1808903 市場と政府の役割 <『欲望の資本主義』>を斜め読みしながら
厳しい自然、灰色の世界のように映るアイルランドからやってきた孤独の青年ラフカディオ・ハーンは、19世紀末の日本がまだ残していた美しい面影を日本人以上の繊細な感覚で五感を通して現在に引き継いでくれた恩人かもしれません。彼は産業改革で勢いづく帝国主義的資本主義(こういういい方が妥当かは別として)を一歩退いた位置から冷静に評価し、経済的価値を超える、より人間味豊かな世界を紡ぎ出しように思うのです。
ハーンは視力が相当悪かったようですね。他方で、そのぼやっとした視界を見事に描写しつつ、音風景を活写したように思うのです。
ハーンは、彼がとても好んだ松江の風景、とくに宍道湖にはその移ろいの豊かさに魅力されたのではないでしょうか。刻々と変わる湖水の様子は大きく変化し、自然の妙と脅威を味わう場面であったかもしれません。
こんなことをふと思ったのは、今朝の窓から見た高野の峰々からずっと東西に延びる連峰が、夜明け前のわずかな山と空を識別できる程度の薄明かりに映る山容か、少しずつ朝日が延びてきて、その色合いの変化を十二分に楽しましてくれたからかもしれません。一つひとつの山容の有り様を描写することができるようになるのはいつだろうかと思いつつ、今朝はブルースカイと薄緑の山容の変化だけにとどめておきます。
そんなのんびりした気分でいると、今朝はホオジロが3,4羽でしょうか、楽しそうにヒノキの枝を上下左右に行ったり来たりして、遊んでいるように見えました。ホオジロもたまにわが家までやってきますが、やはり森林の方がいいのでしょう。囀りがちっちゃい体にもかかわらず、遠くまで響いています。
さて今日の本題は市場と政府の役割というなにか堅い話のようでもあり、ハーンがヴィクトリア朝の覇権主義には肌が合わなかった背景みたいなものに迫れればいいのですがなどと思ったりしています。
最近読み出した丸山俊一ほか著『欲望の資本主義 ルールが変わるとき』は、NHKで放映された同じタイトルを編集したものかと思います。TV放映はちらっと見た程度でしたので、ほとんど覚えておりませんでした。本書を読んで、現代経済の本質に迫ろうと世界的な有識者との対談が割合うまくいっているのかなと感じました。
経済学の父といわれるアダム・スミスが『国富論』で、市場経済の有効性を説き、見えざる手によって成長することを訴えたことについて、ノーベル経済学賞受賞のジョセフ・E・スティグリッツ氏と24歳でチェコ初代大統領の経済アドバイザーとなり、ベストセラーとなった『善と悪の経済学』の著者でもあるトーマス・セドラチェク氏の二人は、いずれもその考えを否定します(もう一人対談者がいますが、未読なので取り上げません)。
アダム/スミスは市場の役割を過大評価したのでしょうか。保守主義者が好むように、企業・事業者の自由こそ成長という豊かさにつながると考えたのでしょうか。
市場の力によるか、あるいは政府の力に頼るか、いずれにしてもどちらかを極端に強化するような考えは現在ではないでしょう。
最近の例でいえば、リーマンショックの要因と対策をどう考えるかが問われるかもしれません。GDPの増大という、成長戦略の当否も問われるのかもしれません。債務を増やしても成長を求めるという考え方の当否でしょうか。また、成長の中身こそ問題にされるのでしょうね。
スティグリッツ氏は、GDPを成長の指標にすることに疑問を投げかけます。「環境の悪化や資源の枯渇、富の分配方法、その持続性などを考慮に入れていないなど、多くの問題点がある」と現在では多くの共通認識を示しています。
他方で、市場経済の持続可能性については、同氏は肯定します。ただ、「問題は政治です。政策は市場経済の形作りに大きく関わっているからです。」と政治によるコントロールに期待をよせているようです(現実はどうあれ)。
現在の市場は「長期的な投資ニーズと大きな貯蓄があるのに、金融市場は目先のことに躍起になって機能不全に陥っている。」として、その原因は「三十数年ほど前からアメリカをはじめ各国で市場経済のルールの書き換え」がはじまったことに求めているようです。このルールの書き換えだけが中心的な要因といえるのか、私には解説ではよくわかりませんでした。
金利の投資調整機能については、同氏の考えは近代経済学者ほど評価しないものの、一定の条件の下で有効とみているようですが、それはどんなことはここではよく分かりませんでした。
で、成長を肯定し、市場経済を肯定する同氏は、結局のところ、「アメリカだけでなく世界にとって必要なのは総需要の拡大です。その方法の一つが投資なのです。人、インフラ、テクノロジーへの投資、そして地球温暖化対策にともなう構造転換への投資です。」と投資の選別を主張し、とりわけお金を追求しない?そういう投資が必要と言っているようにも見えます。真のイノベーションはお金を求めないとでもいうように。
短いインタビューではその本音というか、本質まで語り尽くせないようにも思え、これだけで同氏の見解をあれこれいうのもどうかと思いつつ、適当に私が気になった部分を引用しました。
他方で、セドラチェク氏は、本書では一番長くインタビューが記録されていますが、その考えは斬新です。経済学を少しかじった程度の私には、最近の分けのわからない高度な数式で解説されてもちんぷんかんぷんですが、彼は違います。古今東西の古典から最近の映画などさまざまな媒体を経済現象として扱う、というか哲学的、宗教的、文学的などさまざまなアプローチで解説して、それが経済の本質につながるような説明なのです。
そのいくつかを引用しましょう。
「人類の“原罪”は過剰消費」とのタイトルでは、誰もが知っている旧約聖書を引用しています。まったく斬新ですが、本質をついた解釈で。
「過剰消費を戒める寓話は旧約聖書の最初に出てきます。アダムとイブが創造されたエデンの園の物語です。原罪は、中世の教会ではなぜか性的な罪と解釈され、今でもそのように人々の記憶に刻まれています。」私もそう思っていました。
「ですが、聖書には性的な記述はないんです。聖書のわずか1ページの短い物語の中で繰り返し出てくるのは「消費」文言です。「この果実を消費してはならない」など、消費という言葉が20回も出てくる。」そうなんですね。昔読んだことがありますが、消費なんてことに気づきませんでした。
その原罪とは何でしょう。
「彼らが禁断の果実を食べたからです。空腹で仕方なかったのではない。善悪を知りたい誘惑に負けた。つまり、欲望に負けた。「過剰消費」の典型的な例です。」
セドラチェク氏は、社会主義の国チェコにおいて、資本主義制度を導入したときに、大統領の下で関与したから、相対的に資本主義・市場経済を見ています。
当時、物資が不足したチェコで、飢餓に苦しんでいたが、資本主義という成長メカニズムを導入することにより、生産効率が上がり、需要を満たす以上に供給が増えたけれども、過剰な需要創出のため、導入以前より豊かさを感じることができていないというのです。
過剰な需要のために、必要以上に働き、日本では過労死が増大しています。資本主義は本来、自由を追求するシステムであるはずなのに、欲望の追求に余裕がなく、かえって自由を喪失しているといっているように思えます。
それは映画マトリックスで、作られたシステムの中で、無意識の中でその網の目にとらわれたメンバーのように、そのシステムから自由になれないまま、無意味に追求をやめることができないのと同じとも言うのです。欲望という資本主義が作り出す仮装需要に翻弄されているというのでしょう。
ここまできて、基本、わが国の多くの人が豊かさを保持できていたときに、多くが抱いていた考え、「足るを知る」ということを、彼は語ってくれているようにも思えます。
ところで、最後に、この話題と直接関係しませんが、市場のあり方という現実世界の問題が今朝の毎日クローズアップ2018で<東京・築地市場、来月豊洲移転 曲折30年、役割揺らぐ>とあります。
たしかに全国一の水産物を取り扱う築地市場は、長い間、東京だけでなく全国の市場価格や取引を牽引してきたのでしょう。しかし、記事の中で指摘されているように、流通・運輸改革などで、取引形態は大幅に変化して、多様化しており、その市場形成力などはすでに限定的になっていると思われます。
他の物資で言えば、すでに問屋や卸売りといった形態は従前通りでは成り立たず、IT・AIを活用した多様な取引形態が、自由で公正な「市場」を形成していくのではないかと思います。それは本日のテーマとどう関係するか、うまく説明できませんが、欲望とイノベーションや多様な価値との、小池知事流に言えばアウフヘーベンなのでしょうか(これははやりませんね)。
今日はこのへんでおしまい。明日は台風がやってきそうです。どうなることやら。ともかくまた明日。