あすか塾

「あすか俳句会」の楽しい俳句鑑賞・批評の合評・学習会
講師 武良竜彦

あすか誌 2025年1月号

2025-01-03 11:30:41 | あすか誌 2025年

 あすか誌 2025年 1月号

 

 

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藤の会・あすかの会 合同句会  2024年12月

2024-12-30 16:39:26 | あすかの会 2024年・令和6年

 

あすかの会・藤の会 合同句会 12月   兼題「離 冬の花」 あすかの会会長 大本尚

 

野木桃花主宰

名木に深き瑕あり石鼎忌    武良推奨句 

宅地化のここまで迫る返り花  

飴色は里の甘味や吊るし柿          

日向ぼこ記憶の底に父と母    

 

 

◎ 野木主宰特撰 

心ひらくまでの長さよ冬薔薇   さき子    野木主宰特撰 武良推奨句

 

◎ 武良特撰

茶の花やつましき寡婦の暮しむき みどり    武良特撰 野木主宰・大本会長推奨句

 〇 以下、高得点順

 〇 準高得点句

夕映えの光離さぬ枯芒    玲 子       大本会長・武良推奨句

  

〇 準々高得点句 

本線を離れ支線へ山眠る   典 子     野木主宰・武良推奨句

  

石蕗の花日暮の早き坊泊り        典 子   

人生の夕暮れにあう時雨かな       さき子    大本会長・武良推奨句

今日なぜか軋む裏木戸花八つ手       尚  

綿虫や隠しやうなき手に齢        孝 子    野木・大本会長推奨句

 

風荒ぶ落葉の流離はじまりぬ       市 子    野木宰推奨句

静もれる離陸の機内冬日入る       ひとみ    大本会長推奨句

機を織るゆるやかな里冬桜        悦 子    武良推奨句

 

エンディングノート余白の日向ぼこ    孝 子 

初雪や検査の結果聞く朝         ひとみ 

ひとひらの記憶の重さ冬薔薇       玲 子    野木宰推奨句

つくづくと父母居ずなりぬ藪柑子     みどり 

夕餉時離農の庭の蕪を抜く        典 子 

十二月くるくる回す膝小僧        さき子    武良推奨句

「ゆりかもめ」交差す小春の中空に    トシ子 

サンタにも廻る順番寝落ちの児      礼 子    武良推奨句

離れまで冬満月の肩借りぬ        市 子    武良推奨句

手の平で団栗転がす警察官        都 子    武良推奨句

 

離れてもなほ君想ふクリスマス      礼 子 

街後にして柊の郷の花          礼 子 

波音の日向日陰に石蕗の花         尚  

離れから洩れる歌声師走かな       都 子 

侘助落つ静寂の中の古刹かな       トシ子    大本会長推奨句

ますみ空木洩れ日拾ふ落葉道       トシ子 

まずつける句誌に折り目や新年号     一 青 

足で弾く静謐な音聖夜のミサ       悦 子 

大木の伐らるるままに冬青空       ひとみ 

離れ家の母に顔みせクリスマス      孝 子 

 

年忘れ盛会にゐて孤島めく        みどり 

花八ツ手木の表札の古りにけり      みどり 

数へ日や耕の終りに立つ煙        悦 子 

厭離穢土戦旗駆けこむ冬の原       悦 子  

闇しんしん闇寂寂と霜の夜        トシ子 

咲き残る畑の隅の黄菊かな        一 青 

 

木枯や子は離れゆくばかりなり      一 青

年毎に構え衰う太極拳          一 青

返り花千鳥ヶ淵の丘の上         都 子

コピー機の日日を吐き出す紅葉山     都 子

黒塀のくぐり戸そとの雪しぐれ     かづひろ

結界や定家葛の枯れ姿         かづひろ

厭離穢土バット吸ひたる雪女      かづひろ

透析の血の色赤し水仙花        かづひろ

山村は暮るるに早し藪柑子        孝 子

日溜や狭庭に探す福寿草         玲 子

朝霜や一輪白く立ち上る         玲 子

親離れ出来て真っ赤なシクラメン     典 子

極月の顔の映りし車窓かな        さき子

慰めの言葉に代えて冬薔薇        ひとみ

袈裟懸けに鳥の目指すは竜の玉      礼 子

離陸して右へ旋回北颪           尚

離農夫の手指ざらざら皹す         尚

山茶花の白際立たせ雨上る        市 子

ひそと咲く柊白く地を染むる       市 子

 

 

参考 特別参加 武良竜彦

最高得点句

地に眠るものにやさしく霜の花     野木主宰・大本会長推奨句

茎揃へ剪らるる花束十二月         

仇名禁止師走の門を潜る子ら        

離農者の続く寒村寒椿 

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あすかの会 2024(令和6)年 作品展  杉田地区センター  

2024-12-21 11:05:03 | あすかの会 2024年・令和6年

      あすかの会 2024(令和6)年 作品展 

 

 

 

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あすか塾 68 2024年 令和6年12月

2024-12-10 15:10:21 | あすか塾 2024年

      あすか塾 68                            

 

   《野木メソッド》による鑑賞・批評              

     「ドッキリ(感性)」=感動の中心

     「ハッキリ(知性)」=独自の視点

     「スッキリ(悟性)」=普遍的な感慨へ

 

 野木桃花主宰十二月号「飛鳥山」から

 今月の野木主宰の句は主に「飛鳥山」吟行の際の連作句です。「あすか俳句会」のゆかりの地でもありますね。

菊の香や過去へと時間巻き戻す

 食べ物などの匂いや味は、過去の記憶と結びついていることがあります。文学作品ではマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』で、紅茶に浸った一片のプチット・マドレーヌの味覚から不意に蘇った幼少時代のあざやかな記憶を発端に壮大な物語が展開します。この句は「飛鳥山」ですから、野木主宰の師とその時代の記憶が、菊の香で蘇ったのでしょう。

くづし字の「あすか」の石柱律の風 

「飛鳥山」の「あすか」のひらがな文字の崩し字の石柱が立っていたのを見たのですね。その文字自身に時代性を感じつつ、今、このときの爽やかな「律の風」の中にいる自分の時間をかみしめている表現ですね。「律の風」は秋らしい感じの風。三秋の季語の「律調べ(りちのしらべ)」の子季語で、律は呂(りょ)とともに琴などの調子。秋らしい趣きのことです。実際には音はしていない、内在律としてのしらべですね。

控へ目に咲く秋薔薇晩香廬

都内屈指の桜の名所として知られる北区西ヶ原、飛鳥山公園。その深い木立を臨む一角に、赤い瓦屋根の小亭がひっそりと佇んでいます。渋沢栄一翁の喜寿のお祝いと長年の恩顧に対する感謝を込めて贈られたもので、「晩香廬」と名付けられたこの建物は、国の重要文化財に指定されています。日本の伝統的な数寄屋造り要素を取り入れた和洋折衷の建物で、外壁は壁土に鉄分を加えて意図的にサビを浮き出させた西京錆壁塗り、角には異なる色に焼いた煉瓦タイルを貼り込み変化を付けています。この句ではその「晩香廬」の静かな時間の経過を「控へ目に咲く秋薔薇」と表現されていますね。

師を偲ぶ木の実降る降るあすか山

「木の実降る降る」のリズムの響がいいですね。テンポがいいのにどこか哀調を帯びた日本音階のしらべのようです。思い出の「懐かしさ」の感覚はなにか暖かくも、どこか哀しみを帯びたしらべですよね。

 「風韻集」十二月号から 感銘秀句

振り返りまた振り返り魂送り      吉野糸子

魂送り」は初秋の季語「送り火」の子季語ですね。盆の十五日または十六日に先祖の魂を送るために焚く火のことで、豆殻、苧殻などを家の門のところで焚きます。「振り返って」いるのは親族の元を訪れた両親の魂が帰ってゆくときの表現ですね。森澄雄の句例にも「送り火や帰りたがらぬ父母帰すというように、この句も御魂の方の心情描写に自分の気持ちを託した表現ですね。

靴音の他人と揃ふそぞろ寒       安齋文則

 この「揃ふ」は他人と気持ちが一つになったのではなく、夜道の帰路などで、前後を行く見知らぬ人と、偶然、足並みの揃う靴音になったという、どことなく気まずい空気を詠んだのでしょう。ふとした心の動きを繊細に捉えた表現ですね。

身の内に夫の面影夏の月        磯部のり子

 実景としてはただ、夏の月を見上げているだけですが、「身の内に」という表現で、先立った夫の「面影」を全身で感じ取り、包み込んでいるような印象の句になりますね。

温め酒厚き手捻り手に馴染み      大木典子    

「手捻り」は陶芸品またはその製法のことで、道具として電気やモーターなどは一切使わず、手でひたすら作ったもの、またはその製法で、手回しロクロも使わず台座だけで作ることもあります。当然、生地が厚く味わいがあり、日本酒の器に合いますね。

星飛んで無音の闇の深さかな      大澤游子

光彩を放って一瞬、夜空を過る流れ星。もちろん遠いのでその音は聞こえません。そのさまを、闇に湧き闇に消える光のせいで、より闇が深まったように感じたという表現ですね。まるで人の命の儚さの比喩のようで詩情がありますね。

歩荷積む荷の高々と秋の空       大本 尚

「歩荷」とはボッカと読み、荷物を背負って山越えをすることで、 特に山小屋などに荷揚げをすることや、それを職業とする人のことですね。「高々と」に続く下五が「秋の空」で、高度のある山道の斜面とその上の澄んだ空が見えますね。    

充実は大汗のせいかもしれぬ      風見照夫

 体を動かして大量に汗をかくようなことをすると、疲労感はもちろんありますが、どこか心身の充実感を感じますね。高齢になるとその種の充実感を味わう体験が少なくなりますが、若かりし頃の快感のような感覚の感慨の表現ですね。

積み上がる瓦礫に秋の大夕焼      金井玲子

 近年、町全体が瓦礫の山に覆い尽くされるような災害を見聞することが多くなりましたね。その景にはさまざまな人的な悲劇や不幸の体験が交錯しますが、この句では下五の「大夕焼」で、その美しすぎる色彩に、哀しみが逆に深まる表現ですね。    

未来へと腕伸ばしをり昼寝の子     近藤悦子 

 昼寝の本人は自覚していない、見守る側の心情の投影句ですが、「未来へと腕伸ばしをり」には、その子供の未来に幸あれと願う祈りのような心情が籠っていますね。   

黙黙と茶漬けに新香敗戦忌       坂本美千子

 先の敗戦に至る戦争には、親族を含めた多様な悲劇の体験の屈折した思いが去来する人も多いはずです。普通は「祈り」などへと結びつけて詠まれがちですが、この句は実感的な生活感に引き付けたことで、「祈り」さえ超えた屈折した心情が立ち上る表現ですね。

八月や飛べない鶴を折っている     鴫原さき子

折鶴を両手で空に掲げる佐々木禎子の「原爆の子の像」を想起する句ですね。「飛べない」には、被爆による白血病で人生を全うできなかった少女の哀しみと、その祈りを他所に悲劇が繰り返されていることへの絶望感が、織り込まれているような表現ですね。

胡桃乾す庭や鴉に見られけり      摂待信子

 鴉は高い空の上から岩場に胡桃を落して割って食べるという、知恵のある生き物です。その知能犯の鴉が庭に乾している胡桃を狙っているようすをユーモラスに詠んだ句ですね。     

略奪か保存かミイラは冷房裡      高橋光友

 今月の投句五句の場所が英国のようですから、多分、大英博物館辺りに陳列されているエジプトのミイラ像のことでしょうか。英国もそうですが大国の博物館のものは、その国のものではないはずで、元の国に無償で還すべきだ思いますね。 

手になじむ雪平鍋や南瓜煮る      高橋みどり   

「雪平鍋」は本当に便利な片手鍋で万能調理鍋ですね。この句は「手になじむ」「南瓜煮る」と、作者が使い慣れているさまが伝わりますね。名の由来は槌目の模様が雪のように見えることからという正説と、浪漫的な伝承由来説として、在原行平(六歌仙・在原業平の兄)が島流しされた須磨で海女に塩を焼かせたとき、塩が雪のようだったという説もありますね。

読めぬ句碑秋海棠は静かなり      服部一燈子

 上五の「読めぬ」は、年月が経って文字の判読し難いからでしょう。その時間の経過を花のさまに託して「静かなり」と言い切っているとこに詩情を感じますね。

稲の花目つむり考のこゑをきく     宮坂市子

 稲の花は剣状の葉に紛れて目につきにくい小さな花です。農家の人はその幽かな香りでいち早くその開花を知るようです。「考」は亡くなった父のことで、その家の歴代の営みを感じる表現ですね。

積ん読の嵩より一つ秋灯し       村田ひとみ

 句中の「より」の解釈で意見が分かれそうな表現ですが、解釈の一つ目は「嵩より一つ抜きん出たところに秋の灯が見える」。もう一つは「積まれた本の一つから、まるで自分を誘う秋の灯のような光が差している」。後者の解釈は「読み過ぎ」と言われるかもしれませんが、わたしは後者を押します。   

悩みなど畳みたたみて薄衣       柳沢初子

「薄衣」は晩夏の季語「羅(うすもの)」の子季語ですね。同じ子季語に軽羅、絽、紗、透綾、綾羅紗とあるように、見た目にも涼しげな盛夏用の着物で、よく風を通し涼しいですね。この句は「悩み」を小さく畳んで、心の中の風通しをよくした感じが出ていますね。

ハチ公よ南瓜の馬車はもう来ない    矢野忠男

 駅頭で帰らぬ主人を待ち続けた忠犬「ハチ公」の純和風の話と、西洋童話の「シンデレラ」の栄達の象徴である「南瓜の馬車」を取り合わせる離れ業は、大ベテラン俳人ならではの表現で、感服しました。

来年は昭和百年ソーダ水        山尾かづひろ

 時間の推移を「ソーダ水」という物に託して、今は「昭和百年」に当る筈だと、暦を読み直す表現ですね。本当かどうか確かめ算をしました。昭和六十四年、タス、平成三十一年、タス、令和七年、=百二年。これから二年の重複分を引くと、本当に来年は昭和百年ですね!

 「あすか集」十二月号から 共感好句

山の宿並びきれない登山靴       齋藤保子

 コロナ禍後、いろんな分野が活況を取り戻しましたが、山小屋から旅館・ホテルも例外ではなく、登山シーズンになると人で賑わうようになったようです。その様を、「登山靴」で表現したのが効果的ですね。

月光や回転木馬動きさう        笹原孝子

「や」の切字の効果ですね。「に」だったら因果関係になってしまい、このようなファンタジックな雰囲気は出なかったでしょう。月光の神秘をメルヘンチックに詠んだ句ですね。    

役所跡に九九の木簡文化の日      須賀美代子

奈良県橿原市にある飛鳥時代の都、藤原京の跡から出土した木簡に、かけ算の「九九」の計算が記されていたことがニュースになりましたね。実用的な「九九」の一覧表の木簡としては国内最古級の可能性があるそうです。下五に「文化の日」と置くだけで、こんなことも詩情のある俳句にできますね。

夏草や武士の声聞えるか        須貝一青

芭蕉が平泉を旅して詠んだ「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」を踏まえた句ですね。この句ではその「夏草たち」に呼びかけている表現で詩情ありますね。芭蕉は古典にも精通していて、この句の前書きには杜甫のことばを引用した「国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ」という「前書き」がついています。栄枯盛衰の「あはれ」を詠む詩歌の伝統はこうして継承されていくのですね。

秋暑し喪服で座るパイプ椅子      鈴木 稔

「パイプ椅子」という現代的な物に焦点を当てて詠んだのか効果的ですね。その会場の雰囲気が見えます。作者はその雰囲気に違和感を抱いているような気持ちまで伝わります。


石狩の川幾曲り秋深む         砂川ハルエ

 雄大な北海道の地を大きく蛇行して流れる石狩川を俯瞰しているような、壮大な景の句ですね。「秋深む」の下五で何か厳かな雰囲気まで感じる句ですね。

亡き人の初生り葡萄雨上る       関澤満喜枝

 今は亡き方が丹精を込めて苗から育てた葡萄の木が、初めて実をつけたのでしょうか。「初生り」という言葉は、その年、初めてなった果実や野菜という意味しかありませんが、上五の「亡き人の」という表現で、そのような哀しみのドラマが立ち上りますね。

みちのくの捨て田を染むやをみなへし  高野静子

 耕作放棄で荒れ放題の田の景は、東北に限ったことではありませんが、作者はひらがな書きで「みちのく」として、その歴史性を暗示する詠み方をして場所を特定したのでしょう。多種の雑草に覆われているのではなく、女郎花の地味な花一色の景にして詩情がありますね。

鰯雲神の投網の果てしなく       高橋富佐子

 秋の空一面を覆う鰯雲の景を、神の漁の比喩で壮大に詠んで詩情がありますね。

ネクタリンかじれば幼馴染かな     滝浦幹一

「ネクタリン」は桃の一変種で、中央アジアのトルキスタン地方が原産、ギリシャ神話に登場する美酒「ネクタル」が名前の由来ですね。日本で食べられるようになったのは明治時代以降。和名は「ズバイモモ」で、「ツバキモモ」と呼ばれることもあります。この句はこの洋風の名の響と「幼馴染」の記憶が結びついているようですね。  

伸びすぎた草を引くなり蟋蟀出づ    立澤 楓

伸びた雑草は人間には除草したくなる、やっかいなものに過ぎませんが、蟋蟀などの小さな昆虫にとっては大切な塒なのですね。作者の小さな生き物への優しい眼差しを感じます。

秋蝉や最後の命玄関に         千田アヤメ 

 命の尽きた蝉は場所を選ばず、その亡骸をどこでも目にしますね。この句はそれを邪魔にせず、わたしの家の玄関で、まるで訪ねてきたような姿で最後の命を燃やしたのだね、と優しく包みこむように表現して、哀愁と優しさを感じる句ですね。 

道筋に祭り提灯風誘ふ         坪井久美子

 祭のシーズンになるといつも通っている道路の両端に提灯が飾られ、華やいだ雰囲気になります。この句はそれを「風誘ふ」と、呼び込んでいる表現にして詩情がありますね。
  国境てふ危なげなもの藪枯らし     中坪さち子

 国境という、人を他と隔てるものがあるから、争いごとの元になるのだ、という思いは深い社会批評眼の言葉ですね。それだけでは俳句という詩にはなりませんが、下五に「藪枯らし」という季語を置くだけで、詩情のある俳句になりますね。蔓を伸ばして他の植物に絡みつき、木を枯らしてしまう生態のイメージが効いていますね。

家一軒ショベルカー喰む冬隣      成田眞啓

 古くなった建物の解体現場のさまに、普通の人は詩情を抱いたりしませんが、そこに感慨を詠みこむのが俳人の繊細な感性の顕れですね。「ショベルカー喰む」という重機の暴力的なまでの力に、威圧感がありますね。

跣の子砂の団子を並べをり       西島しず子

 最近、不衛生であることを理由に、子供たちが大好きな砂場が減ったり、管理がやかましくなっていると聞きます。この句の場所は、子供たちが楽しそうに遊んでいる姿が浮かび、なにかほっとさせられますね。

夕暮て上枝のさやぎ秋の声       乗松トシ子

 「秋の声」という季語は、第一義として、物音がさやかに聞こえることではありますが、音ではなく、むしろ、心の中に響いて来る「秋の気配」を比喩的に「声」と表現している点に、詩歌らしい詩情がある言葉ですね。この句はそのこと自身を、見えない「上枝」あたりの「さやぎ」と表現したのが効果的ですね。

捜し当て民家に一鉢桔梗かな      浜野 杏

 桔梗の花が好きな作者のようです。町の花屋さんにも、大きな園芸店にも売っていなかったのでしょう。野性の桔梗など探すのは無理、と諦めかけていたら、思いがけず鉢植えで大切に育てて花を咲かせているのを発見したときの、作者の歓びが弾けているような句ですね。

竹の春めぐる季節をたがえずに     林 和子

「竹の春」は仲秋の季語で、秋になると葉も青々としてくるので、それが竹にとっての春だという意味の言葉ですね。「竹の秋」は逆で春に黄変するのでこう呼びます。温暖化のせいで季節感が乱れている昨今、「季節をたがえずに」と竹の健気さを讃えている表現がいいですね。

ベーグルは何処から食む秋日和     平野信士

ベーグルはリング状に成型したものを茹でてから焼成したパンの一種で、牛乳や卵やバターを使わないので、東欧系ユダヤ人の宗教上の食べ物として知られています。ドーナツもそうですが、リング状のものは「何処から食べるか」とよく話題になりますね。

芋名月厨に甘き匂ひして        曲尾初生

中秋の名月は旧暦が日本に伝わる前からあった年中行事で、太古、日本は里芋を重要な食料としていましたので、中秋の名月の頃が里芋の収穫祭でもあったことから、「芋名月」という言葉が「名月」の子季語に登録されています。厨から何かいい匂いがしているのですね。

青春よ香水よりも食べる事       幕田涼代

昭和、平成の世代で価値観が違うのではないでしょうか。作者は洒落っ気より食い気が優先した世代の方でしょうか。今の若者たちの実体はどうなのでしょう。

四十度とて泰然やさるすべり      増田綾子

猛暑の過ごし憎さを、逆に日照りの中でも永い期間、泰然と咲き続けている「さるすべり」の花の表現にしたのが効果的ですね。  

刈り終えし田面や安堵とわびしさと   水村礼子 

収穫の終わった田んぼは、農家の方にとっては安堵の景ですが、黄金色の稲穂の景から、土色剥き出しの田は、なにかさびれたような侘しさを感じますね、その実感を素直に詠んだ句ですね。 

芒添え仏間に風の生れけり       緑川みどり

室内の、しかも仏間という閉じられた空間では、芒の穂は揺れたりしませんが、屋外で風に揺れていた記憶を、その穂先に留めているように感じますね。

群れ飛べる赤蜻蛉に道譲る       望月都子

都会ではあまり経験しない景ですが、赤蜻蛉が群れ飛ぶような、豊かな自然に恵まれた地に住んでいる方ならではの句ですね。「道譲る」に生き物への敬意が感じられますね。     

草の実に踊る雀や朝の庭        保田 栄

早朝の庭で雀が草の実を突いて食べている景ですが、「踊る」という一言で、生きものの躍動感の表現になりますね。楽しげに感じられますね。

屈託のなさが一番江戸風鈴       安蔵けい子

涼し気な音色の風鈴ですが、「江戸」がつくと、江戸っ子気質などの語感が働き、さっぱりした粋な雰囲気が漂いますね。ガラス製の江戸風鈴の乾いた音色にそれを感じたのですね。

遅くとも四時には朝刊秋出水      内城邦彦

 高齢になっては朝早く目覚めるようになって、朝刊がまだ薄明の午前四時に配達されていることに、気が付いたという感慨の句かと思って読んで、下五の「秋出水」まで読み進むと、昨日起きたばかりの水害とその記事のことが念頭にあった俳句なのだとわかりますね。

足跡に水の溜まりし冬田かな      大谷 巖 

まだ田の土に湿り気があった時についた、労働の痕跡を示す足跡が、土の乾燥した冬なって固まり、そこに秋雨が溜まっている景を詠んだ句で、冬の空気感が漂う表現ですね。

一人居の音読はづむ夜の秋       大竹久子

 一人暮らしですから、その音読の声を聞く人は居ないのですね。でも、「はづむ」と表現していることから、気持ちを明るくしようとしていることが感じられる句ですね。 

百二百源氏螢の楽天地         小澤民枝

  百・二百は、数の多さ、混み合っているようなさまを表現したことばですね。螢がそんなに居る環境が保全されている場所がまだあることに、安堵する気持ちになります。

台風の形も変る病む地球        柏木喜代子

 台風の形は渦状の円形か歪な楕円形をしていますね。下五が「病む地球」ですから、昨今の温暖化による気象の乱れを憂えている俳句なのですね。台風の形状だけでなく、その有り様自身が変ってきている、という表現なのですね。

秋気澄む座禅開始の柝渡る       金子きよ

 「柝渡る」の「柝」は「き」と読みますが、この句は「たく」と読むのでしょう。拍子木を打つことですね。日本の歌舞伎や文楽の幕の開閉のとき鳴り響く、あの音ですね。禅寺の座禅修行の合図にもこれを鳴らしているようです。「柝渡る」の「渡る」は僧が渡り歩きながら打ち鳴らしているとも解せますが、響き渡ると解してもいいですね。

水澄みてヤブミョウガ咲く塩の道    神尾優子

 薮茗荷は東アジアに広く分布し、日本では関東地方以西の暖地の林縁などに自生します。俳句では動植物はふつう漢字表記にしますが、この句はカタカナ表記にして、塩や海産物を内陸に運ぶのに使われた「塩の道」の雰囲気を呼び込んでいるのですね。  

長き夜や三途の川の美しき夢      木佐美照子

「三途川(さんずのかわ)」は、此岸(現世)と彼岸(あの世)を分ける境目にあるとされる川で、「三途」とは仏典『地蔵菩薩発心因縁十王経』(略称:地蔵十王経)に由来し、餓鬼道・畜生道・地獄道の三つの道のことですね。経典の日本への渡来は飛鳥時代、人々に知られるようになったのは平安時代中期、信仰として広まったのは平安時代の末期。善人は金銀七宝で作られた橋を渡り、軽い罪人は山水瀬と呼ばれる浅瀬を渡り、重い罪人は強深瀬あるいは江深淵と呼ばれる難所を渡る、とされています。この句の「美しき夢」は善人用の「金銀七宝で作られた橋」なのでしょう。作者は善人ですから。

曼珠沙華赤に込めたる孤独かな     城戸妙子

 その毒々しいまでの赤さ故に、また地獄華という異称もあって、あまり好まれる花ではない曼珠沙華ですが、作者はそのように孤立するものへ優しい眼差しを投げていますね。

柚子の香や夫婦の食卓茶碗蒸し     久住よね子

 あの温かい茶碗蒸しを間に挟んだ、仲の良い夫婦の景に、さわやかな柚子の香りを添えたのが効果的ですね。

ほゝ笑みは言葉のはじめ秋のこゑ    紺野英子 

言葉以前の身体言語でいちばん美しいのは、もちろん品のいい微笑ですね。それを数多ある言葉の筆頭に数える心。そして、音ではない季節の気配「秋のこゑ」の取り合わせが効果的ですね。

 

                   ※      ※

 

  講話 あすか塾68  

 

   黒田杏子『一行の自己表現』―生前の姿を彷彿とさせる講話録

 

 この本の上梓の経緯は、本に添えられて送り状である栞に、夫、黒田勝雄氏名で次のように述べられている。

    ※

ご挨拶

この度、妻黒田杏子が生前お世話になり、親しくさせていただいた三菱商事株式会社顧問古川洽次様のご尽力で、同社MC経営塾での講演をまとめた『一行の自己表現』が刊行の運びとなり、杏子八十六回目の誕生日となる日に世に送り出されました。

三菱商事様と古川洽次様のご好意により、ここに本書をご寄贈申し上げます。心から感謝いたしますとともに、皆様のお心に杏子の言葉が届くことを願っています。

ご高覧いただけましたら幸甚に存じます。

      令和六年九月                    黒田勝雄

    ※

 本の内容は、講演の音声から文字起ししたもので、読んでいると、生前の黒田杏子氏の肉声を聞いているような、懐かしい気持ちになる。

 紹介したい講話がたくさんあるが、特に印象深い内容を三つ、以下に抜粋する。

    ※

「俳句と季語」―「十七音字の定型詩」

 (略)

 歳時記というのは、物理学者でエッセイストでもあった寺田寅彦という人が言った名言、それ以上の名言はないんですけれども、「『歳時記』は日本人の感性のインデックスである」、ということを言っています。

 天の川とか大文的なことを表す言葉もあるし、生活的なことを言っている季語もあり、衣食住の中の衣というもの、それから食べ物、住ですね。いろいろな季語があって、それは日本人が長年にわたって使ってきた言葉です。松尾芭蕉の句などは有名ですが、三百年、四百年にわたって使われているんです。

    ※

 俳句を学ぶ人なら、どこかで見聞した内容だが、商事会社の研修会という、俳句のことをほとんど知らない人たちに、ここから語り起こすところが、黒田杏子氏らしい。

 ベテランになるほど、その「初心者」に対する配慮を忘れて、細かくて難しい表現論などを述べがちになるものだが、季語の説明でこれ以上、核心をつく話はないということで始められている。

 次は読んでいて、もっとも心に沁みた講話だ。

    ※

「忘れがたいエピソード」

日経俳壇では、人選した四番目までの人を選評しているんです。(略)

望月直彦氏の句。

  挨拶の相手まだなし白木槿

 これは、どういう意味かなと思いましたが、白木槿というのは一日花で、朝咲いて夕方散っちゃうんですけれども、木樺の花ですね。それで、「挨拶の相手まだなし」というんだから、この人は早起きなんじゃないかなと思ったんです。木槿は朝から咲いていますよね。早起きの人なんだと勝手に断定したんです。散歩をしてもまだ朝の挨拶を交わす人に出会わない、白木槿が清々しい、というふうに書いたんです。

(略)この望月直彦さんの義理の兄さんという人からの投句が届いていまして、(略)

  句談義の応答はやなし温め酒

「温め酒」というのは、お酒を温めて飲む、冷や酒の反対で今の季節ですね。

 先生を敬慕し熱心に投句を続けてまいりました義弟望月直彦は十月三目永眠いたしました、というんですよ。(略)

「難病に苫しみながら、俳句を唯一の楽しみとして詠み続けてまいりましたが……六十三歳の若さでした」と。私の二つ下ですね。

奇しくも、選んでいただいた《挨拶の相手まだなし白木槿》の句が通夜の日の

新聞に掲載され、最高のはなむけになりました。誠にありがとうございました。

厚くお礼申し上げます。」(略)

そういうことっていうのもあるんです。ですから、私はびっくりしました。(略)

望月直彦さんの句は十月五日に掲載されたけれども、作ったのは九月二十日ごろですね。ですから、本当に絶筆ですよね。最後の投句です。

   ※

次はイタリアの国立病院で、鬱病の患者に俳句の指導を頼まれたときの講演の一節。依頼者の女医とその仲間の医師も加わって、複数人でディスカッションしながら、一つの俳句を仕上げていくという、一種の診療の一環として依頼だったようである。

   ※

「仲間は自分を映す鏡」

(略)

日本ではいろいろな人が、老若男女が俳句を作っていて、日本の場合は誰でも作ることができる。そして季語というのがあり、十七音字だよ、というようなことを分かりやすく言いました。子供も大人も作っているし、俳句がすばらしいのは、生きている限り、頭が働けば作れる、寝たきりになって自分がペンを持てなくても、看護師さんにこの句を書き取ってくれと言えば書き取ってくれて、それを私に見せてくれれば、その人の俳句として詠むことができるんだということを言ったんですよ。ですから、俳句は死ぬ日まで作れるということを言ったら、みんな深くうなずいちゃったんです(笑)。

そして、自然と対話をするとか、俳句を作って句会に行くということは、自分一人が生きているのではなくて、仲間がいるということだ、自分の作った句を相手の胸に問うことだと。そして、一人では句会はできない、最低二人か三人か四人か、いなきゃできない。ということは、自分以外の人を鏡とすると、俳句を通して自分の心が他人の鏡に映る、自分も相手にとっての鏡なんです。自分の力が十としたら、そこに出席している人の力、他力ですね、自力と他力が合力されると、その句会はとてもレベルが上がる、一人ではこれだけしかない力が、五人の人の力が合わさると、目に見えない句会の水位がこう上かって行くんだというようなことを言ったら、ものすごく感動しちゃったんですね。

   ※

黒田杏子氏ならではの、温かみのある、心に沁みる講話である。

 

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あすか誌 12月号 2024(令和6)年

2024-11-30 16:07:14 | あすか誌 2024年

      あすか誌 12月号 2024(令和6)年

 

 

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