190430 大嘗祭 <特例退位、国民が共感 異なる天皇像の間で>などを読みながら
高野山の峰々が新緑と杉檜の濃緑と混じり合って鮮やかです。今日は天皇退位の日ですね。穏やかな一日が終わろうとしています。今日の花は退位とは関係なくティアレラ スプリングシンフォニーを選びました。とても可憐で清楚な印象の花です。花言葉をネットで探しましたが、見当たりません。ネットでアップされた写真の中には花弁が大きく捉えられていて、その感じがよくでています。小さな花弁なので、遠目だとほとんど形が見えず、綿帽子がほっそりした感じに見えます。でもしっかりした美しい花弁をもっていることがネットの写真ではわかります。
ところで、今朝の毎日は当然のように、第一面に<皇室天皇陛下きょう退位 202年ぶり、憲政史上初 平成の30年終わる>と大きく取り上げています。また、<皇室天皇陛下きょう退位 儀式、極力簡素に 陛下の意向尊重>では、皇位継承の儀式の主なものが下記の内容で掲載されています。
◆皇位継承に関する主な儀式
退位に関する儀式
3月12日 賢所(かしこどころ)に退位及びその期日奉告(ほうこく)の儀
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26日 神武天皇陵参拝
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4月18日 伊勢神宮参拝
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23日 昭和天皇陵参拝
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30日 退位礼当日賢所大前の儀・退位礼当日皇霊殿神殿に奉告の儀
(午前10時~)
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退位礼正殿の儀★
(午後5時~)
即位に関する儀式
5月 1日 剣璽(けんじ)等承継の儀★
(午前10時半~)
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即位後朝見の儀★
(午前11時10分~)
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10月22日 即位礼正殿の儀★
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祝賀御列の儀★
(パレード)
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饗宴(きょうえん)の儀★
(25、29、31日も実施)
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11月14、15日 大嘗祭(だいじょうさい)
※★は国事行為の儀式
この生前退位と儀式のあり方については、憲法との整合性等をめぐり、三面の<クローズアップ特例退位、国民が共感 異なる天皇像の間で>記事で整理しています。まあ、この憲法論議はここではとりあげません。
最近、天皇の退位をめぐっていろいろ議論が喧しいので、私も少し勉強しようと、たとえば岡田荘司著『大嘗祭と古代の祭祀』などを最近読み始めています。この本をちらっと斜め読みしていて、興味深いところがあったので、今日はそれに触れてみたいと思います。
この著作では、平成天皇が即位した後行われた大嘗祭をめぐる当時の議論を最初に整理して、その後に展開された議論を次に収めています。
大嘗祭といっても、あまり関心のなかった私には、この著作で律令時代や平安時代、さらにその後の資料を踏まえて儀式の有り様を丁寧に記述している点は参考になります。図入りの解説で、とても面白く読めました。
で、大嘗祭はというと、おおざっぱに言えば、新たに即位した天皇が天照大神と食事を供にし(食事を提供するわけですね)、一夜を共にするという2つで構成される分けのようです。
岡田氏は、上記の後段に当たる一夜を過ごす点について、多数説となっている?折口信夫が唱えた聖婚儀礼説に対して、そうではないと反論を膨大な資料を踏まえて行っています。まあ、私にはあまり関心のない世界なので、どちらでもいい話です。ただ、岡田氏が大論文を書いて「厳粛・素朴な国家最高の『饗(あえ)の事(こと)』と指摘されている結論に異論はありませんが。他方で、聖婚儀礼説というのはそれが多数説ないしは通説になっていること自体が不思議です。
それより私が興味を抱いたのは前段の共食ということです。
岡田氏の言葉を引用すると、「大嘗祭の中心儀礼は、嘗殿における天皇「御」一人による神膳供進・共食(薦享の儀)と“真床覆衾”の二つの儀礼から成り立っているといわれてきた。」とされている、「共食(薦享の儀)」という用語です。
薦享(せんきょう)の儀という名前ですが、なぜ薦享というのか、説明がありません。それが岡田氏が多数引用している儀式を詳細に記述して残してきた律令・平安時代やそれ以降の記録にもなさそうです。
強いて言えば、著作の中で「『礼記』五(王制)には「天子諸侯宗廟之祭、春日レ柏、夏日レ締、秋日レ嘗、冬日レ系」とあり、同書(月令)にも「是月也、農乃登レ穀、天子嘗レ新、先薦ニ寝廟-」とある。すなわち、中国の秋の収穫儀礼は「嘗」であり、新穀を租廟に薦め、天子もいただかれる。」という記述から、「薦享」ということばが儀式用語として使われたのかなと推測するしかないのです。「薦」ということばがなぜ使われたか勝手な関心が働いたのです。
ただ、寝床の畳にも、薦が必須とされていて、7枚ないし8枚とのことで、それが多少影響しているのかと思いながら、やはり格調高い『礼記』の記述からとったのかなと思うのです。
どうでもいい話ですが、個人的には気になるのです。
より興味深いのは食事として出される食物ですが、海山川の産物、とくに海産物が貴重なものとして取り上げられつつ、主食として米と粟となっている点です。そう粟が米と同等に位置づけられていたのです。この点、岡田氏は、飢饉など災害対策として粟を生産貯蓄していた趣旨を指摘しています。私は庶民にとって戦後初期くらいまでは米はぜいたくなものであったと思うのです。まして戦前や江戸時代以前は庶民には手に届かないくらいのものであったと思っています。大畑才蔵の記録では米を食べるのは年に数回と彼の清廉さを示す記述が残っていたと思います。粟や稗、麦・豆など雑穀が主食であったと思うのです。
それくらいは天皇でも承知していたと思います。陸田で育つ粟は縄文期以来、日本人にとって大事な食料であったと思うのです。それだからこそ、五穀の代表として粟を薦享(せんきょう)の儀に提供していたのではないかと思うのです。
それ以外に、竹・藁を使う様式が現在も続いているなど取り上げたいことが残りましたが、今日はこの辺でおしまいとします。また明日。