たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

所有権って何? <所有者不明土地の増大とその利用をめぐる動き>を垣間見て

2018-08-31 | 不動産と所有権 土地利用 建築

180831 所有権って何? <所有者不明土地の増大とその利用をめぐる動き>を垣間見て

 

日弁連から毎月、月刊誌「自由と正義」と「日弁連委員会ニュース」が送られてきます。以前はほとんど読まなかったのですが、最近は置いてきぼりにされそうなので、時折ざっとは目を通すように、できるだけつとめています。

 

情報量が多岐に別れ、専門化してきたので、やはりなかなか読むのが億劫になるというのが本音でしょうか。専門的なのに、誌面の関係であまりに簡潔すぎて中身がよくわからないという感じも拭えません。その点、刑事弁護の分野は長い歴史があり、実践的でたいていの弁護士が関与しているので、やはり取っつきやすいでしょうね。

 

今回のニュースの中に、所有者不明土地問題等についてB42頁にわたって、政府の動きも含めて現状を担当者が解説しているので、ちょっと私も目を通してみました。

 

3つのテーマに分かれています。一つは、政府・法務省がたちあげた「登記制度・土地所有権の在り方等に関する研究会」が6月に発表した「中間取りまとめ」の内容と今後です。

次に、66日成立の「所有者不明土地の利用の円滑化等に関する特別措置法」の概要説明です。最後に、昨年8月、自治体、事業者、専門家が参加する全国的組織「全国空き家問題対策推進協議会」が設立し、その活動の一部を紹介するものです。

 

私もこのブログで、なんどか所有者不明土地問題、とくに農地・山林について取り上げてきましたので、法的対応については多少関心を抱く一人です。

 

ところで、本日のタイトルにある「所有権って何?」はいつも思うのですが、答えはどうもはっきりしないように感じています。よく近代的所有権うんぬんが語られ、まるで確立した概念があるかのようないい方が当たり前のように使われているように感じますが、ほんとでしょうかね。

 

近代的という言葉があるのですから、中世的、あるいは古代的とか、いやいや本源的とか始原的な所有権があるのでしょうねとふと思ったりしますが、ネットの情報ではなかなかそういうものは得られません。

 

ちょっと気になったのでえいやっとタイムトラベルして、この方面の専門家とおぼしき木庭顕著『新版 ローマ法案内』(副題が「現代の法律家のために」となんとも魅力的なキャッチフレーズです)を手に取りました。残念ながら、まったく基礎知識のない私には手に負えませんでした。昔、少し学んだような記憶もあったのですが、これは万歳です。

 

本の目次を見る限り、現代の民法用語がずらりとならんでいて、なんとかなるかなと思ったら、なんともならなかったです。民主主義と法の関係はなにか現代におけるなにかを示唆するようにも思えました。

 

有名な占有概念と民事訴訟が成立する背景やその結びつきと、まだ所有権概念が必要とされなかったこともなにかを暗示しているようにも思えました。

 

で、本の中盤以降に位置づけられている、「所有権概念の登場とその帰結」は期待したものの、ざっと目を通した程度ではさっぱり分かりませんというのが本音です。

 

ただ、最初の段落は興味深い内容なので、そのまま引用します。

「そもそもコモン・ローにおいて、所有権概念は本来存在しない。19世紀以降大陸法の影響下に立つ制定法等によって導入されたとしても、依然基幹にとっては異質なままである。「契約」の概念もまたコモン・ローには存在しないに等しいが、これは要式ないし要物性が維持されているためで、「契約」以外の名においてbonafides(ボナフィーデス)の実質はいたるところに見られる。これに反して、所有権は完全に大陸法独自のものであり、そこでまさに、それはローマ法から来る、と言われる。その延長線上に「近代的所有権」なるものが位置づけられることがあり、何故ローマが近代なのか判然としないが、混然としたまま所有権というモンスターは概念というよりイデオロギー(「絶対的」「観念的」「使用・収益・処分の自由」等々)として19世紀以降荒れ狂った。」

 

コモンローの英米法では所有権概念が存在しない。ローマ法においてもそうなんでしょうか。大陸法は勝手にローマ法に起源があると権威づけて擬製したのでしょうか。

 

ともかくこの本を全部通読するほど元気がありませんので、かってな解釈として、所有権概念が近代に、近代国家として作られることにより、ローマ法制で確立していた占有を中心とする、民事訴訟はもちろん、債権法や身分法、さらには刑事訴訟法や信用も大きく変貌したとみているのではと思うのです(まだ読んでいませんが)。

 

ひるがえって江戸時代の所有概念に相当する、さまざまな所持形態が重層的に成立していたかと思います。それでも占有概念がキーポイントとして権利性をうらづけていたのではないかと私見では感じています。

 

ときにはそれはムラ社会共同体という大きな枠組みの中で、農地・山林の売買が成立しても、そのとき名主などの立ち会いの下でなければならず、村外の者に売り渡される危険があるときは、ムラの誰かが買い戻す形をとっていたのではないかと思うのです(なお、よく言われる幕府の永代土地売買禁止令なるものは必ずしも諸藩で実効性があったものではないと思います。実際の売買証書をいくつも見ています)。

 

所有権が民主主義社会の中でどう位置づけられるのか、あまり議論されてこなかったように思うのです。それをここで少し考えてみたかったのですが、どうも曖昧なままになりました。

 

そのはっきしない所有権概念で問題となる所有者不明土地問題について、日弁連ニュースを参考に、ウェブ情報を引用しながら、勝手な持論を少しだけ述べます。

 

まず、「登記制度・土地所有権の在り方等に関する研究会 中間取りまとめ」ですが、第1の登記制度のあり方については、相続登記をやり玉に挙げています。たしかに未登記原因の大きな要因だと思います。しかし、その対応策を単に登記の義務化を図ったり、職権登記で対応するということで、問題の本質的な解決になるのか、少なからず疑問を感じます。

 

なぜ登記しないのでしょう。民法の遺産分割制度が有効に機能していない分野でこの未登記問題が起こっていないのでしょうか。むろん、登記の義務化ないし職権登記で法定相続の登記は多くは用意でしょう。しかし、それでも高齢化の急速な進展で、配偶者・子のいない人の相続の場合、相続人の発見だけでも大変な作業となります。職権登記ということで簡単にできる話ではないと思います。

 

第2の土地所有権のあり方については、所有権放棄が検討されていますが、なかなか容易ではないのでしょう。しかし、相続放棄は認められていますし、兄弟や甥姪が相続人になる場合、割合多いかもしれませんね。さらにいえば、農地・山林での利用責務を強化する制度がさらに実効性を持つようになれば、占有という実質的な利用が当然視されることになれば、将来的は放棄構成も工夫の余地があるかと思うのです。土地利用の公共性をどう捉えるかは民主主義がどう実現されているかにもよると思いますが、現時点ではなかなか無理でしょう。

 

他方で、土地利用の円滑化を図る仕組みとして、相隣関係の規定や、共有地管理のあり方、家裁の財産管理制度の活用など、いくつか検討されています。着実ですが、大きな変革には結びつきにくいところでしょうか。

 

ちょっと時間がオーバーしてきたようで、後、「所有者不明土地の利用の円滑化等に関する特別措置法」については<概要>で大筋分かりますが、それ自体は一定の円滑化といえますが、あまりに公共事業、ないし的なもので、それでは従来の枠組みを超えるものではなく、また(2)所有者の探索を合理化する仕組みとしてあげられている次の制度も、それほど効果的か疑問があります。

 ○ 土地の所有者の探索のために必要な公的情報について、行政機関が利用できる制度

 ○ 長期間、相続登記等がされていない土地について、登記官が、長期相続登記等未了土地である旨等を登記簿に記録すること等ができる制度

 

(3)所有者不明土地を適切に管理する仕組みも、これによってどの程度自治体が使うのでしょうかね。財産管理人もそれほど有効な策を持ち得ない状況ですからね。

 

空き家問題はまた別の機会に

 

今日はこれにておしまい。また明日。

 

 


不祥事とブラックボックス化 <スポーツ界不祥事 競技団体へ募る不信感>と<公文書クライシス 折衝記録「発言要らぬ」>などを読みながら

2018-08-30 | スポーツ

180830 不祥事とブラックボックス化 <スポーツ界不祥事 競技団体へ募る不信感>と<公文書クライシス 折衝記録「発言要らぬ」>などを読みながら

 

スポーツ界は次から次と不祥事が噴出している印象です。長年、当たり前のように行われてきたものかもしれません。本来おかしいことが閉鎖社会であったことや内部人間はもちろん、世間の意識も感性に問題があったのかもしれません。

 

世界的な適正なルール、個人の尊重という当たり前のことがわが国でも一般化され、個々の選手や関係者の意識も自然に問題意識が醸成されてきたのでしょうか。まだまだ氷山の威嚇のようにも思えます。オリンピック代表や日本を代表する競技団体だからでしょうか、大きく話題になり、また、個々のアスリートの意識も高い倫理性が求められ、それを自ら形成してきたのかもしれません。

 

それにしても今朝の毎日記事<スポーツ界不祥事競技団体へ募る不信感 解決、国頼み>には今年だけで合計10の競技団体・選手で不祥事が発生しています。選手個人の問題といえるケースもありますが、団体自体の問題と同様、少なくとも当該競技団体自体に適切なコンプライアンスやガバナンスが確立していないことを十分に感じさせてくれます。それはおそらく不祥事が露見した団体だけの問題ではないでしょう。

 

ところで今回は体操競技で発生した、以前にも見たような不祥事が少し色合いを変えて起こったように思えます。

 

事件は816日付け毎日記事<体操選手指導で暴力 協会、コーチを登録抹消>で、<日本体操協会は15日、選手指導で暴力行為があったとして、速見佑斗コーチ(34)を同日付で無期限の登録抹消処分にしたと発表した。同協会関係者によると、2016年リオデジャネイロ五輪代表の宮川紗江選手(18)に対する暴力という。

 関係者によると、東京都北区の味の素ナショナルトレーニングセンター(NTC)での練習中、頭をたたいたり、髪の毛を引っ張ったりしたという。今年7月、暴力行為を目撃した関係者から報告があり、協会が調査していた。

 速見氏は協会の聞き取り調査で暴力行為を認めており、協会は懲戒委員会を開いて処分を決めた。>とコーチによる暴力行為の認定とその無期限登録抹消処分というスピード決定の印象があり、同協会の迅速の対応として評価されるような動きでした。

 

ただ、この記事を私は見過ごしていましたが、この記事からは暴力の内容は<頭をたたいたり、髪の毛を引っ張ったり>というもので、いつどのような経緯で行われたのか、宮川選手や他の選手への影響がどうだったのかよくわからないもので、それにも関わらず処分が重いことから行為と処分との均衡が図られているといえるか、誰もが不審を感じるのではないでしょうか。

 

案の定、それが今回問題になっています。まず、825日毎日記事<体操宮川選手コーチ、地位保全を申請 パワハラ処分で>と、コーチが処分を争って仮処分を申し立てています。

 

そして今日の毎日記事<体操指導中暴力 コーチ処分 宮川選手、撤回訴える 体操協会は反論>では、<宮川選手は、速見氏から顔をたたかれたり、髪の毛を引っ張られたりするなどの暴力行為を受けたことは認めた。時期は1年以上前までで、大けがにつながるようなミスなどをした際に限られ、「指導をパワーハラスメントと感じたことはない。処分は重すぎる」とした。「毎日不安で練習に集中できない。責任を持って戦えない」とし、世界選手権(10~11月、ドーハ)代表候補を辞退することも明らかにした。>

 

私は、宮川選手の記者会見の一部をテレビで見ましたが、しっかりした口調で、おそらく内容も基本は自分で書いたものではないかと思うほど、しっかり理解した上での発言でした。

 

この発言を聞いた印象ですが、宮川選手はしっかり自分の意見をコーチに言えるような環境で、指導を受けてきたのではないかと思われるのです。おそらく18歳の年齢で、大勢の記者を前にあれだけの内容を、文書を見ながらでも発言することができるということは、普段からコーチと自由な意見交換を行ってきたからではないかと推測するのです。

 

このようなコーチと選手の関係は本来的ではないでしょうか。むろんちょっと見ただけの判断ですので、即断するのは早すぎますが、それにしても立派な態度であったと思います。

 

その宮川選手が、他方で、<7月に日本協会の塚原千恵子女子強化本部長らと面談した際、速見氏との関係を断つよう何度も迫られたと主張。「高圧的に言われ、コーチと引き離されてしまう恐怖と苦痛でおかしくなりそうだった」と話した。

 日本協会が東京五輪に向けて有力な若手を集めるプロジェクトに加わるよう何度も迫られ、16年12月には塚原強化本部長から電話で「五輪にも出られなくなるわよ」と言われたと訴えた。>とあります。別のスポーツ紙では、このときの塚原氏との会談では、「恐怖で真っ白になった」といった記事がありましたが、この内容であれば、当然そうなるでしょう。

 

塚原夫婦は、長い間にわたって日本体操界をリードしてきた有能な方だと思いますし、多くの子供がその指導を受けたくて大変な競争に勝ち抜かなくてはならなかったことでしょう。しかも協会の重鎮となっているわけですから、その発言は普通の大人とは違うでしょう。

 

むろん宮川選手の発言は、コーチの指導を受けたいために偏っている可能性も否定できません。しかし、少なくとも敬愛するコーチが登録抹消となったときに、18歳の選手を呼び出して夫婦でなんらか説得をしたとすると、その発言はそれだけで脅威になることを彼らはどの程度意識していたか、疑問に思います。

 

今回の事件においても、選手、コーチの自主性をどの程度協会は尊重していたのか、疑問を感じます。むろん暴力は許されないことです。しかし、体操競技という一歩間違うと大怪我どころか一生台無しになるほど危険性の含まれる競技ですから、一定の強い指導はやむを得ない場合もあるでしょう。その処分は十分な事実認定を経てその影響も考慮してなされるべきではないかと思うのですが、単に暴力をふるったとして永久登録抹消とはいかがなものでしょう。協会自体の適正手続が図られていたのか検証されるべきでしょう。

 

ところで、今朝の毎日一面記事は<経産省折衝記録「発言要らぬ」 内部文書、指針骨抜き>でした。

 

もりかけ問題を踏まえて、<安倍首相は3月の参院予算委で、「ガイドラインを改正し公文書管理の質を高める取り組みを行った」と強調した。>はずですが、現実は、<実態はかけ離れており、行政のブラックボックス化が進んでいるのではないか。【杉本修作】>

 

<政治家ら省内外の人物と折衝した際に作成する公文書について「議事録のように個別の発言まで記録する必要はない」などと記載した経済産業省の内部文書を毎日新聞が入手した。文書は複数の会議で使用され、出席した職員は「誰が何と言ったか分からないよう、議事録を残してはいけないと指示を受けた」と証言した。>

 

さらに驚きは毎日記事<カンボジアPKO25年前の文民警察官銃撃死、報告書は既になく 警察庁、隊員アンケートも「保存せず」>です。隊員が犠牲になったことも含め几帳面に作成され報告された記録は、国民にとって公共財産です。それを保存していないのですから、あきれるばかりです。臭いものに蓋とは違うはずです。

 

政府・官僚がこのような事実を覆い隠すようにブラックボックス化の方向を一段と強め、安倍首相の国会での発言が空疎なものであるなら、スポーツ界の悪しき慣習を非難できなくなるでしょうね。ま、協会等では会談の議事録はとっていないようですが、少なくとも明らかになった不祥事の改善策を明確に示してくれるものと期待したいです。

 

少々時間をオーバーしたようです。今日はこのへんでおしまい。また明日。

 

 


障害者雇用における不正と不誠実さ <クローズアップ2018 障害者雇用水増し 通知、都合よく解釈>などを読みながら

2018-08-29 | 差別<人種、障がい、性差、格差など

180829 障害者雇用における不正と不誠実さ <クローズアップ2018 障害者雇用水増し 通知、都合よく解釈>などを読みながら

 

<障害者雇用水増し>という言葉を見聞きしていて、違和感をぬぐえません。そう「水増し」という言葉を安易に使っていないかと思うのです。そこには本質が隠蔽されてしまうおそれがあるようにも思えるのです。

 

「水増し」を大辞林 第三版の解説に当たると、

     水を加えて量を増やすこと。

実質はないのに見かけだけを増やすこと。 「経費を-して請求する」

 

という意味づけです。数字が増えているけど、実際はその数字の裏付けがないという、ある種客観的な記述ですね。でもその数字を算出するとき、その数字操作には関わった人間の行為があり、その責任内容が問われないといけないのですが、水増しといって済ますと、それが明らかになりません。

 

こういった数字のごまかし、表現のごまかしは、最近、とくに中央官庁で増えているような印象があり、もう慣れっこになってしまった感さえあります。それが安倍政権が生み出した官僚統制のための内閣府制度に問題があるのかどうかも検証されて良いかと思います。

 

なぜ水増しとしているか、厚労省が言い出したのでしょうかね。

 

今朝の毎日記事<クローズアップ2018障害者雇用水増し 通知、都合よく解釈 あしき慣行「40年以上」>では、<中央省庁の障害者雇用を巡る水増しは、国の27の行政機関で3460人に上ることが28日、明らかになった。>として、その経緯・背景を解説しています。

 

毎日の社会面では<障害者雇用中央省庁水増し 企業「信じられぬ不正」 NPO「国になめられた」>は、障害者雇用促進のための制度について、<障害者雇用促進法は、企業や国・自治体など事業主に対し、一定割合(法定雇用率)以上の障害者を雇うよう義務付ける。厚生労働省は各省庁や民間企業に毎年6月1日時点の雇用数の報告を求める。過去1年のうち雇用率が達成できない月があった企業からは、1人分につき原則月5万円の納付金を徴収する一方、達成企業には補助金を支給する。>として、法定雇用率を定めて、企業に対しては、飴とムチでコントロールしていることを指摘しています。

 

この法定雇用率を達成するために雇用数を算定するのに、厚労省はガイドラインを定め、毎日の上記クローズアップ2018記事では、その内容は<雇用率に算入できるのは障害者手帳を持っている人か、指定医の診断書で障害が認められた人に限られる。>とされています。

 

ところが、<同省が毎年、雇用率の報告を求める際に出す通知には、算入できる職員について「原則として身体障害者手帳の等級が1~6級に該当する者」と記載されており>、霞ヶ関ルールを別に用意していたようです。そのため?<国税庁、防衛省、文部科学省、法務省、農水省などはいずれも「通知に『原則』とあり、必ずしも手帳の確認は必要ないと誤解していた」と釈明した。>

 

ま、端的に言えばダブルスタンダードでしょうか。しかし、ガイドラインこそ基本であり、それに基づく雇用数の達成を民間企業に義務づけ、違反すれば1人につき月5万円の納付義務まで課しているのですから、その基準を緩和するような解釈は許されていいはずがないと考えるべきではないでしょうか。

 

手帳を確認しなかった場合それは不正を行ったとみるのが自然でしょう。単なる水増しではないと思うのです。だいたい原則だから手帳確認は絶対出ないというのであれば、例外的にどのような合理的な基準で判断したのか、それを説明しないと、それこそうその上塗りになりかねないように思うのです。

 

政府が障害者雇用促進法に基づき率先して障害者雇用を進めて、障害者の社会進出を容易にすることが求められている中、このような多くの省庁の対応は不誠実を通り越して、不正であり、官僚として一線を越えているように思うのです。なぜこのようなことが平気で行われてきたのでしょう。

 

麻生財務大臣の発言が本音を一部露呈させているのかもしれません。今回の「不正」発覚により<今後数千人規模の新規雇用が必要とみられる。>ことを受け、<麻生太郎財務相は28日の記者会見で、「障害者の数は限られているので、(各省庁で)取り合いみたいになると別の弊害が出る」と指摘。>

 

そもそも障害者で雇用できる対象をはじめから限定していることが見て取れますね。

 

他方で、<厚労省によると、省庁で働く障害者は大半が身体障害者。採用拡大には知的障害者や、4月から雇用率算定の対象となった精神障害者の雇用を増やすことも必要になりそうだ。>ということです。つまりこれまで知的障害者や精神障害者は雇用されてこなかった、数のうちに入っていなかったことが上記の麻生氏の発言からも分かります。

 

しかも障害者雇用は、省庁では非正規雇用が中心だったようですから、決して安定的とは言えないですし、誠実に対応してきたかも疑問を感じます。

 

むろん知的障害者や精神障害者の場合、その能力に応じた職場環境を準備することも必要かと思いますが、それによって多様な職場環境が生まれるわけですから、その場合、民間企業の促進モデルとなりうると思うのです。

 

<障害者就労支援を手がける民間企業LITALICO(りたりこ、東京)の担当者は「障害の種類によって業務の適性や求められる配慮が異なる。専門家の支援を受けながら就業環境を調整することが望ましい」と指摘する。>このような当然の環境整備も、自ら率先して身体障害以外の障害のある方にも雇用の機会を提供しないと、どのような配慮が必要か、制度設計も、指導も適切にできないでしょう。

 

<埼玉県立大の朝日雅也教授(障害者福祉)は「障害をもった当事者が政策立案に関わることで国民サービスを向上させる可能性がある。民間企業に模範を示すためにも正規雇用の可能性を研究してほしい」と話す。【原田啓之】>もごもっともです。

 

「水増し」といった低レベルの対応は、なにか最近の数字あわせを官民とも邁進する空疎な社会構造に背景があるのかもしれません。

 

一時間がすぎました。このへんでおしまいとします。また明日。


シェアエコとリスク <相互扶助と市場 シェアエコが社会変容迫る 井手英策>を読みながら

2018-08-28 | 心のやすらぎ・豊かさ

180828 シェアエコとリスク <相互扶助と市場 シェアエコが社会変容迫る 井手英策>を読みながら

 

先日物別れに終わったケースで訴状を書き上げ、今月末には訴状提出を予定していたら、相手から示談書が送られてきて、一件落着となりました。印刷していなかったので紙がムダにならなかっただけでなく、印紙代なども含め費用を削減できました。

 

と思いつつ、別の訴状を書き上げ一段落です。裁判なんかしなくてすむ社会が望ましいのでしょうけど、おそらく縄文時代は?ですが、弥生期、遅くとも古墳時代には裁判による解決が求められてきたのでしょう。日本書記に記載されている十七条憲法では、百姓が次々と訴訟を提起していて、官僚が業務に真剣に取り組んでいないと、解決できなくなるような趣旨の条文がありますね。ここで百姓といっても農民と限定するより庶民一般のことを指すのでしょうか。

 

そんなわけですから、裁判による解決はそのやり方は変わっても、いつの世にもなくならないものなのでしょう。それでも江戸時代には、ムラ社会が相当程度独立して、自立的な共同体を形成し、司法行政立法をある範囲で行っていたのだと思われます。その意味では幕藩体制も、武士のいないムラ社会の独自性を認め、農民を中心とした武士以外の工商などの人々が経済的にも文化的にも豊かなコミュニティを形成できていた部分があったのではないかと思うのです。

 

入会林野や水利秩序は、そのような共同体だからこそ、独自に維持し経済的にも成り立っていたのではないかと思うのです。竹林や雑木林などをうまく利用して優れた製品・商品を作り上げ、農業社会と両立するようにうまくやっていたのではないかと思うのです。

 

ところで、そういったムラ社会を成り立たせていたのは五人組といった幕藩体制の制度的裏付けもあったと思いますが、相互扶助の精神が自然に強い絆で結びついていたのではないかと思うのです。

 

しかし、現代の都会生活はもとより、江戸時代から続くムラ社会も、多くはすでにそういった相互扶助の結びつきが形骸化し、弱体化していると思われるのです。

 

長々と前置き綴りましたが、今朝の毎日記事<相互扶助と市場シェアエコが社会変容迫る 井手英策>を読みながら、シェアエコの急速な広がり(というより私自身がほとんど実態を知らない)の中で、今後どうなっていくのか、TV解説では明朗な語りの井手氏の解説を読みながら考えてみたいと思うのです。

 

<シェアリングエコノミー(シェアエコ)>という言葉や取引は最近、よく聞きますが、実態はよく分からないというのが本音です。

 

昨日でしたか、中国のタクシー代わりのシェアシステムを利用した運転手が乗客を殺したといったニュースが流れて、これが2回目で、最初の時はあまり気にされなかったのが、今回はもう利用しないといった声が大きくなっていましたね。

 

さて記事ではその意味内容について<シェアエコとは、デジタルコミュニティーを利用しながら、モノ・サービス・場所などを多数者が交換・共有する仕組みのことだ。国外ではUberやAirbnb、国内ならメルカリ、minneなどが有名だろう。>と紹介しています。

 

ところで政府は成長を切り札のように次々と政策を手を変え品を変えてやってきましたが、どうもその成長がぱっとしないように見えるのです。いや株価が上昇している、賃金が上がっている、企業投資も増えていると政府は言うかもしれませんが、どうも作られた張り子の虎のように思えて仕方がないと考えるのは偏見でしょうかね。

 

トランプ旋風でアメリカの株価は上昇する一方ですが、どうも多くの白人層がその年金にしても賃金の一部にしても、株式投資に流れていて、多くが実体経済より株価が上昇することにのみ関心が強くなっていることが背景にあるように思えるのです。ま、日本の場合はアメリカに比べてそこは段違いですので、その分の心配はないですが。

 

それにしても政府はGDPの増加を水増ししようとしているのか、早ければ20年度にはシェアエコをこれに参入する方針と言うことで、井手氏は問題提起しているのです。

 

<GDPは1年間に生み出される付加価値、富の合計額だ。個人どうしの取引、中古品の売買、民泊などが除かれるため、算定の過小評価が問題となっていた。>こういった取引も付加価値とみることはできるわけですね。

 

しかし、井手氏は統計の基準改定にはさまざまな要素を考慮して慎重であるべきとしています。

 

統計の精度を高めるというとき、GDPには社会的に好ましくない要因が含まれているが、この扱いは検討しなくてよいのか。

 例えば、車の渋滞によってガソリンが消費されれば、GDPは増大するが、環境は破壊され、通勤時間も増える。また、ギャンブルやアルコール消費のための支出は、必要不可欠な支出と区別できない。いずれの例でも、GDPの増大と同時に、公害やワーク・ライフ・バランスの劣化、治安の悪化、暴力といった社会的なコストがつきまとう。>

 

さらに根本的な問題をも取り上げます。経済の過大評価の危険性ですね。

<ケインズの言葉を現代風にアレンジすれば、「あなたがお手伝いさんと結婚すれば、GDPは減少しますが、提供されるサービスは変わりません」ということだ。>これはわかりやすくてケインズも思わずにやりとするかもしれませんね。

 

GDPと幸福との関係、その指標を多様化することと指標を変えることの違いを指摘しつつ、井手氏は根本的な問いかけをしています。

<なぜ僕たちはこんなにGDPを重んじるのだろう。それは、所得が減り、貯蓄ができなくなった瞬間に、将来不安に直面する社会を作ったからだ。>と。

 

ただ、井手氏が断定的に述べる<僕たちの暮らしの根本には消費がある。消費できなければ、生存はままならず、自己顕示欲も満たせない。>このフレーズの消費とは極めて多義的な意味を含んでいるように思います。ケインズの消費ともひと味違う気がするのですが。

 

<ケインズはひとつ重要な見落としをした。それは、みんなが必要と感じ、相互扶助的に満たされてきたニーズだ。>このニーズは消費には含まれないものなんでしょうね。

 

井手氏はこの相互扶助的ニーズについて<僕らの税で政府が提供するサービスはまさにこれである。初等教育、警察、消防など、個人を超えたすべての人びとが必要と感じ、相互扶助的に提供しあってきたものがあり、これを政府が吸いあげて財政システムが生まれた。>と指摘しています。

 

こういったことは江戸時代のムラ社会ではすべて村の中で自治的に行われてきたと思うのです。むろん現在の農村社会でも消防では一部になっていますが、とても自立的とは言えませんね。

 

ここで井手氏はシェアエコがこの相互扶助的な部分の一部を代替するような将来性を考えているのでしょうかね。

<シェアエコもまた、経済取引と相互扶助が結びついたものだ。地域コミュニティーが弱っていく半面、ネットには次々と新たなコミュニティーが生まれた。これを媒介として、泊まる場所、移動手段、生活用品といった、だれもが必要としつつも、身近な者どうしでなければ交換・共有できなかった財・サービスが市場に解放された。そして相互扶助的である分、市場よりも安価に商品が売買される。>

 

こういったサービスにはたしかに相互扶助的な一面があると思いますが、それはかなり薄められた、ある意味で相互扶助とはほど遠いものではないでしょうか。ある種大きな枠組みで相互扶助という言葉を使うことができるとしても、それは本来の意味での相互扶助を超えていませんかね。ま、政府がGDPの枠組みに入れ込もうとするのと同じ危険があるように思えます。

 

他方で、井手氏が指摘するように従来の制度では対応できなくなっている問題

<出生率の低下、所得水準の下落、格差の拡大、どれも世界的に起きている現象だ。この歴史の峠をどうやって乗り越えるのか。>はいずれにしても新たな考え・発想が必要でしょう。

 

<生活保障の再構築に加え、ここでは市場の姿が変わっていく事実に注目したい。>というのは理解できます。しかし、

<眠っていたモノ・サービス・場所がデジタルコミュニティーをつうじて発掘され、安値で売買される。絶対的ニーズや相対的ニーズとも違う、だれもが必要とする生活ニーズを埋める新しいかたちだ。>というのは、はたしてこういった問題に対処できるほどのシステムでしょうかね。そのリスクはまだ図りかねています。それに「デジタルコミュニティ」という仮想空間で生まれてくるその感覚は、空疎で内実の乏しいものになりかねないおそれもあります。

 

むろんデジタルコミュニティはほんの糸口で、そこからすぐれた豊穣の世界を形成していく可能性もあるでしょうけど、私はいまのところ、懸念の方が大きいように思えるのです。

 

人が相互扶助を本質的に求め、そこから得られる満足感を大切にする本質をいまも備えているのであれば、より根本的な取り組みを期待したいと思うのです。

 

ちょうど一時間が経過しました。今日はこのへんでおしまい。また明日。

 


独り居と孤独 <ヘンリー・D・ソロー著今泉吉晴訳『ウォールデン 森の生活』>の「独り居」を読みながら

2018-08-27 | 心のやすらぎ・豊かさ

180827 独り居と孤独 <ヘンリー・D・ソロー著今泉吉晴訳『ウォールデン 森の生活』>の「独り居」を読みながら

 

最近、朝とか夜、朝焼けに染まる高野の山々を見たり、夜空の星に包まれた漆黒の森を見ながら佇んでいると、悠久の自然の中に溶けてしまいそうになります。ま、半分冗談ですが。

 

今日はとくに書くテーマも浮かばず、またいつもの才蔵頼みにしようかと思いつつ、古今東西の事柄や日々の思いをクールに歌い上げるように展開する、そして若くまた老獪さも備えたようなソローの文章に久しぶりにつきあってみようかと思うのです。

 

それは原文にあたってみていませんが、佐渡谷重信訳だと「孤独」という見出しで、今泉吉晴訳だと「独り居」となっている部分です。

 

ま、ソローのこの著作は、ボストンから少し離れたところにあるコンコード村郊外のウォールデン池のそばで、たしか2年くらい一人暮らしをしたときのエッセイですね。その間独り居として暮らす中で感じ経験した日々の様子を繊細な感覚で綴っていて、どの部分を読んでも何らかの影響を受けるように思います。

 

以前も、なんどか取り上げたような記憶がありますが、今回は「独り居」にしたいと思います。

 

彼にとっては暴風雨も自然との対話と感じるのでしょうか、心静まるかのように?受け止めているようにさえ感じられます。

「春と秋には長い暴風雨がやって来ました。暴風雨は朝に始まり、午後も一日続きました。家に閉じ込められた私は、びゅー、びゅー、ざあざあいう絶えまない暴風雨の激しい音を、心地よく楽しみました。」

 

私も暴風雨や雷など、自然の脅威と言われているものは、それを見て感じるのが好きです。以前、東京湾に面した谷間地形の崖上に済んでいましたので、海風、潮風がもの凄い勢いで自宅の窓をたたきつぶさんばかりにぶつけてくることがありました。それが少しは畏怖を覚えつつも、自然の猛威の素晴らしさを感じる絶好の機会と思い見ていました。

 

その代わり潮風のせいで、建物全体の痛みが早く、結構修繕費がかかりましたが・・・窓ガラスは強化ガラスだったせいか、びくともしませんでしたので、私の暴風雨とのご対面は安全地帯でのそれですから、ほんとの意味での自然の脅威に包まれるとはいえないでしょう。

 

それに比べ、ソローの場合は、簡易なたしか丸太で適当に建てた掘っ立て小屋の様なちっちゃな部屋といっておかしくない、方丈の小屋でしょうかね。すきま風という名の寒風も、平気ではいってくるでしょう。暴風雨だと小屋ごと飛ばされるほどの揺れになるのではないでしょうか。冬山で嵐に遭いテントの中でおびえているに等しい状況にもかかわらず、ソローの心意気は高揚しているのです。

 

ソローは森の中の一人生活と孤独について、明朗に語っています。

「私は独り居が寂しいと感じたことはなく、ほとんど孤独感にさいなまれもしませんでした。」と。

 

とはいえ、ソローも最初のほんの一瞬、不安や寂しさを感じたようです。

「森で暮らし始めて数週間経ったころのこと、私は近くに人がいないと、豊かに健康に暮らせないのではないか、と不安になったことが一度あります。ほんの一時間ほどでしたが、ひとりでいると、気分がおかしくなるのではないか、と思えました。」

 

それはすぐに変わるのです。

「私は、自然の社会には、雨という温かな、やさしく力になってくれる仲間がいることに気

づきました。私は、雨の滴の一粒一粒に、雨の音のすべてに、そして私の家を包む雨の情景のどこにも、限りない、言葉で言い尽くせぬ親しみと友情を感じました。自然のすべてと雨のすべてがひとつになって、空気と同じように私を抱いてくれると感じました。それと共に、私が勝手に思い描いた、近くに人がいたらいいという考えは消えました。」

 

それは雨だけではもちろんありません。あらゆる自然を構成する仲間がソローの伴となっているのです。

「森のマツの針のような葉も、私への共感をもってゆっくりと聞き、伸びて、私の友人になりました。私は自然の社会に、気の合う、いわば血縁関係の近い仲間がいるのがわかるようになり、人々が粗野で不毛だという自然の景観や場面も、親しみをもって見るようになりました。私にとって、血縁が近く人間的に感じられる仲間は、必ずしも人ではなく、村人でさえありません。今の私は、自然のあるところならどこでも、初めての場所だとは感じないでしょう。」

 

彼は人と触れ合うことを拒むわけではありません。人はもとよりあらゆる自然の訪問者を大事に扱うのです。ただ、人にはそれぞれ独自の原理があり、彼のそれとはかなり異なることを多くの場合独白していますが・・

 

ただ、人との付き合いについては、ソロー流のシニカルな語りで次のように述べています。

「私たちの社会と社交は、つまらないものになっています。私たちは、人に会う時間が長すぎ、多すぎて、会う人に伝える新しい価値を身に付ける暇がありません。日に三回、食事のたびに人に会い、考えが硬くなった自分と同じ古いチーズをまたしても噛み、話の種にしようと四苦八苦します。私たちは、こうした社交のつまらなさをしのぐために、早い話がいらいらしてケンカにならないように、エチケットと呼ばれる規則を作らねばなりませんでした。」

すごいですね、エチケットに対する痛烈な批評でしょうか。

 

「私たちは郵便局で人に会い、社交界で人に会います。そのうえ夜にも、暖炉の前で人に会います。私たちは、わざわざ寄り集まって暮らし、邪魔し合い、ぶつかり合い、つまずき合います。私の考えでは、私たちは社交のために互いに尊敬できなくなっています。社交を少なくすれば、大切なことを伝え合う、心を込めたコミュニケーションができるでしょう。」

彼が大都会ともいえるボストンから離れて生活することにした理由かもしれませんね。

 

で、ソローは何を大切に思ったのでしょうか。

少し長いですが、この文章も意義深く感じてしまいます。

「一度死んだ人が生き返るとしたら、蘇る場所や時間を選びはしないでしょう。どこでもいつでも同じで、たまたま蘇ったその場所と時間に、素晴らしい経験ができたと喜ぶでしょう。人は、たまたまめぐり合った場所と時間に応じて、すべての感覚が心地よく働くのを経験するのです。」

 

「私たちが一生の聞に重ねる経験のうちで、人々が高く評価する経験の多くは、本当の暮らしから見れば、見てくればかりでたいした経験ではありません。高い評価は私たちの心を乱し、気を散らすばかりです。」

 

「そうではなく、私たちのすぐ近くにあるあらゆるものと物事に、私たちの暮らしを作る本当の力が働いています。私たちのすぐ近くで絶えず働く、素晴らしく壮大な法則に触れる経験こそ大切です。私たちは、自分で雇った職人が近くで働いているのを見ると、ありがたいことだと親しく感謝の言葉をかけます。でも、じつは、本当に私たちのために、すぐ近くで働いているのは、私たちを生み出した創造者たる神というべき職人の手です。」

 

ここでソローは、多彩な表現を使って独り居の大切さというか、孤高の荘厳さのようなものを自然の多様なありようとともに語ってくれていますが、いまの私にはうまく的確にとらえきれません。ま、秋の夜長に、この一冊があれば豊穣の心持ちを方丈の空間で味わうことができるのではと思うのです。

 

今日はこれにておしまい。

これから警察に接見にでかけ、そのまま帰りますので、今日は早めにブログを書き上げました。

また明日。