190403 海と山と川と <ワカメ 鳴門の渦潮がアメとムチ>を読みながら
今日もブログが続いています。先月のいつ頃からでしょうか、わが家の前に立ち並ぶ桜並木が芽吹きそうになり、新しく買った65倍ズームのカメラを手ぶれ覚悟で練習の意味で毎日一枚くらいを撮ってきました。手ぶれがひどいのでとてもアップに耐えられません。今日は仕方なく、三脚を持ち出し撮影しました。ところが三脚でも被写体まで遠すぎるためかぶれてしまいます。シャッタースピードも解像度も値段相応ですし、いやいや、すばり腕のせいでうまくいきません。それでも現状を認識するためアップしておきます。
なぜ日本人が桜に惹かれるのか、西行があれほど詩のテーマにしたのか、私には両方とも謎の世界ですが、元号と同じように、不思議な現象と思う日本人も結構いるのではと思うのです。
とはいえ西行の
ねがはくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月のころ
と歌った、そのことばどおりに生を全うした姿はやはり魅了されます(桜ではなく生き方として)。
といって忠臣蔵の浅野内匠頭のように桜が残っているとは思えない旧暦3月14日(新暦4月18日)に「風さそうはよりも・・・」と辞世の歌を告げたとかはどうでしょう。とりわけ劇ストーリーとして桜散る場が用意されたのもあまりに技巧的すぎるかと思うのです。明治以降の軍事国家体制の結末は、桜散るということで、わが国民性が偽装されたように思ってしまいます。それは西行を含め日本人の心を形成してきた歌人たちの思いとは背反するものであったと思うのです。
さて今日のテーマは毎日記事<美食地質学入門第13講 ワカメ 鳴門の渦潮がアメとムチ>です。
当地にやってきて何度も南海フェリーを使って、和歌山・徳島間を往復しました。フェリーから淡路島が遠くに見えるものの、友ケ島水道、鳴門海峡は狭い海の通り道がある程度にしか見えません。というか、普段はフェリーを利用するのは、横になって休むためですので、外を見ることはほとんどありません。車の運転が最近とみにきつくて1時間も走ると心身共に疲れてしまうので、フェリーで休むことでなんとか体がもっている感じです。
そんな私でもこの海はいつも気になっていました。だいたい東から吉野川、紀ノ川と西方に向いて流れ、海に出た後、次の陸地にはやはり吉野川が西方に流れています。しかもそれぞれ北方と南方に山が並行しています。なんだろうと思っていました。たしかに中央構造線が九州から四国、近畿を貫き、東海にまでほぼ一直線に続いています。それがなにか意味があるのかしらと思う程度でした。
その悩みの人とが少し謎解きしてもらい、その地形的特徴が美味しい魚介類を産んでいるとかという話で、美食談義をされるのも、まったくグルメとは関係の無い身でも見聞するだけで楽しいものです。
鳴門のワカメが美味とは知りませんでした。その理由が地形にあるそうです。
あのフィリピン海プレートの<斜め沈み込みによって淡路島が隆起した。同じ時期に、四国の讃岐山脈から淡路島南端、和泉山脈ときれいに並んだ山地も隆起した。>
たしかにこういった山脈群は見事なほど、川の北側で隆起している印象があります。川が四国では東方に流れ、近畿では西方に流れ、その一直線の北側に山が並んでいますね。
ワカメのおいしさについては大引さんが<「潮の流れが速い所で育つので、弱い部分が流されて強いワカメだけ残る。四国の川から流れ込む栄養分に加えて、渦潮で対流が生まれて海底がかき混ぜられ、酸素が行き渡るので環境は最高>とのこと。
なぜ海峡と水道が生まれたのか、ここでは説明がなかったのですが、海の養分は山から流れ出した有機物などが川を下って海にでるからでしょうかね。
紀ノ川という呼称がいつころからなのか、元はどうだったか、もしかしたら吉野川と呼ばれていたのではと思うのですが、そういう文献を見た記憶があります。絵図などでは「大川」との表示もありますが、おそらくは律令時代以前、紀氏が登場したころには紀ノ川と呼ばれていたのかもしれません。では吉野川はいつからでしょうか。飛鳥時代には吉野や吉野川は定着していたのでしょう。
といって書紀では神武天皇の東征でも、「吉野」が登場しても吉野川はなぜか出ていません。紀ノ川も。まあ、このあたりは8世紀に成立した歴史書ですので、あまり当てになりませんが。
ともかく吉野川、紀ノ川、吉野川の川や、その北方、南方の山脈は歴史時代はもちろん、縄文以前からすでに現在に近い地形であったのでしょうね(むろん一筋の川ではなかったでしょうけど)。
で、今日書こうと思ったのは、<マップみんなの海図>です。これは無料でアクセスでき、非常に便利です。この海図によると、大阪湾はやはり水深20mくらいがほとんどですが、なんと友ケ島水道と鳴門海峡のあの狭いところが、とても水深が深くなっているのです。前者は最大震度160m、後者が180m、狭い上に極端に掘り下がっているので、断崖絶壁のようにも感じられます。なぜこういった絶壁のような海の谷が生まれるのでしょう。それも狭い故に生まれる海流の速度によるものでしょうか。海流によって掘り削られてだんだん深くなったのでしょうか。潮の満ち引きと海峡地形がなせる技でしょうか。
海の表面だけを見ているとわからない、海底地形です。そこになにかまた秘密がありそうです。
そんなどうでもいい話をこの美食談義を見聞しながらつい考えてしまいました。今日はこれでおしまい。明日も続きそうです。