たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

五輪と森林 <五輪会場建設、転換材を禁止>を読みながら

2019-03-20 | 公共事業と多様な価値

190320 五輪と森林 <五輪会場建設、転換材を禁止>を読みながら

 

来年開催を間近にした東京五輪・パラリンピックはあかるいわだいばかりではないですね。最近注目されていたのはその主体であるJOC会長の去就でした。今朝の毎日記事は<20年東京五輪・パラリンピック招致疑惑 五輪の「顔」無念の退場 竹田JOC会長「世間騒がせた」>や<クローズアップ2019 五輪役職、退任表明 外圧、竹田氏に引導 IOC、リスク回避>などで大きく取り上げています。

 

招致疑惑は不明朗ですが、会場建設や運営にも気がかりがあります。たしかコンパクトで環境に優しいことを標榜していたのではないかと思いますが、その実態はどうでしょう。たとえば今朝の毎日記事<くらしナビ・環境五輪会場建設、転換材を禁止>では、9つの会場建設で使われた型枠材が東南アジアの熱帯林破壊を招いている危険を訴えるNGOの指摘を取り上げています。

 

一部を除き懐かしい名前のNGOばかりです。30年くらい前にそのメンバーとは一緒に調査に出かけたり、議論したりしていました。同じような問題状況が指摘されています。当時は丸太そのもので輸入されていましたが、その後世界的な熱帯林伐採ルールが確立したのと、付加価値を上げるため現地で木材加工工場が建設され、合板材として輸入されてきたようですが、供給源は同じで森林伐採して農地転用するものです。私はすっかりこの問題から遠ざかってしまいましたが、持続的に根気よくこれら団体は頑張ってきたのですね。

 

新国立競技場は、木材を多用して和の伝統文化を体現し、周囲の環境とも調和した景観的にもすぐれた評価がされているような印象です。たしかに競技場に使われる木材はその生産現場やルートについて適切に管理されているのかもしれません。でも型枠材となるとどうでしょう、十分な監視の目が行き届いていないのではと心配します。

 

さて最近の情報に疎いので、記事から情報を得たいと思います。

ここでは、木材調達基準を改定して、「転換材」の使用禁止をうたったことが中心に述べられています。

<東京五輪・パラリンピック組織委員会が木材を調達する際の基準が見直され、今月から運用が始まった。大きな変更点は、農園開発などのため皆伐された森林から産出される「転換材」の使用を禁じたことだ。五輪会場の建設現場では、こうした木材が使用され続けてきた実態がある。>

 

「転換材」って耳慣れないことばですね。上記表現からは、森林を皆伐し、その跡地をアブラヤシなどの農園にする土地利用で、「転換」というのは森林から農園などの土地利用を転換するということでしょう。その目的のために伐採された木で加工して木材となったものを「転換材」と呼んでいるようですね。

 

で、問題となっているのは<会場建設で大量に使われるコンクリートを固める際に型枠として使用される合板>ですね。これは30年以上前から同じパターンです。

 

<組織委の木材調達基準には「国産材を優先的に選択するよう努めなければならない」という項目>があると指摘されていますが、そもそも基準といえるか疑問です。型枠に<熱帯材の合板は強度が高くて質もよく、何度も繰り返し使える>ことや、ここには書かれていませんが値段も低廉であることが、国産材や他の外国材の利用を凌駕しているのではないでしょうか。

 

真剣に国産材の優先利用を考えたのであれば、実効性のあるルールを作る必要があったと思います。

 

その使用料は半端ではないです。<新国立競技場など九つの会場建設で使われたコンクリート型枠合板は、24万1400枚(昨年11月末現在)。全て広げると東京ドーム約8・6個分の面積(約40ヘクタール)にもなる。このうち7割超にあたる17万1900枚がインドネシア産とマレーシア産>というのですから、熱帯林使用に傾いていることは明瞭です。

 

組織委の木材調達基準は、従来<(1)合法であること(2)計画的に管理・経営された森林からの木材であること(3)生態系保全への配慮--など>があったとのことですが、今回<(2)に「農地などへの転換に由来するものではないこと」が明記された>とのこと。

 

環境NGOが指摘するように、従来の基準も(2)(3)はとくに抽象的で、採りようによってはその指摘するとおり、転換材の利用は基準違反といってよいかもしれません。国産材利用を努力目標というように、この基準もきちんと検証システムが確立していないと、絵に描いた餅になりますね。実際の基準はもっと詳細なのかどうかはこの記事だけでは分かりません。

 

RANというと当時は、世界的に名前が轟くほど強力な活動を展開していたと思いますが、JATANも負けずに頑張っていました。ともかくそのRANの調査では<調査によると、会場建設で使用された合板を製造しているインドネシアの工場では、原料の約4割がアブラヤシ農園開発などのため、天然の熱帯林を伐採した木材だったという。>

 

この工場を特定したり、約4割の算定根拠を示すことができるか、気になるところですが、それでもそれなりの蓋然性を感じます。

 

次の記事から工場は特定されたものと理解できます。ただ輸入元の住友林業と総合商社・双日とでは、転換材の利用が持続可能性基準?に適合するかいなかで、前者は是とし、後者は非とするようです。前者はインドネシア政府がOKならそれを鵜呑みにするような判断のようで、それでよいか、日本独自の調達基準の実効性を検討できていない印象を受けます。まあ組織委自体、基準見直し前まで、住友林業と同じ判断だったようですから、その判断の妥当性が今後問われるかもしれません。

 

熱帯林とアブラヤシなどの農園とは生物多様性や自然環境の点で、大きな違いがあることは多言を要しないと思います。いくら計画的な管理といっても、なにを「計画」し「管理」するか、それが問題でしょう。計画・管理といえばOKなら、天網恢恢疎にして漏らさずでいう理を妄信しているだけと言われるかもしれません。

 

とはいえインドネシアやマレーシアの国情もあり、簡単にはいえないことではありますが。

 

<環境団体「地球・人間環境フォーラム」専務理事の坂本有希さんは「転換材を排除した基準が持続可能な木材調達の土台となって、公的機関の調達基準がより厳しくなることを期待したい」と話した。【伊藤奈々恵】>というように、少しでも改善することを望むことでしょうか。

 

他方で、国産材をより利用する方策を生み出す方が国内の荒廃した森林の持続的利用に資することにもなりますし、調達基準適合性を適切かつ容易にチェックすることができると思うのですが、そういう方向への舵取りする流れにはなかなかならないようです。

 

今日はこれにておしまい。また明日。

 

 

 

 


農地転用許可と隣地承諾 <農地転用申請に隣接農地所有者の同意書を求める扱いについて>

2017-11-16 | 公共事業と多様な価値

171116 農地転用許可と隣地承諾 <農地転用申請に隣接農地所有者の同意書を求める扱いについて>

 

わが国は長い歴史の中で向こう三軒両隣のなかで生きてきたように思えます。ちょっとした法律相談の中で、草枕の一節を思い出しつつ、過去の宅地開発から農地・山林の開発までの出来事もふと思い出してしまいました。

 

宅地開発で言えば、宅地開発指導要綱というのがたしか90年代までいつもチェックする必要があったように思います。中には各市町村の要綱を都市計画法などと一緒にうまく整理して書籍化しているのもあったと思います。その中で、近隣同意書は必須とされていたかと思います。

 

日本社会では、そのような近隣の同意を得ることが紛争防止に、あるいは近隣社会の平穏な維持に有効であったのかもしれません。しかし、驚異的なバブル開発は全国に及び、そのような縛りは、都市計画法や建築基準法など法令上の根拠がない、合理的根拠がないとして、違法視され、ついには裁判で否定され、いつの間にか要綱行政という言葉も消失していったように思います。むろん、その中心の一つであった近隣同意書も要求される時代は過去の物となりました。

 

ただ、都市計画法33114号は次のように定めて、近隣者との調整を求めたのです。

「十四 当該開発行為をしようとする土地若しくは当該開発行為に関する工事をしようとする土地の区域内の土地又はこれらの土地にある建築物その他の工作物につき当該開発行為の施行又は当該開発行為に関する工事の実施の妨げとなる権利を有する者の相当数の同意を得ていること。」

 

開発行為の施行等の「妨げとなる権利を有する者」とありますが、はたしてどの範囲の権利がそうなるかは簡単ではありません。そのため、最近では各開発許可権限のある自治体では条例でより明確にその内容を合理的に定めようと努力しています。単に隣接地だからそうなるとは限りませんね。

 

より合理的な既存住宅と新規開発の調整基準が次第にできあがっていくのが本来でしたが、わが国では中央で決めた法令が優先され、自治体の条例はそれに劣後する物として、地域的でより民主的な自主的規制たる条例が育たないまま今日に及んでいるように思います。そこが北米のゾーニング条例規制と大いに違う局面でしょうか。

 

他方で、農地についていえば、向こう三軒両隣的な土地利用秩序がまだまだ実務的には残っているといってよいでしょう。たとえば農地転用の場合、申請書には隣接する農地の同意書を当然のように必須要件としているのが自治体行政ではないかと思います。

 

たしかに実際、畑を山林にする場合、日陰になったり風通しが悪くなったりするので、隣接の畑所有者の了解を得るのが普通でしょう。同様に田を畑にしたり、畑を田にする場合でもいろいろな影響がある場合もあり、隣地の理解を得るようにすることが少なくないと思います。農地を宅地や雑種地にする、転用の場合は、よりその必要性が高まるのは理解できる話です。

 

しかし法令上の根拠があるか、疑問があり少し調べてみました。宅地開発の場合は少々異なる仕組みになっています。

 

農地法46項の規定の中に、転用許可ができない場合を定めていますが、そのうちの3号が妥当すると考えます。

 

「申請者に申請に係る農地を農地以外のものにする行為を行うために必要な資力及び信用があると認められないこと、申請に係る農地を農地以外のものにする行為の妨げとなる権利を有する者の同意を得ていないことその他農林水産省令で定める事由により、申請に係る農地の全てを住宅の用、事業の用に供する施設の用その他の当該申請に係る用途に供することが確実と認められない場合」

 

上記の下線部です。しかし、この規定から当然に、隣接する農地所有者の同意なり承諾を必要とすると解することには無理があると思います。でも各農業委員会の実務では隣地承諾書か同意書を求めるのが普通です。

 

3号の解釈を考えるとき、その他の規定をも参考にすべきではないかと思うのです。4号はそのヒントになると思うのです。

 

「申請に係る農地を農地以外のものにすることにより、土砂の流出又は崩壊その他の災害を発生させるおそれがあると認められる場合、農業用用排水施設の有する機能に支障を及ぼすおそれがあると認められる場合その他の周辺の農地に係る営農条件に支障を生ずるおそれがあると認められる場合」

 

これは転用によって実害が及ぶ場合です。すると上記3号の「妨げ」というのは単に隣接関係にあるだけでは、同意を求めることまで要求するのは過大ではないかと思うのです。現在自治体行政で行っている隣地所有者の同意書を求める扱いは、憲法が保障する財産権規定に抵触するおそれが高いと思います。合理性がないと考えます。

 

でもまだ裁判例をチェックしていませんので、宅地開発指導要綱のような裁判例があるのかどうか、こんど時間があるとき調べてみたいと思います。

 

なお、この条文の運用解釈を定める通知が農水省からたびたび発せられていて、その重要な一つが次の通知です。

 

農地法の運用」と題する通知です。農業委員会や事務局はこの通知を根拠に運用しています。この中に次の規定があります。

 

(2) 立地基準以外の基準(一般基準。法第4条第6項第3号から第5号まで) (1)の立地基準に適合する場合であっても、次のいずれかに該当するときには、許 可をすることができない。

農地を転用して申請に係る用途に供することが確実と認められない場合(法第4 条第6項第3号)

 具体的には、次に掲げる事由がある場合である。

 () 転用行為を行うのに必要な資力及び信用があると認められないこと(法第4条 第6項第3号)。

 () 申請に係る農地の転用行為の妨げとなる権利を有する者の同意を得ていないこ と(法第4条第6項第3号)。

 「転用行為の妨げとなる権利」とは、法第3条第1項本文に掲げる権利である。>

 

上記の(イ)の「申請に係る農地の転用行為の妨げとなる権利を有する者の同意を得ていないこと」として同意を求めています。その「転用行為の妨げとなる権利」については、やはり明らかにされていません。解釈・運用に任されているのでしょうが、実務は先に述べたとおりで、農水省もそれを認めているのかどうか、まだ確認できていません。これは簡単に調べられるので、近いうちに問い合わせてみたいと思います。

 

と今日は別の話題(米海軍が111日付けで報告した最近のイージス艦衝突事故原因)を取り上げるつもりが、そろそろ帰宅時間になりましたので、今日はこの辺でおしまい。別の機会にします。


寺・僧侶の今様 <「梅旧院」脱税 納骨堂担保に多額融資><京都和婚>などを見てふと思う

2017-11-01 | 公共事業と多様な価値

171101 寺・僧侶の今様 <「梅旧院」脱税 納骨堂担保に多額融資><京都和婚>などを見てふと思う

 

数日前でしたか、ニュースで京都のお寺さんで最近広がりつつあるは結婚式場・お泊まり付きが話題になっていました。しかも著名なお寺で、本堂はもちろん、宿泊する部屋も風格ある庭に面しているということで、これはなかなかのものでした。

 

私が京都の滞在していた時代、東山山麓に住んでいましたので、詩仙堂は散歩コースでした。その見事な庭園を前にして一時を過ごすのがなによりも代えがたいものでした。観光客が少ない時を選んでいくこともできましたので、ほぼ一人で対峙することもできました。

 

そういった庭園のあるお寺はかなりありますが、たいてい人が多かったり、あるいはそれを嫌って閉ざしていますね。

 

それが自分たちだけの部屋として提供されるのですから、それは信仰心が薄くても、最高の一時を味わえるのではないでしょうか。都心の最高級ホテルでは、いくら豪華な部屋の作りであっても、庭が立派でも、自分たちの部屋とかけ離れた空間でしょうから、高価な割には、日本的情緒を心から味わうのは容易でないでしょう。ま、若い方はそんな日本情緒よりも豪華さにあこがれる方が多いかもしれないので、それはそれでバランスがとれているのかもしれません。

 

ただ、お寺や僧侶が葬式仏教とけなされ、まるで死者をのみ取り扱うというか、そういった場所といつしか固定観念ができあがってきたようにも思えます。京都や奈良、あるいは鎌倉のお寺のように、観光名所として著名な場合は入場料などをとっても多くの人が訪れますが、普通のお寺だとむずかしいでしょうね。

 

この和婚の場合も含め、お寺をさまざまな現代の檜舞台的に使う考え方は、斬新な感じもしますが、本来、お寺は多様性があってしかるべきではないかと思います。その意味で、こういった取り組みは賛成したいですね。

 

ちょっとウェブサイトをみると、<京都和婚>とか<あこがれの京都で結婚!挙式OKな歴史的建造物・寺社仏閣まとめ>とか、いやいや各地でも類似の企画があるようです。お寺・僧侶の多様性、現代的意義を見いだす取り組みかと思います。ただ、結婚式を派手に多額の費用をかけるということ自体は、そろそろ地球環境を考えて見直してみてはとは思います。

 

次いで言うと、教会での結婚式は以前からわが国でも利用される方がいたかと思いますが、ついマルチン・ルターによる宗教改革を思い出します。キリスト教の信仰において教会が必要かという本質的な問題を投じて、プロテスタントを生み出す発端になったと言われていますね。私自身は半世紀近く前にそういったことを少し勉強したように思うのですが、いつの間にかルターの名前も忘れていたら、先月の毎日新聞の企画で500年記念を祝う連載があり、つい思い出しました。

 

と、なにか脈略もなく前置きが長くなりましたが、資源・人材があれば、お寺・僧侶も現代の無宗教時代?の中で、生き抜くことができますが、今朝の毎日記事<「梅旧院」脱税納骨堂担保に多額融資 逮捕の社長、宗教法人に>はなんとも悲惨な例ではないかと思ったのです。

 

都心では墓不足です。信仰心があまりなくても、死んだら墓に入る、その墓を求めるのも執着でしょうか。いずれにしても普通の墓は高額です。それに変わるものとして納骨堂、しかもマンション型の納骨堂ビジネスは一つの解決策として増大しているようです。

 

でもお寺・僧侶にはそのような経営の才覚は持ち合わせていないのが普通です。本来、そうあってはならないでしょう。法然、親鸞、日蓮、一遍、栄西、道元と宗教改革ともいうべき宗教の大衆化を担った宗祖は、おそらく一度も経営的な事業を行おうとしたことがなかったのではと思うのです。ま、庇護者がいたことは確かですが。

 

普通の僧侶・住職は、やはり生活をしていかないといけない。土地も資産も、檀家もないか、乏しい。となると、石材店や経営コンサルタントといった人に頼ってしまうのでしょうか。

 

でも悲しいですね。お寺にとって基本財産ともいうべき納骨堂を担保にして融資を受け、しかも最後には5億円もとなると、にっちもさっちもならないでしょうね。首根っこを融資した脱税業者に握られてしまうことになるのでしょう。

 

ここに80年代から、いやそれ以前からかもしれませんが、宗教法人の運営管理の深刻な問題がいつまでも解決されずに残っている原因があるように思うのです。90年代に当時の厚生省が法改正を検討していましたが、結局、些末な改正にとどまり、いまなお問題をかかえています。

 

それでも今回のような問題も、行政が監督をしっかりしていれば、実質的なオーナーが跋扈するような事態にはならなかったと思うのです。納骨堂を担保に借り入れを行うことは

 

宗教法人法はその点の配慮はしています。

(財産処分等の公告)

第二十三条 宗教法人(宗教団体を包括する宗教法人を除く。)は、左に掲げる行為をしようとするときは、規則で定めるところ(規則に別段の定がないときは、第十九条の規定)による外、その行為の少くとも一月前に、信者その他の利害関係人に対し、その行為の要旨を示してその旨を公告しなければならない。

一 不動産又は財産目録に掲げる宝物を処分し、又は担保に供すること。(一部省略)

 

(行為の無効)

第二十四条 宗教法人の境内建物若しくは境内地である不動産又は財産目録に掲げる宝物について、前条の規定に違反してした行為は、無効とする。(一部省略)

 

今回のような担保提供は公告しないといけませんし、していないと無効になります。また、所轄官庁に藻財産目録を提出しておく必要があります。

 

ところが所轄官庁は、お寺について、信仰の自由という憲法上の保障があることや、戦前の弾圧の反省もあってか、どちらかというと控えめです。むろん消費者被害が発生するような場合は動くでしょうが、この担保提供だけだと、内部問題ともいえるので、檀家でも問題にしないと、わからないのが実態でしょう。

 

はたして現在の墓地埋葬法において、墓地経営主体を自治体ないしは宗教法人としていることが、今後も成り立ちうるのか、検証し見直しを検討する機会がきているように思うのです。

 

資料整理の仕事が長引き、ブログを書く元気がなかったこともあり、少々疲れてしまいましたので、今日はこの程度でおしまいです。

 


指導のあり方 <福井・中2自殺 怒声、身震いするほど ・・・>を読みながら

2017-10-17 | 公共事業と多様な価値

171017 指導のあり方 <福井・中2自殺怒声、身震いするほど ・・・>を読みながら

 

情報が多いのでどうも記憶がはっきりしていませんが(ただの高齢化でしょうね)、数日前のTV放映で、たしか高校野球の名門指導者の声を拾っていました。インタビューアーは東大野球部でもピッチャーをやっていたという大越NHK元キャスター。

 

大越氏いわく、以前は指導者が一方的に指導して、練習量を増やすことが中心で、いわゆるしごきが当たり前だったというのです。同年代の広島で活躍した小早川元選手も同感といった感じでしたか。

 

私はへたくそな高校球児で、彼らよりはさらに古い世代です。もう監督が一方的に練習メニューを用意し、ノックは本数を増やすことが中心で倒れるまでやるといった感じでしたか。さらに先輩からは一人のミスが出れば全員に「けつばん」といって、バットでおしりを打たれるなど、いろいろしごかれました。個々の選手が自主的に考えてといった雰囲気はゼロでしたか。

 

ただ、別のチームのピッチャーと同じ電車で通っていたことから、少し先輩で甲子園でも少し活躍した人でしたが、彼は自分でノートを作り、自分なりに日々どんな動きが必要かとか、自分のフォームなども描いているのを見せてくれアドバイスしてくれたのをいまでも覚えています。そんな風に自分で考えて練習するんだととても印象的でした。が、自分のチームではただただ一年休みなしの量だけの練習といった感じでしたか。そしてどなることが当たり前でした(監督は殴ると言うことはなかったかもしれません、当時としては珍しかったかも)。先輩からのしごきもかなりきついものでした。

 

でも当然ながら、最近は様変わりしつつあるようです。その番組で紹介されたのは、とりわけ強豪校の履正社、広陵?、早稲田?だった記憶です。履正社だけ覚えていますが、球児が自主的に練習を始め、自分で考えてやっているというのです。ノックも、決まり切ったルーティンで同じことをするのではなく、実践を想定した場面にその都度切り替え、それに応じた対応を瞬時に求めるものでした。たしかに自分で反射的に考える必要があるのはわかります。でもほんとうに自分で考えて練習していると言えるかとなると、若干、疑問があります。練習のあり方、ノックの仕方についても、生徒から監督に提案するなどができるとか、より自主性が生まれるのではないかと思うのです。

 

他方で、筋トレとかどの筋肉を強化する必要があるかとかについて、トレーナーなど専門的・科学的なアドバイスに基づき、練習をする傾向にあるようですが、これこそ望ましい方向ではないかと思うのです。ただ、しかったり、どなったりするのではなく、その指導が科学的な知見を基に、適正に個別的に行うことが求められているのだと思います。むろん一般の学校ではそのような費用を用立てることは容易でないとしても、それが子どもの将来に有効なものだとすれば、両親などが経済的な支援をすることに躊躇しない可能性が大ではないかと思うのです。

 

と、見出しのテーマと関係ないような話になってしまいましたが、通常の学校教育においても同じ精神というか、指導の基礎が必要ではないかと思うのです。

 

新聞記事だけでは、正確に事実関係を踏まえることができないことを前提にしつつ、少し記事を基に議論してみたいと思います。

 

事件は<福井県池田町の町立池田中学校で今年3月、2年の男子生徒(当時14歳)が飛び降り自殺した問題>です。<有識者による調査委>が調査した結果、<担任教諭が男子生徒を叱責するのを目撃した生徒らが「(聞いていて)身震いするくらい怒鳴っていた」などと話していることが分かった。>として、この点について、委員の一人である<松木健一・福井大大学院教授(教育心理学)は15日の記者会見で「他の子がいる中で叱るのは指導の範囲を超えている」と批判した。>ということです。

 

叱ることも指導の一方法だと思いますが、その叱る理由、しかり方、TPOなど、とても大事なことですが、残念ながら教師の中にはこのことの適切な方法を理解できていない人が少なくないのかもしれません。

 

いや、そういう私自身、怒ること、叱ることは、17条憲法で聖徳太子(一応実在説に立てば)がしっかりと慎むこと、強いて言えば禁じ手であるかのような定めをしていることを常に意識していますが、なかなか人間、その域に達するのは容易でないですね。

 

ただ、教師は、生徒という大勢のいま成長期にある子どもを教育指導する立場、職業に就いている専門家といってよいでしょう。となると、常にこの指導方法は適正に行うことを生涯を通じて習得していく必要があるように思うのです。

 

ましてや、叱られた生徒が、自殺するような事態に陥ることを絶対に避ける必要があるでしょう。

 

記事によると、調査結果では<担任は30代男性で、副担任は30代女性。男子生徒は2人からしばしば叱責されていた。2年生後期から生徒会役員になったが、昨年10月、マラソン大会の準備が遅れたことを理由に担任に大声で叱責された。目撃した生徒は調査委に「身震いするくらい、すごい怒鳴っていた。かわいそうに感じた」と証言した。>とのこと。

 

このときは、叱責の理由は<マラソン大会の準備が遅れた>ことです。それが他の生徒、教師が聞こえるほど<「身震いするくらい、すごい怒鳴っていた。>というのです。

 

これだけとってみると、叱った副担任の弁解を聞く必要があるものの、やはり準備が遅れたことについて、人前で譴責する合理性があるか、しかもそばにいる生徒が怖がるほどというのは、まさに家庭内DVに匹敵する暴力ともいうべき行為で、指導の限度を超えていると言わざるを得ません。

 

ところが、いまなお、このような指導という名前での叱責がまだ行われていることを仄聞します。私自身、半世紀前の世界ですが、当時は割合当たり前だったように思うのです。でもそれが自由な心の育成や、子どもの健全な心の形成には有効でないことは常識になっているのではないでしょうか。

 

教師の叱責は、繰り返し行われていることが指摘されています。

<更に担任が今年1~2月ごろ、職員室前で叱責した際「お前(生徒会を)やめてもいいよ」と発言。同2月上旬には生徒会主催の行事で忘れ物をしたことを大声で叱責した。目撃した複数の生徒は「言い方がひどかった」「(男子生徒は)下を向いて暗い感じだった」などと証言した。>

<昨年11月、副担任から宿題を出していない理由を問われ、生徒会や部活動のためだと話した。副担任が「できないならやらなくてよい」と言うと、「やらせてください」と土下座しようとした。自殺前日にも副担任から宿題のことを聞かれ、過呼吸を訴えた。>

 

もう一つ重要な事は、教師が叱責する場合、生徒がどのような反応をするか、しっかり受け止めているか(場合により愛の鞭になりうる可能性も否定しません)を注意深く見ているかが重要ではないかと思うのです。とくに自殺前日は、過呼吸を訴えているにもかかわらず、副担任は、それにどう対応したのでしょうか明らかでありません。校長など上司に報告して対応のアドバイスを受けることも必要でしょうし、とりわけ両親には報告すべきことではないでしょうか。いや、それ以前の段階で、それぞれの叱責について両親に話をする必要があったかもしれません。叱責と生徒の反応をどうみたか、調査結果が記事となっていないのでわかりませんが、調査もその点を大事にしてもらいたいですね。

 

そして生徒の様子を注意していれば、より早い段階で生徒の異常に気づくことができた可能性があります。過呼吸に至ったことは緊急事態との意識がなぜ生じなかったのか、教師の指導方法というより、教師の生徒に対する姿勢を根本的に見直す必要があるのではないでしょうか。

 

すでに一時間がすぎました。今日はこの辺でおしまいとします。中途半端はいつもながらですが。


至福の読書のあり方 <経済観測 今、図書館がおもしろい・・関幸子>を読みながら

2017-10-11 | 公共事業と多様な価値

171011 至福の読書のあり方 <経済観測 今、図書館がおもしろい・・関幸子>を読みながら

 

五木寛之著『玄冬の門』で、五木氏は人間の一生について、次のような古代インド(左)と、中国(右)の分け方を紹介しています。

学生期(がくしょうき) 青春(せいしゅん)

家住期(かじゅうき)  朱夏(しゅか)

林住期(りんじゅうき) 白秋(はくしゅう)

遊行期(ゆぎょうき)  玄冬(げんとう)

 

著作のタイトル「玄冬」は最後に当たるわけですね。ところが五木氏は「玄冬というのは、生まれたばかりの、まだ何もわかっていない幼い子どものことで、生命の芽生えがそこからうまれてくる」という説があるとのこと。でも五木氏は、「高齢期、老年期だと考えます。」というのです。この玄冬に関する2つのとらえ方に人間の一生の妙があるように思えるのです。それはもう少し後で触れます。

 

五木氏は、上記の4つの区分について、第1期は勉学時代、第2期は社会に出て仕事をして家庭を持ち社会的役割を果たす時代。いわばここまでを従来の定年までとするのでしょうか。そして特徴付けるのはそれ以後を2つに分けていること。「白秋」を「生存競争の世界から離れて・・・静かな境地に暮らす時期」というのです。ではこの後の「玄冬」はなにか。それが本書で披露され展開されるのです。

 

私自身とからめていえば、もう朱夏が過ぎ、白秋に入っているかなと思いつつ、朱夏に後戻りというか、朱夏が何割か、白秋が何割か、そして玄冬にも首を突っ込んでいるという感覚です。

 

ではその玄冬はどんな時代でしょうか。場合によっては認知症になりおむつをしているかもしれません。でもそれは玄冬自体が赤ん坊時代をも表しているのですから、恥ずかしがることもなく、自然なことだと、五木氏は言うのです。

 

実のところ五木氏はいま85歳ですが矍鑠としています。いろいろ核心的なことを書いていますが、そのいくつかを紹介します。まずは家庭内自立です。それは自立の獲得でしょうか。配偶者、子どもの世話にならず自分で自分のことをするというのです。ですから孤独は求めるもので、そこに初めて真の解放された自由が生まれるといっているように思うのです。

 

孤独は苦しみではないのです。たとえば読書です。これほど古今東西の豊かな知見と対話できる時間は心の豊穣さを培い満たすといっているように思えます。絵画や音楽などさまざまな芸術も直接美術館や音楽会にいくのでも、図書館で書跡やCDを借りても十分楽しめる(これは私の見方)と思うのです。

 

で、五木氏の『孤独死のすすめ』や、『玄冬の門』の話からすると、若干、牽強付会のきらいはないわけではありませんが、図書館の役割は大きいと思っています。

 

毎日朝刊の<経済観測今、図書館がおもしろい=ローカルファースト研究所代表取締役・関幸子>という小さな記事、興味深く読みました。

 

まず図書館の最近の変容をとりあげています。<日本には公共図書館が3261カ所あり、この10年でその姿は静から動へ、大きく変化してきた。きっかけを作ったのが佐賀県武雄市図書館だ。蔦屋書店を運営するカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)に指定管理者制度で企画・運営を任せ、カフェの併設、新刊本の販売、ビデオレンタル、Tポイントカードによる貸し出し等、民間企業のサービスを前面に押し出し、滞在時間と利用者数を倍増させた。>

 

さらにビジネスパースン向けの例もあります。<東京の千代田図書館は携帯電話、打ちあわせOKゾーンの整備、あえてビジネス関連図書を貸し出さず常に閲覧できる状態を作り出すなど、ビジネスマン重視の運営を行っている。>

 

他方で、中心市街地活性化の起爆剤として作られたものも<筆者が基本コンセプトを書いた富山市立図書館は、ガラス美術館との合築。中心市街地の集客施設と位置付け、公共交通で来場してもらい、帰りに商店街で買い物や飲食へと回遊性を高める仕掛けだ。また、雑誌500タイトルはすべて企業の寄付で賄うなど、官民連携体制を組み込んでいる。>

 

海外の例も紹介されています。<海外でも図書館の進化は著しく、台湾では24時間の無人自動貸し出し図書館、シアトル図書館ではジョブセンターが併設され、仕事に必要なパソコンスキル研修を行っている。>

 

最後に<日本では団塊世代が70歳を迎え、24時間地域で過ごす人口が増加し、図書館は読書や貸し出し機能だけでなく、本を通じた交流が育まれる居場所としての機能が大いに期待されている。例えば、毛糸の本を見ながら編み物教室が開かれてもいいし、子どもたちが宿題を広げるなど、にぎやかな図書館こそ望まれている。>

 

五木氏がおすすめの玄冬の門で描かれた生き方とは異なる意味合いとなっていますが、図書館機能のあり方という面では検討されてよいのではと思うのです。

 

ところで、私はたぶん図書館のヘビーユーザーの一人でしょう。当地和歌山に来る前に、書跡・資料を10トントラック一台分で処分してもらってきました。それでも処分せずにもってきた書籍類はまだ残っています。では読むかというと、現在の関心からは少し遠のいたので、果たして今後再び手にするかは怪しい状況です。

 

むしろ図書館には膨大な数の書籍がありますね。むろん国会図書館やそれぞれの専門図書館と比べると、地域の図書館は大阪府立でも和歌山県立でも、かなり見劣りします。でも私程度だと、これで十分で、当地にやってきて来年で10年になりますが、まったく読めていません。古今東西の著者との対話は至福の時間でしょうか。

 

ところでたしかに図書館の書籍提供サービスと、さまざまな最新のサービスとの連携を探ることは一つの選択として、今後も検討してもらいたいと思います。しかし、図書の自由な利用という点ではさらに工夫があってもよいかと思うのです。一回の貸し出し本数の制限を拡大したり、制限自体をなくしたりするのも一つの策です。

 

他方で、返却期限は一定の合理性があるものの、異なる方式の選択も検討してみる価値があると思うのです。たとえば私が経験したカナダの大学の例ですが、書籍はいつまでも借りることができます。しかし、借りたい希望者が出てくると、返却催促が図書館から借りた人に送られてきます。返却猶予期間は若干あったと思いますが、それに遅れると制裁金的に一日当たりだったかお金を払わないといけなくなります。一冊くらいならたいしたことがないのですが、10冊とか20冊以上借りていると、すぐに本一冊分を超えることもあり、驚きます。

 

なかなか簡単ではないですが、あまり利用されていない本なんかだと(私の場合それがほとんど)返却期限があると気になります。いい工夫があるといいのですが。

 

今日はこの辺でおしまいです。