人の死について 死の処し方を考える
人の死ということではないですが、いま天皇の生前退位が話題になっていますね。天皇も人である以上、その生死について考えるとき、とりわけ崩御するまで天皇という役割を担う責務を負うことが名誉であるとともに、大きな負担にもなりうることは容易に理解できます。
「天皇制」をめぐっては記紀の時代から長く議論が絶えず、またその地位をめぐって骨肉の争いもよく知られたところですね。生前退位をめぐる議論は日本(国の呼称として国際的に公式に唱えたのは記紀の時代よりかなり後との説も説得的です)のあり方ともかかわり、ここで取り上げるのは現時点では控えておきます。
で、普通の人の死というものについて、少し考えてみたいと思います。今日も終日、あちらこちらと動き回り、頭の中を整理できないまま、思いつくまま(いつも同じですが)、書き綴ってみようかと思います。
人の命はかけがいのないものであることは、その人にとっても、関係する人にとっても、社会にとっても、異論を挟む事ではないことかと思います。
そのため、人の命が守られるように、法令も時代に要請に応じて多様になっているように思います。殺人は刑法法典で、その禁止を法的に担保するために極刑も含め厳しい罰則を定めています。最近の社会問題に応じたものとしては、
平成12年成立の児童虐待の防止等に関する法律
平成18年成立の自殺対策基本法
同年成立の高齢者虐待防止法
平成23年成立の障害者虐待防止法
平成25年成立のいじめ防止対策推進法
平成26年成立の過労死等防止対策推進法
などなど、これらはほんの一部ですが、直接的・間接的な死を回避する法制度が次々と国会で作られてきました。
違った観点では、これまでの医療の考え方にある意味、反省を迫る、尊厳死の運動(尊厳死協会)も死のあり方に一石を投じています。私が尊厳死協会の方と話をした最初は四半世紀くらい前でしたが、まだ会員は一万かもう少しくらいしかいなかったのではないかと思います。いまでは10万人の大台を超えています。アメリカの法制度のように、生命維持装置を外すことを裁判所の命令でやりとげるといったことは、おそらく日本では当分ないでしょうが、人が死というもののあり方を考える現代的テーマの一つではないかと思います。
また異なる観点では、終末期医療のあり方として、自宅での死をサポートする、医師・看護師・患者と一緒になって実践する活動に参加してきましたが、最近は制度的な措置が広がってきたようにも思うのです。
長々とまた書いてしまいましたが、私の本論は、自らの自分の命をどう処すかという点を少し考えてみたいと思っています。できるだけ長生きするということも大事なことでしょう。その意味で不摂生を見直し、できるだけ健康生活を保つといったことも試みてよいのかと思います。
とはいえ、あの始皇帝が最も望んだ不老長寿の夢は、徐福を介して蓬莱山を求めても、遂げられないことは当たり前ですね。人は必ず死が訪れます。その処し方です。私は、30年以上にわたって頭の中で少し浮かんでは消えるこの問題を、空海という人の最期に(今も生きているそうですが)ヒントがあるように思っています。空海に限らず、修験者や僧侶の中にもそういった壮絶というか、厳粛な道を選んだ人も少なくない時代があったのではないかと愚考するのです。いやもしかしたら、縄文人などはそれが自然だったのかもしれないと思ったりします。
きちんとした書物で確認したわけではないので、空海が選んだ死の作法というか死への道は、断定できるわけではありません。でも魅力を感じています。自分ができるかどうか、最近は時折考えることもあります。
ではどうするか、基本は五穀を、やがてはすべてを絶つということです。それを長期簡にわたって実践していったとも言われています。空海伝説は数限りないので、嘘誠、判然としませんが、私は信仰という状態にはなれそうにないですが、この空海の生き方というか、死に方には信じたいなにかを感じています。