たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

意思確認とは <検証 東京・公立福生病院 透析中止・非導入21人、同意書なし>などを読みながら

2019-04-15 | 医療・医薬・医師のあり方

190415 意思確認とは <検証 東京・公立福生病院 透析中止・非導入21人、同意書なし>などを読みながら

 

今日の花はラベンダーを選びました。<ラベンダーの花言葉|種類、特徴、色別の花言葉>によると、花言葉は「沈黙」「清潔」というそうです。でも写真のラベンダーからはちょっと違うなと思ってよく見たら、<フレンチラベンダー>でした。花言葉のラベンダーは<イングリッシュラベンダー(コモンラベンダー)>で、<寒さに強くて、高温多湿に弱い>ということで、北海道に向いているようです。前者の方は<耐暑性>があって地中海のような温暖向きでしょうか。形も香りも異なりますね。写真からは清潔といった感じとは異なるイメージを受けます。同じような名前だからといって一緒にしてはいけませんね。

 

30年くらい前、旭川で日弁連大会に参加した後、ふらっと富良野を訪ねました。そのときラベンダー畑を見たのか記憶に残っていませんが、当時、富良野の写真集が気に入っていたので、立ち寄ったような記憶です。目的は富良野にある東大北海道演習場でしたが、そこの記憶はわずかに残っているものの、ラベンダーの思い出が全くないので、咲いていなかったのでしょうね。

 

ところで本日のお題、意思確認について、福生病院透析中止事件で、410日付け毎日記事が気になっていました。その日は別のテーマにしたので、そのままになっていました。今日は朝刊が休みでしたので、ちょうどよい機会ですので、これを取り上げたいと思います。

 

その記事<検証東京・公立福生病院 透析中止・非導入21人、同意書なし ずさん体制露呈 都指導>では、紙面で、「意思確認ずさん」と大きな見出しが掲載されていました。

 

私も日常的に依頼者、相手方、関係者などの意思確認をする仕事をしていて、そのことの難しさを感じています。それが「ずさん」と言われないように心がけつつも、どうしたらよいか日々悩むことが少なくないと思っています。まして医療の現場では時々刻々と事態が変わり、患者の意思、病状は変わるでしょうし、家族の意思も微妙に影響するでしょう。他方で、医学知見も日進月歩で進展しているわけで、そのフォローと実践が試されるわけでしょう。容態が急変することもあり、生死に影響することもあるでしょうから、医師の判断は過酷な勤務条件の中厳しい選択を迫られていると思うのです。しかも患者・弁護士からの医療ミスを追求されるおそれも気にしないといけないかもしれないのでしょう。他の仕事に比べて、過酷な負担を抱えているのかも知れません。

 

ここで何を書こうとしたのか、ちょっとあいまいになったようで、本題に戻ります。

 

では毎日記事は意思確認がずさんであるとしたのはどういうことだったのでしょうか。

<同意書を取らずに治療を中止、または非導入で死に向かわせる>ということをもってそう言及しているようです。

 

【斎藤義彦、矢澤秀範、市川明代】ら記者の指摘では、その判断の前提として、<公立福生病院(東京都福生市)の人工透析治療を巡る問題で、都は9日、医療法に基づき病院側を文書で指導した。>ことから<そこから浮かんだ>のが上記の意思確認のずさんさというようですが、では東京都の指導はどのような内容だったのでしょう。

 

都の指導文書自体が明らかにされていないのはどうしてでしょう。それとは別に、<都の立ち入り検査の内情を知る関係者>の話として、<最大の驚きは、透析治療中止の1人、最初からしない非導入の20人全員の計21人で患者本人の同意書がなかった点だ。>

 

たしかに同意書がなかったのであれば、インフォームドコンセントの観点から疑念を抱かれても当然かも知れません。しかし同意書があればよいということではないと思います。医療過誤事件を取り扱っていると、手術など重大な治療行為について必ず同意書をとっていますが、形式的なものが少なくなく、理解できる内容で適切に説明がなされたかが問われる事例が何十年にわたって何度も争われてきたのも事実です。

 

最近の電子カルテでは、詳細な説明内容が記載され、第三者からみて説明が理解されるものとしてなされていて、患者もその説明に納得して同意したという一連の手続が記載されていれば、その方が一片の同意書を残すより、望ましいあり方ではないかと思うのです。むろんその上で同意書をとることでしょう。逆に同意書がなくてもそういった説明記録が残っていれば納得して治療あるいは治療中止を受け入れたと見てよいのではと思うのです。

 

また、専門家の見解を掲載していますが、前提事実が明瞭であればともかく、必ずしも適切かどうか気になります。

 

たとえば<甲斐克則・早稲田大教授(医事法・刑法)は「命にかかわる選択の説明は口頭では無理で、透析のメリット、デメリットを本人及び家族に文書で詳細に説明し、文書で同意を取るのが通常の手続き。>との指摘は私も基本同感です。ただ、文書で詳細に説明しても、その内容が患者に理解できる内容になっていなければ意味がないでしょう。そういう前提で「詳細」と指摘されているのだと思います。医療用語はいくら詳細に説明されても余計わからなくなることもありますからね。医師にとって常識で丁寧な説明であっても、その点は注意を要するでしょう。

 

他方で、同意文書がないことをもって、<これは決して『軽微』ではなく、生命に関する重大な決断で、今回はずさんだったと言える。口頭で同意を取ったつもりだったというのは(医師が患者を無視する)専断的医療で、違法とされる可能性もある」と指摘する。>のはいかがでしょう。口頭か文書かで判断基準を置くのは少し形式的ではないでしょうか。同意書にサインしたからといって本人意思の確認ができたとはいえないと思うのです。同意書を取らなかったことが軽微かどうかという視点で、杜撰と結論するのは少し飛躍があると思うのです。

 

福生病院の透析治療の施行や中止についての手続体制、システムがある程度確立していて、その手順にそって行われていたのであれば、同意書がないということで、杜撰とか、さらに違法だとかとの判断に結びつくのはどうかと思うのです。

 

翻って、意思確認そのものの問題に関わることで注意しないといけないのは、患者に精神疾患などの病状・病歴がある場合です。記事では<昨年8月、透析治療をやめる選択肢を外科医から提示されて亡くなった女性(当時44歳)について、1999年に自殺願望のある抑うつ性神経症と診断されていたとする他の医療機関からの病歴を病院は見落としていた。外科医は精神科医に意見を聞かないまま治療中止を判断。同意書は撤回できることを女性に説明しておらず、腹膜透析など代替治療の提示もしなかった。>とされています。

 

<自殺願望のある抑うつ性神経症と診断>とありますが、それが当時もその症状が認められていたかどうか、この点は注意を要すると思います。記事は<病歴を病院は見落としていた。>と指摘していますが、そう判断する根拠があるのかどうかですね。また、99年ということで約20年近く前の診断ですので、その病歴を重視してよいか、入院時の診察でそのような症状が見られたかによっては、その病歴を踏まえて、専門医に診断を仰ぐ必要があったと思うのですが、これまでの情報でははっきりしません。

 

また記事は<死の前日の15日、治療中止の撤回を女性が何度も訴えたことがカルテに残されていた。>ということですが、カルテは患者の遺族から入手したのでしょうか、誰がどのような記録を残していたのか、具体の表現や全体を見ないとこれだけでは判断しかねるのではと思うのです。

 

この点、<長江弘子・東京女子医大教授(老年看護学)は「患者の意思は絶えず変わる。いったん決めたから終わりではない。苦しくなって治療再開を求められたら、『やらないって言ったでしょ?』ではなく、『生きていこうと思ったのね』と受け入れるべきだ。そうしないと医師の価値観の押し付けになる」と批判している。>という見解を引用していますが、長江氏の見解も一般論としては同意できます。しかし、本件でそのまま妥当するかは、慎重であってよいと思います。

 

ところで、その後、412日付け毎日記事では<公立福生病院の院長が発表したコメント全文 都の文書指導受け>として、病院長の見解が全文掲載されています。この点は、毎日記事が病院に批判的な論調の記事を連続して掲載している中で、これまでも担当医の見解を掲載したり、今回は病院側の見解をほぼ全面的に掲載している点は評価されてよいと思います。

 

それによると、<この度の指導は、診療記録の不備が認められたという点に関して指摘がなされたものです。「患者への説明が不十分だった」「意思確認が不十分だった」等として指導がなされたと一部報道がございましたが、そのような指摘を受けた事実はございません。>

 

また<当院の医師が積極的に透析の見合わせの選択肢を示した、患者の再開の求めにもかかわらず透析を再開しなかった等との指摘も、当然ながら、ございませんでした。>

 

その他<日本透析医学会の提言(維持血液透析の開始と継続に関する意思決定プロセスについての提言)>違反の指摘もなかったと述べています。

 

東京都の指導は、医療法に基づくもので、問題の<透析治療の中止や非導入のあり方>は対象となっていないので、毎日記事が指摘するように、グレーな状態かもしれません。

 

とはいえ、人の意思を確認するということはさほど簡単に理解できるものではないと思っています。

 

最近、私が担当している方が入院中、食事の摂取を拒絶し、点滴での水分・栄養補給も困難となり、他方で衰弱していく中、病院側が家族と協議して胃瘻を開始しました。むろん胃瘻になると、その方にとっては余計嫌なことだと推測できます。この方の意思はどのように考えればよいのか悩むところです。医師も困ったのでしょうね。あらゆる栄養を拒絶したら、衰弱死するかもしれません。それでもその方は拒もうとしているのでしょうかと。私もどうしたらよいのか悩みます。

 

そんなことを思いながら、どのように丁寧にその方の意思を大事にして確認して対応すればよいのか、悩みつつ、ひょいとラベンダーを眺めて、心を少し穏やかにしています。

 

今日はこれにておしまい。また明日。


医師の過労と病院の混雑 <勤務医残業、年1860時間 国「過労」容認>などを読みながら

2019-03-29 | 医療・医薬・医師のあり方

130329 医師の過労と病院の混雑 <勤務医残業、年1860時間 国「過労」容認>などを読みながら

 

たいていの仕事では、さまざまな関係者が出会う必要があり、双方に需要と供給のミスマッチがあることもあり、日程調整をして予約をして時間と場所を決めて行うことが普通でしょう。むろん緊急にしなければいけない場合もありますが、それは例外的なケースとして取り扱われるでしょう。

 

しかし医療の世界ではそれが通らないようです。病院、とくに大学病院などの大病院では、予約していても1時間待ちどころか2時間待ちが普通でしょうか。あるいは半日待ったという人もいるかもしれません。いやいや3ヶ月以上、あるいは半年咲き出ないと予約がとれない、それで予約しても長時間待ってようやく診察をうけることができたといた経験をした人もいるでしょう。

 

私も関東に居住しているころ、体調が悪くて大学病院や大病院を訪れることが時折ありましたが、似たような経験をしました。だいたい知人や友人に相談すると、そういった名医のいる病院を紹介してくれるものですから、ついつい遠くでも通ってしまうのですね。はたして名医と言われたり、評判の医師に診てもらうひつようがあったかどうか、それもいまではわかりません。ただ、医療過誤裁判とは異なる、医療の実態を一部を垣間見たという経験はそれなりに意味があったと思います。

 

それにしても患者があれだけ待っていると言うことは、患者という需要が過大となっている一方、医師の供給が不足しているということはいえるのでしょうね。大学病院などに通うことで、医師が多忙であることは容易に理解できていましたが、他方で、その異常な過重労働の実態は最近の報道で少しずつ理解するようになった程度です。

 

そのひどさは先日のブログで紹介したNHK番組でも一部わかりますが、今朝の毎日記事<クローズアップ2019 勤務医残業、年1860時間 国「過労」容認のまま>では、わかりやすい図表を掲載していますので、より問題が明解となっています。

 

見出しのごとく、<医師の働き方改革について、厚生労働省の有識者検討会が28日に報告書をまとめ、2024年度からの方向性が固まった。>として、<一般の医師は、・・・年960時間を残業の上限としたが、地域医療を支える勤務医らは、小幅に縮小したものの、年1860時間まで容認することで決着した。>というのです。

 

この年1860時間の残業が容認された医師は、<「地域医療を支える医療機関の勤務医」と「専門性や技能を高めたい若手勤務医」>の2つのグループです。

 

それは病院の割合でいえば、4分の1にあたり、400床以上だと71%、救命級機能があると84%、大学病院だと88%となっています。つまり大病院では過酷勤務が常態化していることがわかります。

 

現場では「殺される」といった批判があがっているのに、過労死や病気を回避するための措置と言えば、<①連続勤務は28時間まで、②勤務時間インターバル9時間以上、③①②を守られなければ休息時間を取得(つまり①②も禁止されていない)>といった内容です。

 

そして<残業が年1860時間の働き方のイメージ>が日程表として掲載されていますが、とても健康状態を保ちながら長期間にわたって過酷な医療業務を実施することができるとは思えません。

 

たしかに私も若いときは結構無理をして徹夜しても翌日普通に勤務するといったことはよくありました。たいていの人がそうだったかもしれません。しかし、若いときは体がもっても、その負担が累積して50代、60代になると体自体が悲鳴を上げるのではないでしょうか。

 

まして医師の業務は人の生死に関わる厳しい内容で、それが連続して個々の患者の症状も病気も異なるわけですから、神経をすり減らす日々を長期間続けると、精神も肉体も参ってしまうことが予想できます。

 

社説働かせ過ぎの勤務医 開業医との格差をただせ>では、<過労やストレスで毎年70~90人の医師が自殺し、病死も含めると毎年100人もの医師が過労で亡くなっている。若い研修医の4割程度が抑うつ状態という調査結果もある。>というのです。

 

こういった過酷な勤務状態に、将来のある若い勤務医が就くことを、経験になるとか、医師として当然の道とか、といって奨励してきたのだとするといかがなものかと思うのです。

 

その前提として、医師の応召義務ということが指摘されたりしていますが、医師法19条の解釈として、合理的な意義が医師、患者側、行政の間で確立していないのではないかと懸念します。

 

たしかに医師法19条は、「診療に従事する医師は、診察治療の求があつた場合には、正当な事由がなければ、これを拒んではならない。」として、正当な事由がなければ、応召義務があると規定しています。

 

しかし、それはあらゆる診察治療を前提とするものではないと解釈すべきであるとみてよいと考えます。そのような見方こそ、現代医療の現場からいえるのではないでしょうか。

 

ウィキペディア<応召義務>では、戦後初期の時代の厚生省医務局医務課長回答などが取り上げられ、厳格な解釈が取り上げられていますが、現代の状況に適合する新しい解釈指針を提示すべきではないかと思います。

 

<患者側も一定の協力や負担が必要>という指摘があります。患者側も、大学病院や大病院にかかることを当然の権利という考えで、診察や検査を受ける姿勢は見直すことが必要ではないでしょうか。診療してもらう医師がうつ状態や過労死の危機にさらされている状況を深刻に受け止める必要があると思うのです。

 

仮に暴飲暴食、不健康な生活の連続で、自ら招いた病気であるなら、とりわけ節度が必要ではないでしょうか。そういう私も、この年になってようやく健康管理に目覚め、病院・医師に負担をかけないよう、配慮する心構えができてきたところですので、人を批判すると天に唾するようなものと思いながら、反省の気持ちをこめて書いています。

 

この点、<厚労省は昨年、アーティストのデーモン閣下さんらを委員とする「上手な医療のかかり方を広めるための懇談会」を発足させ、国民に医療を守る行動を促す宣言を出した。子どもの病気に小児科医らが対応する「#8000」や、救急車を呼ぶべきかどうかの助言がもらえる「#7119」といった短縮ダイヤルの活用により、安易な夜間・休日の受診の抑制を狙う。>という取り組み自体は結構なことだと思います。

 

しかし、抜本的な見直しには簡単にはつながらないと思います。

 

1860時間の残業を許容するような医療行政は、抜本的に改めるよう、その原因追求を掘り下げ、一般労働者と同じか、それ以下にするよう、見直してもらいたいものです。方向性が固まったというのですから、無理な話かもしれませんが、今後の国会議員選挙で争点として議論してもらいたいものです。

 

患者としては、適切な診療をしてもらうには、医師が過労死やうつ病などの危険にさらされている状態であることは是非とも回避してもらう必要があります。それは適正な診療を受ける権利を害していることにもつながります。いや、そういうことばは適切ではないでしょう。診ていただく医師が健全な状態出会って欲しいと思うのは、患者ならだれしも思うのではないでしょうか。過酷な勤務状態にある医師に、適切な診療を求めることは人としてできないでしょう。

 

そんなことをふと思って冗長な話となりました。今日はこれにておしまい。また明日。

 

このブログも、移行しないと331日で終了というメールが来ていましたが、移行手続する元気もないので、自然更新がなければ、明日、明後日で終わります。

 

もし⑷月1日にブログが消えたら、当分の間、休筆します。またやる気がでたら(いつになるか分かりませんが)、書くかもしれません。後残り2回は書くつもりです。


患者の意思とは <透析中止で死亡 日本透析医学会が調査へ>などを読みながら+補筆

2019-03-07 | 医療・医薬・医師のあり方

190307 患者の意思とは <透析中止で死亡 日本透析医学会が調査へ>などを読みながら

 

今日の毎日朝刊は一面に、<医師が「死」の選択肢提示 透析中止、患者死亡 東京の公立病院>と大きく取り扱ったうえ、この事案を複数の紙面で大きく取り上げました。

 

しかも上記見出しのよりさらに突っ込んで、紙面では<患者に「死」提案>となっていました。そのような取り上げ方が妥当か気になりつつも、紙面を読みつつ、毎日デジタルを取り上げたいと思います。

 

事案は女性患者が最初に受診した昨年89日に、医師から透析継続と中止の選択肢の提案があり、患者がこれを後者を選択し、自宅療養に戻った後、14日に入院、女性から透析再開の話がでたものの、苦痛を和らげる治療を患者が選び、16日午後5時過ぎに死亡したというおおよその経過です。

 

私は、生死の選択も含め治療の選択は本人が、的確な情報を提供され、それを理解したうえで判断してなされることが望ましいという立場に立っていますので、多少の偏りがあるかもしれません。

 

透析治療医などから今回の福生病院医師の批判的な見解が多く見られます。医師の倫理に反するとか、医療ではないと言った意見もあります。わかりやすい根拠としてはガイドライン違反が指摘されています。

 

記事では<日本透析医学会が2014年に発表したガイドラインは透析治療中止の基準について「患者の全身状態が極めて不良」「患者の生命を損なう」場合に限定。専門医で作る日本透析医会の宍戸寛治・専務理事は「(患者の)自殺を誘導している。医師の倫理に反し、医療とは無関係な行為だ」と批判している。外科医は女性について「終末期だ」と主張しているが、昨年3月改定の厚生労働省の終末期向けガイドラインは医療従事者に対し、医学的妥当性を基に医療の中止を慎重に判断し、患者の意思の変化を認めるよう求めている。>

 

さっそく日本透析医学会の<ガイドライン・提言>を見たのですが、いくつかあって、ざっと見たとき治療中止の基準を見つけられず、今回は記事の通りとしておきます。

 

また厚労省の「終末期向けガイドライン」は探していませんが、内容自体に異論がありません。

 

他方で、女性の意思はどうだったかですが、当然ながら動揺しています。それでもカテーテルを入れて透析治療を継続することにはかなり強い意志で拒絶していたことがうかがえます。

 

記事から、その意思を推測するしかないのですが、診療経過が認められます。

<女性は受診前に約5年間、近くの診療所で透析治療を受けていた。血液浄化用の針を入れる血管の分路が詰まったため、昨年89日、病院の腎臓病総合医療センターを訪れた。>その前に診療所が<カテーテルを病院で入れてもらうよう女性を説得すると、女性は「病院で相談する」と言って帰宅した。>と女性がその治療に納得していなかったことがうかがえます。

 

89日、福生病院外科医が提示したのは<(1)首周辺に管(カテーテル)を入れて透析治療を続ける(2)透析治療を中止する>でした。後者は死に直結すると説明したのです。

そして女性は、<「シャントが使えなくなったら透析はやめようと思っていた」と、いったんは透析中止を決めて意思確認書に署名した。外科医は看護師と夫を呼んで再度、女性の意思を確認した。>というのです。その後一旦自宅に戻っています。

 

810日には同病院の腎臓内科医(55)と面会し、<女性は「透析しない意思は固い」「最後は福生病院でお願いしたい」と話した。>というのです。

 

<4日後の14日、「息が苦しくて不安だ」と、パニック状態のようになって入院した。>と症状が悪化し精神も不安定になったことがうかがえます。

 

死の直前の女性のことばは動揺した中で揺れ動いていたようにも見えます。

<15日夕。女性の苦痛が増した。夫によると、女性は「(透析中止を)撤回できるなら、撤回したいな」と明かした。夫は外科医に「透析できるようにしてください」と頼んだ。>と明確な意思と言えるかはっきりしませんが、透析再開を望む気持ちはうかがえます。

 

ただ、<外科医によると、女性は「こんなに苦しいのであれば、透析をまたしようかな」と数回話した。外科医は「するなら『したい』と言ってください。逆に、苦しいのが取れればいいの?」と聞き返し、「苦しいのが取れればいい」と言う女性に鎮静剤を注入。>と女性の撤回の意思を認めず、透析再開をしなかったようです。

 

苦しい状態に陥れば、溺れる者は藁をもつかむ気持ちになることは想像できます。それが89日や10日の落ち着いたとき、死を覚悟して透析中止の意思を明確にしたこ女性が、予想外の苦しみを脱する方法を探ったのか、いやあくまで少しでも延命を望み同様に苦しいカテーテルを入れて透析再開を選ぼうとしたのか、判断しかねますが、外科医のことば事実なら、前者を選んで鎮静剤注入に納得したと考えてもおかしくないと思うのです。

 

しかし、毎日記事では<クローズアップ2019 医師、患者の迷い軽視 「透析再開したいな」翌日死亡 >では、<医師、患者の迷い軽視>や<医療関係者「押しつけ」>と批判的です。

 

89日や10日の段階での外科医の提案について、毎日は「死」の提案としていますが、それは誤解を招くものではないでしょうか。

 

公立福生病院の外科医・腎臓内科医、一問一答>での答えは私も賛同できる内容です。

 

<外科医 腎不全に根治(完治)はない。根治ではない「生」に患者が苦痛を覚える例はある。本来、患者自身が自分の生涯を決定する権利を持っているのに、透析導入について(患者の)同意を取らず、その道(透析)に進むべきだというように(医療界が)動いている。無益で偏った延命措置が取られている。透析をやらない権利を患者に認めるべきだ。>

 

少なくとも女性は約4年間の透析治療経験で、その女性にとってその治療後の自分の状態を分かっていて、<「シャントが使えなくなったら透析はやめようと思っていた」>と堅く思っていたのではないでしょうか。

 

むろん女性がどのような苦しみがあっても少しでも延命を望むのであれば、その意思は尊重されるべきだと思いますが、女性はそれ以外でも長く「抑うつ性神経症」として苦しんでいたようです。だからこそ精神的に弱いかもしれない女性のために、嫌がるカテーテルを説得して透析治療を継続することが医師のつとめだとか、医療行為として求められることだとか、といった批判は、私には医師側の立場から見た指摘ではないかと思うのです。

 

患者は、当然ながら適切な情報提供を受け、その内容を理解した上、透析中止という一つの医療の選択をしたならば、それこそ尊重されるのが本来ではないかと思うのです。

 

人工透析の役割は大きいですし、多くの方は救われたと思っていると思います。ただ、人工透析をする場合、患者に適切なインフォームドコンセントを行ってきたのでしょうか。当初はよくても患者によっては大変きつい治療行為と感じる人もいるのではないかと思います。人工透析の選択、そして中止の選択について、より患者サイドにたったガイドラインを検討してもらいたいと思うのです。

 

今日はこのへんでおしまい。また明日。

補筆

 

人の生死は誰が決めることができるのでしょう。個人の意思は尊重されるということは誰も否定しないでしょう。しかしながら、そこにはいろいろな既成概念というか縛りがありそうです。医療の常識、そこにはこれまでの医学的知見なり医学界の方針が厳然とあるでしょう。あるいはそれに異論を述べる医師の存在もあるでしょう。他方で、本人の家族、場合によって親族や友人も関係するかもしれません。

 

本人の意思を確認するのも簡単ではないことも少なくないでしょう。人は自分がもっているそれぞれの「常識」とか「経験」とかに基づいて一つの観念を抱いていることが普通ではないでしょうか。私も客観的に見ようとしても色眼鏡で見ているかもしれません。

 

そういった前提をおいて、効率福生病院での透析中止事案を見るとき、本人の意思の見方が違って見えるようにも思えるのです。

 

313日付け毎日記事<公立福生病院 透析中止は5人 次第に「自信を持って」選択肢提示>では、透析中止を選択肢として提示した病院・医師側はこれまでの経験から自信をもって行ったことを説明しています。

 

他方で、本日付毎日記事<東京・公立福生病院 透析中止死亡女性の夫が手記 「医者は患者に寄り添って」>では、女性の夫は<「医者なのだから、一人一人の命を預かっているのだから、患者に寄り添って生かしてほしい」と心情を吐露。>それは彼が<妻とは30年間、付き合った。一緒にいるのが当たり前だった。透析患者やその家族には1人の遺族として、こう伝えたいという。「生きることは難しいことだが、生きていてほしい」【梅田啓祐、矢澤秀範】>という気持ちを強く抱いていたことから理解できます。

 

人の生死は場合によってはその人だけの判断で決められないかもしれません。どんな状態であれば少しでも命を長らえることを願うのが伴侶であったり、家族であったりするのかもしれません。孤独死社会といわれるそれが怖れられたりする現状があります。一方で、強固な紐帯というかそれ以上の一体感のある夫婦であればそういった感情を抱くのも当然でしょう。

 

しかし、と私はあえて言いたい、その人の命、それは個人が落ち着いた状況で決断したものであれば、それこそ尊重されるべきだと思います。長生きが一番とか、少しでも一緒にいたいといった思いは、その人の意思を無視する可能性すらあると思うのです。本件ではどうだったかは分かりません。ただ、夫が取り上げた妻のことばだけでも、本人の本当の気持ちを捉えたかは断定できません。むろん透析中止を行った外科医が受け止めた本人の意思も慎重に考察されるべきでしょう。

 

そんなことを思いながら、最近の2つの記事を見て、ちょっと補足しました。もう少し丁寧にこの問題をいずれ取り上げたいと思います。



医は仁術と過労 <医師の過重労働死を不安視する家族と現実、AI・ITの活用>TVを見ながら+補正

2019-03-03 | 医療・医薬・医師のあり方

190303 医は仁術と過労 <医師の過重労働死を不安視する家族と現実、AIITの活用>TVを見ながら+補正

 

日経スペシャル「ガイアナの夜明け」<シリーズ「命の現場」が危ない① 働きすぎ...医者を救え!>の録画を見ました。テーマはいま話題の医師の過重労働の現実と、その対策といってよいでしょうか。

 

その現実におおよそは予測していたものの、少々驚きましたね。東葛病院(たしか流山市かその周辺の基幹病院であったかと思います)の医師で、40代後半で、その医師の当直の様子を放映していました。

 

東大医学部出身と言うことですから優秀な医師でしょうね。こういった基幹病院には経験豊富であるだけでなくタフで有能と言うことで欠かせない医師の一人でしょう。で、ここに登場するA医師は当直の朝、外来診療を次々と午前中続けます。昼を過ぎ午後130分ころようやく昼ご飯。といっても休憩室とかではなく、他のスタッフが近くで動き回っているところに置かれているテーブルで、もう一人の女性スタッフと食事するのです。愛妻弁当ということで持参したものですが、なんと15分で終わり、すぐに今後はたしか病棟に回ります。病棟で10数人の患者を3時間くらいで全員を見るとのことでしたか。

 

ところが入院患者を診ているとき、突然、携帯電話がかかり、呼び出されます。救急搬送された方で、自宅で頭が血だらけということで、ERに走って行きます。搬送された方は高齢者で意識確認するとだいぶ意識が戻ってきたようでした。傷口を消毒した後脳のMRIなどを指示して検査結果をみてたしか手術の必要がないとの判断で安静にして経過観察という診断だったかと思います(この後本を読んだり他のTVを見たりで詳細は失念)。

 

そういった作業が夜中というか、たしか午前4時ころまで続き、ようやく仮眠ということで休憩室に入っていきました。3時間の仮眠を終え、早速午前7時には画像を見て患者毎の診察準備をしているようでした。

 

そしてA医師は当直明けの日勤勤務を続け、終わったのは?わかりませんが、合計35時間の連続勤務を終えたと言うことです。

 

そして帰宅すると、奥さんが手料理をつくって待っていて(かなり遅い時間だったようでしたが)、一緒に食事をしました。でも奥さんいわく、食事をするとバタンキューで寝入ってしまい、翌朝になるというのですが、当然でしょうね。こういった当直勤務が月4回くらいあるそうで、年間残業時間が合計2000時間というのですから、驚異的です。

 

これでは家族団らんといった普通の家庭生活をすることができませんね。なぜここまで医師が過重労働を強いられているのか、これはひどいですね。

 

医師の数は地域的なアンバランスがあり、絶対数は足りている、だから増やす必要がないという意見については、医師の悲劇的な現状を指摘し、OECD諸国の人口当たりの医師数と比較してもわが国の場合どの都道府県も足りていないと訴える元医師の講演が各地で行われているとのこと。そうかもしれません。

 

たとえば徳島県は上記の比率が全国一で医師の数が多いとされていますが、番組では徳島県立病院の30代?後半の医師が紹介されていました。彼、B医師は、独身で小さなマンションの一室で、テレビを前にコンビニ弁当を食べているのです。医師と言えば、女性にとって?憧れの職業ではないかとよくいわれますね。よほど偏屈な方?かと思われる向きは偏見でしょう。B医師は普通の感覚をお持ちのようですし、仕事に一生懸命に取り組むまじめな医師とお見受けします。

 

だいたい、部屋には家具らしいものもほとんどなく、ぽつんと、釣り竿が何本か壁隅に不自然とも言えない形で立てかけられているところが、B医師のある種まじめさを感じさせます。釣りが好きだと言うことですが、当然、釣りをするには辺鄙なところにでかけることになりますね。そういった普通の休養もとれないそうです。いつ何時、救急コールがかかるかわからないそうなのです。実際、B医師はやっと仕事を終えて帰宅していたのに、電話が入り、再び病院に戻って患者に対応するのです(このあたり前記A医師の対応とごっちゃになっているかもしれませんが)。

 

B医師には私的な時間をもつことが許されないほど、いつ何時でも呼び出されてしまうほどの医師への期待というか、要請が病院体制にあるようです。また患者側にもそういった期待があるようです。

 

そのような要因の一つに、経験不足の若手医師からアドバイスを求められたり、専門外の医師から診断を求められた場合に、経験豊富な医師や専門分野の医師が緊急に対応する必要がかなりの頻度で起こっているようです。

 

そうなると医師の数を増やすことも一定程度は有効でしょうけど、単なる人数増加では要請に追いつかないかもしれませんね。

 

それで最近注目されているのが、AIITを活用した、医療用アプリ・ジョインということで紹介されていました。

 

それはスマホアプリで医療特有のアプリをスタッフが全員で共有し、遠隔操作で、画像診断を自宅ないしは連携病院で、複数の専門医師が対応し、それぞれがスマホ・アプリを通じてSNSのように送られた画像を基に、若手医師が脳の血管に梗塞がない・手術の必要がない、経過観察をするという診断で意見を求めると、その画像を見た先般医師んがその判断の適否やアドバイスをするという風に、医療版SNSでした。

 

むろん画像はスマホ送信可能(現在の4G速度対応)な程度に要約・圧縮しているので、完全なものではないでしょうけど、緊急対応としてはわざわざ自宅ないし遠隔地にいる医師が病院にかけつけなくてもよいようになっているようです。その後は次の日でも実際の画像を丁寧に診断するということですむのでしょうね。

 

これで今年が元年と言われる5Gが普及すれば、より多方面に医療分野で活用されると思われます。むろんAIとロボットによる診療、患者の話を音声認識し、問診内容も即座に的確に行われ、患者の体について画像認識もできることで、全身観察も診断もできるようになるかもしれません。

 

少なくとも医師の過労死とか、現在の過剰な過重労働は是非とも少なくするだけでなくやめる方向で検討してもらいたいものです。病気を治し健康を維持する担い手である、医師が倒れたり、病気になったり、場合によっては自死に追いやられると言ったことは是非とも避ける方策を考えていくべきだと思うのです。

 

ところで、実はこれを言いたくてここまで書いてきました。患者側にも対応はないでしょうか。なんでもかんでも医療に期待することはないでしょうか。たとえば救急搬送を依頼するというのもなかにはいかがかなと思われるケースもあるようです。暴飲暴食ではないですが、自ら不摂生して急病になったらお助けをというのは勝手すぎませんかね。私も若いころ、そういう自分であったことを自省の念をもって感じています。ようやくこの年になって摂生を心がけていますが、少し遅かりしかもしれません。その意味でそれが理由で病気になれば自然に受け入れたいと思うこの頃です。

 

空海さんのように(まあ実際はわかりませんが)、摂生を心がけ、最後は穀断ちをするような生き方は理想ですが、はたしてそうなるか、ともかく安易に医療の助けを借りる姿勢はできれば避けたいものと思うこの頃です。

 

お医者さんの役割は、なんの落ち度もないのに、苦しんでいる人を助けることではないかと勝手に思っています。最後に<医は仁術>をウィキペディアからひいておきたいと思います。

 

<医は仁術(いはじんじゅつ、「医は仁術なり」とも)とは、「医は、人命を救う博愛の道である」(広辞苑)ことを意味する格言。>

 

貝原益軒のことばを引用します。

<「医は仁術なり。仁愛の心を本とし、人を救うを以て志とすべし。わが身の利養を専ら志すべからず。天地のうみそだて給える人をすくいたすけ、萬民の生死をつかさどる術なれば、医を民の司命という、きわめて大事の職分なり」「醫は仁術なり。人を救ふを以て志とすべし。」(貝原益軒『養生訓』)>

 

今日はこれにておしまい。またあした。

補正

 

後で番組名を確認したら、評判のガイアの夜明けでした。冒頭の箇所だけ訂正しておきます。番組ウェブ情報の内容を確認していませんので、間違いはそこでチェックお願いします。登場する医師・ご家族・関係者、いずれもこの深刻な状態の中、おだやかで、構成も翌、いい番組でした。



精神科医とコスパ <「精神科医は見た!“コスパ社会”のジレンマ」>を見ながら

2019-02-25 | 医療・医薬・医師のあり方

190225 精神科医とコスパ <「精神科医は見た!“コスパ社会”のジレンマ」>を見ながら

 

昨夜、録画していたNHK Eテレ<新世代が解く!ニッポンのジレンマ「精神科医は見た!“コスパ社会”のジレンマ」>を見ました。

 

精神科医がなにをどう見るのかと興味本位に深夜番組を録画していたのです。だいたいコスパ社会といってもぴんとこない世代というか私ですので、精神科医が登場するのは面白いと思いつつも、何を見たのでしょうと不思議な感覚でした。

 

いま番組のネット情報を見ると、<2019年元日も若者たちのユニークな言葉が飛び交ったジレンマ。そんな対話を通して、ニッポン社会の深層に巣くう空気を浮かびあがらせるべく3世代の精神科医が集まった。テクノロジーが世界を結び、ますます価値観が流動化しつつある今、「コスパ」の内面化が心の「遊び」を奪う?ふだんは「聞く」ことを専門とするエキスパート3人も本音を吐露。さまざまな対話からどんな時代の価値観が見えてくるのか?精神科医は見た!>とのキャッチフレーズです。

 

元旦の番組は見ていませんが、おそらく気づいても録画する気持ちがわかなかったでしょう。だから現代を理解できない、ということの一面かもしれません。精神科医のトークで、コスパ社会が少し分かってきました。コスパというのはコストパフォーマンスの略語なんですね。なんとなくそうかと思いながら、そんなことばが若者世界で定着していることに驚きです。だいたい国を含む行政の活動について、費用対効果をしっかり考えることを求めて80年代後半ころから弁護士会や民間団体の意見書づくりに片隅でうごめいてきましたので、なにやら不思議感覚です。

 

埋立や道路などさまざまな公共事業について、費用対効果が適切に検討されていないと議論してきたのですが、その前提として行政は将来予測の数値を適当に算定したり、費用計上も杜撰だったりして、計画決定ありきで物事が進んでいたことに強い疑問を感じていましたが、なかなか状況が変わらないという挫折感を味わっていました。

 

費用対効果、コスパでしょうか、それが現代の若者では日常的に当たり前になっているかのような議論を聞いていると、私が現実社会をしっかり見ていなかったのかと思ってしまいます。とくに当地にやってきて10年になりますが、この間行政の動きにも社会の動きにもあまり関心が及ばなかったかもしれません。

 

そんな私事をぐだぐだ述べてもしょうがないので、そろそろ本題に入ります。

 

登場したのは精神科医3名で、番組情報では<土岐友浩,熊代亨,泉谷閑示>の方々でした。たしか?60年代、70年代、80年代生まれの世代差を意識して選ばれたようでした。

 

興味深いかかったのは70年代生まれと80年代生まれの二人は、勤務医で患者さんの話を聞く時間がない、とれない、また聞いているとコスパがよくない?、とりわけアメリカで成立した世界標準の精神科医が採るべきマニュアルに則って診療することが優先されるといった話でした。

 

えっ、精神科医が患者さんの話を聞かないで、どうするのかとびっくりしました。私自身、とくに刑事事件で精神的な問題を抱えている人には精神面のケアをしてもらうために、とくに特定の医師を紹介することはむろんありませんが(多少は知っていても、そのような判断をする能力もないので)、近隣の医療機関を知らなければウェブ情報一覧を示す程度に情報提供をします。弁護士の仕事の一面はクライアントの精神面を楽にしてあげることが付随的効果としてある場合があり、結構な時間をかけて聞き取ることがあります。当然、精神科や心療内科の医師は相当な時間をかけて聞いてくれているものと思っていました。そこは他の診療科と異なり、施設・設備をもたない医師のある種重要な役割かと思っていました。

 

だいたいアメリカの映画に影響を受けたのでしょうか、古くから刑事コロンボでも、最近とは言えませんが「グッド・ウィル・ハンティング」などでも、精神科医はいかに丁寧に時間をかけて患者と一対一で話し合うか、をいつも感じていました。

 

ところがそのマニュアルでは、うつ、統合失調症などさまざまな症状をあるかないかでチェックし、その数が一定数あれば、処方なり治療方法が決められているといった風になっているようです。それで患者が抱えている生活環境や歴史的な背景などを聞き取ること自体がそのマニュアル違反となるようです。ですので、1100人とかの患者対応を迫られて、患者一人にすると数分ということになり、コスパ的にもそれ以上のことはできないというようです。

 

それが患者にも社会にも有効であるかの物言いでした。むろんこれは二人の若い医師のことばを一面的に捉えただけかもしれません。ただ、開業医の60年代生まれの方は、自分も勤務医時代同じだったこと、それがいやで辞めて、現在の診療スタイルになったというのです。開業医だから、また自由診療だから、時間をかけて患者さんの話を多方面に聞くというのです。ただ、それでも30分ないし1時間というのですから、私の感覚ではとても短く感じます。自由診療ですから、裕福な人から十分な費用をもらえばいいでしょうし、そうでないひとは保険並で対応することも可能ではないかと思うのですが、それは公平でないとでも言うのでしょうかね。

 

だいたいコスパなんてことは、もう少し本質的な部分からスタートしてもよいのではと思うのです。いまの多くの診療スタイルだと、行列ができるほど待合室が混み合い、診療時間は2時間ないし3時間待ちで数分で終わりということも少なくないようではないかと思うのです。それでその患者に固有の対応ができるのでしょうか、医療というのは薬の処方も含め、患者の体が十人十色であるように、その処置処方も皆違うはずです。治療効果を個別に丁寧に見て次は変化をつける必要があるかどうかチェックしながら時間をかけてみないと、型どおりの定型的な治療・処方をしていたのでは、とても患者の病気回復には近づかないというか、時間がかかることになりかねないように思うのです。

 

それはとりわけ心の問題を扱う精神科医、心療内科医などはそうだと思うのですが、コスパということで、かえって反コスパになっていないか心配です。また証拠に基づく医療といっても、疫学調査を踏まえた因果関係だけでは、個別性の高い心の問題には適切に対応できるとは思えないのではと懸念します。

 

精神科医に時間を余裕をと思ってしまったのです。3名の医師、それぞれ詩であったり、ブログであったり、音楽であったり、余暇を楽しんでいるようですが、それが診療時間に患者との対話の中で活かせないようだと残念な気がします。そう努力しているようにも見えるので、放送の中で言えない部分もあるかもしれませんね。学会などでは基準診療に目を光らせている人もいるでしょうから。

 

脱線気味で転覆しかねない状況になりましたので、このへんでおしまい。また明日。