180912 風と文化 被害と公園管理 <方丈記や風の又三郎>と<公園内落枝被害で判断別れた裁判例>を少し考えてみる
台風による被害は予想以上に大きかったようです。TV映像で流れると風の威力を改めて感じさせてくれます。
このような風の力、その威力については、古代からあったと思います。最近?では方丈記で鴨長明が次のように被害状況を具体的に取り上げていますね。
また治承四年卯月廿九日のころ、中の御門京極のほどより、大なるつじかぜ起りて、六條わたりまで、いかめしく吹きけること侍りき。三四町をかけて吹きまくるに、その中にこもれる家ども、大なるもちひさきも、一つとしてやぶれざるはなし。さながらひらにたふれたるもあり。けたはしらばかり殘れるもあり。又門の上を吹き放ちて、四五町がほど(ほかイ)に置き、又垣を吹き拂ひて、隣と一つになせり。いはむや家の内のたから、數をつくして空にあがり、ひはだぶき板のたぐひ、冬の木の葉の風に亂るゝがごとし。塵を煙のごとく吹き立てたれば、すべて目も見えず。おびたゞしくなりとよむ音に、物いふ聲も聞えず。かの地獄の業風なりとも、かばかりにとぞ覺ゆる。家の損亡するのみならず、これをとり繕ふ間に、身をそこなひて、かたはづけるもの數を知らず。この風ひつじさるのかたに移り行きて、多くの人のなげきをなせり。
宮沢賢治は風を「風の又三郎」冒頭で巧みに表現していますね。
どっどどどどうど どどうど どどう、
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんもふきとばせ
どっどどどどうど どどうど どどう
とはいえ、やはり農民にとっては大変だったことを「雨ニモマケズ」で出だしに艱難辛苦の対象のごとく指摘していますね。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
でも日本人は基本、昔から風や雨という自然を大切に思い、その名称も多様な表現で、まるでお友だちのように共生して生きてきたように思います。
だいたい有名な枕草子でも次のように見事におもしろきものとして描写していますね。清少納言は虫でもなんでも自然を楽しんでいたようですが、風もまた様々に表現して楽しんでいるようですが、その一部だけにします。
風は 嵐。こがらし。三月ばかりの夕暮にゆるく吹きたる花風、いとあはれなり。
八九月ばかりに、雨にまじりて吹きたる風、いとあはれなり。雨のあし横ざまに、さわがしう吹きたるに、夏とほしたる綿絹の、汗の香などかわき、生絹の單衣に、引き重ねて著たるもをかし。この生絹だにいとあつかはしう、捨てまほしかりしかば、いつの間にかうなりぬらんと思ふもをかし。あかつき、格子妻戸など押しあげたるに、嵐のさと吹きわたりて、顏にしみたるこそいみじうをかしけれ。
文学の世界に限らず、<風の名称辞典>のように、ほんとに日本人の感受性の豊かさを風の名称から感じさせてくれます。
とはいいながら、人間社会は風による被害があると、そこは漱石の「草枕」冒頭の有名な下りのごとく、なかなかやっかいです。
知り合いからこの台風被害について法律相談がありました。隣家の外壁取り付けベランダが台風で飛ばされて自分所有の倉庫を損傷したというのです。それぞれ被害を受けているわけですが、やはり自分所有の物件が被害を与えたとなると、お見舞いというか、一言謝るくらいは礼儀ではないかと思うのです。それを放置されたこともあってこういう相談になったようです。
全米オープン大会で優勝した大坂なおみ選手のように、責任がなくても謝罪する心の豊かさが日本人の中に失われつつあるように思うのです。
ところで、法的な対応ですが、一般論としては、工作物責任の範疇ですから、「工作物の設置又は保存に瑕疵」があったかどうかの問題となり、通常有すべき安全性があったかどうかが争点となりますが、設置から相当期間経過してこれまでどうもなかったということですので、異常な暴風により外壁からはがされて飛んでいったと一応は考えることができるでしょう。
実際、台風の暴風警報が出されていたと思います。当地でも最近経験しないほどの突風だったように思います。とはいえ、地形やいろいろな条件により局所的にどの程度の風速だったかは、はっきりいえないでしょうが、観測地点でのデータは残っているので、その場所での記録は確認できるでしょう。
他方で、建築基準法などの法令で、外付けベランダの設置基準なりあるのか、ちょっと調べたのですが、どうもはっきりしたガイドラインもないように思われます。ベランダの素材自体のJAS基準くらいはあるでしょうけど、暴風への耐性などの安全性を担保する基準ははっきりしません。ましてかなり以前に設置されたもののようですので、当時あったとはおもえません。通常有すべき安全性を欠いているということはなかなか主張するのが大変でしょうね。ましてやあの暴風雨が吹き荒れた頃のようですから(むろんその因果関係が問われますが、ま、常識的には争いにくいかなというところです)、これを法的責任の問題にするのは容易でない、ただ具体的な設置状況とか、壊れた物件をみないと確定的なことは言えないといった回答となりました。
そんなことからふと、工作物責任の裁判例を調べてみようかと思い、判例データを検索したところ、ベランダの事例は見つからず、他方で、国家賠償責任の事例がたくさんでてきました。おそらく近隣同士だと話し合い解決がほとんどで、裁判まで発展する例はごく希でしょうし、仮に裁判になっても和解解決が多いでしょうから、裁判例としてはなかなかでてこないかもしれません。
それで国立公園内の事故で、最近の裁判例として落木・落枝による事故の事例で、まったく異なる判断がでており、それが暴風の影響か否かも一つの要素となっていることから、普通の風と法的責任を免れうる異常な風などを少し検討してみたいと思います。
一つは十和田八幡平国立公園内の奥入瀬渓流遊歩道落木(落枝といってよいでしょう)事件で、これは国賠が認められました。もう一つは尾瀬国立公園内の尾瀬ヶ原木道落枝事件です。
同じく遊歩道・木道での落枝による被害事件、しかもいずれもブナの枯れ木であるにもかかわらず、前者は国・県に対し約1.9億円の賠償責任を認め、後者は責任を否定したのです。
前者の裁判例は東京地裁平成18年判決(出典・判タ1214号175頁)、東京高裁平成19年判決(一審から約4500万円増額、出典・判タ1246号41頁)で、後者は福島地裁会津若松支部平成21年判決(出典・自保ジャーナル1816号181頁)です。
私自身、両方の国立公園内をなんどか散策していますので(後者は日弁連調査でも訪れました)、だいたいのイメージはつかめますが、掲載されている判決上は場所が特定されていないので、具体的な事故状況は今ひとつはっきりしません。
争点はいろいろありますが、瑕疵に絞って簡潔に取り上げたいと思います。なお、自然のブナ木が工作物かという問題については、民法717条2項で「竹木の栽植又は支持」も工作物と同様に扱われていて、「支持」についても実際に支持する措置があるかないかを問わず、自然に生育する立木は対象となるとの裁判例がほぼ確定していると思われます。
ではどこに違いがあったのでしょう。法規制はここでは省略しますが、ほぼ同じ規制がかかっていて、自然林の保護が最も求められる地域となっています。
私なりに簡潔に整理すると、次のように言えるかなと思います。
1は事故現場付近への利用者のアクセスが容易であったか否か
2は落枝したブナ木が利用者の頭上を覆っていたかどうか(落下するリスクの範囲内に滞在する場所があったかどうか)
3は暴風など異常な気象条件であったか否か
前者の奥入瀬渓流落枝事件では、1について、国道に隣接して休憩所を設置し、そこから奥入瀬に下る階段をもうけるなどしたほか、遊歩道やその近くにベンチを置いて、多くの観光客が容易に立入散策できるようにしていたことを指摘されています。
2については、これを肯定しています。落枝したブナ木のそばにベンチを設け、被害者もブナ木の下付近で昼食をとろうとしていたとされています。
3については「晴天でほぼ無風状態であった」として、気象の影響はなかったことを考慮しています。
他方で、後者の尾瀬ヶ原木道落枝事件では、前者の裁判例を意識してと思われる判断を次のようにしています。
1について、尾瀬地域への入山が容易でないことを次のように指摘しています。「入山には登山靴等の装備が必需品とされ、本件事故現場は徒歩による最低数時間の旅程を要する場所に位置している」として、前者の奥入瀬渓流との違いを指摘しています。
2については、「本件事故現場付近は特に観光客が休憩等により立ち止まる状況にはない」としたうえ、「本件ブナが本件木道から約6メートルの位置にあり、本件枝が本件木道上にかかっていたとは認められない」として、木道上を歩く利用者に危険の及ぶ状況にはなかったと指摘しているようです。また、枯れ木伐採の必要性がないかのような視点で、「雄大な自然をあるがままの状態で享受することをその目的として訪れるもの」と利用者の目的も配置しています。
3については、この風速や天候を極めていろいろなデータを活用して、事細かに言及したうえ、「最大瞬間風速が10メートルを超える状況が長時間続き、最大瞬間風速が18メートルに達する時もあったという通常とは異なる悪天候で、本件枝が本件木道に落枝したのは、本件ブナが枯木であったことも一つの要因ではあるが、その主たる要因はそのような気象状況下での強風によるものと認められる」として、こういう悪天候での落下事故の防止までの安全性を備えることは社会的に期待されていたとはいえないとしてます。
この後者の判決については、なにか無理な論理を感じてしまいます。だいたい風速データ自体、本件事故現場から近いところで6km離れていて、地形・環境条件がどの程度一致するのかすら不明で、どこまで根拠にできるか疑問です。環境アセスメントでもよく問題になりますが、このような判断では困ります。
それに仮に風速データを判決のごとく認定したとしても、その程度の風速が当該地域でこれまでなかったのか指摘がありません。14kmも離れたデータについては指摘しているにもかかわらず、判示の基礎にしたデータについては言及していません。
判決が指摘する上記風速が異常な悪天候といえるのか、それすら吟味されていないように思います。今回の台風21号に比べるとたいした風速とは思えません。このブナ木は高さ20mもある巨木で長い年月を風雪に耐えたことがうかがえます。この程度の暴風はなんども経験したように思われます。
気象条件の特殊性に、安全性の基準を緩和するのはどうかと思うのです。だいたい当該地にこの程度の風速の風が吹いたことも明らかでなく、落枝の原因も判示のように暴風を主因とする根拠があるとはおもえません。
だいたい、尾瀬に入山する人は特殊とか考えること自体、いかがなものかと思います。むろん奥入瀬渓流よりは容易に立入ができます。しかし、枯れ木の落枝との関係で(これこそがキーポイントだと思います)、その危険性を予見できるかどうかといった観点から言えば、利用者の立入の容易さは重視されるべきでないと思います。
尾瀬に入るくらいだと、誰でも可能です。もちろん子どもも、高齢者も。木道を歩く人はほとんどが登山服を着ているかもしれませんが、木を見るというより、水芭蕉とか、湿地やその景観を楽しむ人が大半で、特別、危険を冒す思いで入山する人はまずいないでしょう。観光客といってよいと思います。
他方で、どのような場合に、原生自然的環境を保護しつつ、危険を予見して伐採なり、枝払いなりしないといけないかは難しい問題です。私は多くの利用者を立入を認める以上、リスクの回避も、一定程度負うべきと思っています。それには維持管理費用が膨大にかかると思いますが、国立公園の適切な保全保護には本来、多額の費用をかかるのですから、カナダの多くの国立公園のように利用料をとって、対応すべきかと思います。
その意味で、前者の奥入瀬渓流落枝事件で国賠の責任が認められたことは妥当と思います。ただ、その賠償額が妥当かというと、当該事件で被害者にはまったく過失がなかったということのようですから、通常の損害額としては問題ないのでしょう。しかし、国立公園で最も自然状態を維持することが求められる地域で発生した落枝事故の場合、立入を無償にしていることや安全管理に多額の費用がかかることを考えると、賠償の範囲として、介護費用は除くことはできませんが、逸失利益や慰謝料について一定の制約があってもいいのかなと思うのです。こういった議論はないでしょうが、オールオアナッシングでは、こういった事故の解決法としてどうかと思うのです。
今日は久しぶりに長文となりました。あまり体調がよくなかったのですが、途中である事件の和解成立が確定し、別の事件の報酬支払の連絡が入り(ほんのわずかですが)、気分も少しよくなり、なんとか適当な裁判例の整理を最後までやりとげることができました? 今日はこれでおしまい。また明日。
付け足し
これを書いて帰りながら、なにか大事なことを忘れていたことが気になりました。
一つは枯れ木と生木の違いについて、風力の影響です。
もう一つは事件後伐採されたこのブナ木のことです。
簡単にします。樹木の枝を払ったりした経験があれば分かるのですが、生木の重さは相当なものです。人の体はたしか年齢にもよりますが60~70%が水分で高齢化すると50%とともいわれます。木もそうですね。針葉樹と広葉樹で違いますし、樹齢が長いと水分比率も少なくなりますね。針葉樹は普通40%から50%とも言われます。広葉樹、とくにブナの木は水分が豊富ですからきっとそれ以上ではないかと思います。
昔ボルネオで先住民が広葉樹の巨木(胸高径1m弱)を伐倒して造林しているとき、水しぶきがどっと出ました。いかに水分をためているかを感じました。
私がスギ・ヒノキの枝打ちをしているとき、その枝はたかだか数m、直径5~7cm程度でも、その重量たるやとても持てないほどです。葉っぱがぎょうさんついていて、水分もため込んでいるからでしょう。とても重いのです。
でこの枝の重さですが、尾瀬ヶ原(尾瀬沼かもしれません、場所特定がありません)木道そばのブナの枯れ木については、木道からの距離、枝の径や長さは認定しながら、重さはまったく無視しています。それでいて風速については、異常なほどさまざまなデータ、文献で、異常な風速だったとしていることが、最初に違和感を感じたのです。
枯れ木はときに無風状態でも折れますし、むろんちょっとした普通の風でも折れます。それに木道からの距離が5,6mといっても、生木の枝だとそこまで飛ぶのは重さから言って、相当の風速を想定でいますが、枯れ木の場合、水分がほとんどないのと、枝に葉っぱがないので、かなり軽量です。ちょっとした普通の風でも十分飛ばされる距離だと思います。まして高さ10mの位置にあったらこの程度の距離は物理的に普通の風速で到達する距離として不思議でないと思います。
私はこの視点は無視できないと思っています。判決が科学的データをいろいろ上げていますが、その根拠の観測地点との違いも明確でなく、他の周辺の枯れ木などの枝折れの有無・量も検討されていません。異常な風速だと、生木も含め、幹さえ倒れる被害はどこでも起こります。そういった検討が十分されていないことに審理の不十分さを感じます。
もう一つのポイントは、自然の権利です。ま、ここでアメリカの自然の権利闘争史や裁判例を上げるのは遠慮して、このブナの枯れ木の巨木をただ、伐採したことだけ言及しています。
枝が折れて人が亡くなったことから、当然視する考え方もあるかもしれません。しかし、それは尊厳死などで高齢者の命のあり方を見直すのと同様(ま、違いますが)、木の命のあり方を、どのような議論で対応するか、もう少し検討してもらいたかったと思います。枯れ木となった木の命を奪う場合にも適正手続を保障するシステムを考える時代ではないかと思うのです。
20数年前、カナディアン・ロッキーの国立公園内でキャンプ中に熊に襲われて死亡者が出ましたが、そのときも熊が捕獲され射殺されましたが、大きな議論となりました。対象の特性が大きく異なりますが、そのときも手続が議論されていました。
わが国においても、自然生命体に対するさまざまな対応について、その結果と対象の価値のバランスや、手続の公正さを考える必要を感じています。
この補足を書き出すと、かなり長くなりそうですし、内容的にもう少し整理しないといけないので、この程度とします。