たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

子どもをめぐる制度の新たな動き <いじめ防止対策推進法改正素案><児童虐待防止法・児童福祉法の改正案>などの動きを垣間見る

2019-03-01 | 教育 学校 社会

190301 子どもをめぐる制度の新たな動き <いじめ防止対策推進法改正素案><児童虐待防止法・児童福祉法の改正案>などの動きを垣間見る

 

昨夜見た録画、ブラタモリの武蔵小杉を扱った番組、高層マンションには関心がなかったですが、二ヶ領用水が家康によって開削された歴史には興味を持ち今日のテーマにしようかと思ったのですが、技術的な事柄について情報提供がなかったので、ちょっとウェブ情報を見たものの、参考になるほどのものが見当たりませんでした。1600年代初期に32kmもの大用水を大河川・多摩川から引水して(ただし当初は井堰を設置したわけではない)灌漑したのですから、100年後の紀ノ川での小田井用水と比較してもよいかと思うのですが、それは次の機会に譲ります。

 

さて本日のお題は、テーマに苦しんだあげく、表記のものにしました。気にはなりつつも、なかなかややこしいので、全体を有機的にとらえるといいましょうか、子どもの視点でどう考えればよいのか、難しい問題と思い腰が引けています。とりあえずいくつかの最近の記事をざっと並べて、思いつくことを書いてみようかと思います。

 

こどもがいじめや虐待、体罰を受けるといった場合、学校、養護施設といった公共空間と、家庭とが一応区分されるかと思います。その場合、前者では子ども同士の場合、あるいは教師や施設職員がまず想定されます。後者では両親ですね。本来は、なぜそのようなことが起こるかの背景をしっかり把握してその根本問題の解決に結びつく対策が望まれるのですが、どうしてもそこまでの制度作りが間に合わないようで、発生した事件といいましょうか事態にいかに適切に対応するかと言った、問題状況の即時的な対応に中心がおかれがちです。

 

毎日の227日記事<親の体罰禁止を明記 子どもに意見表明権も>親のしつけと称する体罰による死亡事件を受け、家庭内での法律である民法の「懲戒権」の是非が議論されつつも、民法それ自体の議論を回避して、児童福祉法に定めのある懲戒について体罰禁止を明記する改正案が検討されているとのことです。

 

また、「子どもの権利条約」で認められている子どもの「意見表明権」についても、幼い子どもの意見表明を権利として保障しても、児童相談所や学校、教育委員会など関係機関の大人はどうしても両親の意見に抗しきれず、実効的な保障が担保されませんね。それで<子どもの意見を丁寧に聞いたり、乳幼児の声を代弁したりする専門職や機関設置など体制構築に向け検討することを明記する。>

 

今回の事件では10歳と5歳の女児が不幸な犠牲者となっていますが、このような幼いこどものために、はたして特定の専門職を派遣することでうまくいくのか少し不安です。そこにたどり着くまでに関係機関の早期の対応がまず必要ではないかと思うのです。そして専門職にしても特定の機関としても、関係機関との連携なく活動しても継続的なサポートはできないと思われ、その連携システムを構築する必要があると思われるのです。

 

ところで、学校でのいじめを苦にした自殺の問題を受けて136月成立のいじめ防止対策推進法は<被害者家族への調査結果の適切な情報提供▽学校内にいじめ防止組織を常設▽重大な被害がある場合は警察に通報>などを内容とするものですが、その後もいじめもいじめ自殺も続いており、さらなる対応を求められ、同日の毎日記事<いじめ防止対策推進法改正案 対応「懲戒」賛否 重大事態を回避/現場が萎縮>では、<いじめに適切に対応しなかった教職員を懲戒処分の対象とする条文の明記を検討している。>とのことです。

 

その内容は<条文素案は、教職員はいじめに関する法令や通知などを熟知する義務があり「いじめを受けた児童等を徹底して守り通す責務」があると明記。その上で「いじめが疑われる事実を知りながら放置し、助長してはならない」と定め、違反した場合は懲戒処分の対象になるとのルールを自治体が定める>というものです。

 

これに対し、著名教育評論家が賛意を示す一方、教職委員や関係団体から<現場は萎縮する」と反発>という状況です。

 

直ちに制度化して懲戒対象とするのがよいのかは、慎重に対応してもらいたいと思いつつ、一部の教職員の中には見て見ぬふりをするか、一緒になって気づかずにいじめをするとか、の事例が取り上げられることもあり、まだ啓蒙・認識が十分行き渡っていないのかと感じることがあります。ペナルティは最終的には選択肢になりうると思いますが、よりいじめ対応の徹底を教職員のなかで共有してもらいたいと思うのです。

 

なお、検討中の法案は以下の通りです。

<改正案で新設が検討されている条文

・いじめ対策は児童等の教育を受ける権利の保障のために欠くことができない学校において最優先に対応すべき事務であり、適切に行われなければならない

・教職員はいじめの防止に関する法令、基本的な方針、通知等に精通し、正しい理解の下に職務を行わなければならない

・教職員はいじめを受けた児童等を徹底して守り通す責務を有し、いじめまたはいじめが疑われる事実を知りながら放置し、または助長してはならない

・地方公共団体は教職員がこの法律の規定に違反している場合(教職員がいじめに相当する行為を行っている場合を含む)、懲戒その他の措置の基準および手続きを定めるものとする>

 

この内容が直ちに、教職員を萎縮させるかは、これだけでは判断しかねなると思います。ただ、条文化することが大事かというと疑問があります。

 

とりわけ<全国市町村教育委員会連合会の新海今朝巳事務局長は「現場の教職員が最大限努力しても(いじめに)気付かなかったということはあり得る。>というような事態であれば、本来、懲戒対象となりえないでしょう。このような批判的な主張は、教育委員会などに対する不信というか、相互の意思疎通の不十分なところに要因があるように思えるのですが。それはいじめ対応においてとくにそう感じます。

 

さて、こういう話題のとき、今朝の毎日記事<提訴「生徒から暴力、学校放置」 大阪の教諭、賠償求め>では、<大阪府四條畷市立中学に勤務する40代の男性教諭が、校内で男子生徒に殴られて重傷を負ったのに、学校側が救急車を呼ぶなどの対応をせず、公務災害の申請も妨げられたとして、市などに計約920万円の損害賠償を求める訴訟を28日、大阪地裁に起こした。>これが主張通りだとすると、とんでもない学校側の対応ですね。仮にそのような事実があれば、新海氏のような指摘も理解できることかもしれません。

 

これに対し<市教育委員会は「教諭に不安を与えたかもしれないが、対応は適切だった」としている。【戸上文恵】>といった説明では、訴訟になったとは言え、いかがなものでしょう、疑問ある対応です。

 

だいたい<文部科学省によると小中高での教師への暴力事案は2017年度で8627件に上る。>というのですから、こどもへのいじめや虐待を防ぐことはむろん一番に優先されるべきですが、教職員への暴力が野放しにされていいはずがありません。子どもが子どもへの暴力やいじめをするのが許されないと同様、教職員といった大人に対してすることも許さないこととして、しっかりした対応マニュアルを徹底してもらいたいと思うのです。

 

最後に、227日付け毎日記事<長崎の高2自殺いじめ主因、学校側疑義 第三者委は認定>を紹介して起きます。学校側がみずから設置した第三者委員会の報告について疑問をもち隠していたとのことです。これが事実であれば、学校も第三者委員会も対応が疑問です。

 

<長崎市の私立高2年だった男子生徒(当時16歳)が2017年4月に自殺し、学校が設置した第三者委員会が「同級生によるいじめが主な原因」とする報告書をまとめていたことが判明した。男子生徒の遺族が26日、記者会見し、経緯を明らかにした。一方で学校側は、報告書の内容に疑義を示して受け入れていないといい、生徒の父親(51)は「学校は真剣に向き合ってほしい」と話している。【今野悠貴、加藤小夜、松村真友】>

 

他方で、<県学事振興課によると、学校側からは17年4月末に生徒が自殺したとの連絡があり、同5月上旬には「いじめが原因と考えられる重大事態」として報告があった。県は学校側にいじめ防止対策推進法や文部科学省の調査ガイドラインに沿って調査を進めるよう指導。第三者委による調査結果の報告も求めているが、現時点で報告はないという。>

 

報告がないのか、記事にあるように<第三者委の報告書についても「全体的に説得力を欠く」などと受け入れず>として、報告したが学校側が疑問として、受理しないのか、明らかではありません。ただ、第三者委員会としては経過報告を公表すべきではないでしょうか。その論理が学校側が指摘するように説得力がないのかどうか公開して、調査が不十分か、結論に合理性がないかどうか、学校側の意見をも提供して、世論に問うていくのが望ましいのではないでしょうか。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。


いじめと自死を考える <大津中2自殺 いじめとの因果関係認定>などを読みながら

2019-02-21 | 教育 学校 社会

190221 いじめと自死を考える <大津中2自殺 いじめとの因果関係認定>などを読みながら

 

弁護士という仕事をしていると、関係する人の話がどこまで本当かいつも意識しながら、なにか客観的な資料はないか、その内容との整合性があるかを模索します。それでもその資料を見つけるのも一苦労です。

 

たとえば家人から亡くなった人の通帳など見たことがないなんて言われると、とりあえずはそうですかと聞き置くのですね。いろいろ雑談をしているときちょっとぽろっと出たことばを便りに、ある銀行の窓口に行き取引履歴や払戻請求書を確認するのです。亡くなった後誰かが引き出しているのが分かったり、その請求書が個人の筆跡と違うといったこともわかったりすると残念な思いになりますが、そんなものかと思うのです。また年金を受給の有無などを年金事務所に行って問い合わせれば、支給額も支給先口座も分かります。ないはずの銀行口座が次々とでてくることもあります。

 

むろん人の認識は完全なものではないので、記憶違いがあったり、そもそも誤認している場合もありますので、嘘とはなかなか決めつけられないこともあります。そういった事実の調査はやっかいなことが多いですが、とりわけ取引(これまたゴーン事件のように簡単というわけではないですが)以外のあらゆる行為の有無・内容は事実を把握するのは容易でないことが多いです。表題のいじめの有無と自死への予見可能性となると、事実認識も大変ですが、予見可能性となるより困難となるでしょう。しかもいずれも一定の規範的な評価が含まれるので、やっかいでしょうね。

 

そのむずかしい問題を昨日は避けて、今日も別の話題にしようかと思ったのですが、少し気になっていましたので、えいやと取り上げることにしました。

 

昨日の毎日朝刊は大きく取り上げていました。まず<大津中2自殺 いじめとの因果関係認定 元同級生側2人に賠償命じる>では、<大津市で2011年、市立中学2年の男子生徒(当時13歳)が自殺したのはいじめが原因だとして、遺族が当時の同級生3人と保護者に計約3850万円の損害賠償を求めた訴訟で、大津地裁は19日、いじめ行為と自殺との因果関係を認め、元同級生2人に、請求のほぼ全額となる計約3750万円の支払いを命じた。>

 

しかも興味深いことに<西岡繁靖裁判長は「生徒の自殺の主たる原因は、2人の元同級生の行為にあったと優に認められる」と判断した。>とより積極的な判示となっていることに驚きました。判決をどうこう言う場合最低でも判決文を読んだ上でと思うのですが、それは少し後になりそうですので(昔の雑誌だけの時代に比べて最近はすごく早くなったと思いますがそれでも数ヶ月以上先でしょうか、関係弁護団とコネがあれば即入手可能でしょうけど)、とりあえず記事だけで中途半端な意見を述べておこうかと思います。

 

記事によれば、主要な争点が3点となっています。第一は、被告の行為として数々の非道な内容が原告から主張されていましたが、まずそれら行為の有無、評価、第二にその行為と自殺との因果関係の有無、第三に自殺の予見可能性の有無です。

 

私は一般的には、いずれも原告側にとって難しい壁だと思いますが、とりわけ第二、第三は厳しいと思っています。

 

ところが、本件では第三者委員会の調査報告で第一、第二について詳細な調査の上で積極的な認定があったようです(この報告書を見ていないのでいい加減な表現となります)。

 

判決文はどうやら<市が設置した第三者調査委員会も2人の行為を「いじめ」と認定し、「重篤ないじめ行為は、自死につながる直接的要因になった」としており、この判断をほぼ踏襲する形となった。>と報道には見られたようです。

 

ところで、判決が認めたいじめ行為ですが、相当亡くなった少年には自殺を余儀なくするほど深刻なものであったとされています。

<判決は、自殺の約1カ月前から2人の暴力などの行為がエスカレートし、生徒との間に「いじる」側と「いじられる」側という役割の固定化を生じさせたと指摘。連日顔を殴ったり、蜂の死骸を食べさせようとしたりした行為の積み重ねが、生徒に孤立感や無価値感を形成させたと認定した。>

 

その被害少年の状態について、判決は<この関係が今後も継続するとの無力感、絶望感につながり、死にたいと願う気持ち「希死念慮」を抱かせたと言及。>という特殊な用語を使って説明しています。

 

さらに予見可能性について、<こうした心理に至った人が自殺に及ぶことは「一般に予見可能」とし、2人の加害行為と自殺との間に相当因果関係が認められると結論付けた。>と記事では因果関係と予見可能性を同視するかのような記述になっていますので、それは判決文で丁寧に見ておかないといけないでしょうね。

 

被告側は、いじめの事実を否定してそこに主力をおいて争ったようで、当然、因果関係についても結果の前提たる行為がないという争い方をしたり、いじめがないから予見可能性もないと言った、第二、第三の争点を一見、軽く見たかのような記事上の争点整理となっています。

 

ただ、普通は原告主張のいじめが合った場合の予備的な備えもして争うのですが、判決文が指摘するような「希死念慮」といった状態をきちんと議論したのかどうか、気になるところです。

 

もし十分な議論がされていないとすると、被告側としては第二、第三の争点をより強力に主張して控訴審で争う可能性があるでしょうか。

 

私自身、事実関係がわかっていないものの(これが問題であることを承知しつつ)、ある程度良好な関係であった少年たちが約1ヶ月の間に、一方が「希死念慮」の状態に陥ることを他方が、しかも大勢が関与しているとき本当にその結果として自殺するに至ることまで予見可能であったかといえば、疑念が残ります。

 

子どもたちの関係は(大人でもありえますが)、いつ急変し急激に悪化することは一般論としては肯くことができます。しかしそれが自殺に追いやるほどの状態(相当因果関係としても状況によってはあり得ると思うのです)であることを中2の少年が予見可能であったとすることには少し違和感を感じています(それは事実をしっかり見ていないからといわればそれに反対できません)。

 

ただ、別の記事<大津・中2自殺いじめ損賠訴訟 「暴行、絶望感抱かせた」 裁判長説明、父は涙>で指摘されているように、<「元同級生2人の暴行は孤立感、無価値感、無力感、絶望感を男子生徒に抱かせた」。・・・西岡裁判長は主文の後、生徒の父親に語りかけるかのように5分以上、理由を述べ、父親は閉廷後も涙を抑えきれずにいた。>ということは評価してよいかと思うのです。

 

この事件が大きく注目されていること、学校を舞台にいじめがあったが争われ、しかも突然、幼い息子が自殺し、一時はだれも責任が問われない状態でその親がさまざまな意見に晒されながらも長い間事実と責任を追及していたことを踏まえて、裁判長が口頭で理由を述べたのはよかったと思います。もっと多くの事件でやって欲しいですが。

 

他方で、気になったのは、少年2人の予見可能性を認めながら、その保護責任者の監督責任を安易に否定しているように見えて、少年と親とでバランスがどうかも気になりました。

 

賠償責任を認めたとしても、少年の場合どれだけ賠償能力と意識があるか懸念されます。

 

親であれば、なんらかのちょっとした異変があれば(このアンテナが大事でしょうけど)、子がいじめられていないか、あるいは子がいじめていないか、両面でしっかり子と対峙し、また担任教師などにもうわべだけの報告を鵜呑みにすることなく調べることが必要ではないでしょうか。それは子の友達や保護者からも情報を得たり、被害者とされる子の情報があれば、その保護者となんらかの形で話し合うことも一つの方法として検討されることではないでしょうか。

 

こういったいじめや虐待の発覚が増えてきたことなどを踏まえ、弁護士の学校派遣などの制度化を検討しているようですが、それ自体を問題視するつもりはないものの、それで解決するような状況ではないように思うのです。弁護士一人でなにかを対処するというのは一面的な法的解決の話ではすまないのではないでしょうか。いじめの背景をしっかり掘り下げる必要があるでしょう。やんでいるのはいじめを受ける少年少女だけではないでしょう。加害少年やその家族も、また過重労働に追いやられている教師も。福祉関係者、精神的なケア、さまざまな支援体制が必要でしょう。

 

と最後は中途半端になることを承知しながら、つい書き出してしまいました。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。


ブロック塀の安全確認? <ブロック塀、資格ない職員点検>などを読んで

2018-06-22 | 教育 学校 社会

180622 ブロック塀の安全確認? <ブロック塀、資格ない職員点検>などを読んで

 

一つの仕事を終え、次の仕事にかかろうとしたのですが、気になるニュースが目に入り、とりあえずブログを書くことにしました。

 

共同通信記事は午後1時過ぎ<ブロック塀、資格ない職員点検 高槻市教委が謝罪>と崩じています。これはひどいですね。

 

<高槻市教育委員会が22日、市役所で記者会見し、専門家の危険性の指摘を受けて点検した市教委職員2人には建築士などの資格がなかったと明らかにした。塀は安全と判断しており、市教委は「(事故を)結果として防げなかったのは痛恨の極み」と謝罪。安全対策の不備が浮き彫りになった形だ。

 点検は20162月に実施。ブロック塀を目視し、棒でたたく簡易な手法だったという。>というのですから、お粗末を通り越していますね。

 

私は過去数十件くらいさまざまな危険性のある物件について、訴訟に関与してきました。とはいえ素人です。むろん訴訟では地質学者や地盤工学の研究者の協力を得て、専門家相手に尋問しますが、ほんとのところよくわかっていません。ただ、建築基準法や都市計画法などの技術基準を記載した施行令や告示の解釈には幅があり、前提があるなど、難しい計算式はわからなくても危険性をそれなりに肌で感じてきました。といっても、地盤工学会の研究会のメンバーになって難しい議論をなんども聞いていますが、よくわかっていないというのが正直なところです。

 

しかし、今回の事例は、そういう私が見ても、あってはいけない怠慢と言わなければならないと思います。先日もこの件の一報を踏まえて取り上げました。最初の記事では写真も漠然としていましたが、その後の情報でよりこのブロック塀の問題性が明らかになってきました。

 

ただ、私が基礎の高さ1.9mあるコンクリート上に1.6mのブロック塀を設置している状態を見ただけで、とても危険で放置できないと、当初指摘しました。控え壁がないことなど多数、告示に適合しないことはちょっと調べればわかりますが、この外観自体がとても危険で、安全を構造計算等で確認しないといけないということは素人判断でもわかります。

 

私は、高い擁壁を設置する建築物などの事件を多数手がけましたので、その安全性が建築確認や施工の中間検査などで行われていることから、周辺住民が不安視することは理解できても、外観からその危険性に結びつくような判断は避けています。

 

しかし、ブロック塀となると、全然別です。私の年代より若い世代でも宮城沖地震のときや、それ以前からブロック塀倒壊による死傷事例をたくさん見てきたはずですから、ブロック塀の危険性は直感的にわかるはずです。

 

自分の大切な子供を通わせている学校に本件様な高い基礎の上にブロック塀を設置している状態を見れば、しかもその真下に通学路がある状況なのですから、専門家の指摘をまつまでもなく、不安を感じた人がいたはずです。

 

この共同通信の記事では、そういった保護者などの声はまだ取り上げていませんが、私はもっと以前から懸念の声が上がっていたと思います。

 

とはいえ、本件では専門家もしっかり報告していたというのですから、これは行政のひどい対応だと指摘せざるを得ません。

 

毎日記事<大阪震度6弱ブロック塀危険性 外部専門家が2度指摘>はこの件をさらに詳細に報じています。<3年前に外部から危険性を指摘されていたこと>、その内容は次の通りです。

<指摘していたのは、2015年11月2日に同校で防災教室の講師を務めた防災アドバイザーの吉田亮一氏(60)。吉田氏は同日、子どもたちの登校風景や校区内を確認し、学校周辺や今回の地震で倒壊したプールサイドのブロック塀の危険性について、校長や教頭に口頭で伝えていた。

 さらに、1981年の建築基準法施行令の改正で、ブロック塀の耐震規制が強化されたことを念頭に、「35年以上前に建てられたブロック塀は注意が必要」「危機感を持つこと」などと記した報告書を作成。>

 

この内容からは、吉田氏も、構造や法令の専門家ではない印象です。もし施行令を承知していたら、施行令の条項を指摘して、直ちに適合しないとの判断を報告書に記載できたはずですし、しなければならないと思います。

 

その意味で、学校の対応が、専門家とはいえ、建築法規や構造計算の専門でない方の報告書を基に、教育委員会に判断を仰いだのだとすると、それだけでも適切でないといえるでしょう。ところが、学校はこの報告を基に、市教委に対応を相談したりしたわけではなさそうなのです。

 

<高槻市教委によると、同校の田中良美校長は16年2月25日、別の用事で同校を訪れた市教委学務課の職員2人にブロック塀の点検を依頼。>このような依頼自体、真剣に問題に対処しているとはいえないでしょう。

 

当然、市教委職員も、問題を的確に把握せず、おざなりの確認?作業らしき事をしたに過ぎません。

<うち1人は建築職としての採用で、目視による確認と点検用の棒でたたく打音検査を実施し、塀に傾きやひび割れがないことから、「安全性に問題はない」と判断していた。17年1月にも業者に依頼して定期点検を実施していたが、点検結果の報告書については「業者の記憶が曖昧で、当時の安全状況を確認している」と説明していた。>

 

だいたい、<目視による確認と点検用の棒でたたく打音検査>でわかるほど、単純で有るはずがないでしょう。なぜ改正施行令がさまざまな安全措置を講じることを求めているか、ブロック塀の安全性を確認するとすれば、専門家として最低限やるべきことをやっていません。どうやら建築士などの資格ももっていなかったようですね。

 

<浜田剛史市長も三宅さんの両親と面会し、「市に責任がある」と謝罪している。【池田一生、大久保昂、津久井達、真野敏幸】>ということですが、死傷者がでてからでは遅いのです。

 

このブロック塀設置の際、ほとんど安全性を担保するような措置を行っていないと思わざるを得ないことは、すでに指摘したほか、毎日記事でも<倒壊の塀、鉄筋不足 基礎との接合部分>と根本的なミスを犯していると思われます。それだけでなく、長さ40mものブロック塀を連ねた場合、地震による揺れはさらに強まることが明らかで、そのような発想自体とそれに対する万全の備えに対する配慮を欠いていることを強く感じます。

 

別の記事では<塀の点検項目、国交省が公表 安全確認呼びかけ>と、とくにブロック塀の安全確認の点検項目を5つ指摘していますが、これくらいは簡単ですので、早急に確認・報告・是正措置をしてもらいたいものです。

 

改めてブロック塀など、高い塀を好むわが国の建築文化、それは開発する業者の意識だけでなく、施主の意識も変わらないと、簡単にはなくならないかもしれません。盗難防止という面では、一般的には逆に、これによって塀を上れば(泥棒にとって朝飯ですね)、家人がいない留守を狙うので、近隣の目を気にせず、ゆっくり盗むことができる状態となるので、効果的とは思えません。一般的な目隠しは確かにあるでしょうけど、それは家自体がいまはカーテンなどで目隠しできるのですから、あえて高い塀は必要ないと思うのです。

 

外国の住宅地を歩くのが好きですが、こういった塀があるのはいわゆるマンションといったほんとに超高級住宅くらいで、日本で言えば相当広大な敷地があっても、高い塀はないですね。わが国も最近の分譲地は塀が低いかないのが一般的ではないかと思いますが、古い分譲地や住宅だと、いまだ多く残っていますね。これも終活の一つとして解決しておくべき課題かもしれません。

 

30分あまりでざっと書き上げました。もう一つ、帰る前に書こうかと思っています。


学校の塀と安全 <3.5mの塀倒れ、9歳女児犠牲>を読みながら

2018-06-18 | 教育 学校 社会

180618 学校の塀と安全 <3.5mの塀倒れ、9歳女児犠牲>を読みながら

 

朝、ぐらっと家が揺れました。これは少し大きなと思いつつも、すぐに揺れが収まり、TVの情報を確認すると、大阪北部でマグニチュード6弱で、他は5以下でした。和歌山は3強でしたか、体感と同じくらいでした。

 

それから事務所に向かったものの、裁判所はこの地震で期日が流れ、別の仕事をしていたら、PCのネット接続が突然、停止して、そのため復旧作業というか、事業者に連絡して相談しながら悪戦苦闘1時間くらいですか、なんとか復旧できました。窓口担当の女性が丁寧に対応してくれるのはいいのですが、不慣れなお年寄り(私もそう感じられたか)には親切でよろしいと思われます。しかし、少し対応が間延びした感じで、結局、なんどか誰かに相談したものの解決策が見つからず、結局、メーカーに連絡して事なきを得たのです。ま、私が早く気づけば良かったのですが。

 

さて、ネットを再開したら、地震による犠牲者速報が流れていました。地震の規模というより、地盤やその上の構造物に問題があると危険が現実化しやすいのではと思い、その記事の写真を見ながら、よくこんなブロック塀が通学路で、小学校のプールの横に築造されたものだと、驚きでした。

 

朝日新聞配信記事<3.5mの塀倒れ、9歳女児犠牲…情報に大阪府庁舎緊迫>には、動画もあり、25m屋外プール施設があり、プールと道路を仕切るように、築造されていたブロック塀が見事に道路側に倒れていました。その長さが40mくらいとのこと。犠牲者がひとりだったのが不思議なくらいです。もちろん小⑷の女子生徒さんにとっては通学途中で避けられない気の毒な災難でした。ご両親やご家族もとてもつらいでしょう。

 

記事では< 大阪府北部を震源とする地震で、大阪府高槻市栄町3丁目の市立寿栄小学校では、同小4年の三宅璃奈さん(9)=高槻市川添1丁目=が亡くなった。午前9時4分に死亡が確認された。府警によると、小学校のプールサイドの塀が倒れて下敷きになったという。>とあり、その塀については<高槻市によると、倒れたのはプールサイドの塀(高さ3・5メートル)のブロック塀の部分(高さ1・6メートル)で、延長約40メートルにわたって倒壊した。>とあります。

 

ところで、この写真を見て、通学路の真上、真横に、コンクリート擁壁の上に、高いブロック塀を築造したばかりか、なぜ長い間放置されてきたのかと思うのです。

 

記事では、プールサイドの塀の高さが3.5mで、おそらくコンクリート擁壁部分が高さ1.9mで、その上にブロック塀部分の高さが1.6mということだと思われます。

 

写真を見ると、ブロック塀は7段積みで、縦筋の鉄筋が間欠的に入っているようですが、横筋については入っていないように見えます。しかし、長さ40m、しかも高さが1.6もあるブロック塀をコンクリート擁壁の上に設置すること自体、とても危険ではないかと思うのですが、これまで危険視する保護者などもいたと思われます。学校自体、どのように安全性を検討してきたのでしょうか。

 

むろん今回の地震は相当な規模であったことは確かで、その大きな揺れに耐えられなかったことはコンクリート擁壁に入っている亀裂の跡からもうかがえます。しかし、当該地域がM6弱の揺れがあったとしても、通常は想定範囲内だと思います。

 

では法令はどうなっているのでしょう。少し調べてみました。

 

こういったブロック塀は、建築基準法施行令では「補強コンクリートブロック造」と呼ばれていて、同施行令で、高さ1.2mを超えるものについては、次の要件を満たす必要があります。

 

 <1.高さは2.2m以下とすること。

 2.塀の厚さは、15cm(高さ2m以下の塀にあっては、10cm)以上とする。

 3.壁頂及び基礎には横に、塀の端部及び隅角部には縦に、それぞれ径9mm以上の鉄筋を配置すること。

 4.壁内には、径9mm以上に鉄筋を縦横に80cm以下の間隔で配置すること。

 5.長さ3.4m以下ごとに、径9mm以上の鉄筋を配置した控壁で基礎の部分において壁面から高さの1/5以上突出したものを設けること。

 6.第三号及び第四号の規定により配置する鉄筋の末端は、かぎ状に折り曲げて、縦筋にあっては壁頂及び基礎の横筋に横筋に あってはこれらの縦筋に、それぞれかぎ掛けして定着すること。

 ただし、縦筋をその径の40倍以上基礎に定着させる場合にあっては縦筋の末端は、基礎の 横筋にかぎ掛けしないことができる。

 7. 基礎の丈は35cm以上とし、根入れの深さは30cm以上とすること。>

 

2号の塀の厚さ15cmについては、記事では触れられていないので、判断できません。ただ、3号の壁頂や、⑷号の壁内への縦、横への鉄筋配置については、写真を見る限り、横筋にはないようにみえるのです。

5号の控壁は写真からは見当たりません。

その他の要件も少し調査すれば、ちゃんと具備しているかどうかわかるはずです。

 

この法令とは別に、<ブロック・エクステリアに関わる基準(日本建築学会基準)>は、学校のような公共建築物ではとくに適合することが必要ではないかと思うのです。

 

その中で、注目すべき事項は、<擁壁上のブロック塀>で、本件事故の場合に該当すると考えますが、その場合の基準は<高さ1m以上の擁壁上ブロック塀は1.2m以下とする。高さ1m以下の擁壁上ブロック塀は擁壁下部地盤よりの高さ2.2m以下とする。>となっています。

 

記事で指摘されているブロック塀の高さは1.6mで、これを大幅にオーバーしています。私がこのブロック塀を事故前に見ていれば、とても危険だと思いますし、その真下を通学路にしていることもとても不安になっていたと思います。

 

1978年の宮城県沖地震では、ブロック塀の倒壊で大勢の死者が出た悲惨な歴史があります。そのため、ブロック塀の規制強化や、その設置にある程度歯止めがかかったのではないかと思っていましたが、学校プールの塀に使われるとは残念な思いです。

 

たしかに、道路からの視線を遮る効果や、高さ1.9mもある擁壁からの転落防止措置として、塀を設置すること自体、必要性は理解します。しかし、ブロック塀以外の方法があったのではないかと思うのです。

 

高さ1.9mのコンクリート擁壁は、プール施設の外壁としての役割もあったのかもしれません。その構造計算はしっかりされ、施工も安全性を担保したものだったと思われます。しかし、その上のブロック塀は、道路上に設置する場合でも危険なのに、擁壁上に設置するのですから、どのように安全性を検討したのか伺いたいものです。擁壁と同様に構造計算をしたのでしょうか疑問です。

 

78年以前に設置されていたとしても、耐震対策の必要が叫ばれ、校舎については多くが耐震工事が行われてきたと思うのです。しかし、通学路に面するこのブロック塀に注意が払われなかったとしたら、いったいどのように学校の安全性に注意を払ってきたのか問われるのではないでしょうか。

 

今回のような悲しい事故が起こらないよう、原因究明をしっかり行うと同時に、各地の学校を含む公共建築物では改めて注意を払ってもらいたいものです。

 

今日はこれにておしまい。また明日。


トイレ洋式化考 <教育の窓 小学校、進むトイレ洋式化>を読みながら

2018-04-16 | 教育 学校 社会

180416 トイレ洋式化考 <教育の窓 小学校、進むトイレ洋式化>を読みながら

 

今朝も田中陽希のグレート・トラバースを見ながら室内ジョギングを1時間続けました。まだまだしんどい思いをしながらやっていますが、陽希さんのあのタフさに元気をもらってなんとか1時間もっています。

 

陽希さんの登山技術とかは特別並外れたものを感じませんが(だいたい高山植物をあまりよくわかっていないのは登山と言うよりはレース中心だったのでしょう)、スピードと持続力はすごさを感じさせます。コース時間を半分とか大幅に短縮するスピードは、彼の年齢であれば一つくらいの山なら結構達成できる人はいると思います。でもこれだけの持続力があるかというとたいていはギブアップするのではないかと思います。

 

凍結した氷上を歩いたりする技術も、あまり経験がないようで、最初はおぼつかない感じもありましたが、次第に慣れていく、その順応力もすばらしいですね。そうそう彼はクロスカントリスキーの選手だったとかで、スキーの腕も相当なものと思うのですが、一度みたいものです。他方で、カヤックの方は、沖縄から本土に向けた海上でのパドリングは、特別技術が優れている印象はありませんが、しっかり漕いでることと持続力はやはり並ではないですね。

 

なによりも素晴らしいと思うのは真のアドベンチャーに向かって進む彼の総合力ですね。リスクの想定をできるだけ予想して、その是非を検討し、できるだけ回避するその判断力は、将来すぐれた真のアドベンチャーになる能力を持っていると思うのです。

 

さてそのアドベンチャーにとっても排泄は必ず日々対応しないといけませんね。むろんNHK放送ではそこは取り上げないですが、トイレなどの施設がない場合の、いわゆる立ちション、野糞です。キャンプ場といったところではトイレ施設はありますが、そうでないところでは、屋外排泄への対応が求められますね。登山家にとっては、その作法が求められますね。これは文化的生活の中にいても、いつ災害が起こるかもしれない災害列島日本では常に考えておいてもよいのではと思うのです。そういうことを子供の頃から学んでおくことも重要かなと思うのです。

 

ところで、今朝の毎日記事<教育の窓小学校、進むトイレ洋式化>では、小学校のトイレの全国調査で、和式から洋式に変更する流れがよくわかります。それも東京都のように60%近いところもあれば、30%と低迷している地方の県もあるのですね。和歌山県は近畿圏で最低の31%となっています。

 

この洋式化の動きは、家庭での洋式化と、小学校での排便が恥ずかしいという抵抗感の払拭などを理由としているとのことです。さらに災害時小学校が避難時として利用され、高齢者・障害者の利便性を高める狙いもあるとのこと。

 

私自身の経験は半世紀を優に超えることと、当時はもちろん和式でしたので、ほとんど意味をなさないです。ただ、子供が小学校での排泄をいやがっていたのは覚えています。やはり幼い頃から洋式トイレに慣れている中、小学校での和式トイレは対応できなかったのかもしれません。

 

また、<学校のトイレは「5K(汚い、くさい、暗い、怖い、壊れている)」の印象が定着していた。>ということも、和式トイレが原因だという理解でしょうか、洋式化の普及の要因のようです。

 

ところで私がこのトレイを話題にしたのは、洋式化もいいけど、もっと考えないといけないことはないかということです。

 

この5Kは、和式だけの問題でしょうかね。汚くなるのは、その使い方に問題があるのではと思うのです。洋式トイレでも公衆トイレの場合見かけます。臭いのはたしかに和式の方が少し軍配が上がると思いますが、臭いを嫌悪することも一度見直ししてもいいかと思います。暗いとか怖いとかは、環境条件がひどい昔のもののようで、現在ではかなりよくなっているように思いますし、容易に改善できると思われます。

 

で、洋式化がすべていいとは思わないのです。和式スタイルは少し大変ですが、健康であれば筋力維持など有効な面もあるかと思うのです。一部くらいは残してもいいかなと思うのです。それに排便で自分の健康状態を理解する一歩になる?と思うのです。というか、排便を毛嫌いすることへの抵抗感を再考してみてはどうかと思うのです。

 

以前のブログで、尿も便も、有効活用の可能性や処理のあり方について、少し触れました。子供の頃から、人間にとって大切な事柄に、嫌なものとする考え方から脱皮する必要を感じています。それが万が一の災害時でも、動揺することが軽減できるのではと思うのです。

 

ましてや学校での排便を億劫になる現状は、洋式化してもさほど大きな変化がないとも書かれていることに注目したいと思うのです。人間にとって死ぬまで対処しなければならない一つの課題です。その行為の持つ意味をまじめに考えてもいい、学校でそのことを学ぶ機会にすることを考えてもらいたいと思うのです。

 

それは高齢者になり、オムツが必要になったと父母、祖父母に対して、子、孫がそんなことで動揺するのではない、しっかりした考え方、心構えをもっておくための、ハードではないソフトを理解するために教育が担う部分ではないかと思うのです。それもまたある種の道徳教育かもしれません。

 

むろん性的少数者への配慮や考え方を学ぶ機会とすることも大事でしょう。男子トイレ、女子トイレといった区別に変わるものは近い将来になくならないとしても、性差のないトイレがより普及することが重要ではないかと思うのです。障害者トイレがより普及することが求められますが、それは身体障害といった概念ではなく、心の垣根を取り払う、そんな真のバリアフリー・トイレが普及することが必要であり、子供の心にもそのような気持ちを育ててあげることが大事ではないかと思うのです。

 

30分で仕上げるつもりが、1時間になってしまいました。仕事にかからないと・・・