あすか塾

「あすか俳句会」の楽しい俳句鑑賞・批評の合評・学習会
講師 武良竜彦

「あすか塾」2022年 1 

2022-02-01 18:40:12 | あすか塾  俳句作品の鑑賞・評価の学習会

1 今月の鑑賞・批評の参考 (「あすか塾」2月)   


◎ 野木桃花主宰句(「年新た」より・「あすか」二〇二二年一月号)

耳ふかく父母の声年新た
ふるさとの色どり豊かお重詰
加留多読むひと日心を遊ばせて
孔子木すくつと立てり去年今年
語り部の記憶をつなぐ小正月

【鑑賞例】
 一句目、例えば「心深く父母の声あり年新た」と詠んでもいいところですね。でもこの句は「耳ふかく」として、身体性に引きつけた「ちちはは」の声の質感ごと甦っているという現代俳句的な、実存感のある表現になっていますね。二句目、生家の郷土色豊かな重箱の正月料理を嫁いでも守り、毎年再現し続けているのでしょう。三句目、「犬棒」加留多ではなく、和歌加留多、つまり百人一首で読み手が和歌の上の句を読み上げる、あの朗朗とした正月らしい音響に包まれていますね。四句目、「孔子木(こうしぼく)」というのは植物学博士の牧野富太郎が名付けた別名で「楷の木」のこと。別名に爛心木、南蛮櫨、孔子の木(クシノキ)、特に中国では黃連木とも呼ばれる木で鮮やかな赤に紅葉します。「楷の木」の名は直角に枝分かれすることや小葉がきれいに揃っていることから、楷書にちなんで名付けられたとされています。別名の孔子の木(クシノキ)は、山東省曲阜にある孔子の墓所「孔林」に弟子の子貢が植えたこの木が、代々植え継がれていることに由来するそうです。また、各地の孔子廟にも植えられていて、孔子と縁が深く、科挙の進士に合格したものに楷の笏を送ったことから、学問の聖木とされています。初学の志を新たにされた句でしょうか。五句目、日本の韻文文化は散文より古く、忘れてはいけない大事な過去の記憶を謡い語ることを緒元とします。「小正月」というような古い慣習の季語と、句を詠む俳人としての矜持を感じる句ですね。

〇 武良竜彦の十一月詠(参考)
柳葉魚焼く校歌は山河永久に謡ふ
霊に重さあるとするなら散紅葉   

(自解)(参考)
 一句目、校歌にはその地区の悠久の自然が必ずといっていいほど詠み込まれています。今となってはそれが失われつつあることの危機感を感じますね。二句目、季節の色を纏って四時(いしじ)の変遷に身を委ねる散紅葉。すべての精霊の魂が宿っているように感じます。

2「あすか塾」36  2022年2月
  
⑴ 野木メソッド「ドッキリ」「ハッキリ」「スッキリ」による鑑賞例―「風韻集」十一号作品から 
※「ド(感性)」=感動の中心、「ハ(知性)」=独自の視点、「ス(悟性)」=普遍的な感慨へ。
この三点に注目して鑑賞、批評してみましょう。 

    
湖はみな哀話を持てり薄紅葉                           鴫原さき子
横顔を持たぬ案山子でありにけり                         鴫原さき子

 一句目、例えば榛名湖には女人入水説話が諸説あるように、多くの湖には同様の伝説が残されていますね。水平に広がる湖面が何か哀しみのようなものを抱えているように感じるのは詩人の感性でしょうか。二句目、最近は立体的な案山子も見受けられるようになりましたが、たいていの案山子は厚みがなく薄くて、顔の部分は横から見ると扁平で「横顔」というものはありませんね。作物を被害から守るための田という「正面」向きの仕事を負わされた、人型の哀しみのようなものを感じます。

藁塚や風の形を留めをり                              白石 文男
 藁塚は円錐形をしていますが、風に一方向に靡くような跡がついているのを発見した句ですね。

泡立草勢ひづくや津波跡                              摂待 信子
 河原や空き地などに群生する「泡立草」は北アメリカ原産で、日本では切り花用の観賞植物として導入された帰化植物(外来種)。芒などの在来種と競合しているそうです。山田みづえの「泡立草穂すすき雑草合戦図」という句はその様を詠んだものですね。信子さんの句は荒れたままなっている津波跡の荒涼感を表現しました。兜太に「泡立草群れて素枯れて思案かな 」という句もあります。

仏壇の菓子はなやぎてクリスマス 高橋みどり
 宗旨を違えているのにクリスマスの派手なイルミネーションなどの過剰ともいえる光の洪水で、仏壇の菓子まで「はなやいで」見えるというアイロニーですね。ごった煮日本文化ですねー。

冬の薔薇今朝の青空虚ろなり                            服部一燈子
 今月の一燈子さんの句は暗めのものが多かったのですが、何かそのような思いをされることがあったのでしょうか。憂いを抱えた人にとっては、薔薇の花の鮮やかさが過剰に感じられたり、空の青さが虚ろに感じられたりするものですね。

山寺の庭の深きにこぼれ萩                            本多やすな
 こぼれ萩は深まりゆく秋の風情ですが、それを庭の「深きに」と表現されました。庭は物理的には一定の空間ですから、広い、狭いという言葉で普通は表現されますね。それを心の奥行きのように表現したのが効果的ですね。

夕映えの風のゆくへや鳥渡る                            丸笠芙美子
 渡り鳥の行方ではなく、風の行方という表現にしたのが、深みがあっていい表現ですね。大気の動きが渡り鳥に先行しているような、大きな季節の変動感がありますね。

冬日差す房総の崖目を醒ます                           三須 民恵
 房総半島の地層は,大部分が海洋プレートのかけらや海底の堆積物から成り立っていて、それが活発な地殻変動によって海底から持ち上げられ陸上に顔を出し,私たちの目に触れるようになったそうです。その部厚い歴史性を踏まえて「目を醒ます」と詠んだのですね。

スイッチバックして姥捨の月今宵                          宮坂 市子
 スイッチバックは、険しい斜面を登坂・降坂するため、ある方向から概ね反対方向へと鋭角的に進行方向を転換するジグザグに敷かれた道路又は鉄道のことですね。悲話を抱え持つ姥捨山の月が、まるでそのように屈折して上がってきているような、独特の表現ですね。

潮騒や房総指呼に月見酒                             村上チヨ子
 神奈川県の海岸線の高台から見た房総半島の景ですね。月見酒ですから、窓外に東京湾を挟んで月光に浮かぶ房総半島が見えているのでしょう。上五に「潮騒」の季語を置いたのがいいですね。

病棟の長さ際立つ秋灯                              柳沢 初子
 大病院の病棟は一直線で長いですね。病室の数だけ窓があり、秋の灯が点っているのでしょう。それだけを描写して、病を抱えて入院している人たちの個々の思いに寄り添うような表現になっていますね。 
 
秋寂の社よ里よ水細る                              矢野 忠男
 社よ里よ、と呼びかける詠嘆のリズムで「水細る」冬に向かう寂寞が表現されていますね。

洞窟の切符売る婆股火鉢                            山尾かづひろ
 観光客が来るような鍾乳洞なのでしょう。その入場券を売っている老女が足下の火鉢で暖をとっているほど寒いのでしょう。季節の寒さだけでなく、鍾乳洞の冷気まで感じる表現ですね。

竹篭を真っ赤に染めて烏瓜                            吉野 糸子
 竹篭を真っ赤に染めて、という表現が巧みで効果的ですね。熟した烏瓜の赤は本当に鮮やかです。

ビル街の時は早足夕月夜                             渡辺 秀雄
 アインシュタインの宇宙物理学的な世界では、時の進行は条件によってズレが生じるようですが、特定の地域の等時性は不変のはずです。でも詩人の感性ではビル街は時が速く進むように感じられてしかたがない、というわけです。街全体が分刻みでセカセカと動いているように感じられますね。

立話して団栗に打たれけり                            磯部のりこ
十三夜淡き白雲脱ぎ着して                            磯部のりこ

 一句目、まるで「罰が当たった」ような表現がユーモラスですね。二句目、「脱ぎ着して」という擬人化した表現が効いていますね。

語り部としての生きざま秋高し                          稲葉 晶子
 歴史的な被害を被った地区で、その悲劇を語り継いでいる人の生き様に共感した句だととれますが、自分が俳句を詠んでいることも、一種の「語り部」的行為ではないか、という思いも込められているように感じる句ですね。

トンネルは煉瓦積みなり葛の花                          大木 典子
 現代的なトンネル工法は進化しているでしょうが、古いトンネルは、この句のように煉瓦積み工法で造られているのを見かけますね。その時代感と季語の「葛の花」がぴったりですね。

校庭の角に火柱櫨紅葉                              大澤 游子
 まさに櫨の紅葉の燃えるような鮮やかさをずばり「火柱」と表現してインパクトがありますね。十代の生徒達が集う若さの熱気の象徴のようでもあますね。

また別の光の道へ秋の蝶                             大本  尚
 こう詠まれると、まるで秋の蝶が光のハンターのごとく日差しを追って飛んでいるかのようですね。むろん、作者の心の投影の比喩表現でもありますね。

秋寂ぶや庇寄り添ふ漁師小屋                           奥村 安代
 庇を連ねて小さな漁師小屋が並び建っている漁村の景色が、秋の光の中に浮かびますね。心地よい昔ながらの共同体の暖かみも感じます。

向ひ風切り裂く秋の白帆かな                            加藤  健
 帆船と風の関係を熟知の上で詠まれた句ですね。「切り裂く」で風の強さも伝わります。

こぼれ萩水無き井戸の小暗がり                            金井 玲子 
涸れ井戸の森閑としたわびしい景を「こぼれ萩」という季節感と動的な表現をしてから、「小暗がり」に収斂させた詠み方が効果的ですね。

治部少輔柿食さずに逝きにけり                           坂本美千子
碑に七言絶句も鵙高音                              坂本美千子

一句目、治部少輔は、じぶしょう、じぶしょうゆう、などと読み、治部省の次官二人中の下位者、従五位下に相当します。江戸以降は豊臣秀吉の臣、石田三成をさすことが多くなりました。徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織しましたが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑されました。その末期の食として柿が出されたが「柿は体に悪い」または「体が冷える」と言って拒否したという逸話が残っていて、この句はそれを踏まえて詠んだものですね。二句目、「七言絶句」の「絶句」は四句からなる近体詩という漢詩体の一つ。一句七言で四句からなり、二句目と四句目が脚韻を踏み、四句の内容が順に起承転結になるように作る漢詩ですね。故人の慰霊碑でしょうか。そこに見事な漢詩を発見した感慨の句ですね。 

〇「あすかの会」参加会員の作品から (「あすか」一月号から)  

絶筆の目のなき龍や冴ゆる月                           村田ひとみ
 日本画の巨匠が弟子に遺した絶筆である龍の絵に、弟子が「眼」を入れて完成させたという逸話を踏まえて詠んだ句だそうです。下五の「冴ゆる月」が相応しいですね。

躊躇ひを言葉に変へてピラカンサ                         望月  都
 植物にも「ピラカンサ」があり初夏に白い梅のような花をつけ、秋から冬にかけて可愛らしい赤い実をたわわにつけますが、これは季語にはなっていません。季語になっている「ピラカンサ」は冬の鳥全般を指す三冬の季語で、子季語に、冬鳥、寒禽、かじけ鳥という言葉があります。雪の上の鴉や雀、ピラカンサなどの実に群れている椋鳥など、種類はさまざまですね。この句は何の躊躇いを冬の鳥に託したのかは不明ですが、語義が二種類あるので、その間で揺れているように感じる句ですね。

美しき嘘を聞きをり虎落笛                            稲塚のりを
 嘘にはいろんな種類がありますね。人を騙す悪い嘘から、聞き手の心を慮ってつくやさしく切ない嘘まであります。この句の嘘は後者の嘘でしょう。言っている側の心の複雑な思いが季語の「虎落笛」に込められているように感じますね。

鰐口のにぶき響きや秋日差                            近藤 悦子
譲渡書の実印歪む秋の暮れ                            近藤 悦子

 一句目、鰐口(わにぐち)とは仏堂の正面軒先に吊り下げられた仏具の一種。金口、金鼓とも呼ばれる金属製梵音具の一種で、鋳銅や鋳鉄製のものが多い。鐘鼓をふたつ合わせた形状で、鈴(すず)を扁平にしたような形をしている。上部に上から吊るすための耳状の取手がふたつあり、下側半分の縁に沿って細い開口部がある。金の緒と呼ばれる布施があり、これで鼓面を打ち誓願成就を祈念します。金属の響が秋日差しと調和していますね。二句目、「実印歪む」で逡巡の気持ちを表現して見事ですね。

十三夜カレーを焦がす妻がいて                          須貝 一青
 十三夜と少し焦げたカレーの匂い。円満な家庭の空気が感じられます。一青さんの愛妻俳句は「あすか」で一番です。          

⑵ 「あすか集」(「あすか」一月号作品から) 

晩秋の風亡き母の独り言                             千田アヤメ
 冬に向かって北風がだんだん強くなる季節。聞き慣れた隙間風の音が聞こえてくる季節でもあります。その音を亡母の独り言としたのが効果的ですね。

手作りの花笠回し運動会                             西島しず子
 花笠が、参加している生徒一人ひとりの手作り、という点に届く眼差しの深さがいいですね。

抽斗に動かぬ時計神の旅                             丹羽口憲夫
 季語の「神の旅」の「旅」の動的な言葉と、止まったままの時計、それを閉じ込めている抽斗という構成がお見事ですね。

団栗の百万分の一つかな                             浜野  杏
 手にした団栗を見て、「百万分の一」という貴重な物だという感慨の表現にしたのが効果的ですね。人間だってそうだよねー、という背後の思いも伝わります。

捨案山子流行りのTシャツ惜しげなく                       林  和子
 まだ新品の、今流行りのデザインのTシャツを案山子に着せてあるのを発見して、労りの気持ちを感じている句ですね。

裏鬼門南天の実固まりて                             曲尾 初生
 裏鬼門とは鬼門の正反対にあたる方角。起源や考え方の基本は鬼門と同じ。裏鬼門は数ある鬼の出入り口の中でも最後に鬼が出ていく場所。そのため陰陽道などでは鬼門だけの対策だけでなく、裏鬼門の対策も行ってきました。裏鬼門の方角は南西です。北東の正反対の位置にあたり、干支に当てはめると未と申の間で未申(ひつじさる)となります。南西は北東の対角線上にあたる場所。そのため陰陽道では北東と南西の間は不安定になりやすいと考えられてきました。ちなみに裏鬼門の干支には申があたるので、古来よりその対策として申の彫刻や置物をおいて対処してきたとされています。この句の南天は、「南を転じる」ことに関連して植えられているのでしょうか。

尻餅や空青々と大根引く                             幕田 涼代
 太くて長い大根を引き抜いた瞬間の動的な一瞬を切り取った句ですね。尻餅をついて視線が上向きなって、視界に広がる青空も見えます。

秋うららサドル一段下げにけり                          増田 綾子
 児童と高齢者は転倒しないように、サドルの位置を低くして、両足が地面に着くようにして乗ることを勧められますね。それを守って、安全対策をぬかりなく行って、さあ、うららかな季節の中に踏み出そうという爽やかな思いが伝わります。 

晩秋や鍬すく男の影長し                             宮崎 和子                        
 晩秋から冬の陽の低さと影の長さ、そして暮れの早さ、それを畑打つ人の姿として描き出した句ですね。静かな抒情が立ち上がります。

息かるく母のまじなひ石蕗の花                          安蔵けい子
「息かるく」の主体と情景が少し解りにくいですが、「母のまじない」は子供が打撲傷を負ったときなど、息を吹きかけて指でさすりながら唱えてくれた言葉と仕草が浮かびます。下五「石蕗の花」の路傍の花である季語が効いていますね。上五は「息かけて」でいいのではないでしょうか。

ストーブの熱量譲る間柄                             内城 邦彦
「熱量譲る」という言葉が独創的ですね。ストーブの熱の放射には強いところと弱いところがあります。それを譲り合っている仲睦まじい間柄が、そのぬくもりといっしょに伝わります。

風凪て湖水に休む落葉かな                            大谷  巖
 ただ落葉が湖水の水面に散っただけの景ですが「湖水に休む」とした表現に抒情性がありますね。

彩も香も小さく納め返り花                            小澤 民枝
 返り花はどうしても小ぶりなものなることが多いようです。それを「彩も香も小さく納め」と、可愛らしく表現して、作者のやさしい眼差しも感じされる句になりました。

ヴィオリンの音色とどけて冴ゆる月                        金井 和子 
 バイオリンではなく「ヴィオリン」と表記するのなら、いっそフランス語で「ヴィオロン」と表記した方がもっと情感が出たのではないでしょうか。冴える月光とその音色がいいですね。

釣瓶井戸桶に野菊の忘れ物                            金子 きよ 
 実景を詠んだ句でしたら、まだ共同井戸でしかも釣瓶井戸が存在している所があるのですね。作者はそれだけではなく、野摘みしてきた野菊を忘れていった人がいるという物語性のある場面として描きました。余韻のある表現ですね。
             
水音の遠きにありて黄櫨紅葉                           城戸 妙子
 「水音の遠きにありて」と、実景のようでもあり、幻想のようでもある表現にして、秋の水音という普遍的な季節感で、黄櫨紅葉を包みこんだのが効果的ですね。

行く年や語らふごとく詩を誦す                          紺野 英子
風呂敷をふんはり被せ熊手買ふ                          紺野 英子
炉話や遺愛の棗掌にかるし                            紺野 英子

 三句とも粒揃いの秀句ですね。一句目、詩の朗読会の景と解してもいいですが、作者独りのこころの様とも読める句ですね。二句目、「ふんはり」は作者の所作の優雅さ、心根の優しさを感じる表現ですね。三句目、親しい人の遺品の棗を手に炉話を聞いているのでしょう。その人の思い出話ではないかと想像させますね。「掌にかるし」がお見事です。

月さして部屋いつぱいに吾の影                          斎藤 保子
 何か充足感のようなものを感じる表現の句ですね。部屋の灯を消して月光を楽しむ心の余裕がそうさせているのかもしれません。

夜行急行の窓懐しや冬銀河                           佐々木千恵子
 開閉自由の車窓ではなく、嵌めごろしになっている寝台特急のような列車の車窓のようです。長距離の夜行列車で帰郷していた、かつての学生たちの姿が浮かびます。

鳥来ればかつと目を剥く案山子かな                        杉崎 弘明
 案山子は実際には眼を見開いたりはしません。そんなことができる進化した人形タイプの案山子のことかもしれませんが、この句は役目を果たしている案山子の心象表現と解しました。

実南天仏間に生けて退院日                            鈴木  稔
 南天は「難を転じて福となす」に通じることから、縁起木として親しまれてきました。戦国時代には、武士の鎧櫃に南天の葉を収め、出陣の折りには枝を床にさして勝利を祈りました。正月の掛け軸には水仙と南天を描いた天仙図が縁起物として好まれました。江戸時代に入ると、南天はますます縁起木として尊ばれるようになり「これを庭に植えて火災を防ぐ」とされました。この句の背景にはそんな日本古来の文化の伝統があります。「退院」を寿ぐ思いの詰まった表現ですね。 

黒土に命託して虫逝けり                             高野 静子
子を育てデジタル駆使す一葉忌                          高野 静子
海渡る難民の背を冬が押す                            高野 静子

 多様な題材、多角的な視座のある三つの句です。一句目は天命を悟っているような境地、二句目は時代の変遷と、独身で子育てなど体験していない擬古文による物語作家の一葉と、デジタル時代の子育ての環境の違いを鮮やかに表現しました。三句目は命さえ危ぶまれる洋上の孤立した難民の境遇に思いを寄せた社会性のある表現ですね。

自転車の空気入れ足す冬うらら                          滝浦 幹一
 自転車でピクニックにでも出かけようとしているような句ですね。春に相応しい題材ですが、たまたま暖かい日差しに恵まれた冬の一日の、浮き立つような気分の表現にぴったりですね。 



※                      ※

1 今月の鑑賞・批評の参考 (「あすか塾」1月)  

◎ 野木桃花主宰句(「くだら野」より・「あすか」二〇二一年十二月号)
火口湖の黙を沈めて水の秋
錦秋や湖の愁ひをともなひて
鐘一打山頂テラス霧ごめに
馬の背に微動だにせぬ冬帽子
点景の羚羊冬の遠からず
くだら野や失ひし過去へ深入りす

【鑑賞例】
一句目、「沈めて」で水の重さと「黙」の深さが伝わりますね。二句目、一句目との連作で静けさが一層深まっていますね。三句目、霧深き山小屋のテラスでしょうか。静けさを逆に「鐘一打」という音の後の余韻で表現されていますね。四句目、馬上に人がいるのですが、その不動の気配を「冬帽子」だけで表現されました。五句目、向こうの山との距離感、空間の広さ、小さい点のように見える羚羊、その全体に冬の冷気が迫ってきているようです。六句目、「くだら野」は朽野 枯野のことですが、枯野よりも草木の枯れ朽ちた様がより強調される季語ですね。人生には喪失感が付き纏うものです。大切な人との別れなどがその一例。気が付くとずっとこのことばかり考えていることがありますね。その茫漠たる喪失感と「くだら野」の景が拮抗していますね。

〇 武良竜彦の十月詠(参考)
十月や巣籠りのまま逝く虫も       
十月の巒(らん)気(き)のごとき疫病(えやみ)冷え  
     
(自解)(参考)
二句とも新型コロナ・ウイルスの世相から詠みました。一句目は病院に収容されることなく亡くなった方への悼句です。虫に例えるとは不謹慎な、と叱られそうですが、その見殺し感を表現したつもです。二句目、「巒気=らんき」は山特有のひえびえとして冷たい空気、山気のこと。感染症は罹患すると発熱しますので、これは人体のことではなく世相の冷え込みの喩的表現です。

2「あすか塾」35  2022年1月  
⑴ 野木メソッド「ドッキリ」「ハッキリ」「スッキリ」による鑑賞例―「風韻集」十二月号作品から 
※「ド(感性)」=感動の中心、「ハ(知性)」=独自の視点、「ス(悟性)」=普遍的な感慨へ。
この三点に注目して鑑賞、批評してみましょう。  
   
ちちははの齢を既に銀河澄む                            坂本美千子
 寿命は遺伝的なものと聞きますので、特にこのことへの感慨がありますね。美千子さんはその思いを下五の「銀河澄む」で、澄みわたった宇宙的な天命観へと昇華表現しましたね。 

問い問われ旅人と知る城の秋                           鴫原さき子
 旅の途上で「どちらから?」と互いに尋ね合ったのでしょう。そのことで今自分が旅路にあることを改めて自覚したという感慨ですね。時代を感じさせる「城の秋」としたのが効果的ですね。

秋湖の匂ひ満ち来る身のほとり                           白石 文男
 「身のほとり」という表現で、匂だけではなくその景全体の只中にいる実感が伝わりますね。

採血に息を凝らして深む秋                             摂待 信子
 「息を凝らして」で慣れない体験による緊張感が伝わりますね。下五の「深む秋」で、自分の身体的なことへの思いを深めているようです。
 
父母のあらば天の高さを言合へり 高橋みどり
 単なる回想や想像ではなく、これは逆の深々とした喪失感の詩的表現になっていますね。

日の高し冬の小鳥の寝てをりぬ                         長谷川嘉代子  
 本当に「寝て」いるのかどうは解らないはずですが、「寝てをりぬ」と敢えて断言的言い切り表現にすることで、ある情感が立ち上がりますね。

無花果や一日一果を薬食とす                            服部一燈子
 無花果は晩秋の季語ですね。「薬喰(くすりぐひ)」という三冬の季語がありますが、これは体力をつけるために、寒中に滋養になる肉類を食べることですね。獣肉を食べることを嫌った時代があったので、これを薬と称して鹿や猪などを食べていたわけです。この句は「無花果」を薬のようにして食べたという思いの表現ですね。
 
遠き日やどんぐりひろいの教科あり                        本多やすな
鬼やんま時間の嵩が消えて行く                          本多やすな

 一句目、まだ時代がゆったりとゆとりがあったことを感じさせる句ですね。二句目、時間というものに「嵩」を感じるときとは、どんな時でしょう。この句の場合は何か為すべきことが滞っている状態を感じさせますね。それが解消された安堵感を表現しているように感じますね。
 
降りつのる雨燃えつのる花野かな                          丸笠芙美子
 雨の中でその濡れ色で一層、燃え立つような輝きを放っている花野の景でしょうか。「つのる」のリフレインが効果的ですね。

頬張って朝の空気は冬の味                            三須 民恵
 空気を「頬張る」とはあまり言いませんね。その大胆な表現が効いていますね。林檎でも齧るかのように、初冬の空気を味わっていることが伝わりますね。

目はすでに少女鬼灯もみてをり                           宮坂 市子
「鬼灯」を揉むのは皮を毀さず、中身を取り出して空っぽの球体にして、口に含んで鳴らず遊びをしたいからですね。花は叩いて爪を赤く染めるのに使っていました。主に少女の遊びですね。そんな乙女時代への感慨の句ですね。

ちちろ虫夫の手擦れの辞書繰れり                         柳沢 初子
 夫も辞書を傍置いて調べものをする方のようです。俳句を詠むようになって自分もその辞書を使っている、という感慨の句ですね。辞書には印や書き込み、折り皺などが残っていたりして、間接的に夫と対話しているような気持ちになっているのかもしれません。なんでもスマホで済む時代にはなかった抒情が立ち上がりますね。
 
土の香を嗅いで起こして秋の空                           矢野 忠男
 秋の土起しの作業を、そのようにストレートには表現せず、「香を嗅いで」を先ず入れて、二段階のアクションにしたのが効果的ですね。その行為そのものを味わっているような感じが伝わります。土起しをしてから、土を手に取って嗅いでいるのではなく、まず深呼吸をして土の香と季節感を味わい、おもむろに土起しを始めているのですね。

史跡読む転びバテレン懐手                           山尾かづひろ
 解説するまでもないことだと思いますが、「バテレン=伴天連・破天連・頗姪連」はポルトガル語でキリスト教が日本に伝来した当時の宣教師・神父に対する呼称、「パーテレ」が元になった語ですね。そこから日本に伝来したキリスト教の俗称、またはその宗徒の意になりました。この句は、キリスト教弾圧があった不幸な時代に、踏絵などを迫られて、やむなく宗旨換えをさせられた人の「史跡」を読んでいるのですね。下五の「懐手」に沈思黙考の思いが籠ります。

語尾荒げ次の舞台へ法師蝉                            渡辺 秀雄
中七の「舞台へ」で切れている句ですから、上五中七の行為の主体は蝉ではなく人間だとも解せます。しかし、まるで「法師蝉」が一際高く鳴いて、その場所から飛び去った景のようにも感じる面白い表現の句ですね。

味噌汁の菜を摘みに出る朝の畑                           磯部のり子
 農家としての専用畑ではなく、庭先などの家から近い場所に家庭菜園を持っている人の暮しの一コマを切り取ったような句ですね。晩秋か初冬の朝の空気感が伝わります。

手ざわりの三粒の種や大根蒔く                          伊藤ユキ子
 感じることは生きること。一つひとつの行為を、慣習にしてしまわないで、日々の命を噛みしめて生きるとは、このような感度の高い感性を生き生きと働かせて生きることですね。上五中七に無駄のない、切れのある句ですね。

朝霧に足絡まれて山くだる                             稲葉 晶子
校門に鳥の口上九月来ぬ                             稲葉 晶子
風を呼び風をはなさぬねこじやらし                        稲葉 晶子

 一句目は「朝霧に足絡まれて」、二句目は「鳥の口上」、三句目は「風をはなさぬ」と、類型を脱した、自分だけの独創的な表現がされていますね。比喩的表現の熟達と、その上に拓ける表現の地平を目指されているような意欲を感じる句ばかりですね。
 
裂織の指のざらつき昼の虫                             大木 典子
豪放な筆字のラベル新走り                            大木 典子

 一句目、裂織(さきおり)は、傷んだり不要になったりした布を細く裂いたものを緯糸(よこいと)として、麻糸などを経糸(たていと)として織り上げた織物や、それを用いて作った衣類のことですね。表面が芸術的な凹凸があります。それに触ることで、自分の手荒れの「ざらつき」を自覚した、という感慨表現でしょうか。下五の「昼の虫」で秋の乾いた空気感も伝わりますね。二句目、新走りはその年の新米で醸造した酒のことですね。今は寒造りが主流となって季節感がズレてしまっていますが、元々は新米が穫れるとすぐに酒作りをしたのですね。その新米の収穫のめでたさを祝う思いがこの季語には含まれているのです。この句の上五中七の表現がその祝賀気分を表わしていますね。

盛り皿に触れ合ふ手と手衣被                           大澤 游子
はらからの根釣りの一尾夕餉膳                          大澤 游子
海のなき故郷へ続く鰯雲                             大澤 游子

 一句目、大皿を家族で囲んで和気あいあいと食している景が浮かびます。二句目、季語「根釣り」の「ね」は海底の岩礁などの障害物の意で、海中の岩などの根方、割れ目にひそむ魚を釣ること。水底につく魚の多くなる晩秋がその季節とされています。兄弟同朋が釣ってきてくれた魚の「夕餉膳」なので家族の空気感も伝わります。三句目、故郷は内陸で海に面していない所だったようです。下五を魚の名のつく季語にしたのが効果的ですね。

下りることなき遮断機や秋の蝶                          大本  尚
 遮断機が壊れて、長いこと放置されているのでしょうか。考えられるのは廃線になった線路の踏切の景でしょうか。過疎化するご自身の故郷の景でしょうか。寂しさの身に染む表現ですね。

いくさ場の今なほ昏し百舌の声                          奥村 安代
骨片のやうな流木銀河濃し                            奥村 安代

 一句目、古戦場の景でしょうね。芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」は空しさの表現ですが、この句は今なお昏いという歴史的な影響の現在性に焦点を当てていて斬新ですね。下五の「百舌の声」も贄を想起させて不気味です。二句目、形のいい流木は民芸品に加工されて売られていますが、元々は植物の「死体」であることを「骨片」と即物的に表現してインパクトがありますね。下五の「銀河濃し」で宇宙的な時間の中に置き直しています。いずれ人間も・・・という批評性も立ち上がりますね。

竹林の闇を切りとり黒揚羽                              加藤  健
触れてより蕾弾くる枝垂れ萩                           加藤  健
 一句目、上五中七の表現が効果的ですね。竹林の中は昼でも薄暗く闇を湛えていますね。そこからふわっと黒揚羽が、まるで竹林の闇の欠片のように飛び立ったという劇的な表現になりました。二句目、零れ萩ともいうように萩の花は少しの揺れでも散ります。それを、自分をアクショ
ンの起点として表現したのが効果的ですね。

小鳥来る手作り工房並ぶ街                              金井 玲子 
 「手作り工房並ぶ街」で、何かクリエイティブな活気と雰囲気の街の様子が浮かびます。それだけだとただの説明ですが、上五に季語の「小鳥来る」を置いて自由で楽し気な効果を上げましたね。

〇「あすかの会」参加会員の作品から (「あすか」十二月号から)
 
星星の澄む声聞こゆ賢治の忌                           村田ひとみ
母の忌の露ほろほろと葉を流る                          村田ひとみ

 一句目、賢治のイーハトーブ童話世界へのリスペクト感に満ちた句ですね。「星星の澄む声」という「無音」を音化したのが効果的ですね。二句目、「露ほろほろと」という擬態語的な音韻の響が、母に対する敬慕の抒情表現にぴったりですね。昔、墨を摺るとき採ってきた、大きな里芋の葉の露は玉状になって葉の上を転がっていました。

角砂糖の角の溶け行く良夜かな                          近藤 悦子
九九の声一人ずれたり鰯雲                            近藤 悦子 
 
 一句目、本当に角砂糖が角から溶け始めるのか、真偽のほどは知りませんが、この句はティタイムの心理的なほぐれを暗喩的に表現したと読めますね。二句目、子供が声を上げて九九を覚えている授業の景ですね。その中にみんなから遅れてしまう子がいます。微笑ましい一瞬を切り取りました。

おしろいの咲きて路地への道標                          稲塚のりを
 おしろい花の白を、路地への道標と詠んだ視点がいいですね。そこで暮らす人々への温かい眼差しが感じられる句ですね。
句の載りし俳誌祝うや実南天                           須貝 一青
 俳句同人誌なら自句が掲載されるのは当然ですね。この句は有名な商業誌の読者投稿欄に優秀作として掲載されたのでしょう。朱色の南天の実がまるでそれを寿いでいるかのようです。            
豆柿の自覚の色や黄金色                             望月 都子
 豆柿は枝に小粒の実をびっしりと付けて、その「黄金色」が賑やかですね。霜が降りる頃に渋が抜けるので、一部食用にもなりますが、主に未熟果から柿渋が採られました。この句は、やがて柿渋になる豆柿の「自覚」を、その黄金色に見たのでしょうか。

⑵ 「あすか集」(「あすか」十二月号作品から) 

今日もまた有明月をベランダに                          忠内真須美
 毎日繰り返される暮しの一コマなのですね。まるで月を独り占めした気分の早朝の空気感です。
 
庭師のごと枝を落とすや秋の空                          立澤  楓
 上から突然、小枝が降ってきたのですね。庭師が入って剪定作業でもしているのかと思ったら、人影はない。自然が季節の変り目にしていることだったのですね。まるで秋の空の意志のように。

私を見てあわてて落ちる零余子かな                        千田アヤメ
 擬人法の句ですね。そのように「私」が感じたという表現ですが、俳句では「かのように」と説明せず、ずばりそう言い切ることで味わいが深くなりますね。

日照雨降り丸まる太る秋茄子                           坪井久美子
「丸まる太る秋茄子」は普通の表現ですが、「日照雨」の中の景にしたのがいいですね。「降り」と言わなくても解りますので「降り」は削りましょう。字余りもなくなりますね。

広大な大地潤す蕎麦の花                             西島しず子
 壮大な蕎麦畑の一面真っ白の世界ですね。「広大な」と説明表現にしないで「ひろびろと大地潤し蕎麦の花」というように「し」でキレを入れて描写的表現にしたらもっといい句になると思いました。 
 
吾亦紅古里はいまダムの底                            丹羽口憲夫
菊日和谷中の猫はよく太り                            丹羽口憲夫

 一句目、故郷がダム湖の底に沈められたのですね。戦後の高度経済成長期に日本各地で起こったことでした。石牟礼道子の小説『天湖』は九州で実際にあったことを元にした小説で、故郷を失うということがどういうことか考えさせます。上五の「吾亦紅」の季語が効いていますね。二句目、谷中は町ぐるみ猫を保護飼育している町として有名ですね。幸せそうな猫の姿が浮かびます。

秋の声みみずの声も混じりをり                          沼倉 新二                
 季語の世界では春に亀が鳴き、秋には蚯蚓が鳴くといいます。本当は亀も蚯蚓も鳴いたりはしませんが、その声が聞こえるように思うのが俳諧の趣ですね。秋の夜のしんとした静けさを「声」として「混じりをり」と敢えて表現したのですね。 
                     
奥宮へ見上ぐる磴や初紅葉                            乗松トシ子                       
「磴=トウ」は石でできた階段。訓読みでは「いしざか・ いしだん・ いしばし」とも読みますが、ここは音読みの表現がいいですね。そこを初紅葉が染めている景ですね。視線が上向きで背景の青空も見えます。 

手折ること拒む白さよ杜鵑草                           浜野  杏
「杜鵑草」は紫紅色の斑点のある花ですが、それがかえって白地を際立たせています。何か人を寄せ付けない凛とした雰囲気を捉えた句ですね。

落蝉や暗がりの地を終として                           林  和子
 哀愁の滲む表現の句ですね。地に還るのが命あるものの定めですが、その暗がりこそが安心立命の境地なのかもしれません。

俳句てふ文字のアルバム秋の旅                          曲尾 初生
 句帳を「文字のアルバム」とした表現に味わいがありますね。ただのノートではなく自分の心を記録したアルバムなのですね。心の旅路としての「秋の旅」の季語を下五に置きました。

食卓の夫の定位置栗ご飯                             幕田 涼代
夫の食卓の席を「定位置」と表現して、ご夫婦の季節の定番料理である暮らしの一コマを表現した句ですね。

朝顔の野生となりて草を這ふ                           増田 綾子
 専用の棚を作って咲かせていた朝顔が、まるで野生帰りをしたように、思わぬところまで蔓を伸ばしている様を、「草を這ふ」表現したのが効果的ですね。

百目柿袋をかけて良き予感                            緑川みどり
 労働の動作と吉兆の予感を素直に結びつける、楽しげな心持ちが伝わる句ですね。

藁ぼっち雀は何処へ行ったやら                          宮崎 和子                        
 稲架掛けをして干した後、その藁を結わえて田圃で更に干す様を「藁ぼっち」といいますが、そのクローズアップから、雀の行方へと視点を自然の空の方に広げた表現が効果的ですね。

床の間に活けて人呼ぶ花芒                            村上チヨ子
 宮沢賢治は「風の又三郎」の中で、芒が風に揺れるさまを「あ、西さん、あ、東さん」と芒が風に呼びかけているような表現をしていましたが、この句は床の間に活けられた芒が、人を招いていると表現して、味わい深いですね。

冬日向ゆつくり廻るミキサー車                          吉野 糸子
 工事現場のミキサー車の動きと「冬日向」を詠み込んで味わいがありますね。中のコンクリートをよく攪拌して、固まらないようにゆっくり動かしているのですね。そのゆっくりとした動きが「冬日向」にぴったりです。

不器用な相手たよりに障子貼る                          安蔵けい子
 プロの職人なら独りでテキパキと済ます障子貼りも、素人はそうはゆきませんね。たるみや皺にならないように、反対側を引っ張る手伝いをしてもらっているのでしょう。その相手が、まあ不器用なもので・・・というユーモラスな暮れの一コマを表現しましたね。

秋潮の引き残してや夕日影                            飯塚 昭子
 暮れるのが早い秋の落日の中で、引く潮までが「引き残して」いるようだという感慨を、俳句的な格調のあるリズムで表現しましたね。

どんぐりの時節到来トタン屋根                          内城 邦彦
 トタン屋根と言えば、人の住む戦後のバラック小屋の屋根を思い浮かべる人はもういないでしょうね。この屋根は農家の作業小屋のようなところでしょうか。どんぐりの実が立てる音に、そんな時節の到来を感じている表現ですね。

暮れ早し砂場に小さき足の跡                           大谷  巖
秋澄むや吾妻連峰雲を脱ぐ                            大谷  巖

 一句目、秋の日暮れの早さを、つい先ほどまで子供が遊んでいた砂場に残された小さな足跡に感じている俳句的叙情の表現ですね。二句目、下五の「雲を脱ぐ」という擬人法表現も俳句的叙情ですね。

過疎の地に若き移住者稲雀                            小澤 民枝
夫は鬼皮吾は渋皮を栗の飯                            小澤 民枝

 一句目、過疎地に若い人が移住してきた、という感慨の表現は、説明的にならずにどう俳句的表現にできるかが、命ですね。下五の「稲雀」だけで効果的に表現しました。二句目、夫婦で役割分担をして手際よく栗の皮を剥いて、無事栗御飯を作ったようです。仲睦まじさが伝わります。 
                    
命日は赤丸印虫時雨                               風見 照夫
秋風や重なり合へる絵馬の声                           風見 照夫

 一句目、いろいろスケジュールを書き込める壁のカレンダーのようです。誰のとは書かれていませんが、「赤丸印」という言葉で、特に大切な人の命日だということが伝わりますね。二句目、それぞれに違う願い事が書かれた絵馬が、重なり合っている神社の景ですね。風でその絵馬が触れ合う音が、照夫さんには人声のように聞えたという感慨の句ですね。

竹の春旧家の屋根を越えて伸ぶ                          金井 和子 
 旧家の藁葺き屋根を思わせる句ですね。もしかしたら、もう人が住んでいないのかも知れません。時間が止まったようなその家の屋根を越えて、成長の時間を全うしている竹の姿を対比して詩情がありますね。
 
こほろぎの掛け合ひの間に引き込まる                       金子 きよ 
 まるで鳴き交わしているかのような蟋蟀の声に、聞き惚れてしまったという感慨の句ですね。僅かに無音の間が生じるのでしょう。その間に引き込まれる、という表現が効果的ですね。 
             
天高し小学校の国旗台                              城戸 妙子
 国旗台、略さず言えば国旗掲揚台でしょうか。校庭に一段高く設えられている所で、普段はだれもその存在すら忘れているような、ポールが立っているだけの場所ですね。秋の空が高くなったなあ、という感慨の表現にぴったりですね。

小学生総出で田圃の飛蝗取り                           斎藤  勲
 都会では考えられない、微笑ましい景ですね。農家の多い地区では、もしかしたら、その食害防ぎは、小学生も駆り出されるほど、必須の「仕事」なのかもしれないと考えてしまいました。

音階を変へて露地ゆく虎落笛                          佐々木千恵子
 「露地ゆく」という擬人化表現で、笛吹き童子のような格好の少年の姿を思い浮かべました。電線などが強風で立てている音ですが、場所場所で音程、音色の変わる虎落笛の雰囲気を幻想的に表現しましたね。

風の盆男踊りも嫋やかに                             杉崎 弘明
見上げれば星も囃すや風の盆                           杉崎 弘明

 二句とも風の盆を詠んだ句ですね。「おわら風の盆」という富山市八尾地区で、毎年九月一日から 三日にかけて行われている行事ですね。「越中おわら節」の哀切感に満ちた旋律にのって、坂が多い町の道筋で無言の踊り手たちが、洗練された踊りを披露します。艶やかで優雅な女踊り、勇壮な男踊り、哀調のある音色を奏でる胡弓の調べなどが来訪者を魅了します。作者はその男踊りにも「嫋やかさ」を感じ、「星も囃して」いるような優雅さを見出しているのですね。私も見たことがあるので、作者に同感です。みんな美男美女に見えて惚れ惚れしました。

朝霧や一番で入る診療所                             鈴木  稔
秋風をふるさとに吸ふ旨さかな                          鈴木  稔

 一句目、診療所に一番で入っているのは医者か看護師さんかなとも思いましたが、高齢で病院通いが日常的になっている人のことかも知れないですね。とすると、順番待ちを短くするための努力のことで、そちらの方が、ある種の感慨が沸きますね。二句目、こういう実に俳句的な表現技法が身につくと、作句が楽しくなりますよね。「○○を○○に○○/○○」。/は切れの意味です。それだけで一つの情景とそこから立ちあがる感慨と叙情の表現ができます。この句はその簡潔な成功例ですね。

嵯峨菊に源氏名のあり御苑展                           砂川ハルエ
嵯峨菊は独特の古代菊で、王朝感覚の一つの型に仕立て上げられた風情と格調をそなえた菊です。大覚寺「門外不出」の菊とされています。一鉢に三本仕立て、長さは約二メートル。花は下部に七輪、中程に五輪、先端に三輪で「七五三」とし、葉は下部を黄色、中程は緑、先端を淡緑と、四季を表します。花弁は糸状で五十四〜八十弁程、長さは約十センチの茶筅状が理想とされ、淡色の花々が色とりどりに美と格調高い香りを漂わせる特別な菊です。作者は御苑展に出品された菊に雅な源氏名のを発見して、溜息をついているようです。「源氏名」とは「源氏物語」の五四帖の題名にちなんでつけられた、宮中の女官や武家の奥女中などの呼び名のことですね。近世以降は遊女や芸者につけられました。その雅すぎる名に、ある感慨を抱いた句ですね。

薩摩芋核家族のごと畝の中                            高橋 光友
「核家族のごと」という比喩が効いていますね。因みに核家族とは社会における家族の形態の一で、旧来の大家族、複合家族が主流だった時代が終わり、夫婦や親子だけで構成される家族が趨勢を占めるようになって生まれた言葉ですね。元は米国の人類学者であるジョージ・マードックが人類に普遍的ですべての家族の基礎的な単位という意味で用い始めた「nuclear family」という用語の和訳だそうです。それを畝の中の薩摩芋の表現に使ったのが斬新ですね。

宵寒やポスターの人みな笑顔                           滝浦 幹一
 選挙の季節になると専用ボードにベタ貼りにされるポスターなどの、人物像を見ての違和感の、巧みな表現ではないでしょうか。怒りや悲しみを抱えて歩いている人が、その作り笑いのような、ある種、人ごとめいた作り笑いに、むしろ腹が立つ思いがするのではないでしょうか。その感慨を見事に俳句にしました。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「あすか」誌 2022(平成4)年 | トップ | あすかの会 2022年 令和4年 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

あすか塾  俳句作品の鑑賞・評価の学習会」カテゴリの最新記事