190331 意思とは <記者のこだわり 準強姦無罪判決のなぜ>を読みながら
今朝、メールでこのブログサービス会社から契約終了の通知がありました。そういうわけで、今日がラストになりそうです。別の会社に移行するほど元気がないので、今日でこのブログはおしまいです。現在掲載されているブログはすべて消えるようですから、まあ、ネット上なくなるということなんでしょうね。
そもそも人の存在自体、そんな存在するようで、しないようなものでしょうから、誰かの認識に入った限りで存在してるかもしれないものかもしれません。生と死の狭間も夢幻のようなものかもしれません。
そんなことを思いながら、このブログで自分という独自の存在がありうるのか、試作的な(思索ではなさそうですね)ほんの思いつきを綴ってみましたが、日々ニュースで報道される情報への反応を即時的に書いてみました。それは自分というものがありうるのかを試す一つの試みでしたが、有ると言えばあるかもしれませんが、無いといってもおかしくないかなと思いました。般若心経の世界にわずかでも近づけたかなと思いつつも、まあ、三蔵法師の掌の中で蠢いているだけでしたか。
明日から一休みということで、とくに決まりをつけることもなく、いつものように今朝の記事を見ての思いを少し述べて、おしまいとしようかと思います。
毎日記事は<記者のこだわり準強姦無罪判決のなぜ その経緯と理由は?>として、<無罪に波紋>と事案の内容と判決理由、それと同種事案の場合の各国の法制度を紹介しています。
準強姦罪(改正刑法で準強制性交等罪)というのは、性行為という男女の営み(最近はこういう限定ができなくなってきていますが)という根本的な行為についての社会通念や個々の意識の変化が、社会事象としても、裁判事例としても、反映しやすいかもしれません。
この犯罪は、客観的な要件として<「人の心神喪失もしくは抗拒不能(抵抗できない状態)に乗じ、または心神を喪失させ、もしくは抗拒不能にさせて、性交等をした>(刑法178条)ことがまず、ないといけません。この要件自体、認定が容易ではないですね。それに加えて男性が女性がその状態にあることを認識しているという主観的要件、故意が求められます。ですので、通常、<争点は(1)女性が抵抗できない状態にあったかどうか(2)女性が抵抗できない状態にあったことを男性が認識していたか>ということになります。
で、事案は、<福岡市内の飲食店で・・20代の女性は友人と一緒に午後11時ごろに来店。・・「罰ゲーム」でショットグラスに入ったテキーラを数回一気飲みさせられたり、カクテルを数杯飲んだりした。その後、中央フロアのカウンター席で眠り込んだまま嘔吐(おうと)し、仕切り扉によって区切られたソファフロアに運ばれた後も眠り込んでいた。>この状態が<抗拒不能>だったかが問題となります。
次に<40代の男性は午前0時ごろに来店。女性とは初対面だったが、午前5時40分過ぎにソファで女性と性交し、少なくとも4人以上が様子を目撃した。>というのです。
で、<福岡地裁久留米支部の西崎健児裁判長は、争点(1)について、・・・女性は抵抗できない状態にあった」>と認定しています。他方で、<争点(2)については、「女性は目を開けたり、大きくない声で何度か声を発することができる状態にあり、それほど時間がたたないうちに別の人物から体を触られた時に『やめて』と言って手を振り払ったことから、飲酒による酩酊から覚めつつある状態であったといえ、外部から見て意識があるかのような状態だったと考えられる」と指摘した。>まあ、抵抗できない状態としつつ、歯切れの悪い認定ですね。
この女性の意識レベルを前提に、判決は①<「サークルのイベントではわいせつな行為が度々行われていたことが認められる。>、②<男性はこの飲み会で安易に性的な行動に及ぶことができると考えていたとうかがわれ>としたうえ、③<女性から明確な拒絶の意思が示されていなかった」>として、結局<「女性が許容していると男性が誤信してしまうような状況にあったということができる」と判断。>つまり男性には故意がないとしたのです。
これに対し、<ネットでは「こんな判決がまかり通るのか」「男性が『レイプだ』と思っていない限り、罪にならないってこと?」などと批判や疑問が相次いでいる。>そして後先になりますが、毎日記者は<どんな理由で今回の判決は下されたのだろうか。【安部志帆子/久留米支局、平川昌範/西部報道部】>と上記のように争点と事実認定を掲載しています。
たしかに刑法犯として責任追及する場合、厳しい要件が必要でしょう。ただ、本件では、記事が指摘する事実関係を前提とすると、裁判所の認定に疑問符がつくのではないでしょうか。上記の判決が男性の誤信を根拠づける①②③の事実は、誤信を根拠づけるには薄弱だと思うのです。
① のサークルの過去の事例としても、<わいせつな行為>であって性行為そのものではありません。またそれも度々ということで、常態化していたとまでいえません。それに女性がサークルの恒常的メンバーかどうかも、遅れてきた男性がには把握できていないわけです。①を重視するだけの合理性が乏しいと思うのです。
② は男性の意識と言うことですが、<わいせつな行為><性的な行為>と<性行為>が峻別されていません。これは人の意識を判断するときに少し杜撰ではないでしょうか。
③ は女性の明確な拒絶意思を求めるものですが、そもそも争点(1)で抗拒不能と認定しているのに、このような女性の意思を求めること自体論理矛盾ではないでしょうか。
すでに識者の中には、諸外国の例を参考に、<同意確認>とか、<過失も罪>とか、といった動きがあるようですが、この事案の解決としては、少し飛躍があるかなと思うのです。むろんそういった考え方に異論があるわけではありませんが。
さてここまでが序論というか、前置きです。私たちは人の意思というものを理解するために、縄文人から始まって1万年以上の蓄積を重ねてきていますが、AIまでその認識が可能となる時代を迎える一方で、ますます混沌といえるような状況にあるのではと思うのです。
ことばが生まれ、意思疎通の手法が格段に広がり、多様ですさまじいスピードで情報・文化・分明が変動していますが、人の意識・意思はそれに順応できるかどうか、また人による格差の拡大とそのブリッジ機能の脆弱化で、危うい状態に陥っていないか気になります。
昨日、「ひきこもり」を取り上げたのも、あるいは度々取り上げたいじめや虐待問題も、関係する人たち(被害者だけでなく)の意思と意思疎通の問題を感じてきたからです。
性行為をめぐる男女それぞれの意思と意思疎通の問題も、どうように難解な問題です。答えは簡単に見つかるものではないでしょう。それでも問題の所在とその解決の道を探ることは、私たちに求められているように思うのです。
本論はこのブログを閉じた後、ゆっくりと考えていこうかと思います。日々少しずつ考えていこうかと思うのです。
そしていつか再びブログなのか、何かでそういったことについて表現できればと願っています。ではさようなら。いままで読んでくれた人、今日偶然訪れた人、ありがとうございました。