たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

ミヤコワスレ <都忘れの花言葉>と<ゴーン前会長 不正送金>

2019-04-05 | 人間力

190405 ミヤコワスレ <都忘れの花言葉>と<ゴーン前会長 不正送金>

 

都忘れの花は、今年、2度手に入れました。すでに事務所に飾ってあるのを忘れてしまい、また買ってしまったのです。可憐な感じですが、温和しいせいか?ついその存在を気づかないこともあります。世の中にはそういう存在は結構ありますね。それは相対的な意味で、どこにでもあるように思うのです。私もそういう風にみられる場合もあるわけですし、誰もがありうるでしょうね。

 

都忘れの花言葉について<ミヤコワスレの花言葉>では、<「しばしの慰め」「別れ」>とのこと。その由来については、<承久の乱(1221年、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた兵乱)にて佐渡へ流された順徳天皇がこの花を見ると都への思いを忘れられると話されたことに由来します。>というそうです。

 

でも品種としては、現在のものは鎌倉期のものではないようですね。まあ、花言葉自体、どこかから引っ張ってくるのでしょうから、それに感応すればいいわけですね。

 

で、承久の乱の首謀者(犯罪者みたいでよろしくないですね)としてだけでなく、歴代天皇の中でも、後鳥羽上皇といえば知らない人がいないほどですが、同じく遠島処分になった順徳天皇となるとあまりイメージがわかないですね。天皇といっても乱当時、20代初めでしたか、やはり上皇の権威で動かされていただけだったんでしょうね。なんとなくその存在も軽いイメージです。

 

後鳥羽上皇は隠岐の島、順徳天皇は佐渡島にそれぞれ別れさせられ、流罪となったのですね。当時は死刑がなく、遠島が一番の極刑だったようですね。そういえば法然と親鸞も同様に別々に遠島処分になりましたね。それを言い渡したのが後鳥羽上皇ですから、因果応報というわけでもないですが、なにか因縁を感じます。

 

ところで、順徳天皇が佐渡で、父・後鳥羽上皇を偲んで多くの和歌を詠んでいますね。この花言葉では、ミヤコワスレを見て<しばしの慰み>とか<別れ>を偲んだのが都のことだということですが、そんな歌があったのでしたか。

 

順徳天皇>ではその歌の一部が掲載されていますが、<『順徳院御百首』(1232年)>として<佐渡で自選した歌集。藤原定家と隠岐の後鳥羽院に送り、合点を求めた。定家の評が残っている。>というのですから、親鸞のように流罪となり俗人以下扱いとは明らかに違いますね。のどかとみるか、わが国の権力闘争にもたおやかさをかんじさせてくるものがあるのでしょうかね。

その一部、次のような歌には、深い思いがあるのでしょうか、私にはおぼろげにもみえてきそうにないのですが。でも孤高の香りを感じさせてくれるような、そんなところが日本人の心証形成に資してきたのかもしれません。

 

夢さめてまだ巻きあげぬ玉だれのひま求めてもにほふ梅が香

人ならぬ石木(いはき)もさらにかなしきはみつの小島の秋の夕暮

 

ところで、今朝の毎日記事<不正送金、ゴーン前会長側にメール報告 オマーンから 特捜部4度目逮捕>を見ると、ゴーン氏は世界的大企業を擁立してきた凄腕経営者と評価されていますが、なんとも情けないような心根を感じるのは私だけではないように思います。

 

むろん弘中弁護人という強力な弁護団がいますので、検察側も有罪に持ち込むのは大変でしょうね。だいたい、送金額が合計で16.9億円、不正送金が合計5.6億円と、その金額だけいえば巨額ですが、その具体的な使途は判然としません。たしかクルーザーも価格は15億円とかで、その一部に充てたとか、あるいは子どもの学費とか、その内容がいろいろで、どうも脈略がはっきりしません。

 

とはいえ、子会社、販売代理店、投資会社(ペーパーカンパニーですか)、さらに妻の経営する会社とかに資金が流れているなど、資金の流れがいかにもゴーン氏の多国籍という特殊性を自由に活用しているようです。それにしてもなにか超大企業群を率いていたカリスマ性はここには見えません。みっみちい感じがするのです。自分でこういう操作しなくても、そう命じた、あるいは少なくとも報告を受けていたでしょうから(それが不正かどうかは別にして)、あざといやり方だと思うのです。

 

そういったトップのいい加減な資金処理を放置する企業組織のあり方も問題でしょう。そういえば2000年代に入ってトップの杜撰な不正経理がなんども明らかにされましたね。その中で、個人の利益追求に走ったのは大王製紙のトップでしたか。本社、子会社いずれも取締役会など経営管理するべき組織が機能していませんでした。こんなひどい私的流用というか、会社資産の横領・背任といってよい事態を放置する組織がなぜ生まれたのかと思ってしまう状況でした。

 

それと同じことが日産でも起こったのでしょうか。少なくともわが国の会社法制度は企業トップをコントロールするようにはなかなかなり得ていないと思うのです。社外取締役を増やすことも一つの策ですが、それでも簡単には企業統治の意識が簡単には醸成できないのではないかと思うのです。

 

和歌には鮮烈な自己鍛錬と厳しい批判精神が必要なのだと思うのです。ところが、少なくとも戦後の会社制度では、そういった意識が生まれない中、巨大化したのではないかと思うのです。

 

ただ、日本人の経営者であれば、自己の報酬なり利益追求にひた走るという意識はあまりなかったように思うのです。たいてい同じ平の従業員から階段を一段ずつ登り、取締役、代表取締役になるわけで、一般社員や工場労働者の気持ちに心をくだき、自分の利益追求を図って会社の資産をどうこうしようといった考えは起こらないのが普通ではないかと思うのです。

 

しかし、ゴーン氏は、それが犯罪になるかどうかは別にして、そうではなかったように思えます。

 

後鳥羽上皇も、順徳天皇も権力掌握のために邁進しましたが、和歌のように澄んだ心根であったのではないかと勝手な解釈をしています。

 

今日はこれにておしまい。つまらない話におつきあいありがとうございます。また明日。


孤高の偉人 <イチロー現役引退・・・孤高の姿>と<孤高の天才数学者>を読みながら+補筆

2019-03-22 | 人間力

190322 孤高の偉人 <イチロー現役引退・・・孤高の姿>と<孤高の天才数学者>を読みながら+補筆

 

最近は夜明けがずいぶんと早くなりました。他方で、私の方は熟睡できていないのか、その明るさに気づかないでいることもあります。でも今朝は甲高い野鳥の囀りで目覚めました。あまり耳慣れない声だなと思いながらも、その姿を見ることもなく出かけようと外に出ました。すると頭上からあの囀りが響いてきました。電柱に留まってしきりに鳴いていますが、私の目ではスズメかそれより小さいくらいしかわかりません。

 

囀りの調子から、ガラ系(といっても私には携帯の種類は分かりませんで、いわゆるシジュウカラなどの種類を勝手に呼んでいます)かなと思っています。シジュウカラでもなくヤマガラのそれとも違う音色です。断定はできませんが、ヒガラかなと一応思っています。

 

ところで今朝の毎日記事は地方選挙とイチローでほぼ尽きている感じでしょうか。前者にはあまり関心がないので、イチローを取り上げたいと思います。

 

毎日では<米大リーグマリナーズ・イチロー現役引退 日米28年、孤高の姿 各界から称賛の声>などのほか、80分間の記者会見では<イチロー引退会見「このユニホームで、このゲームを迎えられ幸せ」一問一答(その1)>を皮切りに全部掲載しているようです。

 

私もイチローファンの一人ですので、日ハムや巨人とのオープン戦、さらにはアスレチックとの2試合もついつい見てしまいました。まだ45歳というのに、少し老けた(失礼)容貌になり、以前に増して細身に見えてしまい、他方で、他の大リーガーのどの選手も若々しくがっちりした体格で、これは大変と思ってしまいました。

 

それでも以前のようにあの華麗なバットさばきを披露してくれると望みを託しながらいていました。でも現実は真剣勝負であることを改めて示すものでした。長いブランクの後でもあり、45歳という年齢もあるでしょう、イチローの動き、その天才的なバッティングスタイルは見ることもなく、最後の姿となりました。

 

また、イチローの野手としてのプレーは、レーザビームなどいまなお健在だったともいえるかもしれません。ただ、フライが上がったときの野手同士の連携、たとえばセカンドの守備範囲であってもイチローが勢い余って近づきすぎたという感じをもってしまいました。あるいはライトフェンスの高い位置に当たって、クッションボールをとりそこねた場面は少し気になりました。むろん、彼は採れるかもしれないと思いフェンス際まで深追いした?、あるいはランナーがいないのでクッションボールを採らなくてもよいとの判断だったかもしれませんが。

 

そんなこんなで、途中でイチローの姿を気の毒と思うような自分の気持ちもあり、あの偉大な数字、プレーだけを残して、最後の三振や凡打の山をつくる姿を見ないで済んだ方がよかったという思いが少しありました。

 

が、イチローのすごさはまさに最後まで野球選手として全力を尽くすとうところに真髄があるのではないかと感じました。記者会見で80分間も一問一答を行ったのは、まさに悔いのない野球人生(現役に限り)を全うしたことに自ら満足しているからでしょう。

 

こういった人生を送る努力、生き方こそ、評価されてよいと思うのです。全盛期だけを見せて姿を消すのも一つの生き方ですが、いいときもあれば悪いときもある、それが人生、偉大な業績をあげても孤高で戦ってきたからこそ、自信をもって最後まで全力を尽くす姿を見せてくれたのだと思うのです。

 

話変わって、昨日の毎日記事では「岡潔シンポジウム 紀の国の偉人-世界が認めた孤高の天才数学者-」の特集記事が掲載されていましたが、ウェブ記事にはなかったので、主催者のウェブ情報<明治大学・和歌山県連携講座 岡潔シンポジウム>で講座の趣旨や講師の方々が紹介されています。

 

その講座の趣旨では

<岡潔(1901-1978)は、日本が生んだ偉大な数学者です。>とありますが、数学のむずかしい理論のため素人にはちょっと敷居が高いですね。

もう少し引用すると岡潔氏は、<パリへ留学。そこで生涯の研究分野を「多変数解析函数論」と心に決め帰国。以来研究に没頭し、約20年もの歳月をかけて未開の領野を開拓する重要な数学理論を一人で構築しました。>ということで、日本学士院賞、文化勲章を受賞しています。

 

で、私にはここまではさっぱりわかりませんが、<晩年は、自然と共に生きてきた日本人の中にある「情緒」の重要性を訴え、日本の未来に警鐘を鳴らす箴言(しんげん)を数多く残しました。>の部分についてはいくつかの書籍を少し読み、ほんのさわりに近づいたかなという程度です。

 

<本シンポジウムでは、和歌山県紀見村(現橋本市)で情緒を育み、数学研究において前人未踏の業績を残した偉大な世界的数学者「岡潔」の功績を顕彰します。>ということで、和歌山県知事が講師の一人で、橋本市長が挨拶をしています。

 

橋本市は、岡氏を郷土の偉人として、その偉業を顕彰し、記念館の設置を計画しているとのこと。さらに「算数・数学のまち橋本」の実現を目指しているようです。

 

イチローの偉業と比べる話ではありませんが、岡博士の偉業「多変数解析函数論」は高度すぎて一般にはなじみにくいですが、私からすると、著名な専門家がその業績を高く評価するくらいですから、私も右に同じでよいかくらいに思っています。

 

ただ、小林秀雄との対談『人間の建設』では、冒頭、小林が大文字焼き(がよく見える場所として)とりあげたところ、岡は「私はああいう人為的なものには、あまり興味がありません。小林さん、山はやっぱり焼かないほうがいいですよ。」という断言があり、見事な達観と恐れ入ります。まあ別には私がこの意見に賛同するわけではありませんが、見切り方が竹を割ったようで、切れ味の鋭さを感じさせてくれます。その後もその連続ですが。

 

今日は(いや、「も」、でしょうね)わけのわからない話となりました。この辺でおしまい。また明日。

補筆

 

このテーマを選んだときなにか思い出したものがあったのですが、書いているうちに忘れてしまいました。今朝思い出したので少し補筆します。

 

イチローの生き方を垣間見ながら、岡・小林対談で通じるものを感じたのです。

岡博士は「人は極端になにかをやれば、必ず好きになるという性質を持っています。好きにならぬのがむしろ不思議です。・・」と。これに対する小林の対話がおもしろい。野球の選手の例がイチローを彷彿させます。「だんだんむずかしい球が打てる。やさしい球を打ったってつまらないですよ。ピッチャーもむずかしい球をほうるのですからね。」と。つまりといって「やさしいことはつまらぬ、むずかしいことが面白いということが、だれにでもあります。」と人の本質に迫ります。これって、まさにイチローではないでしょうか。イチローは日々同じことをルーティーンで行っているそうですね。好きだからといってよいでしょうし、難しいことに挑戦することに面白さを感じているからではないでしょうか。そういった日々の鍛錬を苦にもしない(他人が思うほど?)のではないでしょうか。

 

それは古武士、いやいや日本の農家が持っていた矜恃ではないでしょうか。岡氏は郷土の偉 

というわけですが、300年以上前当地学文路(かむろ)で農家に生まれ、日本の農業土木技術者として多大な治水利水事業を行った大畑才蔵の一生もそのようなものであったように思えるのです。橋本市長が算数、数学のまちとして標榜していますが、算術を大河川灌漑事業の中でいかしたり、年貢徴収の合理的な算定方法を提案する中でいかしたり、そのすぐれた才はいかなく発揮されています。そして彼は名利を求めず、働くことはハタがラクになることと思って、合理的な暮らしのあり方、農業のあり方、行政のあり方を常に考え続けるとともに、生涯、一百姓として全うしたように思うのです。私の思うこの偉人を丁寧に追っかけてみたいと思うのです。


 


閑話休題 <「病牀六尺」ならぬボーッと過ごすと>

2019-03-10 | 人間力

190310 閑話休題 <「病牀六尺」ならぬボーッと過ごすと>

 

仕事のない日曜日、読みかけの本をいくつか手にしたのですが、どうもボーッとしていて進みません。新聞記事を見ていても気が乗りません。外は小雨が静かに降り注いでいます。

 

TVでは5月の10連休をどう過ごすか、一つの話題です。過去に例のない長さで、今後もありそうにない異例なことのようです。そんなわけで欧米はじめいろんな海外・国内ツアーが目白押しのようですが、どんどん予約が埋まるとか。

 

10連休をどこかにいって満喫する人ばかりと考えるのは早計ですね。NHKでしたかアンケート結果では大半が出かけないでのんびり過ごすとか。連休中は交通機関も宿も異常に高いですし、しかも混み合いますね。こんなときに出かけるのは愚の骨頂というと、せっかくの楽しみと思っている人には失礼に当たるでしょう。

 

他方で、10連休に悩んでいる人も少なくないようです。その悩みもいろいろですね。パートや日給の人はその分収入が減るという心配ですね。それは小規模事業者も同じかもしれません。正規社員には給与は支払わないといけないけど、その間収入が得られないと深刻ですね。

 

また幼いお子さんをお持ちの方で仕事を抱えている人は、保育園が休みになる(連休対応する自治体も増えているようですが)と困ってしまいますね。公共サービスもこんなに長期間休みになると不安が起こるでしょう。

 

私のように連休や盆正月といったみんなが休むとき、仕事をするタイプの場合はあまり関係ないのですが。私は日弁連の調査で10日間前後、海外に出かけることがよくありましたが、その前後が大変な思いをしました。調査旅行中は時差ぼけに負けないよう会議に集中するので、あっという間に時間が過ぎてしまいます。

 

調査旅行では、到着直後くらいから会議が次々と入っていたり、現地見学が入っていたりで、わずかな時間観光するくらいが普通でした。ただ、いくつか思い出があります。まだシアトルマリナーズという野球チームの名前も知らなかった90年代初頭、その特別席に招待されて、ワインやオードブル付きで試合を見ることができたのは、いまも記憶にあります。残念ながら大リーグ選手の名前を聞いても当時は、ヤンキースの選手の一部くらいしか知らなかったので、ゲームの動向はそっちのけで話と飲食に夢中になっていました。

 

そういえば、シアトルの大きな弁護士事務所では、大きな会議室で都市計画のゾーニング変更に関わる事案についてプレゼンを聞かしてもらいましたが、そうかアメリカではこういったことまで弁護士が関与しているのかと驚きました。シアトル市役所では弁護士がチームを組んで、さまざまな環境アセスメントの審理に関与していることを伺い、そうか市役所も弁護士が職員となってその一部を担っているのかと思った次第です。

 

私の連休というのは、暦の連休ではなく通常の日を使って、そういった調査旅行で使ってしまい、暦の連休はその分、仕事していました。

 

そういう生活をおしまいにして、当地にやってきたのですが、やはり連休中どこかに行くというのは避けてきました。費用が高いのと混雑が理由です。

 

ところで、子規の時代、そういった状況はなかったでしょうけど、子規は病気のため20代から病床にあって、類い希な俳句を、そして終末期には絵を残していますね。死の病をも吹き飛ばすほどの気力が成し遂げたのでしょうか。

 

私の体調不良は軽いものですが、子規のような精神力も気力もなければ、むろん才もないのですから、ボーッと過ごすのが似合っているようです。

 

琵琶湖マラソンでは公務員ランナーの川内優輝選手が相変わらず粘り強い走りを見せてくれました。若い選手も活躍していて、期待できるのですが、外国選手に比べると、やはりスピードが相当違う状況は変わっていませんね。

 

NHK囲碁トーナメントでは、一力八段が豪腕の許棋聖を碁盤の各所で生死をかける攻防を繰り返して、私にはいつものようになんだかわからないうちに、勝利を収めました。中央の大石が厳しいと思うのは素人でして、さすがと思いつつも、分からない展開でした。解説者も展開を読めない二人の争奪戦ですので、私がわかるはずがないですね。でも見応えのある一局でした。こんな凄い能力をAIはすでに凌駕しているのですから、AI恐るべしですか。

 

このブログもいつまで続けるのかと思いながら、今日も駄文を書いてしまいました。

 

今日はこれにておしまい。また明日。


歩く道(その12) <井上本荘・桜池ネットワーク?を歩く>+補筆

2019-03-02 | 人間力

190302 歩く道(その12) <井上本荘・桜池ネットワーク?を歩く>+補筆

 

今朝、寒椿を遠くから見ていて、ふとヒノキ林を見ると、なにやら小さな野鳥が梢にずっと泊まっています。一羽だけで長く逗留するのは珍しいので、なんという鳥か見定めようとするのですが、50m近く離れているので私の視力ではまったくお手上げです。遠近両用のメガネですが、最近は近くも遠くもよく見えない、高齢者らしいぐちでもでそうな状況です。

 

それで最近購入した望遠レンズのあるデジタルカメラで覗いてみると、はっきりと見えました。私のような一向にうまくならないカメラマンにとっては高級機種は猫に小判ですので、実はレンズ一体型の安価なカメラです。以前、海外調査で一緒した仲間が高級機種を持参してぱちぱちとっていましたが、後でみんなで画像を見たら、私が撮影したものでは遠い被写体はほとんど背後と一体となっているのに、高級機種の場合は(いや彼らの腕がよいのでしょうけど)さすがに生き生きとしていました。たとえば世界一美し鳥、ケツァールとか。

 

そういった高級機種に少しは憧れがあるものの、重い、値段が高い、私にはもったいないという理由でいまもって買う気が起こりません。それでも遠くを見たいと思い、今回、光学ズーム65倍といううたい文句に期待してキャノンのPowerShot SX70 HSを手に入れました。やはり期待通りの効果がありました。ファインダーでははっきり見えないのですが、画像にするとクリアで、これでほぼ同定できたと思います。

 

頭の形とか胴体の色合いとか、嘴の形、目の色などから、カワラヒワだと思います。ただ羽根の部分が見えない位置でしたので、あの特徴的な羽根は確認できませんでした。

 

いつもいろんな鳥がやってきても、大きさくらいしかわからず、色も反射があってほとんどわからないことが多いので、このカメラで今後はしっかり確認しようかと思います。

 

さて今日は歩く道の日ということで、どこにしようか考えたのですが、以前から気になっているため池群がどのようになっているのか、見ることにしました。紀ノ川中流域にある紀の川市の山裾付近から大きく広がる田畑(最近は住宅地が広がっていますが)を灌漑するため池です。紀ノ川に沿って上流部から下流までずっとため池はそれなりにあるのですが、たいていは紀ノ川北岸(右岸)でいえば、山裾付近に一つため池があって、一定の距離に散在している感じです。ところがとくに一カ所は見事なほど山裾から紀ノ川に向かって相当数のため池が数珠つなぎのように連なっているのです。これはどういうことか、とりわけ山裾や、さらに奥の谷間部分にため池がつくられるのが普通ですが、ここでは平坦な田畑の中にほとんどがあるのです。歴史を知りたいと思いつつ、とりあえず歩いてみようと思ったのです。

 

ほとんどのため池は、私がこれまで見てきた多くのため池のように堰堤が谷間に高くつくられているのと違って、緩やかな斜面、あるいは緩やかな段差をもちながら紀ノ川北岸まで延びている平坦な田畑の真ん中につくられていました。

 

ですので、その近くの道を歩いていても、気づかないで通り過ぎることもあります。ある通りを歩いていると、幅1m強くらいの脇道が家並みの間に通っていて、その先は田畑になっているようでしたので、ちょっと入ってみると、その先に高さ1.5mくらいの堰堤で囲まれたため池がありました。冬季ですので、水はわずかしか残ってなく、干上がっている状態に近かったですね。通常、ため池管理用の通路が周囲を走っていますが(歩く程度の幅)、この池では途中で切れていて、あぜ道をとおって先の道路に出ました。するとそこにため池が鎮座していました。

 

このため池の場合、満水とまではいかなくてもまるで夏場の灌漑期のように思えるほど豊富な水量でした。水鳥たちも気持ちよさそうに泳いでいました。そこからちょっといったところに今度は東側にやはり岸辺まで水が貯まっていました。

 

そういう池を次々と見ながら南北に連なるため池群をどんどん見ていきました。そうするとやはり完全に干上がっているため池がありました。汚泥はある程度たまっているようにも見えましたが(これは必ずたまるので、昔は水を抜いてこういった汚泥も除去していたようです)、それほどの量ではないように思えました。というのはこれらのため池の貯水容量はそれほど大きくないことが推測できたのですが、干上がった様子をみてやはりと思ったのです。

 

そもそもそれぞれのため池は、集水するだけの地形構造になく、暫定的な貯留機能を営む役割をもっているのではないかと思うのです。それは一番上部に設置されている桜池という県内最大の貯水量を誇るため池が集水し貯水し、それを下流にあるため池群を通して、うまく配分する構造になっているのではないかと思ったのです。

 

阪奈和道路の上方にある桜池は、ウェブ情報<桜池ダム>によると

<国土数値情報 ダム(作成:2005年度)

【ダムコード】1446

【水系名】紀の川水系

【河川名】桜池川

【形式】アースダム

【目的】灌漑、特定(新規)灌漑用水

【ダム規模(堤高)16メートル

【ダム規模(堤頂長)320メートル

【堤体積】256千立方メートル

【総貯水量】566千立方メートル(千が抜けていましたので補っています)

【ダム事業者】土地改良区>

 

ということですので、ダムという位置づけですね。たしかに堰堤が16mもあり、堰堤長も320mですので、思った以上にでかく感じました。

 

紀州初代藩主、徳川頼宣によって築造された県下最大の貯水池ということですが、当時これだけの規模のものがつくられたのでしょうか、現在の堰堤の様子からは少なくとも修築された印象です。規模があまり変わらないとすると、17世紀初頭、応其上人が紀ノ川上流部に多くのため池を築造(あるいは修築)した規模に比べて規模が違うということになりますね。17世紀後半(1653年)ということですので、そこまでの技術進化があったのでしょうか。

 

ところで、海南市にある<亀池>は<満水面積約13万平方メートル、貯水量約54万立方メートル、堤の長さ98メートル、高さ16メートル、周囲約4キロメートルもあるこの池を、延べ55,000人で、約3ヶ月の短期間に完成させています。>ということで、規模がほぼ桜池に匹敵する規模ですね。海南市情報では同市出身の井沢弥惣兵衛によって1710年に築造されたとされていますが、大畑才蔵が工事に立ち会ったとの記録があり、はたして大畑才蔵の関与がどの程度であったか気になるところです。

 

また脱線しましたが、このため池群がどのような役割をもっていたのか、だれがいつどのような経緯でつくったのか、興味のあるところで、いつか判明したら書いてみようかと思います。

 

なぜこの場所を歩いたかというもう一つの理由は、田仲荘、西行の実家があるところがこのため池群の灌漑地の一部であった可能性もあり、このあたりも検討してみたいと思っています。むろん西行の話に、このようなため池灌漑といった俗世の話は出ませんが、たしか邦生著『西行花伝』で荒川荘との紛争を憂うような場面があったような記憶で、当然、水争いもあっただろうなと思ったりしています。

 

暖かいようで、冷たい風が吹いてきたりで、結構歩いたかと思うのですが、歩いているうちは元気な印かと思っています。

 

きょうはこのへんでおしまい。また明日。

補筆

今朝、中世荘園のいい加減な知識を基に桜池が田仲荘に含まれるかのような記述をしたことが気になり、山陰加春夫編『きのくに荘園の世界上巻』をぱらぱらとめぐっていると、額田雅裕氏が書いた「井上本荘」があり、そこには井上本荘が東に粉河荘、西に井上新荘の間に位置する荘園で、桜池を中心とするため池の灌漑システムをしっかり現代と中世のため池名を比定しながら、丁寧な論述をされているのを知り、さすがに専門家は文献、地形・地質を踏まえた説得力ある言及をされています。

 

東側の粉河寺から井上本荘内に侵入され乱暴狼藉が絶え間なかったようで、境界の裁定を朝廷に求めた際の荘園絵巻も紹介されています。中世は寺社がかなりの武力を背景に領地拡大を図っていたことがうかがえます。井上本荘も結局、京都の随心院の傘下?にはいり、対処したようですが、やはり地元の粉河寺の圧迫は避けられなかったようです。随心院ときくと40年くらい前に友人と訪れた記憶がありますが、静かな佇まいの穏やかな雰囲気を醸し出していましたが(たしか門跡寺院)、中世は権力闘争の中に組み込まれていたのでしょうか。

 

額田氏の指摘で興味深かったのは、私には平坦な丘陵地と見えたのですが、和泉山麓の谷間から流出したのは川水だけでなく、砂利や砂礫などもあり、それらが堆積して段丘がつくられ、その段丘が雨風の侵食で、谷間が出来、開析谷(かいせきこく)という開けた低地部分というのでしょうか。そこには田畑がつくられ、またため池もつくられてきたようです。

 

この解説は説得力があり、いつかまた整理して取り上げたいと思います。今日は、田仲荘(田中荘とも)はもう少し下流域に当たり、桜池を中心とする膨大なため池灌漑システムは井上本荘のものでしたので、西行の話も含め訂正しておきます。




災害・スポーツ・宗教 <楽しんで“世界一”山口茜選手>と<宗教者と大災害>を見たり読んだりして

2019-02-27 | 人間力

190227 災害・スポーツ・宗教 <楽しんで“世界一”山口茜選手>と<宗教者と大災害>を見たり読んだりして

 

辺野古移設をめぐる県民投票の結果は重いものがあります。沖縄県以外の国民は座していてよいのか、問いかけているようにも思えます。もう少し整理できた段階で取り上げたいと思っています。

 

話変わって、昨夜そろそろ寝ようかと思ったら、たまたまTV画像に信じがたいような動きをするバドミントン選手がいて、これはなんだと思いつい引き込まれてしまいました。

 

NHKの<グッと!スポーツ 「楽しんで“世界一” バドミントン 山口茜選手」>でした。私自身、相葉さんという歌手も知りませんでしたが、そこに登場した山口茜さんは初めてお見かけする印象です。

 

40年ほど前、テニスとバドミントンに少し凝り、後者は私には思ったよりハードすぎてすぐに辞めてしまった思い出があります。で、バドミントン選手と言えばすらっとして細身で身長が高い人が有利ではないかと勝手に考えていました。むろん桃田選手の例があるようにやはり瞬発力や強靱な筋力があれば世界一になれることは理解しつつも、最近の女性選手のほとんどがすらっとした感じでしたので、この選手が大丈夫かと一瞬思いました。

 

とんでもない誤解でした。その弓のようにしなる足の先から胴体、さらに手の先までほれぼれする姿勢を瞬時に作り、弓がはじけたように新幹線並みのスピードでシャトルを突き刺すのですから、これは凄いです。それだけではありません、相手選手から体を狙われたシャトルが自分の脇を過ぎ去り、その進む方向が見えない位置で、見事にラケットの面で鋭く打ち返すのです。彼女には目だけでなく、体全体に認知機能があるかのように動くのですね。

 

たしか身長は1m50台半ばだったと思います。代表選手でも一番小柄だというのです。当然、防御には不利ですね。ところが身長や手足の長さで足りない部分は、ジャンプ力でまるで回転レシーブのように遠くを狙われたシャトルに飛びつくのです。そして反射的に立ち上がり次の防御スタイルをとるのです。これは見ていて面白いですね。感動します。

 

で、興味深い場面がさらに用意されていました。山口選手のショットはそのスピードが凄いだけではないのです、相手選手が反応できないほど、コートのどこに飛んでくるか判断できない、まあ結局、棒立ち状態となっているのです。なんでかなですね。

 

さすがNHK、技術者に解析してもらい、映像を通じて(本人もあまり意識していなかった)一連の認識、選別動作を解明するのです。その内容は、山口選手が、まずスマッシュを打つ直前、相手選手のシャトルを目で追いかけながら、一瞬、相手選手の位置・動きに視線をやった後、再びシャトルに目を向ける選手でもできない離れ業をしていたのです。その上、シャトルを打つ瞬間(それは秒で測れない)、最低でも3つの選択を瞬時に行い、相手選手がその動きを読めない状態にしてしまうのです。スマッシュ、ドロップショット、スライスでしょうか。きっと他にもあるのでしょう。凄いですね。

 

とここまで冗長な前置きになりました。なぜ彼女を紹介したかというと、この世界ランキング1位になった技量ということではなく、まあそれもありますが、その彼女の郷土愛、人への心遣いです。彼女は福井県勝山市生まれと言うことで、地元にとても愛着を持ち大事にしています。性格はとてもシャイということで、おとなしい、引っ込み思案でありながら、仲間との協調を自然に醸し出すのです。そして地元や家族友人の支援に対して応えたいということについて、義務と権利ということばで彼女なりに心構えを述べるのです。

 

そういう支援に応えるという義務感で試合に臨むと楽しくない、応える権利という気持ちになれると楽しくできるというのです。21歳の若い彼女に教えられました。

 

人のために何かをやるといった義務感で望んでいると、心からすなおに取り組めないかもしれません。でも私はその人に応える権利があると思えば気持ちよく、楽しむことができるかもしれません。

 

災害を受けた地域や住民のところを訪れボランティアをする場合でも、山口選手の義務と権利という独特の使い方は別にして、心から楽しむ気持ちになって臨むことができれば、いいのかなと思ったりするのです。それはあの尾畑春夫さんの言動が如実に示しているように思えます。それは尾畑さん流の行動原理というか、心構えでしょうけど。

 

そういったことは古い時代より私たち先祖は経験してきたと思うのです。いつからかは分かりませんが、文献では道昭が早い段階で災害や飢餓、病気などへの対応を唐から持ち帰った高度な技術と仏教思想の元、行っていたのだと思うのです。そのたしか弟子になるかと思うのですが、行基もさらに発展、巨大な組織として各地で施業を行い、東大寺大仏建立まで手がけるようになったわけですね。それが庶民にとっての仏僧の本来の姿ではなかったでしょうか。

 

昨日の毎日記事<岐路の風景宗教者と大災害 「無常」の中にぬくもり、東日本大震災での実感 追悼とは愛情の継承>では、現在の葬式仏教という社会通念の中で生きる住職の苦闘といいましょうか、大災害を目前にして従来の僧侶の衣を脱ぎ捨て、心の僧侶を目指しているようにも思える姿を見せてくれています。

 

<多くの命を奪った大災害は、宗教者たちが自身と向き合う転機にもなった。【花澤茂人】>と、ある僧侶の心の変化を追っています。

 

<丁寧に広げた手紙を、浄土真宗本願寺派・真覚寺(神戸市中央区)の鍋島直樹住職(60)は大切そうに見つめた。龍谷大の教授でもあり、死への不安や死別の悲しみに対する仏教の救済観の研究を続けている。東日本大震災の被災地も繰り返し訪れ、遺族らと交流を続けてきた。手紙は津波で夫を亡くした宮城県気仙沼市の女性からのもの。「被災者の方たちから、宗教者に役割があることを教えてもらったのです」>

 

鍋島住職は、阪神大震災では被災したものの、僧侶としての役割を認識できず、ただ一般のボランティとして活動し、他方で、心のケアは僧侶の役割ではないとの見方を共有していたようです。それは東日本大震災でも当初は同じだったそうです。

 

<宮城県南三陸町の避難所に物資を届けた時のこと。大学名から僧侶と察した避難所長から「お勤めをしてほしい」と依頼された。寒さをしのぐためがれきを燃やしたいが、亡くなった人に関わるものかもしれず抵抗があるという。車にしのばせていた法衣をシャツの上からまとい、がれきを燃やすドラム缶の前に花を供えた。簡単なお勤めだったが、振り返ると多くの人が合掌していた。「やっと手を合わせられた」。そんな声も聞こえた。>

 

人の遺体だけでなく、ものにも魂とか命に関わることを感じる人が少なくないのでしょうか。

 

<冒頭の女性からの手紙には、鍋島さんとのやり取りで気づいたこととして「逃れられない悲しみは抱えて生きるしかない。でもその悲しみはいつの間にか夢や希望に変化すると感じています」と書かれていた。「悲しみは亡き人からもらった愛情の裏返し。いつか生きるための光となると教えてもらった」。「無常」の教えの中にあるぬくもりを感じた。>

 

大災害を契機に、僧侶の新しい役割が期待されるようになったようです。実際はもっと前からあったはずですが、それでもその動きは期待したいです。

 

< 苦悩のただ中で宗教者に求められる役割があると実感した人たちの間で、震災後に新たな動きが起こる。「臨床宗教師」の養成だ。布教や勧誘を目的とせず苦悩を抱えた人に寄り添う宗教者で、被災地だけでなく医療や教育などの場で活動することを期待されている。>

 

臨床宗教師とは、ちょっと堅いことばですね。でもそういう多面的な活動をしてもらえると大いに助かる人が増えると思います。

 

鍋島住職のことばはよりいいですね。<「亡くなった人や失った物を通して気づいた愛情を、自分のものとしてきちんと受け継ぐ。追悼とは、それを忘れずに次の世代へと伝えることです」。それが、宗教者の使命だと感じている。>そういう宗教者が増えてくると、世の中よりよくなると思うのです。

 

今日はこれにておしまい。また明日。