰・大本会長・武良推奨句 

足音の足音を追う寒さかな       さき子

 

〇準高得点句 野木主宰・大本会長・武良推奨句

かなもじの線たをやかに筆始      玲 子

 

〇準々高得点句 武良推奨句

お手植えは初代校長寒紅梅       かづひろ

 

〇準々高得点句 野木主宰推奨句

笑ひ皺なほ深くして女正月       孝 子

 

〇準々高得点句 野木主宰推奨句

旅先のバスの路線図雪催         孝 子

 

《 以下、高得点順 》

 

ひとり居の闇深くする寒の月      玲 子   野木主宰・大本会長推奨句

裸木に少し離れて義民の碑       英 子   武良推奨句

琴線にふるる託宣初御籤        都 子 

 

落暉燃ゆ浜に千本懸大根         尚    武良推奨句

初写真セルフタイマー刻む音       尚    野木主宰推奨句

雪国を出て六十年去年今年        尚

エプロンを花柄にして煤払ひ      英 子   武良推奨句

稜線の上にかがやく初日の出      英 子

 

雪激し影絵のやうに窓灯        典 子   大本会長推奨句

荒畑の土こぼしつつ寒鴉        孝 子   武良推奨句

寒銀河昔軒下五右衛門風呂       市 子   大本会長推奨句

名苑の松凛凛とと寒に入る       さき子   大本会長推奨句

公園のS席で観る寒昴         さき子

日脚伸ぶ曲線ゆるき大甍        玲 子

梵鐘の音澄み渡る寒の入        玲 子

冬満月電線の影道を切る        市 子

白壁に彩の影なき寒紅梅        英 子

手のひらの三本の線日向ぼこ      礼 子

 

寒き夜やひとり繙く「点と線」      尚

稜線の伸縮自在山眠る         さき子

寒竹の子のすくすくと佳き日和     英 子

一輪はいまだ莟の冬さうび       英 子

街に雪この純白はいづこより      英 子

炉開きやビアノの上に小さき文字    英 子

千社札寒風よけて帝釈天        都 子

銀杏ふる皇居の前を通り抜け      都 子

乳歯抜け口開く子どもお正月      都 子

雪を愛でときには恨み豪雪地      典 子

線一本加へてあみだ籤三日       典 子

暁の空寒満月の煌煌と         典 子

つぶやきを己の胸へ寒茜        ひとみ

線描の後れ毛の揺れ春近し       ひとみ

読初の表紙の暁光句誌「あすか」    ひとみ

線五本引く音寒の夜の静寂       ひとみ

鼬罠今日も空っぽ青き空        悦 子

寒弾や弁財天の琵琶たける       悦 子

漢ひとり砂丘をよぎる寒の月      悦 子

島唄に緩む三線小春凪         悦 子

線となり東雲空を渡り鳥       かづひろ

古妻の形ばかりの屠蘇を受く     かづひろ

出初式みな空仰ぐ梯子乗り       礼 子

秒針の音の響や冬満月         礼 子

寒そうな天気予報図明日は晴れ     礼 子

寒の夜の闇底知れず岳の国       市 子

風神の籠りたる由小六月        孝 子

 

 

特別参加 武良竜彦

風の絵馬松過ぎまでの夢鳴らす

初詣絵馬の名隠す白シール

お鍋米(よね)絶滅女子名(をなごな)女正月

寒昴視線彷徨ふ星に棲み

    

    

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あすか塾 69

2025-01-13 16:45:37 | あすか塾 2025年

    あすか塾 69

                          

《野木メソッド》による鑑賞・批評              

 

「ドッキリ(感性)」=感動の中心

「ハッキリ(知性)」=独自の視点

「スッキリ(悟性)」=普遍的な感慨へ

 

 野木桃花主宰 一月号「日向ぼこ」

地の微熱小春日和のつづきをり

 小春日和の暖かさは、季節外れの帰り花を誘うことがある陽気ですね。それを「地の微熱」という、ほんわりとした暖気の表現にしたのが実感的ですね。

宅地化のここまで迫る返り花

 自然の山林の宅地化の趨勢は止まることを知らないですね。「返り花」という気候の番狂わせのイメージでその開発の進行ぐあいを表現した句ですね。

しづしづと身を燃焼の囲炉裏端

 囲炉裏の炭火のじんわりとした温かさを「しづしづと」と表現して、実感がありますね。古民家の一家団欒の景が浮かびます。

皿小鉢人数分をお正月

 お正月ですから、家族、親族が集っている景でしょう。普段は使わない量の皿小鉢の登場です。場の賑わいが感じられる句ですね。

 「風韻集」一月号から 感銘秀句

小春日のとんぼの軽さ友逝けり     安齋文則

「小春日」は初冬の季語「小春」の子季語で、「とんぼ」は三秋の季語ですから、季重なりになっていますね。蜻蛉の軽さに肉体を離れた友の御霊を思ったという句意だと解せますから、「とんぼ」は動かせませんね。その季節外れ感も意図した表現でしょうか。

身構えしばったに道を譲りたり     磯部のり子

 道端で出くわした飛蝗を前に一瞬、立ち竦んだ作者の心身の様が伝わる句ですね。そして自分の方が道を譲った・・・・作者のやさしさと緊張と緩和のドラマがありますね。

土踏まず枯野の温み持ち帰る      大木典子 

 枯野を散策をして帰宅した後の感慨の表現ですね。歩いたときの野の感触と、全身で感じた空気感、その記憶を足の土踏まずに凝縮して表現したのが詩的ですね。

断崖(きりぎし)を粧(あか)してをりぬ蔦紅葉       大澤游子

 通常「粧す」は「めかす」と読みます。「あか」とルビを振ってあり、作者のオリジナルの読み方の提示をした句ですね。「めかす」と読むと、身なりを飾りたてる、おしゃれをする。など、少し非難やからかいの気持ちが混じる意味になります。作者は女性が化粧をしたときの晴れやかで浮き立つような気持ちを込めたのでしょう。蔦紅葉に相応しい表現ですね。

時雨るるや太古の息吹く宇豆柱     大本 尚

 出雲大社に参拝されたときの句でしょうか。「宇豆柱(うずばしら)」は大社造りの本殿を支える大きな円柱です。それが発見され、神話に書かれていた宙に聳える大社が実際にあったことが証明され、話題になりましたね。その根元の部分が保存展示されています。この句ではその時間的な感慨を上五に「時雨るるや」と置いて表現したのがいいですね。

バッテリー付の自転車天高し      風見照夫

 ただの自転車ではなく、バッテリー付の電動自転車。秋空の下、その軽やかな気分が伝わりすね。動詞がなく、名詞と季語だけでもそれが表現できるのが俳句の良さですね。

をちこちに母の面影菊の庭       金井玲子

をちこち」は「遠近」と書き、遠い所と近い所=あちらこちら、という意味と同時に、時間の、昔と今との意味もある言葉ですね。この句では、「庭」のあちらこちらに菊が咲いたという景ですが、「母の面影」という言葉で、その菊を植えたのが生前の母だったということも想像させられます。菊が好きだった母の面影を偲んでいるのですね。

正座して「一」と墨書す涼新た     近藤悦子

 漢字の「一」を真横に気を入れて勢いよく墨書している景で、その颯爽とした動きが涼を感じさせる句ですね。自分の姿でもいいし、書道教室の生徒の姿でもいいですね。 

救急車音消し路地へ残暑なほ      坂本美千子

 狭い路地に救急車がサイレンを鳴らして入ってきて、近くでピタリとその音が止んだのですね。ご近所さんに何か異変があったのか、と思案させられますね。「残暑」続きの日々の緊迫感のある一コマですね。

梨食めば梨の音してひとりなり     鴫原さき子

自分が食べている梨の音しかしない静寂。つくづく「ひとりだなー」という感慨の表現が巧みですね。さき子さんは他に「さびしさは祭太鼓が連れてくる」「落蝉の泣き尽くしたる軽さかな」「人を恋う限りは老いず百日紅」と投句のすべてが秀句で感服します。

冬うららひとつの名字一部落      摂待信子

 一村すべての家が同じ名字。昔は普通にあった景ですが、今は少なくなったでしょう。その村の歴史性を感じる句ですね。

月さやか一畑薬師の番茶汲む      高橋光友

「一畑(いちばた)薬師」は目のお薬師さまとして全国的な信仰の広がりをもつ臨済宗の古刹。千百年の歴史ある薬師信仰の総本山で、出雲神話の国引きの舞台を一望できる島根半島の中心部、標高二百メートルの一畑山上にあります。その参拝時の句で、夜景のようです。

ひと夜さの句読点めく咳ひとつ     高橋みどり 

「さ」は名詞に付いて方向の意を添える接尾語ですが、この句では方向ではなく、その場での「一夜の」という使い方をした句ですね。家族の誰か一度だけ咳をしたのが聞こえたのですね。時間がそこで一区切りついたような上手な表現ですね。  

農事組柏手打ちて感謝祭        服部一燈子

 「農事組」(農事組合)は農業生産の協業、組合員の共同の利益を増進することを目的として、農業協同組合法に基づいて設立される法人ですね。農地、労働力等を提供し合い農業経営を行います。人的結合の強い組織だそうです。この句はそれを共同の「感謝祭」の景として簡潔に表現していますね。結束の強さが伝わりますね。

膝撫でて秋意を払ふ文机        宮坂市子

 「秋意」は秋の気配、趣のことですね。それを「払ふ」というのですから、のんびり季節感に浸っている気分を断って、真剣に何かに取り組もうとしているようです。高齢になると正座は膝に負担がかかって困難になりますが、それでも正座して、文机に向かって俳句の推敲か清書か、あるいは書き物をしているのでしょう。

晩秋の夕べ首輪の光る犬        村田ひとみ

 日没の時間の早まる晩秋の夕べ。日課の犬の散歩の景を見かけたのでしょうか。太陽光線が低く、水平とまでいかない低い角度で差し込んでいて、犬の首輪の金具がキラリと光っています。平和な空気が流れている句ですね。

家中に灯を点してもこの秋思      柳沢初子

 晩秋、家の中が暗く感じられるのはその明度だけのせいではなく、心の明度だということを、家中の灯を点す行動で巧みに表現した句ですね。

老人たあ俺の事かよ落葉焚       矢野忠男

 江戸っ子の気風(きっぷ)の良い言い回しで、お道化てみせている表現ですね。暗くならないで、自分の老いを明るく受け入れているようで気持ちがいいですね。下五に置かれた「落葉焚」も、今はもう町角で見かけなくなった郷愁を誘う言葉ですね。

夕立晴盆地の一寺一社を巡り初む    山尾かづひろ

 一念発起して神社仏閣詣でをはじめたのですね。でも一寺一社しかない小さな盆地の村のようです。八方が山に囲まれた雨上りの夕空が浮かびます。

白秋や逝かねばならぬ吾子の思ひ    吉野糸子

 もう恢復の見込みのない重い病に罹患され、静かに自分に残された短い時間を噛みしめているような、健気な子供を見守るしかない母の気持ちが、上五の「白秋」に込められていますね。「白秋」の語源は陰陽五行説の「西に相当する色が白、季節が秋」から来ていて、「白秋」は秋の異称で、「玄冬」「朱夏」「青春」と並んで、年代別の人間のライフサイクルを構成する言葉としても扱われています。この言葉を上五に置いたのには、ただの秋ではなく、そんな思いが込められているのでしょう。

 「あすか集」一月号から 共感好句

秋の声肩甲骨のあたりから       笹原孝子

 個人的な感想ですが、「あすかの会」の席上、この句に出会ったとき、肩甲骨が見えている短いスポーツウェアを着て体操している、健康的な若い人の後ろ姿を想起しました。その向こうに紅葉と秋の澄んだ空が見えます。

遠野ふるさと村囲炉裏当番       須賀美代子

 民話の故郷として有名になった遠野村では、古民家の囲炉裏端で、現地の民話の語部をしている人がいます。九州生れのわたしには何を話しているのか解りませんでしたが、音楽のように心地よい調べのように感じました。この句からその調べが聞こえます。

晩秋の買い物籠に荷がいっぱい     須貝一青

 何かと物哀しさの漂いがちな晩秋、「買物籠に荷がいっぱい」という口語的な調べが、その暗さを吹き飛ばして、明るい気持ちにさせてくれる句ですね。

回覧板届けて泥の藷もらふ       鈴木 稔

 ご近所どうし仲良くしている、健全な地域コミュニティが生きている町の雰囲気を感じる句ですね。高いビルやマンションなど、コンクリート建造物の少ない、戸建ての庭にそれぞれ菜園などを持っている落ち着いた家並が浮かびます。

西行庵へ杉山の闇冬近し        砂川ハルエ

 西行庵は、平安時代の最末期に西行法師が二年余り過ごしたところですね。西行は大峰奥駈修行(熊野から吉野までの祈りの道を登拝する修行)を志して吉野に来て、二度満行したと伝えられます。その二度の修行の間に目にした吉野の桜に魅せられた西行が、この後、全国行脚の際に各地で吉野の桜を褒めちぎったことで、吉野が全国に知られる桜の名所になりました。この句ではその桜ではなく、暗い杉山の闇に注目して、下五の「冬近し」で修行の厳しさを暗に表現しました。

野菜掘る猪三頭が来てをりぬ      関澤満喜枝

 自分の所有する畑なのか、専門の農家の畑なのか、野菜を食べ散らかしている猪の姿に出くわしたようです。土地開発が進んで猪たちの居住圏が接近したせいで近年増えている獣害の一コマかも知れません。

日を浴びる鍬の柄が好き赤とんぼ    高野静子

 童謡の赤とんぼが止まっているのは物干し竿の先ですが、この句では鍬の柄なのですね。畑仕事の合間に置かれた状態か、畑仕事が済み洗って干してある鍬の状態なのかわかりませんが、どちらにしても牧歌的な景が、いいですね。

鉢巻の完走せしか捨案山子       高橋富佐子

 一物俳句だと解すると、鉢巻きをしているのは捨案山子ですね。まるでマラソンで完走した後みたいだな、という感慨の表現ですね。捨案山子でキレる二物俳句だと解することもできますので、その場合、鉢巻きをして走っていたのは人間のランナーで、みんな完走できたかなと、捨案山子を見て回想している意味にも解せます。わたしは前者かなと解しました。

これより山道仰げば葛の花       滝浦幹一

 葛は蔓長十mから十五m程になるマメ科のつる性多年草ですね。山道などで繁殖すると道や土手などを覆ってしまう勢いがあります。その様が目に浮かぶ表現の句ですね。

木の実落つ足にやさしき園の上     立澤 楓

 この句の園が、なんの園なのかわかりませんが、「足にやさしき」で芝生や短い草に覆われた園内が想像されますね。落ちた木の実もやさしく受け止められた、という景が浮かびます。作者の眼差しのやさしさも伝わります。

前脚でドア開ける猫秋の風       千田アヤメ

 家飼いの猫は器用にドアを開けたりしますね。だけど決して、その後閉めることはしません。明けっぱなしにしたままになります。そこから秋風が吹きこんできたようです。和やかな室内の空気を感じる句ですね。

新米を山と盛りつけ仏壇に       坪井久美子

 いつも新米の季節にしてきたことなのでしょう。今年は異常気象のせいで新米の出荷が遅れました。でも無事に手に入ったようですね。あるいはお米農家の方でしょうか。

一体はみつばちハッチの案山子かな   中坪さち子

 タツノコプロのメルヘンアニメ代表作『昆虫物語 みなしごハッチ』のことですね。ミツバチ王国の王子は、スズメバチに襲われ母と離ればなれになってしまい、まだ見ぬ母を探すために旅へ出て、当初は気も弱く幼かったが、旅を続けるうちに心身共に成長し立派なミツバチになった、という大人気のキャラクターですね。周りの空気が和みますね。

天気図に台風四つ今朝の冬       中村 立

 日本に上陸した台風の数は増えてはいませんが、大型化、兇暴化しているそうです。すべて地球温暖化の異常気象のせいですね。多くの被害が報道されました。そんな台風が天気図で四つもあるなんて。下五が「今朝の冬」となっていて、台風は仲秋の季語ですが、冬に到来しているのも異常で、あえて季重なりの俳句で、その異常さを表現したのですね。

石蕗の花咲き満ち足りて庭静か     成田眞啓

 石蕗の花の様を「満ち足りて庭静か」と詠めるのは、作者の心がそのようであることの投影ですね。

公園の樹木只今療養中         西島しず子

 近年の異常気象で異変を来しているのは、人間だけではないようですね。この句では公園の樹木にも被害が及んでいることを詠んだのですね。専門の樹医が弱った樹の具合を見ているようです。作者の心配そうな気持ちも伝わります。

秋桜の風にたゆたひきはやかに     乗松トシ子

 揺蕩いを「たゆたひ」と古語的なひらがな表現にして、際やかにという、際立ったさまも、「きはやかに」とひらがなで表現して、風に揺れる秋桜のしなやかさを巧み表現した句ですね。

貸し農園程好く育つ秋茄子       浜野 杏

 農作物を育てるのが好きで、農園を借りて茄子などを育てているのですね。世話をせず放ったままではうまく育つものではないですから、「程好く」育ったのは、作者の世話のお陰なのですね。

一本の紅葉隣りの庭たのし       林 和子

 自宅に紅葉を植えてあるのではなく、お隣さんの紅葉なのですね。ユーモラスな句調で、その秋の色をお裾分けしてもらったという表現ですね。

自然薯の戦嫌ひて土の中        平野信士

 戦を厭うているのは作者の心ですが、まっすぐ地中に伸びる自然薯に、その思いを託した、巧みな表現の句ですね。

新札を初めて使ふ今年米        曲尾初生

 令和六年七月三日に、新しい一万円札、五千円札、千円札が発行 されました。 二〇年ぶりのことですね。そのピン札を揃えて、新米を買ったのですね。祝祭めいた語調がいいですね。

りんご剥く子等の散髪済ましし手    幕田涼代

 子供たちの散髪も自分でやる、器用で働きものでやさしい母親の姿が浮かびます

梵鐘のくぐもり届く露の朝       増田綾子

 空気が澄んでくる秋になると、遠くの鐘の音がよく聞こえるようになりますね。でも「露の朝」、空気がまだ湿っていて、その音色がくぐもって聞こえたという、繊細な表現の句ですね。

転勤の辞令一枚おでん鍋        水村礼子

 転勤の辞令書とおでん鍋の取り合わせが新鮮な句ですね。近々、違う職場環境に向かうことになる心境を、おでん鍋にこめたのがいいですね。

銀杏をトングで拾い笑む翁       三橋光枝 

 地面に落ちたばかりの銀杏の果実は異臭があるので、手で触れたくないですね。持参のトングで拾っているお爺さんと、微笑み交わしている作者の眼差しがやさしいですね。

自転車で犬の散歩や冬に入る      緑川みどり

  個人的な解釈ですが、飼い主が高齢になられて、日課の犬の散歩に、足腰の負担を感じるようになって来られたのだろうか、と解しました。大変だけど、愛犬に付き合ってあげたいという飼い主の気持ちに寄り添った表現ですね。

中華街色とりどりや秋の雨       望月都子

 中華街の店の看板などの装飾は、独特の色合いですね。雨までその色に染まっているような表現ですね。

秋寂びや一人の席増え町喫茶      保田 栄

   馴染みの喫茶店があり、馴染みの客がいたのでしょう。その数も減り、ボックス席で談笑しつつコーヒーを飲む客が減り、個客が増え、それに対応して席までも壁に向かった一人席が増え、何か寂しさを感じている表現の句ですね。

また一人アドレス消えぬ秋の暮     矢吹澄子

   住所と言わず「アドレス」と言えば、媒体が電子メール用のデジタル名簿を想起しますね。手書きの住所録しかなかった頃を思うと隔世の感がありますね。共にそんな時代の変遷を体験してきた親友が亡くなったという感慨深い句ですね。

次の世へ渡りし友や虫すだく      吉田 史

友人の死を「次の世へ渡りし友」と、終わりではなく、人生の旅の第二章のように表現した味わい深い句ですね。

種採りの農婦の手許風やさし      安蔵けい子

   農婦の手元に吹いているのは、作者の眼差しというやさしい風ですね。

歌好きの兄弟姉妹初座敷        内城邦彦

 未成年の兄弟姉妹であるとも解せますが、私は成人して今は別々に暮らしていて、正月の実家に集っている景を想起しました。歌もカラオケなどではなく、歌カルタ、つまり百人一首に興じているように感じました。

冬ざれや無人となりし過疎の村     大谷 巖 

素直にそのままの景を詠んでいるようにも思えますが、この飾らない素朴な表現に、無人の過疎の村の寂しさを感じました。

本読のページの奥へと夜長の灯     大竹久子

 秋の灯下親しむ読書の景を詠んだ句ですね。自分の読書の、視線の動きのテンポを表現しているようで、趣がありますね。

日の短「猫さがしてます」のチラシ   柏木喜代子

 自宅のポストに「猫さがしてます」という写真付きのチラシが入っていたのですね。気ぜわしさの中に心配ごとまで加わった、日暮れの早い冬の日の一コマですね。

みちのくや過客の二人に雁の空     金子きよ

 これは芭蕉の「おくのおそ道」を踏まえた句ですね。芭蕉と連れの二人姿を思っての句か、作者の実体験か、どちらか分かりませんが、下五に「雁の空」を置いて定番の構図ですね。

古民家にのこる縁側小鳥来る      神尾優子

 「のこる縁側」という言葉で、現代の戸建てからもマンションからも、それが無くなってきていることを表現していることが解りますね。昔はそこに小鳥もやって来ていたのだと。

手水舎の水の痛さよ冬来る       木佐美照子

「手水舎(てみずや)」は神社で参拝者が身と心を清める場所ですね。真冬にはそれが痛いように感じます。身の引き締まる思いですね。 

夜半の秋若き父停つ夢枕        城戸妙子

 父親が若くして亡くなっているのですね。そこで記憶の時間が止まりますね。

引き摺って詣でる吾子の千歳飴     久住よね子

 千歳飴は小さい子どもには長すぎますよね。よく見かける景で、共感します。

眼科医のこゑ透きとほる四温光     紺野英子

 三つの感覚を一句に詠みこんだ巧みな表現ですね。「眼科」の「眼」の視覚、「こゑ」の聴覚、「四温光」の「四温」の暖気という触角。その三つを中七の「透きとほる」で束ねた句ですね。

 部屋中の満たされてをり月の宴     齋藤保子

 この表現、たとえば「部屋中が満たされてをり月の宴」だったら、読者はどう感じ取ったでしょうか。「月の宴」とは月を眺めながら催す宴、観月の宴のことですから、ただ宴が真っ盛りであるだけの印象しか残らないのではないでしょうか。「部屋中の満たされてをり」の「の」と「満たされてをり」という表現で、人の宴だけでなく「月光」がそれを包み込んでいるような、光まで感じる表現になっていますね。

 

                                                          ※        ※

 

講話

 

あすか塾 69 資料1 本歌取りについて 

 

〇 和歌から和歌、短歌への本歌取り

 

契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末の松山(注)浪越さじとは     清原元輔

 

【現代語訳】誓いましたよね。涙に濡れた袖を絞りながら、末の松山を波が越すことがないように、ふたりの思いも変わることはないと。

百人一首に収められている歌です。この歌の本歌は古今集にある

きみをゝきてあだし心をわが持たば 末の松山浪も越えなん

いう歌です。

「あなたをさしおいて もしもわたしが浮気心を持つならば、末の松山を波が越えてしまうでしょう」という内容ですが、末の松山は丘なので、そもそも波が越えることはあり得ません。なので「浮気なんて絶対ないよ」という歌です。

これを本歌としてつくられた清原元輔の歌は、「そう約束していたのになぜ…」と反問しているのですね。

 

わが袖は潮干に見えぬ沖の石の 人こそ知らね乾く間もなし   二条院讃岐

 

【現代語訳】潮が引いたときでさえ水面に見えない沖の石のように、人は知らないでしょうが、わたしの袖は乾く間もないのです。

この歌のもととなったのは和泉式部の歌

わが袖は水の下なる石なれや 人に知られで乾く間もなし」です。

「わたしの袖は水の中の石でしょうか。人に知られることもなく、乾く間もないのですから」これが本歌ですが、

二条院讃岐が作った歌の方が評価は高かったようです。

讃岐はこの歌をきっかけに「沖の石の讃岐」というニックネームで呼ばれるようになったそうです。

春の夜の夢の浮橋とだえして峰にわかるる横雲の空    藤原定家

 

【現代語訳】春の夜の、浮橋のようなはかなく短い夢から目が覚めたとき、山の峰に吹き付けられた横雲が、左右に別れて明け方の空に流れてゆくことだよ。

この歌の本歌は二つあると考えられます。壬生忠峯が詠んだ

風ふけば峰にわかるる白雲のたえてつれなき君か心か

と、周防内侍が詠んだ

春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなく立たむ名こそ惜しけれ

です。それだけでなく、定家の歌にある「夢の浮橋」は源氏物語の最終帖のタイトルから取った言葉です。「ほぼ本歌の言葉だけでできている歌」というほどの作品ですが、定家はそれをうまく構成して歌を作ったのです。

定家の歌には感情を表す言葉が入っていませんが、本歌に込められた感情・虚しさが反映されているので、読者にはそれが感じられるのですね。

 

本歌取りとは、現代でいう「オマージュ作品」であり、「元の作品の心情や雰囲気を反映させた新しい作品を生み出す表現技法」だということ。

 

〇 和歌から俳句への本歌取り

  

  可惜夜(あたらよ)の桜かくしとなりにけり   齋藤美規

  玉櫛笥明けまく惜しきあたら夜を衣手離れて独りかも寝む 万葉集九・一六九三

  (たまくしげ あけまくをしき あたらよを ころもでかれて ひとりかもねむ)
 

俳句の句意 

「可惜夜(あたらよ)」は「明けてゆくのが惜しい、もったいないような良い夜」の意。恋にかかる枕詞。「桜かくし」は宮坂静生の「地貌季語」の解説では、新潟の東蒲原郡の地区の言葉で、桜の咲くころに降る春の雪のこと。句意は「恋人たちが夜桜を見にゆくという、願ってもない良い夜が、思いがけず雪になってしまった」というような意味、 

万葉の歌意

玉は美しい「あく ひらく」などにかかる枕詞。櫛笥は櫛や化粧道具を入れる箱。「かれて」は漢字にすると「離れて」に当る。

「明けてゆくのがもったいないような良い夜に、お前と遠く離れて一人で寝ないといけないのだろか」

 

〇 俳句から俳句への本歌取り

世にふるも更に宗祇のやどり哉    芭蕉

   世にふるも更に時雨のやどりかな    宗祇

宗祇は、室町末期の漂泊の連歌師。応仁の乱の頃、都が荒廃し、当時の貴族や文化人たちは都を離れ諸国を流浪。宗祇はそのなかで特に有名な連歌師。生涯を旅に過ごし、諸国を歩き回り最後は箱根で没。芭蕉の句は、時雨の降る中、自分も室町末期の漂泊の連歌師・宗祇のように旅に生き、旅に死んでゆくのだと詠んだわけです。

 

〇 現代俳句の現代短歌からの本歌取り

 

人を訪はずば自己なき男月見草   中村草田男

向日葵の下に饒舌高きかな人を訪わずば自己なき男  寺山修司

燭の灯を莨火(たばこひ)としつチェホフ忌  中村草田男

莨火を床にふみ消して立ちあがるチェホフ祭の若き俳優  寺山修司

わが天使なるやも知れず寒雀  西東三鬼

わが天使なるやも知れぬ小雀を撃ちて硝煙嗅ぎつつ帰る 寺山修司

鳥わたるこきこきこきと罐切れば  秋元不死男

わが下宿北へゆく雁今日見ゆるコキコキコキと罐詰切れば 寺山修司

草田男も三鬼も不死男も寺山修司が好きだったようですね。

 

 注 参考「末の松山」

契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末の松山浪越さじとは

末の松山は、宮城県多賀城市八幡の独立小丘陵にある景勝地。

二〇一四年(平成二十六年)十月六日より、「おくのほそ道の風景地」の一つとして国の名勝にも指定された。南西側の丘陵裾部に「沖の石」がある。

「大津波が超えてはならぬ」という意で歌枕となったとされる。

 昔、大津波が襲来したが、津波が末の松山を超えることはなかったということに由来する。

また貞観地震と同様に、東北地方に津波による甚大な被害を出した二〇一一年の東日本大震災の際も、周辺の市街地では二メートルの浸水があったが、末の松山に波がかぶることはなかった。

 

〇 楽しい応用問題

では問題です。現代歌謡曲編です。

谷村新司の『昴』という歌謡曲の次の歌詞くだりは、石川啄木の短歌の本歌取りです。さて、それぞれ、どんな短歌でしょうか。

二首とも啄木の代表作と言われる有名な短歌です。

 

  一番 眼を閉じて何も視えず・・・

  二番 呼吸(いき)をすれば胸の中 凩は哭き続ける・・・

 

答え

 

 一番  眼閉づれど、

心にうかぶ何もなし。

さびしくもまた、眼をあけるかな

 

二番  呼吸(いき)すれば、

胸の中(うち)にて鳴る音あり。

     凩よりもさびしきその音!          

 

『悲しき玩具』より

 

 

  

 

 

 

 

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