たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

高野山と商い <継続は力なり わかやま100年企業の挑戦 珠数屋四郎兵衛>などを読みながら+補足

2018-10-15 | 空海と高野山

181015 高野山と商い <継続は力なり わかやま100年企業の挑戦 珠数屋四郎兵衛>などを読みながら

 

一年以上調停で審理した事案が今日、ようやく成立したものの、2時間近くいろいろな事情でかかりました。10年以上紛糾していた事案ですので、これで平穏裏に収まってくれればいいのですが、相手方が最後にうそぶいていましたが、今後火種が再びあがるかは相手方次第かもしれません。法的解決も万全に終わるとも限りません。裁判所を出た後も依頼者と話があり、いま事務所に帰ってきたところです。

 

そんな分けで今日のお題はと考える余裕もなく、毎日記事で興味深いのがあったので、これを30分くらいで書き上げられればと思っています。

 

今朝の毎日は<継続は力なりわかやま100年企業の挑戦 珠数屋四郎兵衛 堅実さ、守り続けて 仏様への感謝、宗派問わず /和歌山>と、長い歴史のある企業を紹介するシリーズで、和歌山一歴史のある企業、高野山の珠数屋四郎兵衛が登場しました。

 

同記事の企業情報によれば、以下の通り、1712年創業とのことです。

<総本山金剛峯寺のすぐ近くにある珠数屋四郎兵衛(高野町)は、十二代目を数える。15歳で独立を許された初代四郎兵衛が、諸国行商の後に60歳で開業した。以来、300年以上にわたり数珠の販売を続けてきた。>

 

すごい歴史ですね。珠数屋四郎兵衛のお店はなんどか訪れ、仏具を購入したことがあり、ほんとに立派な店構えです。

 

ただ、ここではたと不思議に思ったのです。高野山は僧侶である学侶、行人、そして一部の聖がいるだけで、まさに宗教都市ではなかったのかと。私は以前、現在もお店を営んでいる人から、明治に入って高野山金剛峯寺から借地して商売の店を出し、戦前は商売人も女人禁制で妻は隠れていたとかという話を伺ったことがあります。なにせ地主ですし、天下の真言宗金剛峯寺本山ですから頭が上がりませんね。

 

でも、珠数屋四郎兵衛さんは商売をすでに江戸中期には創業されていたのですから、商売ができていたのですね。ただ、<諸国行商の後に60歳で開業した>というのですから、もしかしたら聖をされていたのかもしれません。高野聖は平安時代から全国行脚をして御大師様信仰を広げた(まさに弘法大師の手足となったといえましょうか)わけですが、高野山からは一切生活費ももらっていなかったのでしょう。自らはさまざまなことをして日々の生活を送らないといけなかったと思います。数珠や仏具などの販売はもちろん、納骨を進めたり葬式仏教を広めたりもしていたのかもしれません。

 

たしか平安時代初期には寺社による金貸し業が始まっていて、高野山もまた寺社経営の一つになっていたとされていますし、戦国時代には根来寺、粉河寺と連携して一大金融業を展開していたようですので、相当な資金力もあったのだと思います。

 

刀狩りで武器を取り上げられるまでは、武器製造から販売、さらには傭兵提供まで軍事産業を行っていたと言われています。刀狩り後は、平穏な寺社として高野山はあらゆる宗派を超えて仏教の聖地のように、全国各地から納骨を希望したり、観光的に訪問する人が増えていったのではないかと思います。

 

そのため、江戸時代の中葉には、信仰だけでなく観光的な意味も含めて訪れる人が後を絶たなくなっていたのかと思います。伊勢参りの先駆け的に、高野詣でがいくつもの高野街道を作るほど盛んになったのではないでしょうか。

 

そういう多くの人のため、珠数屋四郎兵衛さんのようなお店が江戸時代には相当生まれていたのかもしれません。とくに創業の約20年前には高野元禄裁許により行人が大勢追放され、行人が支配していた寺も1000か寺以上がつぶされたわけですから、空き家、空き地も多かったかもしれません。

 

<店の中に入ると、正面の壁に「諸宗御珠数調進所」と彫られた立派な木板が掛かっている。「どこの宗派の数珠でもこしらえますよ、という趣旨です。真言宗は考え方がゆったりとしていますから」。平田永一社長(61)が、こちらを見て言った。2~3代前までは山上に十数軒の店があり、共同で吉野の木を育てて自分たちで数珠を作っていたそうだ。今は、職人の残る京都から仕入れている。>

 

店の中にある木板「諸宗御珠数調進所がいいですね。宗派を問わず数珠をこしらえるというのですね。そもそも高野聖が宗派を問わない、真言宗にこだわらないというか、教義よりも御大師様を祈って広めていたとされています。これはおそらく最近のことではなく、江戸時代からではないかと思うのですが、勝手な解釈なら失礼しました。

 

実際、数珠の本来の目的から次第にファッション的な意味も込めて普及しているようです。

<数珠は本来、お経を読む回数を数えるための仏具で、正式な数珠は108個の玉で作られているという。一つずつの玉に煩悩をつかさどる仏様が宿っていて、数珠が煩悩を引き受けてくれると言われている。>

 

アクセサリーのように手首につけている人をよく見かけますが、なんと先々代の発案なんですね。さすがと思います。<ブレスレットのようにして手首に巻いている人を見かける。「考案したのは実は祖父なんですよ。玉にゴムを通した腕輪式で、伸縮数珠と言います。昭和30年代の後半だったかなあ? 大ヒットしました」。>とのこと。

 

最後に長続きする秘訣は、<『商売と屏風(びょうぶ)は広げ過ぎたらあかん』>、<堅実であり続けること>とのこと。ごもっともです。

 

ちょうど30分でした。おしまい。また明日。

補足

ちょっと気になって<紀伊国名所図会>(文化8年・1811年)発刊の高野山を見ましたが、<蓮花谷六軒店 珠数屋>が大きな店舗で商売をやっている様子が描かれていました。これが珠数屋四郎兵衛さんのお店と一致するかは調べないと分かりません。でもすごい繁盛ぶり感じさせてくれます。

 

 


刀狩りの効能 <NHK日本人のおなまえっ!魚偏漢字の謎>などを見ながら

2018-10-12 | 空海と高野山

181012 刀狩りの効能 <NHK日本人のおなまえっ!魚偏漢字の謎>などを見ながら

 

田舎で仕事をしていると、時折自然の恵みの恩恵をいただく機会があります。突然、以前仕事をした依頼者が訪問して、これうちでとれたのでと箱入りのものをもってきてくれました。「松茸」と箱に書いてあって、仕事は事業をやっていたはずだけどと思ったら、うちの山で今朝とったものですというのです。ちょうど来客中でしたので、簡単なお礼で終わりました。

 

後で箱の中を見ると、普段スーパーなんかで見たことのないでかくて美しい松茸でした。料亭でも食べたことがないほど見事な物で、お礼の電話を入れました。すると以前はたくさんとれたとか、今年は雨が多かったとか、申し訳なさそうにいうのですが、すると以前はもっと大量、それももっと大きい物がとれたのかとまたまた驚いてしまいました。そうなんですね、田舎はなんにもないとかいうけど、自然の恵みはやはり豊富ですね。

 

ところで昨夜、NHKの<ネーミングバラエティー 日本人のおなまえっ!【鮪!鮭!魚偏漢字の謎】>を途中から一部見ました。その中で、魚偏の漢字が歴史的にぽーんと増大する時期の一つ、江戸時代のところでした。戦国時代を経て江戸時代に入って平和な250年の間に魚偏の漢字が増えた、というか魚種がたくさんになったということでした。

 

その理由はある政策によるといわれてもなかなか検討つきませんね。なんと刀狩りでした。それまで日本中を所狭しと活躍していた海賊たちが、この刀狩りによって、槍・刀・鉄砲などの武器を全部没収されたことにより、強奪事業?としても、傭兵事業としても、家業を続けられなくなったのですね。それで転職というか、新たな産業を興したというのです。それは本格的な漁業です。沿岸漁業はもちろんのこと、遠洋漁業も得意な分野として活躍することになったのです。

 

船は、海賊船として養った速くて丈夫な構造船のような形状だったのでしょう。漁業の道具も武器製造に関わっていたり利用してきたので、漁業にあった道具の開発も容易だったのでしょう。それで鱈とか鱧とか、どんどん新しい魚類を収穫していったのでしょうね。江戸の台所が豊かであった要因の一つが刀狩りとは驚きです。

 

NHKの古館氏の番組では魚偏がテーマでしたので、海賊が専門漁業者になったことでおわったのですが、私の関心は、百姓という農民であり、また、中世を支配した寺社勢力の中核的存在の僧侶(行人や聖)、神人です。

 

近世という時代に入った17世紀から、水田・畑面積も、農業生産も飛躍的な増大を示しています。私が関心をもつ大畑才蔵による大規模灌漑事業以前の、17世紀初頭より日本各地で灌漑事業や新田開発が行われています。近世で一番増大した時期ともいわれています。その背景は、海賊と同様、刀狩りが大きな要因の一つであったと思います。とりわけ戦国時代は、百姓も武器をもち、農地を守るだけでなく、傭兵として戦線に参加し、農地拡大など農業に専念できない状況があったと思われます。

 

むろん平和な社会の構築と、士農工商という身分制も農民が農業に専念することになったことの背景にあるでしょう。近世は農具の開発も進みましたし、灌漑技術も飛躍的に進展しました。百姓として農法の研究開発も農書という形で、各地で競い合うように作られ、流布していったと思います。

 

では寺社社会はどうだったのでしょう。たとえば、紀ノ川沿いは戦国時代、河口付近が雑賀衆(これは海賊ないし傭兵が中心でしょうか)、隣接して根来寺を拠点とする根来衆が70万石とか、その隣中流域の粉河寺は数十万石、上流にある高野山金剛峯寺は17万石と、大変な勢力であったわけですね。

 

その寺社勢力には金貸しという金融力に加えて、大荘園領主という農業支配、そして軍事力を兼ね備えていたと言われています。それは教義を学び修行に専念する学侶ではなく、行人という多様な職種の集団が武力を背景に、金融や貿易などをも駆使し、力を拡大したと言われています。

 

秀吉はこれら紀ノ川流域の勢力のうち高野山を除きすべて軍事力で壊滅させました。高野山が降参した後紀州に初めての刀狩りを布告し、その後に全国に展開しています。

 

その結果、寺社の中には表だっては武器がある状況にはなかったと思います。家康が秀吉との小牧長久手の戦いのとき、高野山に鉄砲の用立てを依頼したといわれています。高野山以外には鉄砲製造を裏付ける根拠がない、逆に言えば高野山のみが鉄砲製造が可能であった資料があるとも言われています(私が確認したわけではありません)。

 

なぜ余分のような話をするかというと、以前のブログでなんどか取り上げた高野元禄裁許と関係するのです。高野山行人1000人近くを追放等の処分し寺も1000か寺くらいを廃止したという1692年の寺社奉行による橋本での大がかりの裁判です。その裁判に当たり、江戸から500人近い武士を連れ、紀州藩も1万人以上が備えていたというのですから、高野山行人に対する恐れは相当な物だったと思われるのです。それが高野山人には当時、相当な武器が隠されていて、抵抗される可能性をおもんばかっていたのではないかと考えるのです。

 

とはいえ、いずれにしても寺社には中世まで力の根源の主要なものであった武器をとられたわけですから、僧侶であれば本来の宗教活動に専念し、あらたな宗教文化・社会をつくったのではと思うのですが、そこがどうもはっきりしません。

 

中世には一定程度導入されていた葬式仏教や高野山墓地への納骨といったことが、檀家制度の創設により、さらに進化したのかなと思う程度なのです。鎌倉期のような宗教改革ともいうべき新仏教は起こっていないといってもいいかと思うのです。この点はもう少し勉強したいと思います。

 

今日はこのへんでおしまい。また明日。


高野山と戦時体制 <高野山予科練生がボート特攻>を読みながら

2018-07-11 | 空海と高野山

180711 高野山と戦時体制 <高野山予科練生がボート特攻>を読みながら

 

西日本豪雨が明けた朝、見事な快晴でした。高野の山並みは久しぶり、というか今年初めて見るようなきりりとした峰々をくっきりと表していました。しかし、西日本を中心に各地で大きな被害発生がその後も続いています。

 

今回のような線状降雨帯といったものがいつどこでどのくらい続くかは、おそらく地球の気象現象次第と言うことではないのでしょうか。たしかに広島県や岡山県、愛媛県に酋長しています。でもこの地域が地形的・河川管理上、とくに脆弱だったというわけではないと思います。また、豊後水道や紀伊水道を通って気流が流れ込み、それぞれの地域に線状降雨帯が発生しやすくなったというのも、必須の条件だったとは思えません。

 

たしかに高野山や麓付近はあまり甚大な災害に襲われたことがないのかもしれません。でもそれが高野山の宗教都市性から守られていると信じる人はあまりいないと思うのです。現在の気象変動の進展からすると、日本列島のどこに今回のような災害が起こってもおかしくないと思うのです。

 

仮に高野山に今回のような線状降雨帯が長く停滞したら、高野山内はちょうどすり鉢の底の様に雨水が一挙にたまり、排水する余裕がなく、全山冠水状態になる可能性が大でしょうね。そんなことがないように、祈願をまじめにしておくことでしょうか。

 

とはいえ、今朝の毎日記事を見ると、自然災害には襲われなくとも、高野山も歴史の荒波には何度も襲われたことを改めて知ることができました。

 

山は博物館それは戦時下だった/4 高野山予科練生がボート特攻>との見出しで、<真言密教の聖地も戦争とは無関係でいられなかった。和歌山県の高野山には海軍飛行予科練習生(予科練)が駐留し、ラッパと号令の声がこだました。あこがれの飛行機乗りを目指して基礎訓練を受けていたが、意に反して小型ボートで敵艦に突っ込む特攻兵を送り出すことになり、10代の若者が志願するかどうか即断を迫られた。>というのです。

 

<兵舎にするため50以上の宿坊に目を付け、三重海軍航空隊の分遣隊(後に高野山海軍航空隊)として予科練が置かれたのは1944年8月15日。半月で2000人近くが入り、その後も入隊しては数カ月で卒業して終戦までに約6000人が過ごした。飛行機に乗るのは訓練の最終で、それまでの「課業」は信号や銃剣、軍制、陸戦なので山でもできた。>

 

高野町の人口は現在3000人余ですから、当時は軍人だけで6000人も滞在していたのですね。宗教空間ではなく、軍事機密基地のようなものですね。宝善院、安養院、蓮華上院といったところが上層部の基地になったのでしょうか。

 

その規律はとても厳しかった様子が次のように語られています。<規律は厳しく、練習生は失敗や怠惰の制裁として、木の棒で尻をたたかれる「バッター」を何度も受けた。無量光院住職の土生川(はぶかわ)正道さん(86)は弟子入りしていた三宝院で、練習生がなげしにぶら下がってセミの鳴きまねをさせられるのを見た。つらくて本当の泣き声に変わり「寺にはその涙と汗が染みついている」と話す。>

 

ところで、高野山の僧侶となる修行も相当厳しいようですが、もしかしてこういった軍事訓練の影響が残っていたとすると、困ったものですね。真の修行とは何かは、空海さんがしっかり教えを残してきたと思うのですが、どうなんでしょう。

 

彼らは特攻ボートに乗ることになっていたようです。それは<「震洋」だ。第1震洋隊は既に10月、小笠原諸島・父島の守備に就いていた。爆弾を積み、上陸をもくろむ敵の戦艦に体当たりするが、この時は説明がなかった。>ほんと、ひどい話ですが、太平洋戦争時、それに疑問を抱くこともできない意識状態だったのでしょう。宗教空間の高野山の場合に、そういった意識を植え付けるのは、下界から離れていて、ちょうど良かったのかもしれません。

 

でも実際は、<震洋隊は1隊が30~50隻程度で、基地要員も含めて約200人。最終的に110隊余り編成され、フィリピンなどにも配置されたが、出撃はわずかで戦果も少なかった。多くは基地や基地への移動中に攻撃されるなどし、約2500人が戦死したと言われる。>

 

終戦間際の高野山も危ない状態だったのですね。

<45年になると、高野山は本土決戦の基地とされた。トンネルに弾薬や食糧を保管し、敵の上陸を想定しての戦闘訓練が増えた。終戦を迎えると、武装解除に来た連合軍に文化財を略奪されるのを恐れ、1カ月前に解隊したことにして練習生を早々に復員させた。>

 

高野山を本土決戦の基地にするなんて、戦国武将の信長や秀吉でも考えなかったのではないでしょうか。危ないところでした。

 

比叡山延暦寺も同じような運命だったようです。<延暦寺がある比叡山(848メートル、京都府・滋賀県)には、海軍の新特攻機「桜花四三乙型」の練習機発射基地が建設された。>

 

ところで、戦後農地改革が全国で実施され、当地和歌山県下も同じですね。でも実際の実施内容は、各地の農地委員会の裁量というか、運用に委ねられていたようです。

 

高野山も、戦国期は17万石までふくれあがったものの、秀吉に降伏して、根来寺や粉河寺のように領地没収の危ういところを、秀吉・家康から賜った、23000石でしたか領地をもつことができました。江戸時代は大名格ですから、経済的には余裕があったと思います。でも維新後は、廃仏毀釈で財産没収、山林もなくなり、山林管理の名目でなんとかしのぎ、戦時中は収入も枯渇していたと思います。軍事基地になることでなんとかしのいだのかもしれません。また田畑も開墾していたようです。

 

しかし、農地改革での解放はわずかにとどまり、多くの農地が残されたようです。山林は管理地から所有地になったようででしたが、農地解放の対象外だったので、高野山の山林を含め、多くは保全されています。宗教環境と観光名目があったようです。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。


高野・町石道を歩く <高野参詣道トレッキング 町石道>に参加して

2018-05-27 | 空海と高野山

180527 高野・町石道を歩く <高野参詣道トレッキング 町石道>に参加して

 

昨日寝るまで体調がひどい状態で、今日予定されていた上記のトレッキングには参加できないと思って早く眠りにつきました。

 

するとどうでしょう、朝目覚めると、外は上天気、体の熱もなく、ふらふら感もどこか飛んでいき、すがすがしい気分で朝を迎えました。まだ足はすこしふらついていましたがなんとかなる程度でしたので、結構を即断。

 

ただ九度山町役場に集合ということと、時間は8時頃というくらいのあいまいな記憶で、その募集記事が掲載された地元の広報誌も行かないとおもっていたので、捨ててありません。ま、現地行けばなんとかなるだろうと出発を決め込みました。

 

ただ、たしか駐車場がなく公共交通機関を利用してということでしたので、近くにある「道の駅」を思いついたものの、混雑して迷惑をかけると思い、事務所に車をおいて、そこから最寄りの南海高野線・学文路駅まで歩いて、電車に乗って九度山駅まで行くことにしました。

 

ところが、体力が落ちているというかどうしようもないほどでして、一応電車の時刻を調べた記憶があり730分すぎ?40分前といった感じで、事務所から歩きで25分くらいかかるということで、事務所に早く着かないといけなかったのですが、いろいろ用事を済ませていると、事務所に着いたのが715分すぎ、ちょっと用を済ませて出るとたしか20分ころ、10分はともかく、裁定でも15分で到着するには、田中陽希さんのように走らないといけない、ま、少しだから大丈夫だろうと走り出し途端、けいれん気味になり、呼吸はみだれ、とても走れる状態ではないのです。

 

それでも電車に間に合わないといけないと必死に歩き、少しだけ走るという繰り返しで、九度山駅にたどり着いたときに下り電車がすでにホームに、あ、間に合わないかと思いきや、単線ですので、上り電車を待っていて、滑り込みセーフでした。

 

しかし、この15分くらいですべてのエネルギーを出したためか、九度山町役場で受付して慈尊院についたときには、もうこれ以上歩けない状態でした。途中一緒に会話が弾んだ高齢者(私より6歳上)は一緒に登ろうと言ってくれたのですが、慈尊院の階段で私は座り込み、マッサージをしながら、先に行って欲しいというと、先に行って待っているよとのことでした。ところが私はここで20分くらいはマッサージしていたのでしょうか、その後彼には追いつかないままでした。

 

町石道は<ウィキペディア>によると、<高野山上の壇上伽藍・根本大塔を起点として慈尊院までの約22キロメートルの道中に180基、大塔から高野山奥の院・弘法大師御廟まで約4キロメートルの道中に36基の、合計216基の町石が置かれてい>るので、長い道のりですが、私の(若い頃の)歩くスピードであれば、容易に追いつくと思ったのですが、途中、結構若い人はもちろんのこと、高齢者、とくに女性には抜かれることがたびたびでした。

 

矢立が第一のゴールでしたが、ここは九度山からの曲がりくねって走る国道370号線と、かつらぎ町から(というかバイパスから)バス道としてほぼ一直線様な国道480号線が合流する地点でした。私はこの地点でギブアップの状態でした。ここの受付の前ではおのおのが軽い昼食をしていて、私は予定を考えず壇上伽藍で昼食を考えていたので、事務所にあった小さなパン3個しかありませんで、ともかく少し腹の足しにしました。そのとき私の隣に座った方は10歳以上年上で、とても元気そうでしたが、これまで10回くらい参加しているが、今回はここでリタイアするとのこと。これから先がきついから、私にも初めての参加ならリタイアしたらいいよといいながら、チョコレート2個を分けてくれました。

 

彼は結局、そこでリタイアしたのですが、私は逆に、チョコ2個で元気が出て、頑張ってみようと思ってしまったのです。しかし、それからは、まさにその助言が至言ということを嫌と言うほど思い知らされました。

 

そこから歩き出した途端、足がつり気味でなかなか前に進まないのです。しばらく様子見でゆっくり歩いていたのですが、次第に調子が出て、途中までは順調に歩行を進め、前の人を追い抜く状態になりました。ところが次第にきつくなり、疲れて休んでいる高齢者(80代前半)と疲れの点で意気投合し、一緒に話しながら歩くことになりました。が大門手前の長い坂(最初は緩い坂、その後ジグザグの急坂)に入った途端、突然、足がつって前に進めなくなり、その方には前に行くよう進め、しばらくマッサージをして、ようやく歩くことができました。

 

そしてようやく壇上伽藍の前でゴールの受付をすることができたのですが、30分以上立ち上がれず、むろん歩くこともできない状態になりました。スタッフの人は温泉?風呂に入れるからどうぞと言われたのですが、立ち上がれないのですから、すぐそばの風呂といわれても、ただそこで横になるしかありませんでした。

 

すると、男性も女性も、次々とゴールの受付にやってきて、相当の高齢者から小学生まで、皆さん、しっかり歩いているのです。これは参ったと思いました。私の体力のひどさは相当なものと情けない思いでした。ま、それでひるまないところが私なのですが・・・

 

ところで、私が町石道を歩く上でいくつか関心を持って、観察していました。世界遺産としての環境整備・保全がどの程度できているかという点です。その意味では、沢筋の谷町系では道の法敷が崩れたのでしょう、しっかりした蛇籠が丁寧に段積みされていました。また別の場所では丸太積みをしているところもありました。沢を渡る木橋なども、相当痛んでいましたが、すべてを取り替えるといよりは、応急処置と言うことで、穴が開いた床を残しながら、手すり部分はかなりしっかりと取り替えていました。

 

他方で、道の維持には、排水処理が肝要で、たしかに道を横断する溝は多く設置され、しかも石組みや木工もあり、一般の登山道や自然公園よりはましかなとおもいました。ただ、相当数は、枝葉でほぼ詰まっていて、これだと大雨の時の排水が適切になされないことをしめしています。これは残念でした。

 

また、これは場所を必ずしも特定できるわけではないですが、おおよそ範囲を絞れますが、いくつかの町石道沿いの杉木立は、丁寧に間伐されていましたが、他方で、あまり間伐がされていない、せいぜい切り捨て間伐あるいは治山間伐程度が施行されているにすぎないところも少なくなかったと思います。

 

町石道の世界遺産的価値の重要な構成要素は、216基の町石でしょうけど、それだけで十分かと思うのです。ほとんど手入れができていないスギ林があったりすると、残念な思いになります。また、眺望の点でも、町石道の周辺は丁寧な間伐、枝打ちがされていて、とても見通しがいいのですが、その奥(下方)になるとほとんどされておらず、見通しがきかないところもあります。

 

いや、町石道は、あくまで町石が基本であり、周辺景観まで考慮しなくて良い、あるいはそこまで面倒見えないよという声が聞こえそうですが、道を歩くことの意味を考えてもらいたいと思うのです。世界遺産登録されるような道は、いずれもその周辺景観が評価されていると思います。

 

で、長々と書いてきましたが、これから私がこのテーマを取り上げた意図を書きます。

 

私は、この道を歩いてほぼノックアウトされましたが、それでも言いたいのは、これは空海が上り下りしたような道ではないと感じたのです。はっきり言って、ほぼ平坦で、勾配も優しく、最後の坂が少しきつい程度ですが、これが空海が修行道場としての高野に通ずる道として往還したとは到底思えないのです。

 

九度山(慈尊院)のいわれについてここではウィキペディアを参照しますが、古い文献でも同様の指摘がされています。

 

<高齢となった空海の母・阿刀氏(伝承では玉依御前)は、讃岐国多度郡(現:香川県善通寺市)から息子の空海が開いた高野山を一目見ようとやって来たが、当時高野山内は7里四方が女人禁制となっていたため、麓にあるこの政所に滞在し、本尊の弥勒菩薩を篤く信仰していた。空海はひと月に9度(正確に9度というわけではなく、それだけ頻繁にということの例えだと言われている)は必ず20kmに及ぶ山道(高野山町石道)を下って政所の母を訪ねてきたので、この辺りに「九度山」という地名が付けられた。>

 

この時期は判然としませんが、空海が高野山に定住したのは最晩年で、重い病気を抱えていた頃ではないかと思います。その空海の体調を気遣って、このような優しい道を作ったのでしょうか。私の勝手な見方として、空海の思想には合わないと思うのです。このような優しい道を作ることは。それでは女人禁制を守るため、女人のために作ったのでしょうか。空海が生きていた頃、それほど女人が訪れたとは考えにくいのです。

 

では空海が壇上伽藍を建設するため、物資運搬のために作ったのでしょうか。それには堀割などではせいぜい幅が90cm未満のところが随所にあり、疑問を感じます。

 

これだけの道作りは相当な資本・人手が必要です。空海にはそのような余裕がなかったはずです。天皇からの支援をも断ったとも伝えられており、かなり経済的には厳しかったと思います。

 

では誰が何のため。ま、私の独断と偏見ですが、摂関家として最初に高野山詣でをしたのは、飛ぶ鳥を落とす強大な権力者、藤原道長ですね。この親子が高野山に多大な経済的支援を行ったとされていますが、彼らが参拝するとき、道があったでしょうか。あの平坦で優しい道は、平安貴族のあまり歩いた経験のない男女を連れて参拝するのであれば、ちょうどいい具合なのではと思うのです。ま、私の体力も、平安貴族の体力とたいして変わらないほど貧弱であったことで、そういう着想になったのです(経済力はむろん比較の対象ではないですが)。

 

そんなところ約1時間、ひとつの仮説を提供しました。九度山町民はなんて言うでしょうかしら。九度山の九度は竈といった見方もあったと思います。以前読んだ本ですが、私はなぜか惹かれます。

 

今日はこれにておしまい。また明日。

 


空海に学ぶ(10) <第十 秘密荘厳心>と河瀬直美氏の<心に刻んだ記憶 記録する感動>および高橋源一郎氏の<人生相談 彼がいるのに目移り変?>を読んで

2018-02-12 | 空海と高野山

180212 空海に学ぶ(10) <第十 秘密荘厳心>と河瀬直美氏の<心に刻んだ記憶 記録する感動>および高橋源一郎氏の<人生相談 彼がいるのに目移り変?>を読んで

 

空海の第十心論も、ようやく最後の段階にやってきたようです。ま、ページをめくればたどり着くのは簡単ですが、私の理解力ではまったく見えない世界というか内容になっています。その意味では、空海が説く「空」かもしれません?それは勝手ないい加減な解釈ですが・・・

 

ここで最も大事な?<第十 秘密荘厳心>(ひみつしょうげんしん)について、なにかを引用して私なりの考えを示そうかとも一旦は思いましたが、なにもわかっていないのに、引用するのも失礼な話しなので、やめることにしました。

 

吉村氏はこの第十を「密教の心」として、真言密教の到達点のような取り扱いをしているようにもみえます。

 

解説はやめるとして、吉村氏がいろいろ書かれ、他の著作による解説を引用などをして、内容を少しでもわかりやすく?しているのでしょうけど、具体の引用は全部やめます。

 

ただ、最初の冒頭くらいは、引用して、このテーマを読んでこられた方の参考になるかもしれないと思い、上記の言を撤回して、以下に書いてみます。

 

「密教と灌頂」という小見出しで、以下のようにまず空海の言葉を取りあげています。

「顕薬は齢を払い、真言は庫を開く。秘宝忽ちに陳じて、万徳即ち証す。」

 

これを吉村氏が次のように訳しています。

「病を治すための顕教の薬は、真実の宝庫の前の塵を払うもので、真言乗はその倉を開くものです。秘宝が直ちに並べられ、あらゆる徳を身につけます。」

 

続いて、吉村氏が顕教と密教の違い、後者における灌頂の意義を解説されています。

「ようやく第十の密教のところまでたどり着きました。仏陀のさとりそのものは、言葉を越えたもので、それを直接言葉で伝えることはできません。第一~第九までの顕教の教えでは、言葉を用いて言葉を超えた境地に導こうとすることがおこなわれています。それに対して密教は、言葉を超えた境地をダイレクトに師から弟子へと伝える教えです。そのためにおこなわれるのが灌頂という儀式です。」と。

 

では「灌頂」とはなにかについて、「加藤純隆・精一訳『空海「秘蔵宝鋪」――こころの底を知る手引き』により解説されていますが、最初だけ引用するにとどめます。

「第一の本能のままの住心から、次第に第九の住心に進んで来ると、心の内と外に付着

していたよごれもすっかり精錬されて、私達の心に本来そなわっていた憂茶羅の荘厳が

ようやく聞くのです。・・・」

 

では、第十の中身は何かとかは、先に述べたように、第四~第九もわかっていないわけですので、これはもう勝手な解釈はやめて脱帽してここで終わりとします。

 

で、私には即身成仏とか、色即是空とか、わからないなりに現代の現象を考えるときに、転ばぬ先の杖?というか暗闇を照らす一隅の灯りに見えるのです。

 

たとえばという、これまた飛躍的な話しですが、毎日朝刊の記事を2つ取りあげたいと思います。一つは今最も輝いている映画監督の一人河瀬直美氏による<たたなづく心に刻んだ記憶 記録する感動>と、もう一つは作家・高橋源一郎氏による回答<人生相談彼がいるのに目移り変?>です。

 

いずれも空海の第十心論とはまったく関係がないのだと思います。ただ、私の場合、空海ならどう見るのかなとか、時折ふと思ってしまうのです。

 

で、河瀬氏は自分の生い立ちを踏まえて、映像に残す意義を研ぎ澄まされた感覚でまるでその映像が流れるように語っています。それは空の世界とは違うかもしれません。色即是空を示すものでもないのかもしれません。でも、私にはそれに近い感覚を感じるのです。

 

一つは、彼女が生まれ、育った偶然という契機、また、血縁のつながりを超えて養父母との結びつきによりその心証形成が彼女の骨格を作っているという点です。そういった説明ではうまく言い表せていないことはわかるのですが、ただ、私が指摘したかったのは血縁関係を超えた家族においても人間が本来もっている豊かで微妙な感性を育てることができると河瀬氏の生き方から感じる点です。

 

もう一つは、河瀬氏自身の言葉、<わたしにとっての映画とは、そんなかけがえのない、「記憶」の「記録」からはじまっている。>というものです。記憶は刹那的であり、記録は永続的であるとも言えます。しかし、ある心の中に残る記憶は、ある事実を切り取り想像して映像で記録することにより、記憶の再現になる場合もあれば新たな記憶の想像にもなるように思うのです。それは人と人、人と社会の営みが瞬時に生まれ、消えていくものであるとともに、人の記憶の片隅や、なんらかの記録に残ることにより、いつでも再生される可能性のある、空であり、無でもあり、また色でもあるように思えるのです。

 

源ちゃん(とまったくご存じないのですが、あえてここだけで言わしていただきます、あまりにいつもその回答に同感するところがあるからでしょうか)の今回の回答も切れ味がいいです。

 

まだ20裁の女性が、高校時代から付き合っている男性がいる中で、あるすてきな男性に巡り会ったことから、「他に好きな人ができたという理由で別れるのは不誠実でしょうか?」と悩みを訴えています。

 

これに対して源ちゃんは、悪魔のささやきと称して、次のように回答します。私も同感です。

<恋をすることで、あなたはたくさんのことを知り、たくさんのものを得て、同時に、失うことも知るでしょう。つまり、人間がどういうものであるかをよく知ることになるでしょう。・・・だから、わたしの回答は「新しい出会いに進みなさい」です。>

 

ここで大事なのは、執着から自由になることではないかと思うのです。それはこの女性が付き合っていた男性の視点からいえば、女性が他の男性に惹かれていったとき、ストーカー的な行為はもちろん、あきらめきれない気持ちをいかに制御できるかが試されるように思うのです。女性のことを好きであれば、その女性が新たな船出を試みるのであれば、その男性がストーカー的な危険性のある人の場合は別にして、その女性の気持ちを尊重することこそ、本当に好きであり続けることができるのではないかと思うのです。これはいろんな考え方があっていいかもしれませんが、執着だけは避けたいものです。

 

ところで、仏教の五戒の一つは、「不邪婬戒(ふじゃいんかい)で、 不道徳な性行為を行ってはならない。」とされています。これは優婆塞など俗人向けですね。出家の僧は女性を近づけてはいけないということなんでしょうね。現在は違いますが、親鸞の浄土真宗以外は明治維新までそういった建前があったようですね。

 

では、理趣経はどうなんでしょうといつも気になるのですが、これも難解な内容なので、ぱらぱらとしか読んだことがなく、あいまいな知識で述べると、空海が最澄にその経書の貸出を拒絶した趣旨を理解しないことになるのでしょうね。

 

ま、ややこしい話になってきたので、源ちゃんの回答、万歳で終わりにしておきます。