たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

さよなら制服スカート <教育の窓 男女区別なく選べる制服を>などを読みながら

2018-04-02 | 教育 学校 社会

180402 さよなら制服スカート <教育の窓 男女区別なく選べる制服を>などを読みながら

 

満開の桜、散り際も賑わいがあっていいですね。わが家のベランダから見えるレンギョウの黄、アカヤシオの赤みがかったピンク、ソメイヨシノの薄桃色がちょうどいい具合に並んでいます。それぞれ自分の色を染め上げて、どれもいいですし、三つがそろってそれもいいです。背後のスギ・ヒノキ林の濃緑もちょうどいい配合です。これを混交林と先日のブログで書きましたが、大まかにいえば間違いではないと思います。ただ、林業の世界では針葉樹と広葉樹の混交を重要な森林管理の施策としていますので、その点では曖昧な使い方をしてしまいました。

 

ともかく山道をドライブしていると、レンギョウの黄は、これでもかと燃えるように目立ちます。アカヤシオもソメイヨシノとは違う、独特の目立つ濃いピンクですね。

 

そういう花木の盛んな有様を見ていると、今年も新学期を迎えたのだなと思います。私個人は、新学期とか卒業とか、あまい感慨を感じないタイプですが、普通はやはり真新しい制服姿や晴れ晴れした姿を、自分や、子供、孫を通して感じるのでしょうね。

 

さて今朝の毎日記事は<教育の窓男女区別なく選べる制服を>として、女子の制服に新風を読んでいる状況を報告しています。

 

<入学シーズンがやってきた。最近は女子の制服でスカートの代わりにスラックスを選べる学校が増えている。寒い地域を中心に以前から防寒目的で採用する学校はあったが、近年は宗教的な背景を持つ生徒や、性的少数者(LGBTなど)の生徒らへの配慮もあり、多様な選択肢の一つとして採用する動きがある。>

 

女子と言えば制服はスカートと考えるのは昔人間でしょうかね。そうでもないでしょうか。現代の男性の中には携帯カメラなどを使ってスカートの下を撮影しようとする人がいますね。それが若者だけならまだわかりますが、以前有名なTV解説をしていた教授が捕まりましたね。こういう感覚が私には理解できないです。

 

ま、女子高生とかもスカートの丈を短くしていくのが楽しいのかもしれませんが、首都圏にいる頃はエスカレーターとか階段では上を向かないようにしていました。変な目で見られないための防護線ですね。都会の変な趣向ともいうべきでしょうか。それは電車の中でも同じですね。

 

またまたくだらない脱線をしてしまいました。この間、依頼者から電話があり30分以上相談に応じていて、このテーマをうっかり忘れそうになりました。

 

<今年度からスラックスを導入する福岡県の高校2校を取材した。【下原知広】>結果は、<古賀市の県立玄界高校(942人)>では<同校は全校生徒の約6割を女子が占め、外国人の親や祖父母を持つ生徒も40人近くいる。佐伯・前校長は「日常生活では女性もスラックスをはくことが多い。宗教上の理由で肌を出せない生徒が今後入学してくることも考えられ、選択肢の一つとして取り入れたかった」と話す。>

 

学校も社会の一要素ですから、スカートでもスラックスでも、それぞれが選べることができることが重要でしょう。むろん男性もそのような選択はあり得るかもしれませんが、わが国はスコットランドのような伝統がないので、男性の選択肢としてはあまり考えにくいですか。

 

<那珂川町の私立福岡女子商業高校(393人)>の場合、<15年冬、柴田晴夫校長が地域の人権研修会で、性的少数者の支援に取り組む団体の代表から、身体の性と服装が合わず苦しんでいる子どもたちがいると聞いたのが、採用のきっかけだった。>

 

元々、寒い地域では防寒目的でスラックスの着用はあったようです。

最近の状況は<毎日新聞による都道府県教委への取材でも、スラックスを採用する目的が多様化している傾向がうかがえる。岐阜県教委によると、16年度の県教委の調査に対し、県立63校のうち23校がスラックスを選択できると回答した。調査では、全校がスラックスを採用した理由として防寒を挙げたほか、14校がLGBTなどの生徒への配慮、9校が防犯を挙げたという。>と目的もいろいろですね。

 

ところで、制服自体、本当に必要かどうか、そろそろ真剣に考えてもいいのかなと思うのです。<京都華頂大の馬場まみ教授(服装史)は「個人的には制服自体をなくし、生徒が自由に服を着られるようにすべきだと思う。>と服装の専門家の弁は私も賛成です。でも同教授は<とはいえ制服がある方が規律が保たれるといった声も根強く、現実的には制服をなくすのは難しい。>と制服に規律の意義づけを認めています。それこそ真の自立も規律の確立も得られないのではと思うのですが、マイナーな意見でしょうね。

 

そういえば、少し前<制服銀座の公立小、アルマーニがデザイン監修 計8万円、保護者が批判>がありましたが、どうなったのでしょう。泰明小学校ですか、その横をよく通りましたが、銀座のど真ん中で(数寄屋橋?)、こじんまりした雰囲気があり、そこを歩くのは割合好きでした。

 

しかし、8万円のアルマーニ監修制服なんてもので、学校の品格を保とうなんて了見にはとても賛成できませんね。公立校でもあそこに通えるような子供の保護者は別格なのでしょうか。ともかく制服で差別化するなんて発想自体が品格を疑いたくなります。

 

そういえば、安倍首相と麻生財務大臣の背広は品があります。別格ですね。私は背広を着ませんが、昔、少し凝ったことがあり、あれだけの品質はロンドンでもよほどの店でないとないのではと思います。いい背広を探してロンドンの店をはしごしたことがありました。

 

大人の制服ともいうべき背広、どうも格差を見せつけるようで、あまり好きでなくなりました。相手に失礼にならいない程度のものであれば、着るものはなんでもいいのではと思うのです。それは子供のうちから制服ではなく、服装を選択する意識を培養する機会を持つことが大事でないかと思うのです。

 

だいたい、制服のコストってほんとはいくらでしょうか。適正な競争により価格形成がされているのか、疑問を感じることがあります。

 

昨年暮れの毎日記事ですが<公立中制服高価格、家計に重荷 凝ったデザイン背景 公取委、業者競争促す提言>とあり、<公立中学校の制服が高いとして、公正取引委員会が業者間競争を促す異例の提言をした。特定のメーカーの「指定席」になっていたり、個性を出そうと凝ったデザインが増えていたりすることが高価格の背景。>とのこと。

 

しかし、その実態は保護者の家計と小規模業者の企業会計ともに楽でないようです。

<年収が伸び悩む子育て世代には痛い出費だ。一方、少子化が進む中、手間の掛かる注文の増加や材料費の高騰で業者も苦境に立たされている。>

 

そこには流通過程や学校側の闇がないのか、公取委がしっかりメスを入れる時期にきているようにも思うのです。

 

<全国平均の制服の販売価格は2007年からの9年間で5000円上昇した。制服は学校単位でメーカーに製作を依頼する形が定着している。公取委の調査では、特定の業者1社が指定され競争原理が働いていないケースや、学校が価格決定に関与せず業者任せにしているケースが散見された。>

 

公取委の提言に対し、文科省の反応はおぼつかない状況ですね。それでよいのか、現場の学校当局も考えてもらいたいものです。

 

<公取委の指摘に対し文部科学省は「制服に国として法令はなく、直接的な実態把握や指導はしていない」(担当者)と戸惑い気味。文科省や公取委は全国の教育委員会などに対し、保護者の負担が過重にならないよう呼び掛ける方針だが、公取委の提言に法的強制力はなく、価格低下につながるかは見通せない。>

 

いつの間にか8時になってしまいました。今日はこれにておしまい。また明日。


学校行事とその責任 <上海列車事故 29年後の真実 第5章<5> 「下見」で校長は何をした>を目にして

2018-01-19 | 教育 学校 社会

180119 学校行事とその責任 <上海列車事故 29年後の真実第5章<5> 「下見」で校長は何をした>を目にして

 

上海列車事故、もう29年も経過しているんですね。たしか毎日記事でちらっと目にしつつ、つい見落としてきました。今日の話題をなににしようかと情報をみているうち、ふと目にとまりました。

 

実は他にいくつか取りあげようかと考えたテーマがあったのですが、新刊書であったり、林野庁の施策であったり、すぐに理解できるようなものでなかったのであきらめ、このテーマは重い内容ですが、私自身、若干ですが似たような体験をしたことがあるので、これを選ぶことにしました。

 

ただ、すでに長い連載となっていて、今回は今日の記事と、もう一つだけ取りあげてみたいと思います。

 

ところで、上海列車事故といってもご存じない方もいるかもしれません。毎日の<ことば>での解説を引用します。

 

<1988年3月24日、上海市郊外で、南京(江蘇省)発杭州(浙江省)行き列車が、単線区間を対向してきた長沙(湖南省)発上海行き列車と正面衝突した。高知学芸高校の修学旅行生ら193人のうち生徒27人と引率教諭1人が死亡し、多数の生徒が重軽傷を負った。対向列車でも中国人列車乗務員1人が犠牲になった。>

 

この事故は大きく報道され、私も悲惨な事故に衝撃を受けました。と同時に、以前にヨーロッパでの団体ツアーでの事故を担当した経験から、これは遺族感情を逆なでする事態になるのではないかと心配しました。

 

さまざまな法的構成は考えられますが、通常は不法行為責任で、管轄は事故発生地、その法的基準もその発生国になる可能性がありました。もう昔のことで忘れてしまいましたが、一時渉外不法行為法を勉強したりしましたので、記憶はおぼろげです。そのとき過失内容とか、責任原因についてはさほど大きな違いがないものの、当然、訴訟手続きとかはかなり違いがありました。いや、それ以上に損害算定の考え方・基準がまったく違うのです。

 

わが国では死亡した場合、慰謝料とか、逸失利益が高額に認められることが裁判例の積み重ねで確立していますが、ヨーロッパではまったく異なりました。中国はどうか調べたことがないのでわかりませんが、少なくとも貨幣価値が明らかに異なっている時代でしたから、中国人の基準にしたら、スズメの涙程度になるおそれがありました。顛末は私は知りませんが、それほど大きな違いはなかったのでしょう。中国(政府?)の責任が国内波に追求できなかったことから、当然、旅行会社や学校の責任問題が取りあげられたのだと思います。

 

ただ、この旅行は旅行契約のうち、主催旅行でなく、手配旅行であったことから、旅行会社に対する責任追及は困難であったことから、学校の責任が中心となり、ついには高知地裁で訴訟になったようです。

 

で、今日の記事は、下見が問題にされています。学校の行事、とりわけ各種旅行企画では、その旅行先の選定や、運行手段の選択などで、十分な検討がなされたかが問題となります。その中で、下見の内容は大きな要素の一つです。

 

ところで、一般的にこういった学校の各種旅行は、旅行会社間の競争がとても激しく、ということは旅行会社の学校側へのサービスというか、さまざまな便宜もその競争手段の一貫になっているわけです。ただ、私の経験したのは30年前後前の話ですので、最近は学校行事としての旅行が大きな競争対象となっているかはわかりません。

 

今日の記事では<「下見」で校長は何をした>というタイトルで、その内容が焦点となっています。学校における校長の職務権限、とくに旅行会社の決定などについてどのような意思決定手続きかについては、最終的には校長が決めるとしても、職員会議や保護者会、生徒の意見も踏まえて決めるなど、とりわけ最近は多様ではないかと思われます。なお、私学の場合は学校法人経営者の意向が大きいのでしょう。その意味では学校によるとは思いますが、校長がかなり強い権限を発揮するところもあるでしょう。

 

ただ、この旅行では、下見を校長が行ったというのですから、驚きです。普通は、修学旅行のような場合に当該学年の引率教師中からが選ばれて下見をするのではないかと思います。本来、きつい仕事です。遊びではないわけですから、どこかに危険が隠れていないかとか、交通手段が適時適格に運行できるかとか、完全に近いリハーサルをしないといけないわけで、疲れる仕事です。それを校長自らが、しかも他の教師を同行しないで、夫人と同伴でとなると、一体、下見の意味をまったく理解していなかったと言われても仕方がないでしょう。

 

少し前の<第4章<3> 旅行会社から突きつけられた事実>という記事では、驚くべき事実が旅行会社から報告されて、保護者・遺族が憤慨しています。

 

<「佐野校長に下見のツアーに入ってもらい、途中で団体を離れてもらいました。校長は奥さんを同行していました。学校からの参加は2人だけで、費用は校長先生の本人持ちでした。>

その日程はというと

<87年9月上旬、7泊8日、佐野が夫人を同伴で、修学旅行先の一部と、旅行とはほとんど関係のない北京や西安を、航空機や乗用車、列車で回っていた。>

 

驚くべき内容です。それで、裁判で追求されている様子が、今日の記事で紹介されています。

 

まず当時の中国における列車事故の実態です。<中国では事故直近の3カ月間に列車の炎上や正面衝突、脱線など重大鉄道事故が4件発生、計152人が死亡していた。当時の中国鉄道の技術水準は「昭和30年代」とされ、安全意識が低いなかで事故現場付近は過密運行が続いていた。>

 

私は90年代初めに上海から列車に乗りましたが、その安全性についてまで気が回りませんでした。ただ、車掌はその仕事をまじめに行う雰囲気はありませんでした。知り合いかどうかわかりませんが、椅子に座ってぺちゃくちゃと話しに花を咲かせて、乗客は無視でした。

 

上海市内では、車両はまだ少なく、自転車が大半でしたが、古いトラックやバスの乱暴な運転は放置され、安全性の意識に感じさせられました。

 

このような上海や周辺都市への列車での旅行が、わが国と同様の安全性を確保されているとの意識であった校長の感覚を疑いたくなります。

 

<92年7月20日、高知地裁の法廷で、証人・佐野への尋問が続く。

 修学旅行前、佐野は日本交通公社(現JTB)から「これまでに扱った数千件で、1回も事故・トラブルはなかった」と聞いた。自分なりに情報収集した結果、修学旅行実施への不安につながるような状況に接することはなかった。

 加えて、上海修学旅行の実績のある学校から話を聞くこともなかった。渡航先は上海近郊が中心であり、鉄道も主要幹線を使う。観光で回る名所旧跡は変化のしようがない。また、仮に上海のどこかの高校と友好関係を結んで行事をするというならば、実績のある学校に問い合わせるが、そういう企画もない――ゆえに、そもそも「聞く必要はない」と判断していた。

 当時、佐野の頭には、鉄道は「一番安全な交通機関だ」という考えが支配していた。>

 

私はある件で、長時間、ある校長からヒアリングをしたことがありますが、教師としての実績や学校管理の実績は知りませんが、一般常識という意味では、さほど優れた感覚を持っているとは思えませんでした。むろん校長もそれぞれで、別の機会に一緒にある審議会の委員として会議を長く共にした方は、すぐれた常識・知見をお持ちでした。当然、校長によることは確かです

 

この校長の列車の安全性についての調査や認識レベルは、とても安心して下見を任せられる能力をもっていないことが証言でわかります。

 

当該コースは単線だから、高知の線路も同じようだから、また、列車運行の本数も適当な見方をしていますし、下見というものを理解していないことを白日の下にさらされても、ご本人よくわかっていないようです。

 

単線だから安全なんて事はまったくないわけですね。日本の鉄道会社がいかに安全性に注意を払ってきたか、単線においても大変な配慮をしているのを知らないようです。

 

しかも校長は、下見であるのに、コースの一部、杭州をカットして、コースにない北京や西安まで足を伸ばしています。それは当然、疑問視されますね。

 

<中国への修学旅行を計画する段階で、北京に行きたい強い希望があった。88年は上海近郊だが、翌年は北京へ、という案も浮上していた。教職員から既に「上海の次はどこに行けばよいか」という話も出ていたため、渡航先として北京や西安も加えた。

 ただ、北京・西安を旅程に加えると、全体として、かなりの日数がかかる。一方、上海・蘇州は交通公社の乗用車を使うため効率よく回ることができる。一方、杭州は「西湖以外は見るべき場所がない」「汽車で片道5時間はかかる」「さらに2泊ほど必要」という理由から「杭州はオミット(除外)」したのだ。>

 

みずから下見をいい加減にしたことを認めているのを理解していない弁解です。

 

最近でも海外への修学旅行が増えているようですが、こういった責任感の欠いた校長は希だと思います。普通は下見の報告があり、その内容によって、さらに注意事項も具体化したり、場合によってはコース変更もあるでしょう。この校長の場合、下見報告は口頭でやったのではないかと思いますし、まともな内容であったとは考えにくいです。

 

長くなりました。今日はこれにておしまい。また明日。


地域・子どもにあった教育の自由 <NHK 廊下は走るもの>などを見ながら

2018-01-09 | 教育 学校 社会

180109 地域・子どもにあった教育の自由 <NHK 廊下は走るもの>などを見ながら

 

廊下は走ってはいけないは私も子どもの頃にこんこんと言い聞かされたように思います。その廊下は運動したり喧噪な会話を避け、ただ移動のための手段として位置づけられてきたのでしょうか。学校のこの分野の指導ガイドラインを見たわけではないのですが、なにかそんな指針が書かれていそうな気がします。いや、教師や管理者である校長・教頭もそんな意識ではないでしょうか。

 

でも今朝のNHKおはよう日本では、生徒全員が懸命になって廊下を駆け巡っています。教師もそれを応援しています。一定時間に何周廊下を駆け巡るかを生徒一人一人が廊下に張られた個人カルテみたいな成績表、というか双六のような図に毎回の回数を書き込み、運動量の増減を自分で管理しているのです。

 

雪国では降雪が1mを超えとてもグランドは利用できず、そうなると運動不足になる子とは必至でしょう。苦肉の策とは言え、企画者(校長?)の柔軟な発想のたまものですね。もし廊下を走るような、それも全員が走るようなことをしないと、多くの小学校では代替する運動の機会を提供できないのではと思うのです。

 

高校生くらいになると、自分で雪かきしてグランドを利用できるように整備することがある程度までできるかもしれません。私も高校時代わずかな雪だとやっていました。でも降雪量が半端でなく、小学生では無理というものですね。

 

話は違いますが、カルガリー大学の研究室に在籍していた頃、学内に冬季オリンピックが開催されたときのアスリート施設が残っていて、体育施設内でのランニングコースもあり、あまり利用しませんでしたが、これはなかなかいいものでした。ダウンタウンでは多く延びるが暖房の効いた廊下で通じていて、コリダーの利用も多様です。

 

で元に戻って、廊下自体、その地域や人の特性に合わして多様な利用を考えて良いと思います。休み時間にクラスを離れて談笑したり議論したりする広場的空間にもなりえるでしょう。小学生のディベートは海外の先進国では普通でしょう。他方、雪国の場合にランニングによる運動機能の強化・維持は有効でしょう。

 

ある札幌から転校した小学4年生が登場し、たしか決められた時間に5周しかできないのを悔しがっていました。いろいろアドバイスをもらい、もう少しのところで6周到着の少し手前で〆切の鐘が鳴りましたが、その向上心と熱意に満足した様子でした。こういう小さな競争心、負けず魂、努力の姿勢は、きっと彼の体力、それに精神力に大きな成長をみいだすことができるのではと思うのです。この小学校の取り組みには気持ちのいいもので、NHKの取材もよかったです。

 

ところで、日曜日NHKの人体シリーズでは、「」を取り上げていたのを見た人も少なくなかったかと思います。私は録画していて昨日見ました。それで関連してこれからこのテーマにも少し触れようと思います。

 

この番組に登場したアスリートや体力のある人が、いずれも骨折を相当数経験しているというのです。しかもトップクラスの自転車レースの選手まで。

 

でこれらの骨折の多い人は、外観的には筋肉質で健康そのものですし、骨も若い方ですので見えないものの若々しいものと思いがちです。ところが違ったのです、いずれも70代、80代の骨の細胞になっていて、すかすかになっているのです。

 

いずれも筋力を鍛え、骨も頑丈そうに見えるのですが、意外や骨は日々新陳代謝を繰り返し、スクラップアンドビルドを継続し、数日で別の骨成分になるそうです。骨は一人の人間で200パーツ、細胞で言えば何百億くらいあるのでしょうか、大変なものです。数日前の自分は今日の自分ではないかもしれないわけですね。私は時折、そういう自分を考えていますが。

 

骨自体が独自のメッセージを体全体に与え、カルシウムが不足していると破壊してそれを放出して体内に供給し、その一歩でどんどん増やしているそうです。その骨のシステムを動かす名前は失念しましたが、どんどん作りなさいというアクセル役の細胞と、つくるのを抑制するブレーキ役の細胞があって、それがうまくバランスがとれているといいわけですね。

 

ところが、自転車レースの選手にはアクセル役がはたらかず、ブレーキ役だけが主に働き、どんどん骨の成分がやせ細っていって、老化でもろくなってしまうそうです。同じ「廊下」でもこの老化はあまり多様性がないかもしれません。

 

下手なだじゃれは置いておいて、なぜそうなるかについては、骨に刺激がかかっているかで、骨のアクセル機能が働くことに関係するそうです。

 

マラソンやジョギング、ウォーキングでも地面との接触で足の骨に大小異なりますが相当の衝撃がかかりますね。それが骨の健康な成長に有効に働くそうです。その意味で、いくら一生懸命自転車を乗って筋力アップに勤めたり、自転車こぎの機械を使って運動量をアップしても、骨そのものの老化を進行するのを抑制できないということです。そのため骨折も多くなるわけです。

 

ところで、なぜこの話題を提供したかというと、私の子どもも割合、骨折が多く、不思議に思っていました。それなりに運動をしていています、特別自転車を乗り回すこともないのに、信じられないほど骨折を繰り返していました。

 

私自身は、幸か不幸か骨折の経験がありません。体が特別上部というよりどちらかというと弱い体質だと思いますが、骨折はしたことがないのです。干物が好きで小さな骨でもばりばり食べるので、その勝海舟か吉宗が好んだ?という貧相な食べ物が割に合っているからかなんて思っていましたが、刺激によって骨は成長するというか、ブレーキがかかっても適当にアクセルをかけて割合強い骨を形成してきたのではないかと思うようになりました(検査していませんので実態はわかりませんが)。

 

で思い当たるのは、小学時代、これは廊下を走るのがダメなのと同じかそれ以上に禁止されている遊びをずっとしていたことを思い出しました。それは階段をどのくらい上から飛び降りることができかという競争です。怖いですし危険ですが、割と跳躍力があったので、いい加減な記憶ですが、たぶん仲間の中で一番高いところから飛び降りて自慢していたように思います。そのとき足が受ける衝撃は相当なものでしたが、地面の反発力に対する骨の力は強くなったことは確かです。先生に見つかったらお叱りどころか職員室行きだったかもしれませんが、当時はおおらかでしたか。

 

そういえば跳び箱も得意にしていつもトップを争うほど高さを競っていました。着地は砂場ですので、たいした衝撃ではないですが、踏切地点での衝撃はかなりのものですし、跳び箱に着いた手が受ける衝撃も相当なものだったように思います。

 

こんな遊び、相撲も含め、もしかしたら私の骨が多少上部に見える基礎だったのかもしれません。これは適当な推測以外のなにものでもないですが、学校教育のあり方において、施設の多様な利用を検討してもらいたい思いから書いてみました。私の経験は蛇足以外の何者でもありませんが。


教育と課外活動 <「ブラック部活」にNO 声上げ始めた先生たち>などを読んで

2017-11-05 | 教育 学校 社会

171105 教育と課外活動 <「ブラック部活」にNO 声上げ始めた先生たち>などを読んで

 

初めて全日本大学駅伝対校選手権大会を見ました。熱田神宮から伊勢神宮内宮まで106.8km8区間で、リレーするのですね。全部見たわけではありませんが、なんども見てきた箱根駅伝とは異なり風景が異なり、新鮮なイメージでした。

 

昨年まで3つの大会を連覇した青学がやはり優勝候補だったようですが、最初は東洋大が先行し、出雲大会を制した東海大が途中リードを奪ったものの、最後は神奈川大が20年ぶりでしたか優勝しました。昔有名だった大学は出場できていなかったり、後陣を賑わしていたように思います。群雄割拠の状況でしょうか。それが面白いですね。

 

でも気になったのは大抵の選手は高校駅伝などの有名校出身ばかり。京都駅伝は私もなじみのある町並みを走るので時折見ますが、時代の変遷はあるものの昔の名前がいまなお活躍しているように思えます。それは高校野球やその他のスポーツでもあるように思えます。とりわけ私立高校がスポーツ大会で優秀な成績を得ることで生徒数の増加を図っているような面もあるのでしょうか。

 

で、こういった高校、さらに中学校でも、部活は相当厳しい練習をするのでしょう。それはむろんスポーツに熱心な私立校に限らず、公立校でも、部活は相当の時間をかけているようです。それはスポーツに限らず他の分野でも、そういう傾向があるように思えます。

 

部活動の成績(成果はもちろんのこと、出席日数など日常の行動も含まれるように思えます)が中学校なら、高校受験、高校なら大学受験、大学なら就職に、評価されると理解されているからではないかと思うのですが、実態はどうでしょう。

 

ところで、毎日朝刊の<アクセス「ブラック部活」にNO 声上げ始めた先生たち>は先日取り上げた小国綾子記者が引き続き「ブラック部活」を問題にしています。そこには明らかに異常な事態に陥っているにもかかわらず、表だって議論できない、声を上げられない歴史とかある種の集団的な圧力が影を落としているようにも見えるのです。

 

小国記者は<学校の部活動を見直す動きが本格化している。生徒の貴重な成長の場である一方、教員の過重労働が指摘されているのだ。年内に発足する「日本部活動学会」に現役教師が参加するなど現場も声を上げ始めた。しかし、その多くは匿名や仮名だ。部活動への異論はなぜ職場で口にしづらいのか。>と背景を探ろうとします。

 

部活を担う教師側の蔭の一面は<「若手や非常勤講師など発言力の弱い存在に部活動の負担が集中しがちです。特に講師は『来年も仕事があると思うな』などと暗に言われることもある。自分の時間が持てず、『部活離婚』以前に『部活非婚』もある。結婚し、子供を持てても、忙しすぎて子育てはとても無理」。そう語る「斉藤」さん自身も子を持つのをあきらめた一人だ。>というのです。

 

他方で、生徒にとっての部活動の意義は大きいというのです。<生徒にとって部活動は、異学年ともつき合って授業では得られない社会性を身につけ、成長する場となっている。高額の月謝もなくスポーツや文化活動を楽しめ、家庭の経済事情にもあまり左右されない。でもそれは、教員の大きな負担の上に成り立っている。>

 

上記の生徒にとっての効用や有益性は私も認めますし、教員にかかる負担の大きさも理解します。部活動自体を否定しなくても、関係者の多くが現状を見つめ直して、よりよい関係になるよう、改善する必要性はあるように思うのです。まして部活動を担う教員自身がこの問題に表立って発言できない現状こそ問題でしょう。

 

<部活動に異論を許さぬ職員室の同調圧力は強い。>という仲間・上司からの反発が強いようです。この問題は校則や校内ルールで縛ることが当たり前となっている現在の教育のあり方自体に問題があるように思えるのです。

 

個人の自由な意思の表明や、多様な価値観、態度を許容しない仕組みを改めないと、あるいはそういった閉鎖された環境こそ学校教育に必要だと言った考え方を見直さないと、容易に問題点がクリアになってこないのではと思うのです。

 

部活動をする教員は(それだけではないでしょうけど)、上記の匿名意見が示すように、過労限界ではないでしょうか。

 

部活動への参加の実質的な強制が教員を含む関係者全員の総掛かりで堅固になってきたみたいですね。

 

<部活動学会発起人の一人で「ブラック部活動」を著した内田良名古屋大准教授(教育社会学)は、問題の背景に「全員顧問制度」があると言う。部活動は学習指導要領で「自主的、自発的な参加」をうたい、顧問はかつては希望する教員が務めるのが普通だった。「制度」と言うが慣習に過ぎない。だが、部活動での事故などを踏まえ教師の立ち会いを国から求められた結果、苦労をみなで分かち合うとの発想で全国に広がった。採用校はこの20年で6割から9割に増え、同調圧力は強まる一方だ。>

 

部活動に邁進する教員は評価されるのでしょう。こういう教員は他校に移動することもなく移動してくる校長なども遠慮してものが言えないのかもしれません。

 

<寄せられた声からは、部活動に熱心な教員が校内で発言力を持ち、管理職に出世する傾向がうかがえる。土日の活動や大会参加を増やし、部活動のブラック化に拍車をかける「勝利至上主義」への懸念もある。>さまざまな大会で優秀な成績を収めるような部活をもつ学校がすべてそうだとは思いませんが、その成績が地域レベルでも、都道府県レベルでも、さらに全国レベルでも優秀であれば、どのような部活動でも担当教員は一目を置かれるのはよくわかります。

 

今年9月結成された<教員有志のグループ「現職審議会」>が次の提言を発表しています。

 

<・教員の「サービス残業」の温床である給与特別措置法を改正

・部活動で教員の全員顧問制と生徒の強制入部の是正、土日祝日の活動禁止、小学生の部活動は地域クラブへ移行

・時間割に授業準備や休憩の時間を設定

・生徒の在校時間は勤務時間内に

・違法労働を通報できる専門機関を設置>

 

かなり大胆な提案ですが、ブラック部活は生徒の心を決して健全に育てないと思います。その意味では、十分検討に値すると思うのです。

 

ところで、少し古い内容ですが<運動部活動は日本独特の文化である――諸外国との比較から - 中澤篤史>がありました。これは運動部活動を対象にしていますが、他の文化活動などでも当てはまる面があると思います。

 

青少年スポーツの活動のあり方について諸外国と比較したとき、中澤氏は<日本の運動部活動が、実は日本独特の文化であることを論じたいと思う。>と結論づけています。私も賛同します。

 

むろんこのこと自体はいい面もあれば悪い面もあるので、一挙に、否定する話ではないと思います。ただ、部活動を学校システムとして担っていくことが、昔は経済的にやむを得ない状況であったとしても、現在の日本では様々なスポーツ組織が生まれている中で、どこまでどのように担っていくかは、丁寧な検討が必要ではないかと思います。

 

全国高校野球大会などの歴史は、各校の部活動がしっかり支えてきた歴史と伝統があり、ある種日本文化の一翼を担っている面は否定できないでしょう。しかし、時代に応じて、問題があればそれを直視して是正に積極的に取り組む必要があるでしょう。

 

この問題とは直接関係ありませんが、たまたま毎日記事で<フィンランドの学校快適に、自主的に学ぶ>がありました。

 

フィンランドの教育システムは、学習到達度調査で上位の成績を収めるなど高い評価を得ていることもあって、さまざまな角度から導入を検討されてきて、視察に訪れる教育関係者は多数に上ると言われています。でもあまりに環境・条件が異なるから参考にできないという現場の声も聞こえてきます。

 

岡橋賞子記者が取り上げた中で、興味を引いたのは<2010年から教育の柱の一つとして取り組みが始まったのが、「スクール・オン・ザ・ムーブ」プログラム。子供たちが学校にいる間、2時間以上は座り続けるのを避ける。また、合計1時間は体を動かすことを目指す。先ほどのでこぼこ道も、このための仕掛けなのだ。>

 

運動と学習との間に一定の相関関係が認められる研究成果があるそうです。これは私も体験的に感じています?おそらくは。若い頃10時間以上机に座って本を読んでいたことがありますが、たしかに本の中身は覚えることができますが、自分で考えると言うことはあまりなかったように思います。それに比べ運動した後に机に座ったら集中して考えることができたというように感じています。この点は、私のいい加減な経験よりも、脳の検査も最近の先端技術を活用すれば運動と学習効果はかなり説明できるようになっているのでしょう。

 

運動のやり方も工夫が必要と思いますが、次のように、ここでは教室の机・椅子といった当たり前のような備品も、より自由な発想で見直すことにより、運動機能の強化や集中力の増大になるようです。

 

<ラウッタサーリ小の教室では、全員の机が正面の黒板に向かうのではなく、数人のグループごとに固まる。席を自由な配置にすると子供たちは、より集中するのだそうだ。机や椅子の形はいろいろで、特に目を引いたのは、底がゴム製の緩やかな曲面になっている椅子だった。座らせてもらうと、不安定でバランスボールのような感じだ。良い姿勢を保たなければならず、自然に体幹が鍛えられる。>

 

そしてさらに重要な要素は、学校のスタッフの多様化です。最近日本でもいじめ問題などを受けてカウンセラーなど校外の専門家派遣を導入するところが次第に増えているようですが、フィンランドの次の例を参考にしながら、より本格的に考える必要を感じています。

 

<同校には、53人の教師とは別に看護師、臨床心理士、ソーシャルワーカーが勤務する。いじめや登校拒否など生徒に何か問題が起これば、教師とこれらのスタッフが共に対応、可能な限り早期に問題の芽を摘み取る体制が取られている。校長は「この制度のお陰で、ドロップアウトは一人もいない」と胸を張る。>

 

学校を閉ざされた空間にして、教員を中心とした一方的指導体制といった仕組みは、そろそろ見直してはどうかと思うのです。さまざまな分野の専門家とタッグを組んで一緒に生徒・保護者と共同して教育・成長をすすめていけるようにしてはと思うのですが、現実の壁は高そうです。

 

そういえば、徳川宗英著『江戸は世界最高の知的社会』では「寺子屋こそ教育の原点」として、その自由闊達な個別授業方式を持ち上げています。

 

維新後に寺子屋は自然消滅したようですが、元々わが国の教育のあり方として世界に誇れるものがあったことを見直してみたいものです。

 

今日はこの辺でおしまい。


ルールはなんのためか <日本部活動学会 強制ない部活へ と 髪染め強要訴訟>を読みながら

2017-10-31 | 教育 学校 社会

171031 ルールはなんのためか <日本部活動学会 強制ない部活へ と 髪染め強要訴訟>を読みながら

 

いま産業界で起こっている不正事件の頻発はさまざまな背景事情があるでしょう。それを社風とか、過剰な形式上の規制とか、いま一つ一つを取り上げて、これが原因だと論ずるのは正鵠を失するでしょう。

 

ただ、ルールがあるからとか、周りもやっているからということが、学校教育の中で自然に培われて、それぞれの意義をその存在理由から自分の頭で考えないでやり過ごしていることが多くないか、気になります。その中には、ルールがあっても意味がないから形式だけ整えればいいやというのも、そのルールについて必要性・合理性が問われないまま、みんながそうしているからやっているというのもあるかもしれません。

 

そんなことを二つの教育をめぐる記事を読みながら、ふと考えてしまいました。

 

今朝の毎日記事<日本部活動学会強制ない部活へ 教員、学者ら設立へ 長時間労働、ブラック化>は、小国綾子記者が取り上げています。

 

<学校教員に過重労働を強いる部活動が問題視される中、現役教職員や教育学者が年内にも「日本部活動学会」を設立する。>というのです。

 

なにを目的とするかは<「ブラック部活動」とも言われる実態についての議論や調査、政府への提言で現状を変えることを目指している。>とのこと。

 

たしかに部活は私立・公立問わず、熱心です。いや、やり過ぎと思われるものも少なくないと思っていました。土日もなく、平日も夜遅くまで活動する部活もあります。教師も大変ですが、生徒も大変です。子どもは部活が好きだから続けるのかもしれませんが、それには限度があるとか、といったことを指導者に対して批判できるほど自立した精神がまだできていないことが少なくないように思います。

 

他方で、教師はこれだけ一生懸命やっているのだし、生徒のためにやっているのだから、保護者だろうが上司だろうが、批判される筋合いはないとくらいの感覚で、邁進している人もいるようです。

 

むろん小国記者の記事のように<文部科学省の教員勤務実態調査結果(2016年度速報値)では中学教諭の6割近くが国の「過労死ライン」である週20時間以上の「残業」をこなす。10年前より週5時間以上も増えた。その一因が過熱する部活動だ。>という部活動の過当競争的なものもあるでしょう。

 

しかし、記事が指摘するように<部活動はそもそも教育課程に含まれず、学習指導要領も「生徒の自主的、自発的な参加により行われる」と定めているにすぎない。>のですから、ある意味、部活動の根拠がないというか、ルールが明文化されていないのかもしれません。

 

とはいえ実態は<「だが、実際には教員も生徒も強制されています」と、学会の発起人代表で教育学者の長沼豊・学習院大教授は指摘する。教員全員が一つ以上の部活動の顧問か副顧問を担当する「全員顧問制」と呼ばれる慣習を9割の中学校が採用。生徒全員に加入を強いる中学校も地域差はあるが全国平均で4割近い。>というのですから、見えない強制化のルールがあるようにも思えます。

 

生徒は、一人で、あるいは学校外で、自由に思索や活動をしてもよいはずですし、部活動するかどうかは、まさに自立心を養うためにも自分で選択できる環境条件が必要でしょう。

 

しかし、最近の受験競争の激化と部活動の評価も影響しているのか、上記のように、まさに教師も生徒も強制化された状態で部活動を強いられているのではないかと危惧します。

 

他方で、世の中には様々な誘惑が次々と生まれています。ゲームやよからぬ遊びがその例です。育ち盛りの子にとって、甘い誘惑に惹かれるのも自然かもしれません。それに比べれば、部活動をすることにより、その子の成長が一定の軌道に乗ってくれると教師側・保護者側も感じるかもしれませんし、子どもも共通する目的をもつ仲間をもつことで安心できるかもしれません。

 

とはいえ、根本に戻れば、教師も適切な労働条件で勤務できなければ、生徒に対して、適切な自立心を指導することもできないでしょう。生徒もまた部活動が過大だと、本来自分で選択すべき行動ができなくなります。両者にとって望ましくない状態だと思います。

 

部活動によって集団的規律を養うことができるかもしれませんが、他方で、その中で支配するルールについて、それぞれが自分で判断する機会を狭めているかもしれません。むろん長時間の部活動でも指導が適切であれば、個人の判断が尊重されると思いますが、教師自体が過労死ラインを超えるような状態であれば、そのような自由な発想を生み出すことは困難ではないかと思うのです。

 

続いて、少し前の記事になりますが少し気になっていたので取り上げます。遠藤浩二記者が1028日付けで<髪染め強要訴訟「人格侵害」生徒側訴え 大阪地裁初弁論>との見出しで記事にしたものです。

 

記事によると<生まれつき頭髪が茶色いのに、学校から黒く染めるよう強要され不登校になったとして、大阪府羽曳野(はびきの)市の府立懐風館(かいふうかん)高校3年の女子生徒(18)が約220万円の損害賠償を府に求めた訴訟は27日、大阪地裁で第1回口頭弁論が開かれた。>

 

女子生徒の主張は、訴状記載した事実ではとんでもない人権侵害が行われていることを取り上げています。記事をそのまま引用します。

 

<生徒は生まれつき髪の色素が薄く、2015年4月の入学時、教諭から「その色では登校させられない。黒く染めてこい」と言われた。生徒はそれに応じて黒く染めたが、色が落ちるたびに「不十分だ」などと注意され、2年の2学期以降は4日に1回は指導を受けるようになった。

 <自宅には常時、10個ほどの髪染め剤を置き、度重なる使用で生徒の頭皮はかぶれ、髪はぼろぼろになった。教諭から「母子家庭だから茶髪にしているのか」と言われたり、指導の際に過呼吸で倒れ、救急車で運ばれたりしたこともあった。文化祭や修学旅行には茶髪を理由に参加させてもらえなかった。>

そして最後には<生徒は昨年9月、教諭から「黒く染めないなら学校に来る必要はない」と言われ、不登校になった。>とあります。

 

ところで、頭髪については明文のルールがないといえます。<校則には頭髪の規定がないが、入学時に配る「生徒心得」には「パーマ、染髪、脱色は禁止する」と記載。学校側はこれを指導の根拠としており、生徒の代理人弁護士に「たとえ金髪の外国人留学生でも規則で黒く染めさせることになる」と説明したという。>

 

校則になく、生徒心得にはあるというのは、よくあるパターンかもしれません。この生徒心得とは何なんでしょう。こういった硬直した決まりが多くの学校でいまなお通用しているようですが、なんのためにあるのでしょうか。

 

頭髪の色を黒色と決めてかかるのは、なぜでしょう。日本人は黒髪でないといけないのでしょうか。たしかに「君がみどりの 黒髪も」という惜別の歌は私の年代以上の多くが心にしみる歌詞ではないかと思うのです。でも黒髪でなけばいけないなんてことは人間の多様性を否定するもので、教育としてあってよいのでしょうか。

 

たしかに人工的に「パーマ、染髪、脱色」することや、さまざまな化粧をすることは学生の場合避けて欲しい気持ちはありますが、強制すべきものでしょうか。私自身は、自然な姿が一番と思っていますが、人それぞれでしょう。

 

それをルールとして生徒の自由を奪ってしまい、それを指導という形で、強制するのは、真の教育とは言えないのはでないでしょうか。

 

ましてこの生徒は、自然の地毛が茶色というのですから、それを否定して黒髪に変えさせるなんてことは、「生徒心得」の趣旨を逸脱するものでしょう。黒髪以外禁止ともされていません。

 

こういった学校指導が全国に蔓延しているにもかかわらず、放任していること自体、文科省のあり方も問題視されてしかるべきです。それは学校側の指導方針の最良の範囲を超えていると思うのです。文科省が指導要領で学校・教師を「指導」している以上、その行き過ぎをしっかりコントロールする役目を負っていると思うのです。

 

むろん、まだ本件は訴訟になったばかりで、当事者双方が主張立証をはじめた段階ですので、訴状だけで一方的な議論をするのは妥当ではないことは認めます。ただ、黒髪でなければいかえないといった指導はどうもあったように思えることから、多少、その立場で立論しました。

 

さらにいえば、校則や生徒心得の多くが、学校側だけで作られ、その改定とか見直しが、生徒や保護者の意見を反映する形ではあまり行われていないと思われることも問題だと考えています。

 

このような現在の学校教育の実態は、現在の企業不正に直ちに結びつくわけではありませんが、60兆の細胞の中に、深く染みついているのではないかと考えるのは杞憂でしょうか。

 

今日はこの辺でおしまい。