たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

海と山と川と <ワカメ 鳴門の渦潮がアメとムチ>を読みながら

2019-04-03 | 紀ノ川の歴史・文化・地理など

190403 海と山と川と <ワカメ 鳴門の渦潮がアメとムチ>を読みながら

 

今日もブログが続いています。先月のいつ頃からでしょうか、わが家の前に立ち並ぶ桜並木が芽吹きそうになり、新しく買った65倍ズームのカメラを手ぶれ覚悟で練習の意味で毎日一枚くらいを撮ってきました。手ぶれがひどいのでとてもアップに耐えられません。今日は仕方なく、三脚を持ち出し撮影しました。ところが三脚でも被写体まで遠すぎるためかぶれてしまいます。シャッタースピードも解像度も値段相応ですし、いやいや、すばり腕のせいでうまくいきません。それでも現状を認識するためアップしておきます。

 

なぜ日本人が桜に惹かれるのか、西行があれほど詩のテーマにしたのか、私には両方とも謎の世界ですが、元号と同じように、不思議な現象と思う日本人も結構いるのではと思うのです。

 

とはいえ西行の

 

ねがはくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月のころ

 

と歌った、そのことばどおりに生を全うした姿はやはり魅了されます(桜ではなく生き方として)。

 

といって忠臣蔵の浅野内匠頭のように桜が残っているとは思えない旧暦314日(新暦418日)に「風さそうはよりも・・・」と辞世の歌を告げたとかはどうでしょう。とりわけ劇ストーリーとして桜散る場が用意されたのもあまりに技巧的すぎるかと思うのです。明治以降の軍事国家体制の結末は、桜散るということで、わが国民性が偽装されたように思ってしまいます。それは西行を含め日本人の心を形成してきた歌人たちの思いとは背反するものであったと思うのです。

 

さて今日のテーマは毎日記事<美食地質学入門第13講 ワカメ 鳴門の渦潮がアメとムチ>です。

 

当地にやってきて何度も南海フェリーを使って、和歌山・徳島間を往復しました。フェリーから淡路島が遠くに見えるものの、友ケ島水道、鳴門海峡は狭い海の通り道がある程度にしか見えません。というか、普段はフェリーを利用するのは、横になって休むためですので、外を見ることはほとんどありません。車の運転が最近とみにきつくて1時間も走ると心身共に疲れてしまうので、フェリーで休むことでなんとか体がもっている感じです。

 

そんな私でもこの海はいつも気になっていました。だいたい東から吉野川、紀ノ川と西方に向いて流れ、海に出た後、次の陸地にはやはり吉野川が西方に流れています。しかもそれぞれ北方と南方に山が並行しています。なんだろうと思っていました。たしかに中央構造線が九州から四国、近畿を貫き、東海にまでほぼ一直線に続いています。それがなにか意味があるのかしらと思う程度でした。

 

その悩みの人とが少し謎解きしてもらい、その地形的特徴が美味しい魚介類を産んでいるとかという話で、美食談義をされるのも、まったくグルメとは関係の無い身でも見聞するだけで楽しいものです。

 

鳴門のワカメが美味とは知りませんでした。その理由が地形にあるそうです。

 

あのフィリピン海プレートの<斜め沈み込みによって淡路島が隆起した。同じ時期に、四国の讃岐山脈から淡路島南端、和泉山脈ときれいに並んだ山地も隆起した。>

 

たしかにこういった山脈群は見事なほど、川の北側で隆起している印象があります。川が四国では東方に流れ、近畿では西方に流れ、その一直線の北側に山が並んでいますね。

 

ワカメのおいしさについては大引さんが<「潮の流れが速い所で育つので、弱い部分が流されて強いワカメだけ残る。四国の川から流れ込む栄養分に加えて、渦潮で対流が生まれて海底がかき混ぜられ、酸素が行き渡るので環境は最高>とのこと。

 

なぜ海峡と水道が生まれたのか、ここでは説明がなかったのですが、海の養分は山から流れ出した有機物などが川を下って海にでるからでしょうかね。

 

紀ノ川という呼称がいつころからなのか、元はどうだったか、もしかしたら吉野川と呼ばれていたのではと思うのですが、そういう文献を見た記憶があります。絵図などでは「大川」との表示もありますが、おそらくは律令時代以前、紀氏が登場したころには紀ノ川と呼ばれていたのかもしれません。では吉野川はいつからでしょうか。飛鳥時代には吉野や吉野川は定着していたのでしょう。

 

といって書紀では神武天皇の東征でも、「吉野」が登場しても吉野川はなぜか出ていません。紀ノ川も。まあ、このあたりは8世紀に成立した歴史書ですので、あまり当てになりませんが。

 

ともかく吉野川、紀ノ川、吉野川の川や、その北方、南方の山脈は歴史時代はもちろん、縄文以前からすでに現在に近い地形であったのでしょうね(むろん一筋の川ではなかったでしょうけど)。

 

で、今日書こうと思ったのは、<マップみんなの海図>です。これは無料でアクセスでき、非常に便利です。この海図によると、大阪湾はやはり水深20mくらいがほとんどですが、なんと友ケ島水道と鳴門海峡のあの狭いところが、とても水深が深くなっているのです。前者は最大震度160m、後者が180m、狭い上に極端に掘り下がっているので、断崖絶壁のようにも感じられます。なぜこういった絶壁のような海の谷が生まれるのでしょう。それも狭い故に生まれる海流の速度によるものでしょうか。海流によって掘り削られてだんだん深くなったのでしょうか。潮の満ち引きと海峡地形がなせる技でしょうか。

 

海の表面だけを見ているとわからない、海底地形です。そこになにかまた秘密がありそうです。

 

そんなどうでもいい話をこの美食談義を見聞しながらつい考えてしまいました。今日はこれでおしまい。明日も続きそうです。


歩く道(その9) <名作をイメージしながら荒川荘を歩く>

2019-02-10 | 紀ノ川の歴史・文化・地理など

190210 歩く道(その9) <名作をイメージしながら荒川荘を歩く>

 

昨日は雪が降っていたのと午後に仕事が入ったので、歩くのを止めにしました。今日は晴れ間が時折顔を出し多少風が冷たかったものの気持ちよく歩くことができました。ただ予定をオーバーして結局、NHK囲碁の時間を見過ごしてしまいました。

 

さて今日は山陰加春夫編『きのくに荘園の世界 上巻』所収の村田弘氏が執筆したユーモアたっぷりの「荒川荘を歩く」で紹介されている箇所の半分に当たる、三船神社、興山寺、奥家の屋敷跡、それに美福門院御墓地を訪ねました。

 

荒川荘といっても歴史好きとか、和歌山の人でないと、それどこと思われるでしょうね。いつ頃成立したのかはっきりしませんが、平安末期にはあったようです。場所は東が粉河寺が支配する粉河荘、西が根来寺の支配地と接して、紀ノ川の両岸に南北にあったとも言われています。

 

他方で、西行の実家、佐藤家が管理していた田仲荘は同じくらいおところで、紀ノ川北岸と南岸の一部を支配していたようです。それで田仲荘(西行時代は徳大寺領だったと思います)と荒川荘は境争いが絶えなかったようです。その主要な要因は、紀ノ川がたびたび氾濫し、河道が変わり、農地も永続性がなかったわけで、境界線もはっきりあるわけでないでしょうから、境界紛争は力勝負だったようです。むろん多くの幕府や朝廷による裁許がありますが、絵図なども提出されることがあったようですが、なかなか合理的な根拠を見出せなかったと思います。

 

以下では、上記著作を基に少し荒川荘をめぐる事件を紹介します。中世の世で悪党と糾弾された源為時を筆頭とする郎党が荒川荘を拠点に、大勢を死傷に追いやったり乱暴狼藉をしたということで、高野山金剛峯寺から名付けられたのです。

 

その大きな転機というか引き金は、元寇の役が一応終わってまだ臨戦態勢にあったとも思われる1285年(弘安8年)に、荒川荘に下された鎌倉幕府の決定です。元寇に対してリーダーとして活躍した北条時宗が84年に死去し、新執権の外祖父・安達泰盛が実権を握って幕政改革を進める中、なぜか金剛峯寺びいきの措置をしたのです。一つは現在もある町石道寄進のスポンサーとなり、もう一つは紀ノ川以南、貴志川以東を、弘法大師御手印縁起の地として、紀伊一宮天野社(金剛峯寺鎮守)にするとしたのです。

 

たしかに天野社は元寇退治の祈願をしたと記憶しておりますが、こういった一方的措置を鎌倉幕府が下したのは、あまり根拠がなく、安達氏の高野びいきがあったのでしょうか。

 

それで怒った?源為時ら一族郎党が、近隣と死闘に及び、金剛峯寺がけんか両成敗で、両者の土地を没収した上、その後も2年間かけて40軒の住宅を焼き払ったと言われています。すると今度は、1291年には金剛峯寺のトップを筆頭に数百人が荒川荘を襲い、40軒の住宅を焼き払ったというのです。その後に金剛峯寺が「荒川悪党人の身柄引渡」の命令書を発布したのです。なにか一方的すぎるように思います。

 

そんな物騒な時期もあった荒川荘(安楽荘とも表記するようです)は、現在、桃で有名で張る近くになるとピンク色に町が染まります。名前までいつの間にか桃山町になっています。

 

紀ノ川南岸から広範囲に平坦な土地がありますが、中世時代は紀ノ川河道で、護岸工事で生まれた土地が広がっています。以前、貴志川の氾濫をこのブログで取り上げましたが、その当たりも含め元々、河道、そして氾濫源だったところですね。

 

で、今日訪れた三船神社と興山寺は、丘陵地に窪んだところがあり、そこに柘榴川(ざくろ)が流れていて、その双方の高台ないし麓に鎮座しています。荒川荘は柘榴川の扇状地に耕作適地となって肥沃だったのかもしれません。

 

その三船神社の本殿と言った建物・彫刻は、根来寺の大工の手によるものとか。根来寺は最先端の鉄砲鍛冶だけでなく漆器とかさまざまな技術職の人が大勢集まっていたようです。大工もそうですね。拝殿から覗いてみましたが、少し遠目でしたので、その良さは素人には分かりませんでした。

 

ついで興山寺まで一旦下り、柘榴川を渡り、そして坂道を登ってたどり着きました。興山寺といえば、金剛峯寺(当時は高野山?)を秀吉による攻めから守った応其上人が勅願をえて開基した寺の名前で、明治維新の際、青巌寺と統合して金剛峯寺になっています。

 

その興山寺が今あるというのは不思議に思ったのですが、応其上人が弟子に作らせたというのですね。木食応其は、高野山の麓、橋本で多くの土木事業を行い、この荒川荘までいくつものため池改修などの事業を行っていますが、その布石としてこの寺を置いたのでしょうかね。現在は門が閉ざされ、墓地として提供されていて、どうやら開放的ではなさそうでした。

 

次に訪れたのは、有吉佐和子著『紀ノ川』を映画化したとき、主人公の花が嫁いだ家の舞台となった奥家の屋敷跡が残っているということでしたので、向かったのです。近くまで足を踏み入れ、たまたま犬の散歩をしていた近隣の方がおられて、この屋敷は映画「紀ノ川」の舞台になったところですかと尋ねたら、そうですよといって、長屋門の前の濠などの写真を撮っていたら、いまちょうど家の方が帰ってきているので、家の中を案内してもらったらと、わざわざ家の中に入ってご主人を連れてきてくれました。大阪に住んでおられて毎週帰ってきて家の手入れをしているとのことで、気安く中に入らせてもらいました。

 

ちょうど職人さんに庭仕事をしてもらっていて、入り口の部屋に上がらせてもらいました。ちょうどあの丹波哲郎とか、司葉子、岩下志麻といった名優たちがこの家の前でのカットが額縁に入れた写真で飾ってありました。なつかしいシーンです。

 

家の前の濠はL字型で、家の周りを囲っているわけではないので、これは以前からですかと尋ねますと、そうです、元々ですとのこと。そうなんだと思いながら、家の風格みたいなものとして用意したのかなと勝手に思ってしまいました。

 

最後に美福門院御墓地です。実は往きにその前を通っていたのですが、気づかなかったのです。たしかにそのように表記した墓標がちゃんと立っていますが、上皇の后としての風格とは異なり、どうかと思うのですが、それにしても平安末期に荒川荘と縁が深かったことを示していますね。村田氏の説明では、鳥羽上皇から当地を贈られた美福門院がその菩提を弔うため高野山に寄進したとか。不思議ですね。田仲荘と争っていた荒川荘を美福門院がもらい受けるなんて。とはいえ、西行は鳥羽上皇も慕っていたようですし、美福門院に対しても特段悪意をもった印象はないのですね。高野山の勧進という点でも、美福門院と共通するような印象をもってしまいます。待賢門院珠子への思慕説はまだすんなり来ていません。

 

そんなことを思いながら、ずいぶん歩いたなと思うのです。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。

 

 


橋の命 <橋本・恋野橋 路面接合部にすき間 橋脚傾斜さらに進む>を読みながら

2018-11-06 | 紀ノ川の歴史・文化・地理など

181106 橋の命 <橋本・恋野橋 路面接合部にすき間 橋脚傾斜さらに進む>を読みながら

 

紀ノ川沿いの河川景観は上流から下流まで、それぞれ異なる趣があって、私の和歌山生活を楽しませてくれています。もう少し若かったらカヌーで川下りを楽しむのですが、どうもそのような元気が出てきそうにありません。とはいえたまに和歌山までの往復をするとき、この川のたたずまいは、嫌なドライブ間隔を和らげてくれます。見ていると、気持ちが安らぎます。それでわざわざ河川添いの狭い通りを走ったり、ときに車を止めて歩いたりします。

 

その中で、紀ノ川には多くの橋が架かっていて、ちゃんと名前がついています(他の河川ではときどき橋の名前がわかりにくいことがありますが、紀ノ川の場合は違います)。カヌーで川下りをしていた頃、いったいなんという名前の橋か分からないまま通り過ぎたことが何度もありました。立派な橋なのに、しっかりわかりやすく名前を表示してあげて欲しいと思ったことがありました。とりわけ川を上下する場合、完全に無視されているという印象を持ちます。

 

ところで、橋本市には上流から恋野橋、南海高野線鉄橋(橋梁と呼称しているようです)、橋本橋、橋本高野橋、岸上橋があり、この下流に小田井堰、九度山橋があります。

 

橋本橋は、橋本市という町の名前の謂われとも称される、橋がほぼ現在地に近いところに作られたからと言われています。高野山を秀吉軍から守った、応其上人がその橋を架けて反映の源を作ったとされています。ただ、応其上人がつくった橋は数ヶ月で流され、その後は作り直されなかったとか。当時の土木技術では大河紀ノ川に木造の橋を作ることが困難だったのかもしれません。あるいは当時から渡し船業者が相当な数があり、その反対に遭ったのかもしれません。いやあるいは、吉野杉の筏流し業者が反対したのかもしれません。

 

その後橋が明治維新になった後まで架けられなかった理由は謎のママでもいいかもしれません。紀伊風土記などでは幕末期の渡船の様子や、川上船で賑わう、橋本の町の様子が描かれていて、風情があります。

 

仮に橋を架けたとしても木造ですから、大台ヶ原を含む多くの源流から大量の水が押し寄せればひとたまりもなかったでしょう。

 

たしか南海高野線(昔は別の名前だったと思います)橋が架けられたのは、大正期だったと思いますが、おそらく当初より鉄橋だったのではないでしょうか。それが最初に本格的な橋が橋本に作られたのかもしれません。

 

私も子どもの頃は鉄橋でよく遊んだものです。汽車がぽっぽーと煙を吐いてやってくる様子、鉄橋の下でその轟音を聞くのは田舎の子どものちょっとした楽しみです。中に鉄橋を歩いて渡る勇気試しもあったと記憶しています。

 

ところで紀ノ川の鉄橋は少し長すぎますし、当時は流量も相当だった(ダムのない時代)と思いますから、私のような遊びはできなかったかもしれません。

 

和歌山河川国道事務所のホームページに<紀ノ川上流部の恋野橋などほとんどの橋が映っている左右両岸の航空写真>がありますので、関心のある方は覗いてください。

 

その鉄橋の上流は、左右の段丘が迫り、渓谷のようになっていて、なかなか景観的魅力のあるところだと思います。その渓谷のさらに上流に恋野橋が架かっています。私も以前はよく通りました。この橋から見る景観や、川岸に降りて見る景色は割と好きなものでした。

 

恋野という名前は、奈良当麻寺の中将姫伝説は有名ですが、その中将姫が当地域のひばり山に逃れてきたという伝承がありまして、当地で「母恋し 恋しの野辺や…」と歌ったと言うことで、恋野という名称の由来とされているとか。

 

恋野橋自体はがっしりした鉄骨製のようでして、あまり中将姫伝説を辿る道としては似つかわしくない印象でした。そう私がよく通っていた頃は頑丈そうにみえたのですが、他方でだいぶ以前から付け替え用の橋建設が始まっていました。

 

で今朝の毎日記事<橋本・恋野橋路面接合部にすき間 橋脚傾斜さらに進む /和歌山>の写真を見ると、ぐにゃっと骨組み自他が傾き、橋桁も勾配ができていますね。

 

<橋本市の県道山内恋野線の紀の川に架かる恋野橋(隅田町芋生-恋野、全長142メートル)で2日に見つかった橋脚の傾斜がさらに進み、路面の接合部にすき間ができたことが5日までに分かった。>

 

現在の橋の建設は<県によると恋野橋は1955年に付け替えられた。>ということですから、62年の歳を数えるわけです。まだ若い?といえば若い、もっと頑張って欲しいと思うのですが。しかし、<現在、東側に並行して新しい橋の建設を進めている。>ということで、おそらく劣化による耐久力の低下がすでに診断されていたのでしょう。

 

近隣の人は相当大きな異常音を聞いたそうです。<3日未明に橋脚の傾斜が原因とみられる異常音を聞いたという近くの住民は「鉄板が落ちるような『バーン、バーン』という大きな音だった。また何か起きるのではないかと思うと怖い」と話した。【松野和生】>

 

ところで、これは橋の寿命だったのでしょうか。この橋は幅が狭く普通車同士だと行き交うことが結構厳しくて、普通車と軽自動車なら少し余裕がありました。ところが大型ダンプが頻繁に相当な積載量で通行していたのです。むろん現在は新橋建設のための運搬はあるでしょうけど、それ以前からかなりヘビーな通行量でした。ダンプが通行するときは、むろんダンプしか通れませんので、橋のたもとで待機となります。しかも少し前まで、左岸(北岸)道路は狭くて、ダンプが通ると窮屈でした(現在は拡幅してダンプと行き交うことがスムースになっていますが)。

 

このような大型ダンプの大量の通行を容認してきたことが橋の寿命を短くさせたのではないかとふと思ったりします。それは道路なども大量積載(場合によっては過積載)のダンプ重量によって凸凹になったりする路面をよく見かけますが、道路管理のあり方の問題かもしれません。

 

そんなことを美しい紀ノ川の景観を思い浮かべながら、恋野橋の傾きを気の毒にふと思ってしまいました。なにか我慢に我慢を重ねてついに性根尽きたというような印象を持ってしまいます。

 

今日はこのへんでおしまい。また明日。


紀氏と「木村」姓 <日本人のおなまえっ!選【村がつく名字】>を見ながら

2018-06-29 | 紀ノ川の歴史・文化・地理など

180629 紀氏と「木村」姓 <日本人のおなまえっ!選【村がつく名字】>を見ながら

 

昨日も少しむしむしする夜でした。そしてサッカー・ロシアW杯の決勝トーナメント進出をかけた大一番が始まる午後11時がもうすぐでした。が、その開始時刻を迎える前に眠気が勝ってしまい、試合の行方は夢の中。

 

今朝のNHKラジオ番組「すっぴん」では高橋源一郎氏登場の日なので久しぶりに聞いていると、源一郎さん(とラジオでは呼ばれているのでそう呼称させてもらいます)は日本中?が騒いでいるロシア大会のこと、日本代表チームの活躍や決勝進出のことも、一切知らない、蚊帳の外にあって、初めて知ったとのこと。これは素晴らしい、だれもがTVや多様な情報媒体が取り上げるテーマに踊るわけではないのですから、当然ですね。源一郎さんのいいところはこういう情報の波を気にしないところでしょうか。

 

ところで、決勝進出という結果はわかったのですが、その後の情報を確認すると、見ていた人は誰もが冷や汗をかくどころか、日本チームの試合運びに不満やわけがわからないといったいらだちもあったことが想像できます。見なくて良かったと思う次第です。

 

とはいえ、西野監督の恐るべき決断と選手一丸の薄氷の上を歩くプレイは、仮に決勝進出できなかったとしても、評価されてもいいかもしれません。それはサッカーの試合、ワールドカップの意義を貶めるとの批判とか疑問を私も感じつつ、他方でそこまで割り切れるメンバーたちにやはり拍手を送りたい思いです。

 

またまたサッカーW杯の行方の話になりましたが、昨夜はNHK番組を見て少し考えながらぐっすり眠ってしまったのです。それは<人名探究バラエティー 日本人のおなまえっ!選【村がつく名字】>です。時々見ていますが、見るたびに人の名前っていろんな姓があり、面白い来歴があるものだと感心するのです。

 

昨夜も「村」のつくいろいろな名前の由来が話題となりました。その中で、「木村」という名前について、私は考えたこともありませんでしたが、紀氏と関係することがわかりました。

 

途中から見たので正確ではないですが、たしか木村という地名が使われているところが全国に4カ所か5カ所あり、それが紀氏と関係するというのです。普通は木が多いところとか、特別な木が生えているところとか、そういったイメージを浮かべますが、紀氏という氏族が古代に拠点を置いていたことから名前が残ったようです。氏族の名前というと、逆に地名の名前からとったとも言われますね。

 

紀氏といえば、藤原不比等を筆頭に藤原家が政権を担うようになる前までは、大伴氏とともに文武両道に秀でて、軍事部門を担う有力者だったと思います。

 

桓武天皇の時代ころに、東北蝦夷の征討軍を率いたのは当初は、たしか大伴氏、紀氏でした。その紀氏の一門が関東など各地で拠点を置き、中には古墳を作ったようです。そういった拠点の中に、紀氏の村という名前が残り、いつの間にか「木村」に変わったのでしょうか。

 

あるいは紀氏という名称を使うことがはばかれるようになったのでしょうか、「木」という当て字を使うようになったのでしょうかね。類似のケースとしては、蘇我氏の場合はいえるのではないでしょうか。「蘇我」という地名は千葉市の近隣にある場所しか知りませんが、ほとんどは曽我とか、曽賀とかに地名も、人名も変わったのではないかと思うのです。

 

ところで、紀氏については、以前も紹介した日根輝己氏がいくつかの著作で詳しく論述していて、『紀氏は大王だった』では天皇に匹敵する存在であった可能性を示唆しているように思います。その中身はいま思い出せないので、割愛します。

 

ここまで紀氏を取り上げてきたのは、「紀ノ川」という名前をいつも心のどこかで気にしているからです。一級河川というのは行政上の区分ですが、紀ノ川はむろん一級河川ですし、やはり大河の一つといってもよいと思うのです。でも不思議なのは和歌山県境を東に一歩踏み入れると、吉野川に名前が変わるのです。いつからそうなったのでしょうか。いや、そもそもどちらが先に名前がつけられたのでしょうか。はじめから2つの名前だったのでしょうか。それが不思議なのです。

 

これだけの大河の名前が流況なり河川形態上、識別するものがないのに、昔で言えば国が変わったから名前が変わるといったことがあったのでしょうかね。あまり調べたことがありませんが、支流になると(そう識別されると)、別の名称がつけられるのはわかります。でも吉野は国名でもないですね。地域の名前として古代では宮をおいたりして、由緒正しかったので?、吉野川ありきだったのでしょうか。

 

他方で、紀伊の国に入ると(紀氏がいつ頃からいつ頃までこの地に支配を及ぼしていたかはっきりしませんが)、紀ノ川と名前を変えるだけの影響力があったのでしょうね。といっても吉野川も、紀ノ川もその名前の命名時期をいつ頃とできるのかもわかりませんが。

 

実際、行政上は、戦後初期にようやく吉野川と紀ノ川を総合する河川計画が樹立できたようで、何百年にわたって水利・治水事業を総合的に行うことを阻んできたわけですから、名前の違い以上に、その河川流域の人たちにとってみれば、大きな壁があったのでしょう。

 

さて分けのわからない顛末になりそうですので、この辺でおしまいとします。また明日。


馬冑と紀ノ川文明 <古代の馬のマスク「馬冑」 大谷古墳で世界初出土>を読みながら

2017-12-01 | 紀ノ川の歴史・文化・地理など

171201 馬冑と紀ノ川文明 <古代の馬のマスク「馬冑」 大谷古墳で世界初出土>を読みながら

 

晩夏に大谷古墳を訪れたことをこのブログで書いたような、危うい記憶が残っています。だいぶ日差しの強さも弱まったとは言え、隠れるところのない古墳では散策していると自然に汗が落ちてきた記憶です。

 

だれも訪れる人がいない、わずかにぽつぽつと訪れる程度の、おそらくいまでは忘れ去られそうな大谷古墳の状況でした。とはいえ、時折草刈や周辺の枝払いをしていることは散策路を歩いていても、だいぶ以前にやったことが窺えるものの、年に一度以上はやっているかなと感じました。

 

住宅が密集した奥に、ぽつんと取り残された場所にありました。見晴らしはというと、古墳は前方後円墳型で、全長67m、高さが610mですから周囲の中木よりは高いですが、その程度ですので、木々を通してみる景色は残念ながら壮観とは言いがたいです。まして紀ノ川はわずかに一部が見える程度。古墳時代の紀ノ川の流れは当然、現在と違っていたでしょうし、おそらくは紀ノ川南岸一体も網の目のように自由奔放に流れていたのではないかと思うのです。むろん目の前の木々や住宅もなかったわけですから、そのときの大谷古墳は偉容を誇っていたのではないかと想像します。

 

さて毎日記事に移ります。<きのくに異聞録古代の馬のマスク「馬冑」 大谷古墳で世界初出土 /和歌山>という見出し記事は、山成孝治が馬冑を中心に学芸員の見解をうまく整理してまとめています。

 

まず、<古代、戦に臨む馬の顔を守るために作られた「馬冑(ばちゅう)」と呼ばれるマスク。国内での出土は3例、朝鮮半島でも20例ほどしかない。その実物が和歌山市・紀の川北岸の丘陵にある大谷古墳で今から60年前に世界で初めて見つかった。>

 

馬冑の写真が鮮やかに映し出されていますが、当時は大変な反響を呼んだと思います。その後日根輝己氏が『遙かなる馬冑』『紀氏は大王だった』『謎の画像鏡と紀氏』など一連の著作で紀ノ川文明を新たな視点で取り上げるとともに、橋本の隅田八幡神社人物画像鏡との関係で独自の古代世界を描いていて、とても興味を覚えたのですが、いつのまにか内容があいまいになっていますので、また読み返したい気持ちになりました。

 

<和歌山市教委文化振興課の前田敏彦・文化財班長>による解説に基づくものでしょうか調査の概要は以下の通りです。

 

<本格的な発掘調査が初めて実施されたのは1957年冬。市教委から委託された京都大考古学研究室が約1カ月かけて調査した。一帯からは兵士が頭や体を守った冑(かぶと)や甲(よろい)、矢を入れて腰に下げた「胡(こ)ろく」と呼ばれる筒など多くの遺物が棺の外から出土した。その中から馬冑が見つかった。長さ52・6センチ、最大幅24・5センチ。眉間(みけん)と両側頭部、鼻を覆う4枚の鉄板でできている。>

 

<馬冑は大谷古墳で出土して以降、埼玉県行田市の埼玉(さきたま)古墳群にある将軍山古墳と福岡県古賀市の船原(ふなばる)古墳でも見つかった。朝鮮半島では韓国の釜山市や対馬海峡に面する南部の慶尚南道などで見つかっており、大谷古墳の馬冑も、朝鮮半島からもたらされた可能性が高い。>

 

しかし、わずか3例しか見つかっていない中で、その一つが紀ノ川河口近くの山裾に作られた小規模な前方後円墳で発見されたと言うことをどうみるか、さまざまな推論が成り立ちうるようにも思うのです。

 

兵馬俑では、古墳時代前期から遡っても500年近く前に、すでに馬冑を含め軍馬としての防具が整備され、戦車隊が確立していたのに比べ、わが国では卑弥呼の時代でもわずかな数の馬しか導入されていなかったのではないでしょうか。

 

記紀でいう神功皇后を卑弥呼に当てはめる見解もありますが、その是非は別にして、その子の応神天応や孫の仁徳天皇の古墳をどこに比定するかいまもって議論が確立していないように思われる中、神功皇后の功績について特別詳細に記載している記紀の意図はなんでしょうね。

 

その神功皇后が東遷するに当たり、鞆の浦では鞆を、当地橋本では人物画像鏡をそれぞれ神社に下賜した伝承は興味深く、日根氏を含め多くの方が独自の紀ノ川文明を指摘しているように思えます。

 

その手がかりの一つがこの馬冑であり、人物画像鏡です。最近はブログ書きでこの種の書物をゆっくり読む時間がなくなってきました。というか、一度頭を冷やして混乱した頭の中を整理するための冷却期間かなと思っています。

 

またいつか、この議論を掘り下げる機会を作りたいと思います。