190415 意思確認とは <検証 東京・公立福生病院 透析中止・非導入21人、同意書なし>などを読みながら
今日の花はラベンダーを選びました。<ラベンダーの花言葉|種類、特徴、色別の花言葉>によると、花言葉は「沈黙」「清潔」というそうです。でも写真のラベンダーからはちょっと違うなと思ってよく見たら、<フレンチラベンダー>でした。花言葉のラベンダーは<イングリッシュラベンダー(コモンラベンダー)>で、<寒さに強くて、高温多湿に弱い>ということで、北海道に向いているようです。前者の方は<耐暑性>があって地中海のような温暖向きでしょうか。形も香りも異なりますね。写真からは清潔といった感じとは異なるイメージを受けます。同じような名前だからといって一緒にしてはいけませんね。
30年くらい前、旭川で日弁連大会に参加した後、ふらっと富良野を訪ねました。そのときラベンダー畑を見たのか記憶に残っていませんが、当時、富良野の写真集が気に入っていたので、立ち寄ったような記憶です。目的は富良野にある東大北海道演習場でしたが、そこの記憶はわずかに残っているものの、ラベンダーの思い出が全くないので、咲いていなかったのでしょうね。
ところで本日のお題、意思確認について、福生病院透析中止事件で、4月10日付け毎日記事が気になっていました。その日は別のテーマにしたので、そのままになっていました。今日は朝刊が休みでしたので、ちょうどよい機会ですので、これを取り上げたいと思います。
その記事<検証東京・公立福生病院 透析中止・非導入21人、同意書なし ずさん体制露呈 都指導>では、紙面で、「意思確認ずさん」と大きな見出しが掲載されていました。
私も日常的に依頼者、相手方、関係者などの意思確認をする仕事をしていて、そのことの難しさを感じています。それが「ずさん」と言われないように心がけつつも、どうしたらよいか日々悩むことが少なくないと思っています。まして医療の現場では時々刻々と事態が変わり、患者の意思、病状は変わるでしょうし、家族の意思も微妙に影響するでしょう。他方で、医学知見も日進月歩で進展しているわけで、そのフォローと実践が試されるわけでしょう。容態が急変することもあり、生死に影響することもあるでしょうから、医師の判断は過酷な勤務条件の中厳しい選択を迫られていると思うのです。しかも患者・弁護士からの医療ミスを追求されるおそれも気にしないといけないかもしれないのでしょう。他の仕事に比べて、過酷な負担を抱えているのかも知れません。
ここで何を書こうとしたのか、ちょっとあいまいになったようで、本題に戻ります。
では毎日記事は意思確認がずさんであるとしたのはどういうことだったのでしょうか。
<同意書を取らずに治療を中止、または非導入で死に向かわせる>ということをもってそう言及しているようです。
【斎藤義彦、矢澤秀範、市川明代】ら記者の指摘では、その判断の前提として、<公立福生病院(東京都福生市)の人工透析治療を巡る問題で、都は9日、医療法に基づき病院側を文書で指導した。>ことから<そこから浮かんだ>のが上記の意思確認のずさんさというようですが、では東京都の指導はどのような内容だったのでしょう。
都の指導文書自体が明らかにされていないのはどうしてでしょう。それとは別に、<都の立ち入り検査の内情を知る関係者>の話として、<最大の驚きは、透析治療中止の1人、最初からしない非導入の20人全員の計21人で患者本人の同意書がなかった点だ。>
たしかに同意書がなかったのであれば、インフォームドコンセントの観点から疑念を抱かれても当然かも知れません。しかし同意書があればよいということではないと思います。医療過誤事件を取り扱っていると、手術など重大な治療行為について必ず同意書をとっていますが、形式的なものが少なくなく、理解できる内容で適切に説明がなされたかが問われる事例が何十年にわたって何度も争われてきたのも事実です。
最近の電子カルテでは、詳細な説明内容が記載され、第三者からみて説明が理解されるものとしてなされていて、患者もその説明に納得して同意したという一連の手続が記載されていれば、その方が一片の同意書を残すより、望ましいあり方ではないかと思うのです。むろんその上で同意書をとることでしょう。逆に同意書がなくてもそういった説明記録が残っていれば納得して治療あるいは治療中止を受け入れたと見てよいのではと思うのです。
また、専門家の見解を掲載していますが、前提事実が明瞭であればともかく、必ずしも適切かどうか気になります。
たとえば<甲斐克則・早稲田大教授(医事法・刑法)は「命にかかわる選択の説明は口頭では無理で、透析のメリット、デメリットを本人及び家族に文書で詳細に説明し、文書で同意を取るのが通常の手続き。>との指摘は私も基本同感です。ただ、文書で詳細に説明しても、その内容が患者に理解できる内容になっていなければ意味がないでしょう。そういう前提で「詳細」と指摘されているのだと思います。医療用語はいくら詳細に説明されても余計わからなくなることもありますからね。医師にとって常識で丁寧な説明であっても、その点は注意を要するでしょう。
他方で、同意文書がないことをもって、<これは決して『軽微』ではなく、生命に関する重大な決断で、今回はずさんだったと言える。口頭で同意を取ったつもりだったというのは(医師が患者を無視する)専断的医療で、違法とされる可能性もある」と指摘する。>のはいかがでしょう。口頭か文書かで判断基準を置くのは少し形式的ではないでしょうか。同意書にサインしたからといって本人意思の確認ができたとはいえないと思うのです。同意書を取らなかったことが軽微かどうかという視点で、杜撰と結論するのは少し飛躍があると思うのです。
福生病院の透析治療の施行や中止についての手続体制、システムがある程度確立していて、その手順にそって行われていたのであれば、同意書がないということで、杜撰とか、さらに違法だとかとの判断に結びつくのはどうかと思うのです。
翻って、意思確認そのものの問題に関わることで注意しないといけないのは、患者に精神疾患などの病状・病歴がある場合です。記事では<昨年8月、透析治療をやめる選択肢を外科医から提示されて亡くなった女性(当時44歳)について、1999年に自殺願望のある抑うつ性神経症と診断されていたとする他の医療機関からの病歴を病院は見落としていた。外科医は精神科医に意見を聞かないまま治療中止を判断。同意書は撤回できることを女性に説明しておらず、腹膜透析など代替治療の提示もしなかった。>とされています。
<自殺願望のある抑うつ性神経症と診断>とありますが、それが当時もその症状が認められていたかどうか、この点は注意を要すると思います。記事は<病歴を病院は見落としていた。>と指摘していますが、そう判断する根拠があるのかどうかですね。また、99年ということで約20年近く前の診断ですので、その病歴を重視してよいか、入院時の診察でそのような症状が見られたかによっては、その病歴を踏まえて、専門医に診断を仰ぐ必要があったと思うのですが、これまでの情報でははっきりしません。
また記事は<死の前日の15日、治療中止の撤回を女性が何度も訴えたことがカルテに残されていた。>ということですが、カルテは患者の遺族から入手したのでしょうか、誰がどのような記録を残していたのか、具体の表現や全体を見ないとこれだけでは判断しかねるのではと思うのです。
この点、<長江弘子・東京女子医大教授(老年看護学)は「患者の意思は絶えず変わる。いったん決めたから終わりではない。苦しくなって治療再開を求められたら、『やらないって言ったでしょ?』ではなく、『生きていこうと思ったのね』と受け入れるべきだ。そうしないと医師の価値観の押し付けになる」と批判している。>という見解を引用していますが、長江氏の見解も一般論としては同意できます。しかし、本件でそのまま妥当するかは、慎重であってよいと思います。
ところで、その後、4月12日付け毎日記事では<公立福生病院の院長が発表したコメント全文 都の文書指導受け>として、病院長の見解が全文掲載されています。この点は、毎日記事が病院に批判的な論調の記事を連続して掲載している中で、これまでも担当医の見解を掲載したり、今回は病院側の見解をほぼ全面的に掲載している点は評価されてよいと思います。
それによると、<この度の指導は、診療記録の不備が認められたという点に関して指摘がなされたものです。「患者への説明が不十分だった」「意思確認が不十分だった」等として指導がなされたと一部報道がございましたが、そのような指摘を受けた事実はございません。>
また<当院の医師が積極的に透析の見合わせの選択肢を示した、患者の再開の求めにもかかわらず透析を再開しなかった等との指摘も、当然ながら、ございませんでした。>
その他<日本透析医学会の提言(維持血液透析の開始と継続に関する意思決定プロセスについての提言)>違反の指摘もなかったと述べています。
東京都の指導は、医療法に基づくもので、問題の<透析治療の中止や非導入のあり方>は対象となっていないので、毎日記事が指摘するように、グレーな状態かもしれません。
とはいえ、人の意思を確認するということはさほど簡単に理解できるものではないと思っています。
最近、私が担当している方が入院中、食事の摂取を拒絶し、点滴での水分・栄養補給も困難となり、他方で衰弱していく中、病院側が家族と協議して胃瘻を開始しました。むろん胃瘻になると、その方にとっては余計嫌なことだと推測できます。この方の意思はどのように考えればよいのか悩むところです。医師も困ったのでしょうね。あらゆる栄養を拒絶したら、衰弱死するかもしれません。それでもその方は拒もうとしているのでしょうかと。私もどうしたらよいのか悩みます。
そんなことを思いながら、どのように丁寧にその方の意思を大事にして確認して対応すればよいのか、悩みつつ、ひょいとラベンダーを眺めて、心を少し穏やかにしています。
今日はこれにておしまい。また明日。