イスラム国の人質となったフリージャーナリストの後藤健二さんが亡くなった。
一昨日の朝、「殺されちゃったよ」という夫の神妙な声に起こされた私は、飛び起きてすぐさまテレビとタブレットにかじりついた。
悲しい。その最期を思うと、胸が張り裂けそうになる。助かる予感がしていたのに。帰国後の彼のメディアでの活躍ぶりすら、目に浮かぶようだったのに。
この二週間あまり、テレビやネットでは、オレンジ色の囚人服に身を包んだ後藤さんの姿がこれでもかというくらい流され続けた。
何度も目を背けたくなりつつ、どこかで逃げてはいけない気がした。目をそらしてはいけない気がした。
残酷な映像を見続けて、苦しく辛くなることで、計り知れない苦痛を味わう後藤さんたちの苦しさをほんの少しでも味わっている心境になりたかった。無意味とわかっていても。
この間、事件に対するさまざま意見に触れて、私の心は揺れ続けた。
「テロに屈しない」とばかり言う政府にはげんなりしたし、「自己責任」を叫ぶものすごい数のネットの声には虚しさを覚えたし、政府を非難する人を「テロの味方」と糾弾する意見には恐ろしさを感じた。
生活保護で、お笑い芸人が叩かれていた時みたいだと思った。何かを叩こうとする集団のエネルギーが不気味だった。
最初は、政府や政府寄りの意見を非難し、後藤健二さんのジャーナリスト魂を讃える人たちの声に気持ちが大きく傾いた。
ただ、「後藤さんみたいな人がいるから紛争地帯の人々の様子がわかる」とか、「ジャーナリストが危険なところに行こうとしなくてどうする」みたいな声があまりに多く出始めると、なんだかその機運にも馴染めなくなった。
自分の家族だったら、それこそ命懸けで止めるだろう人々が、後藤さんの行動を手放しに賛美する姿の矛盾に消化不良を起こした。
そして、気持ちの落ち着くところを失った私は、当の後藤健二さんの心の中に思いを馳せた。
彼を突き動かしたのは、正義感なんだろうか。使命感なんだろうか。困難な立場にいる人への過剰なまでの共感は、一体なんだろう。この、何か、普通ではない感じはなんだろう。
かつて福祉系のNPOに参加した時の、その代表が、後藤健二さんの雰囲気と重なる。人当たりが良くて、笑顔があどけなくて、自分に対して異を唱える他者を怒鳴ったり威嚇したりもしない、好青年そのものの立ち振る舞い。でも、埋めがたい大きくて深い穴を抱えているような人だった。
彼の社会的弱者のための活動は、終始自分に甘えがなくて、自己犠牲的な態度に貫かれ、活動そのものが自分の穴を必死に埋めようとする行為に見えた。彼も多分自分の活動のためなら、死ぬ男だと思う。
そして、後藤さんも、大きな穴を抱えた人なのだと私は思う。生い立ちなのか、生まれつきなのはよくわからない。でも、そんな種類の穴を持たない大方の人間は、後藤さんに魅力は感じても、本当にはその行動を理解はできない。私もできない。でも、できない自分でかまわないと思う。できない自分ができる平和への貢献の方法もあると思えるから。
ネットでは、こういう事件に無関心の人や、「争いはやめよう」などと生温い意見を言う人は「頭にお花畑が咲いている」と笑われたりする。
でも、お花畑人間の在り方こそが、私たち普通の人たちが、平和をめざすのにふさわしいまっとうな在り方だと思う。
私の目の前にはお花畑満開の5歳の息子がいる。テロリストに敵意ももたず、後藤さんの功績も知らないこの息子に語りたいのは、「テロに屈してはいけない」でもなく、「自分の命を賭して困難な人を守れ」でもない。ただ、「人を殺してもだめだし、人に殺されてもだめなんだ」ってことと、「お花畑人間でいいんだよ」ってことだ。
政治学者の山口二郎さんが、こんなツイートをした。
文意は、政府に向けたものだけれど、これは私たちへのメッセージにもできる。
頭にお花畑が咲いていて、平和ボケで、温室育ちで、戦場で戦える体力も度量もとてもないし、自分や家族をおいてまで人助けする犠牲精神もない人。でも、怖いこと、痛いことには、イヤだと言い、自分も、他人も、傷つけない選択ができる人。
テロにひかれない人間って、言うなればそんなユルーい姿の人間だと思う。自分にも他人にも寛容な人間だと思う。とするなら、そんなお花畑人間でいることが、お花畑人間を増やすことが、普通の私たちにできる一番簡単で、一番大切な平和貢献なんだ。
私は、息子を見ていてそう思い至った。
photo by pakutaso.com
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一昨日の朝、「殺されちゃったよ」という夫の神妙な声に起こされた私は、飛び起きてすぐさまテレビとタブレットにかじりついた。
悲しい。その最期を思うと、胸が張り裂けそうになる。助かる予感がしていたのに。帰国後の彼のメディアでの活躍ぶりすら、目に浮かぶようだったのに。
この二週間あまり、テレビやネットでは、オレンジ色の囚人服に身を包んだ後藤さんの姿がこれでもかというくらい流され続けた。
何度も目を背けたくなりつつ、どこかで逃げてはいけない気がした。目をそらしてはいけない気がした。
残酷な映像を見続けて、苦しく辛くなることで、計り知れない苦痛を味わう後藤さんたちの苦しさをほんの少しでも味わっている心境になりたかった。無意味とわかっていても。
この間、事件に対するさまざま意見に触れて、私の心は揺れ続けた。
「テロに屈しない」とばかり言う政府にはげんなりしたし、「自己責任」を叫ぶものすごい数のネットの声には虚しさを覚えたし、政府を非難する人を「テロの味方」と糾弾する意見には恐ろしさを感じた。
生活保護で、お笑い芸人が叩かれていた時みたいだと思った。何かを叩こうとする集団のエネルギーが不気味だった。
最初は、政府や政府寄りの意見を非難し、後藤健二さんのジャーナリスト魂を讃える人たちの声に気持ちが大きく傾いた。
ただ、「後藤さんみたいな人がいるから紛争地帯の人々の様子がわかる」とか、「ジャーナリストが危険なところに行こうとしなくてどうする」みたいな声があまりに多く出始めると、なんだかその機運にも馴染めなくなった。
自分の家族だったら、それこそ命懸けで止めるだろう人々が、後藤さんの行動を手放しに賛美する姿の矛盾に消化不良を起こした。
そして、気持ちの落ち着くところを失った私は、当の後藤健二さんの心の中に思いを馳せた。
彼を突き動かしたのは、正義感なんだろうか。使命感なんだろうか。困難な立場にいる人への過剰なまでの共感は、一体なんだろう。この、何か、普通ではない感じはなんだろう。
かつて福祉系のNPOに参加した時の、その代表が、後藤健二さんの雰囲気と重なる。人当たりが良くて、笑顔があどけなくて、自分に対して異を唱える他者を怒鳴ったり威嚇したりもしない、好青年そのものの立ち振る舞い。でも、埋めがたい大きくて深い穴を抱えているような人だった。
彼の社会的弱者のための活動は、終始自分に甘えがなくて、自己犠牲的な態度に貫かれ、活動そのものが自分の穴を必死に埋めようとする行為に見えた。彼も多分自分の活動のためなら、死ぬ男だと思う。
そして、後藤さんも、大きな穴を抱えた人なのだと私は思う。生い立ちなのか、生まれつきなのはよくわからない。でも、そんな種類の穴を持たない大方の人間は、後藤さんに魅力は感じても、本当にはその行動を理解はできない。私もできない。でも、できない自分でかまわないと思う。できない自分ができる平和への貢献の方法もあると思えるから。
ネットでは、こういう事件に無関心の人や、「争いはやめよう」などと生温い意見を言う人は「頭にお花畑が咲いている」と笑われたりする。
でも、お花畑人間の在り方こそが、私たち普通の人たちが、平和をめざすのにふさわしいまっとうな在り方だと思う。
私の目の前にはお花畑満開の5歳の息子がいる。テロリストに敵意ももたず、後藤さんの功績も知らないこの息子に語りたいのは、「テロに屈してはいけない」でもなく、「自分の命を賭して困難な人を守れ」でもない。ただ、「人を殺してもだめだし、人に殺されてもだめなんだ」ってことと、「お花畑人間でいいんだよ」ってことだ。
政治学者の山口二郎さんが、こんなツイートをした。
テロに屈しない態度とは、やられたらやり返すと威勢のいいことを言うのではない。武力ですぐに解決できないという現実を見据え、テロリストにひかれる人間を減らしていく迂遠な作業を、迂遠と分かりつつ、粘り強く続けていく態度だと思う。
— 山口二郎 (@260yamaguchi) 2015, 2月 2
文意は、政府に向けたものだけれど、これは私たちへのメッセージにもできる。
頭にお花畑が咲いていて、平和ボケで、温室育ちで、戦場で戦える体力も度量もとてもないし、自分や家族をおいてまで人助けする犠牲精神もない人。でも、怖いこと、痛いことには、イヤだと言い、自分も、他人も、傷つけない選択ができる人。
テロにひかれない人間って、言うなればそんなユルーい姿の人間だと思う。自分にも他人にも寛容な人間だと思う。とするなら、そんなお花畑人間でいることが、お花畑人間を増やすことが、普通の私たちにできる一番簡単で、一番大切な平和貢献なんだ。
私は、息子を見ていてそう思い至った。
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