たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

死後を整える <死後事務委任契約の裁判例を読みながら>

2019-01-15 | 人の生と死、生き方

190115 死後を整える <死後事務委任契約の裁判例を読みながら>

 

生きている今、生きていることだけで精一杯と思う人は少なくないと思います。まだそういう考えがあるうちはいいのですが、自分が何者か、何をどうしたいのかすら、分からなくなってしまう状態に陥ることはいつ何時起こるかもしれません。

 

法的には、そのようになったときの財産管理や身上監護について、事前に対応するものとして任意後見制度があります。私も昔やっていましたが、当地に移るに際し、バトンタッチしてきて現在はやっておりません。

 

判断能力が少し劣ってきたとか、かなり危ういとか、その能力が疑われる状態になれば、補助、保佐、後見という法定後見制度で、対応することになっています。生前はこのような制度である程度カバーしています。

 

では死後はどうかというと、遺言は基本、相続財産に関する処分を対象としていますので、死後の事務を書いても法的拘束力があるわけではありません。むろん被相続人の最終意思ということで尊重されるとは思いますが。

 

それで従来は、死後の事務、葬儀とか遺骨の取扱い、お墓、法要などについて、生前の意思は具現化することが法的に担保されない、あるいは実現しにくいと理解されていたように思います。ここで従来はというのは四半世紀前くらいの話です。

 

平成4年にこの点を明確にした最高裁判決がでたのです(平成四年(オ)第六七号同年九月二二日第三小法廷判決・金融法務事情一三五八号五五頁)。

 

民法上、委任は当事者の信頼関係を基礎にしていることから、いずれかが死亡した場合終了することとされています(653条)。生前に死後の事務を託しても、この条文を根拠に、法的に担保されないといった理解があったかもしれません。

 

しかし、民法の規定は、多くが任意規定で、当事者の意思で異なる合意ができることが少なくないのです。ただ、当事者が死亡した場合、一般の規定とは異なると理解された部分もあったと思われます。実際、この上告事件の原審では、見事に同条を理由に終了したと判断されたのです。

 

この原審の判断を破棄した上記の最高裁判決は、「委任者が、受任者に対し、入院中の諸費用の病院への支払、自己の死後の葬式を含む法要の施行とその費用の支払、入院中に世話になった家政婦や友人に対する応分の謝礼金の支払を依頼する委任契約は、当然委任者の死亡によっても右契約を終了させない旨の合意を包合する趣旨のものであり、民法653条の法意は右合意の効力を否定するものではない。」としたのです。(判示要旨)

 

当然と言えば当然の判決ではないかと思うのです。ギリシア・ローマ法ではどうなるのか、少し気になりますが、この論理はいつか考えることにします。

 

ところで、この事案では、委任契約はどうやら口頭での合意であったようです。しかし、その後は最高裁判決の英断を受け、死後事務委任契約(書)という形で少しずつ普及しているようです。

 

実際、たとえば東京高裁平成211221日判決(判例時報2073号32頁、判例タイムズ1328号134頁)では、住職に委任する形で、葬儀及び永代供養を依頼したものの、家族の反対を受け、一旦、弁護士を介して当該委任を解除した後、当該住職に諭され?、写真をお墓に納め永代供養をお願いしますとの文書を差し出し委任したことについて、遺言では祭祀承継者が子であるとなっていることとから履行不能といった主張を採用せず、死亡により終了するという民法解釈は上記最高裁判決を引用して、有効な死後事務委任契約として成立しているとして、委任者が交付した金銭の返還を求める請求を棄却しています。

 

また東京地裁平成28729日判決(D1-Law.com判例体系)でも、受任者が用頃運人ホームの事案で、相続人による虐待があったことから、行政が相続人に伝えないでホームに入居させ、生前には委任状で財産管理を依頼し、また死後の葬儀や墓の手配を希望する手紙やその内容を公正証書にすることを依頼した委任状をつくっていたことから、受任者のホームが銀行から預金引き出し所定の費用に充てたり、葬祭を実施したことは、死後事務委任契約が成立して行ったこととして、相続人らにこの事実を知らせないで行ったとしても、不法行為を構成しないとして、その損害賠償請求を認めませんでした。

 

少し長々と、裁判例を引用してしまいました。これが目的ではなかったのですが、書いていると裁判例を理解するために引用しつつ、時間をとりました。

 

今日のお題は「死後を整える」ことは生前に結構できますよという話です。死後事務委任は、多様なサービスを考えることができます。自分の遺体の処理・取扱、そこには死亡診断書を入手したり、死亡届を出したり、火葬許可証を受け取ったり、といった相続人が行うことも生前に誰かに託すことができます。これはとくに悩む話ではないですし、あえて委任契約なんて必要としないかもしれません。

 

私の場合死の作法がまだ定まっていないことに、この時点で気づき、これから熟慮して考えていこうかと思っています。

 

葬儀・告別式をどう行うか、いや行わないかといったある種形式的なことも、上記の高裁判決事案ではなかなか微妙なことかと思っています。この微妙さを判決文で丁寧に引用しようかと思いましたが、それはある種私の関心事なので、カットしました。

 

次に火葬以外の葬法は、地域的にはまだ残っている埋葬がありますが、これはその地域に長く住んでいないと無理でしょうね。それ以外の方法は私の死の作法として今後検討したいと思っています。

 

火葬が常識的ですが、その後は最近、さまざまな方法が宣伝されていますね。私が関わった自然葬という散骨方式と、従来型の納骨としては樹木葬、納骨堂、お墓への納骨が多種多様な形態となっているようです。

 

こういった選択は死後事務委任では一つの重要な事項かもしれません。私自身はそれほど大きな問題と思っていませんが、とはいえ常識的な考え方だとその選択によっては祭祀権に抵触するといった法的問題はともかく、宗教感情や世の常識と対立するかもしれません。

 

死後事務委任(あるいは準委任)は、これからさまざまな内容が盛り込まれる可能性を秘めています。とはいえ、死後の世界をどこまでコントロールできるか、やはり限界があるでしょうね。自分の遺体とその処理、その財産管理程度でしょうか。

 

それと遺言とどう異なるかですね。遺言は一昨日施行された改正民法で、いち早く自筆証書の場合目録はタイプ印刷でよくなりました。よりいっそう遺言書作成が普及する一つの策ですね。でも死後事務委任もやりようによっては結構使い勝手がいいかもしれません。そんなことをふと考えてしまいました。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。


悩む自由 <人生相談 大学を除籍された息子=回答者・高橋源一郎><『秋萩の散る』>などを読みながら

2019-01-14 | 人の生と死、生き方

190114 悩む自由 <人生相談 大学を除籍された息子=回答者・高橋源一郎><『秋萩の散る』>などを読みながら

 

今日は(あるいは昨日は)成人式が各地で行われているのでしょう。前途洋々の気分は一時でしょうか。成人式の日くらいはそんな気持ちになっているかもしれません。

 

しかし、今朝の毎日・社説<次の扉へ 人口減少と日本社会 2040年代への準備は万全か>で指摘されているとおり、日本が置かれている状況は<国民生活が破綻の危機>であり、<出生率が高かった地方が衰退して現役世代が減っている>状況は変わらず、相変わらず東京集中が止まらず<地方再生>の見通しは見えませんね。国際的にも日韓、日米、日露、日中と隣国とも危うい状態になりつつあります。

 

そういう世の中の激動というものは個々人が成人になるかどうかとは直接関わりが無いものの、青春というものはやはり悩み多い時期だと思うのです。

 

同じ毎日の人生相談で<大学を除籍された息子=回答者・高橋源一郎>がありました。

相談者は子どものことで煩っています。

<22歳の息子が大学を除籍になりアルバイト生活です。私は彼が5歳の時に離婚し、現在は80代の母と暮らしております。・・・奨学金の返済や心配ごとが山ほどあり、話してほしいのに黙ってしまいます。・・もう放っておきたい気持ちと何とかしなければという気持ちのせめぎあいです。(58歳・女性)>母一人子一人で、自分の母親の世話もしないといけない中、悩み多いですね。

 

でも源一郎さんの回答は簡潔です。

<すいません。息子さん、ぼくがその年代でやったのとまったく同じことやってます……。>と。

そして<息子さんも、正確には自分のやりたいことがわからないのかもしれません。あるいは、心に秘めたやりたいことがあるのかもしれません。・・・ ぼくも自分が親になって気づいたのですが、親は子どもに「みんなと同じ」であってほしいと思います。けれども、時に「みんなと同じ」ではイヤだと思う子どもも出てくるのです。・・・ 「みんなと違う」困難な道を歩もうとしている息子さんを見守ってあげてください。>

 

そうですね。私も大学をドロップアウトしようと思い悩み、その崖っぷちまでいって、なぜか(運良く?)とどまりました。みんなと同じように売り手市場の就職活動に邁進なんてことは性に合わないと嫌ったため、大学は出たものの、あんなにあった企業の勧誘はぱたっとやみ、しばらく彷徨し、結局、官僚も会社勤めも向かないと、司法試験を選択したように思います。

 

おそらく成人式を迎えた若人も、これからさまざまな楽しいこともあるでしょうが、多くの試練にぶつかるでしょう。運もあれば不運もあるでしょう。でも自分の人生ですから、悩んだときは自分の心と対面して誠実に生きて欲しいと思うのです。その結果がいいか悪いかはたいしたことではないと思うのです。

 

いま澤田瞳子氏の著作を何冊か読んでいます。母親の澤田ふじ子氏ファンとして、その娘さん(77年生まれですから熟女でしょうか?)が書く内容がどんなか楽しみながら頁を繰っています。

 

で、瞳子氏の小説の中に、10代の若い人のものがいくつからあります。奈良時代の内裏に使える女官の話としては『夢も定かに』では、さすがに女性らしい女心の描写などを感じます。とはいえ多くは男性が主役のものが多いかなと、それほど読んでいませんが感じています。別の『夏芒の庭』(『秋萩の散る』所収)ではやはり10代の大学寮の学生が登場します。この中で、2人の学生が頻繁に争う場面がでます。一人は叔父が先帝の聖武天皇、当代の孝謙天皇の侍医という高い地位にあるものの、お追従でその地位を獲得したと陰口をたたかれています。もう一人はまだ25歳と若年ながら技術が高く一時天皇の侍医になったものの、地位に執着せず、貴族に限らずでも怪我をすれば見るという医学生を含め誰からも人望が厚かったのです。後者の弟は医学生として能力が高く、遣唐使の一員になる予定になっていたのです。他方で、前者の甥は医学生を試みたのですが、能力的に劣るためその道をあきらめていたこともあって、二人の学生が何かと争うのです。

 

ところが、ある日あの有名な政変、橘奈良麻呂の謀反が発覚したのです。そのとき有能な兄の医師も連座して処刑されるのです。ところが、それが競争相手であった叔父一味が陥れたことを知らされた甥は春日の森で自死します。彼はけんか相手の兄を敬慕していていたのです。そして有能だった弟も、大学寮を去りました。残ったのは平凡な?学生たちでした。

 

こういう描き方になにか母親と似通った空気を感じます。

 

そして今日の神髄?は、同じ短編『秋萩の散る』で取り上げた道鏡の心の内を探るものです。道鏡と言えば、女性天皇をたぶらかした怪僧とか、天皇の地位を狙った強欲な禅医とか、いろいろ悪い評判が人口に膾炙されています。

 

そして左遷と言えば、吉備真備や菅原道真など、だれもが西方に追放されるわけですが、道鏡はというと、後ろ盾だった孝謙天皇が崩御し陵に葬られた4日後に、下野という東方にある薬師寺別当に当てられたのですね。なんとまあ政争の厳しい現実でしょうか。彼もまた禅医として天皇の病気を治し、侍医に代わる立場で医療だけでなく政治にも口出ししたと言われています。

 

でも瞳子氏は、道鏡が僧侶として、人として、孝謙天皇の無垢で純粋な心持ちを慕い、その意に沿うよう動いたのだというのです。私は文献を多少しか読んでいませんし、原文なんかは見たこともないので、実態はわかりませんが、二人だけの世界で何があったか簡単にはいえないように思います。瞳子氏の見解も一理あると思うのです。だいたい宇佐八幡宮の神託なんてことは、忖度というか、ひどい話ですね。それを誰もが鵜呑みにしたのですから、なんともお粗末な政権だったのですね(現在も似たような話はありませんかね)。和気清麻呂が勇気を持って真実を告げると、孝謙天皇が怒り狂ったという話でした。

 

しかし、ここではいわば「それからの道鏡」を描いて、孝謙天皇との過去を偲ぶというか懊悩する様子が活写され、ついには道鏡の悩みは澄み渡ることになるのですね。彼は医師として、僧侶として、誠を尽くしたのかもしれません。そんな風なことをこの小説から感じました。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。


生死と即身成仏 <ネルケ無方著『迷える者の禅修行』>を読んで

2018-12-01 | 人の生と死、生き方

181201 生死と即身成仏 <ネルケ無方著『迷える者の禅修行』>を読んで

 

私が自らの死をどのようにするかを常日頃考えていることを話すと、共感していただける人がいます。滅多矢鱈と話をするわけではありません。重い病気を抱えている人や日々の生活に悪戦苦闘している人などなど、当然ながら話題にはしません。おそらく世の中、いろいろ悩んでいる人がいると思いますが、生死のことを真剣に悩む人は少ないのかもしれません。死はいつ突然に訪れるかもしれない、あるいは判断能力が突如失われることもあるでしょう。さまざまな医療措置を講じてようやく生命維持が図られる状態がある日突発的に発生するかもしれません。少なくともそのようなことを事前に考えておくことは、社会に生きる大人としての作法の一つかもしれません。

 

死の作法ともいうべきものは、現在の救急医療や葬送儀礼のレベルでは、選択肢がある程度想定できますので、それ自体のチョイスは丁寧にしっかりと考えておけば、結論を導き出すことはそれほど難しいことではないと思います。むろんいずれも自分の判断能力とか意識がなくなったり、「死後の世界」ですから、だれかにその意思の実現を委ねないといけませんから、それなりに明確にしておいて伝達方法も整えていないといけませんね。

 

しかし、死の作法というか、死を迎える道は実際は多様であり、それをどのようにするかとなると、なかなか選択肢というレベルではなく、自ら間が抜く必要がありますが、よい手本はなかなか見当たりません。仏教なり宗教がその道しるべになるかといえば、なりうるとは思いつつ、なかなか素人では読み解く(それが正しいかどうかは別として)ことが困難です。では僧侶なり宗教家がその案内役となりうるかというと、それも見いだすのが厳しいように思えます。

 

そんなとき「ドイツ人住職が見た日本仏教」という副題でネルケ無方氏が11年1月に出版した『迷える者の禅修行』に出会いました。

 

ネルケさんの仏教修行の顛末を見事に再現していて、一般的な仏教修行ともひと味も二味も異なる独特な内容であることに加えて、日本仏教への痛烈な批判を的確にされており、とても興味深く読むことができました。むろんネルケさんの指摘がすべての日本仏教の僧侶にあてはまることではないことは当然です。

 

ただ、次のようなことばはもうたいていの日本人は意識しつつも、言われてみると然りと思いつつ、それでよいのかと改めて思うのです。

 

たとえば「日本では仏教が見つからない」という見出しで、

「日本のお坊さんは、もはや一般の人に仏教を広める「聖職」にあらず、単にお寺の管理人兼葬式法要を執り行うサービス業に成り下がってしまっています。」と。

 

そして「日本の若い人が既成仏教に救いを求めないのも、不思議でも何でもなく、当然のことです。それは、若い日本人が自分の生き方に悩み苦しんでいないからではなく、お坊さんが悩み苦しみを超えた生き方を提唱していないからです。」と現代人が生きていく中で抱えている悩みに答えていないというのです。それこそが仏教の、僧侶の役割ではないかと。

 

ネルケさんは来日し、本来の仏教を求め、曹洞宗の安泰寺という少し変わった寺で、そこでは仏教教本や教えを学ぶのではなく、師匠ともいえる僧から言われたのは自ら安泰寺を創りなさいということだったのですね。そしてその修行なるもの、人間扱いされない無茶苦茶な修行生活を2年続けたものの意義を感じなかったようで、ドイツに帰国することを先輩に相談したところ、京都にある臨済宗本山(匿名になっています)での修行をすすめられ、京都での修行が始まります。TV放映されたあの玄侑宗久さんの入山のやりとりのようなことから、修行は安泰寺とは勝手が異なるより過酷なものであったようです。疲労骨折で修行途中で一旦、寺を去ります。

 

でもネルケさんは何かを得たようです。安泰寺を出た後のことを次のように述べています。

「すべては生きている!皆が私の命!」

一年弱の修行で得たのは、この実感です。今振りかえってみても、この実感を得るためだけでも、あの一年の価値はあったと思います。どん底においても、命の働きそのものが私を支えてくれているという確信をつかめました。「命が命を、私が私を生きている」というのが、同一の働きでした。また、これだけ「自分を殺す」環境に身を置いたのですから、これから安泰寺に戻っても、どこへ行っても、そう安易な自己主張に流されることはもうないでしょう。

 

無我という心的体験で新しい自分を、周りの環境を見ることができるようになったのでしょうか。そこには日本仏教への失望とは少し異なる心持ちになっていたようです。ただ、同じように修行していたお坊さんたちがそういう心境になれたかは怪しい感じですが。

 

多くの修行僧は、寺の跡取りということで、先祖から引き継がれた(実際、そのような継承はそれほど古い時代まで遡らないのがほとんどの寺だと思いますが)住職になることを願っています。でもネルケさんの心には住職になることは念頭にありません。次に選んだ道は大阪城公園でのホームレスです。01年9月13日がホームレス雲水生活の始まりとのこと。

 

そのころ私もなんどか大阪城公園を散策していますが、まだホームレスが住処としている段ボールやブルーシートがあちこちにあり、東京をふくめ関東ではなかなか見られない光景だなと思いました。その後しばらくして行政の撤去が強制的に始まったんですね。

 

ホームレス生活をするネルケさんは意に介さず、釈尊こそ王子の地位を捨てこの道をあるいたのだと。そして、「葬儀屋の下働きをして、せっせとお経を棒読みしているキチさんのような日本のお坊さんの方が、「随分変わっている」と思いました。」と本来の仏教の姿を求めるのです。

 

少し長々と、中途半端な引用をしてきましたが、要は次のネルケさんのことばを取り上げたいために、余分な前置きをしてしまいました。

 

「仏になるのに、簡単な方法がある。悪いことをしない、生死にとらわれない、生きとし生けるもののためを深く考え、上(内なる親=仏)を敬い、下(内なる子=凡夫)を憐れみ、何者に対しても嫌がったり、あれこれほしがったり、心に一物をもったり、心配したりしない自分、これを仏と呼ぶ。この自分の他に、捜し求めても意味がない。

ここに道元禅師のみならず、宗教そのものの極意があると思います。実践しようという心こそが仏であり、その他には仏などどこにもないのです。」

 

心のあり方を、当たり前のような、しかし実際は難解なところに、もっていくことこそ、煩悩を超えることができるということかもしれません。

 

とはいえ、ネルケさんは、それでも「迷える者」であり続けることを宣言しています。

 

私自身、理解できているわけではありませんが、共感というか共鳴というか、そういう心境になります。

 

今日はこれにておしまい。また明日。


命の終わり方 <NHK人生100年時代 「命の終わりを決めるとき」>を見ながら

2018-11-21 | 人の生と死、生き方

181121 命の終わり方 <NHK人生100年時代 「命の終わりを決めるとき」>を見ながら

 

 

昨夜は侍ジャパンがキリンチャレンジカップ2018でキリギス代表とのゲームを後半から見ました。メンバーを見たら知らない名前が多く、動きがちょっと鈍いというか、わくわくさせてくれるようなボール運びとか動きが見られず、よく2点も入れることができたなと思いながら見ていました。ところがいつもの4人に変わった途端、動きが活き活きし出し、見事な縦パスで一挙に2ゴールと、結果もすごいですが、動きが華麗で楽しむことができます。森安監督もすばらしいけど、海外で活躍している若い選手の鋭い動きに魅了されました。これからも面白くなりそうです。

 

その後録画していた<NHKスペシャル 人生100年時代を生きる 第2回「命の終わりを決めるとき」>を見ました。若い心を揺さぶるような画面から、一転、終末期の患者家族の重苦しい画面となりました。ゲストの阿川佐和子さんも、いつもの元気のよい鋭いコメントがなく、かかわりたくない状況を見たというか、経験したことがない状況に苦慮する表情であったかのように思えました。

 

人の死はそれぞれの受け止め方の問題で、他人が口を挟むことではないかもしれません。しかし、NHKが取り上げた状況は、救急現場の救急隊員や医療スタッフの苦慮、他方で、終末期に直面している認知症高齢者の家族の困惑が、思った以上に、深刻であることを改めて感じさせてくれました。

 

そして救急医療の現場では、その対応をめぐって10年あまりの間に大きく変わりつつあるようです。

 

ところで、NHKが<人生100年時代>と表明したことは、ちょっと実態と違うのではないかと思っていたら、2000年代に入り100歳以上の人が急激に増えていて、このままだと四半世紀もすると普通に見られるようになるというのです(統計数は記憶していませんが)。でもその正体は、人工呼吸器、人工透析や胃ろうといった延命措置によって高度の認知症高齢者となっても生き続けることができる割合が相当占めているようです。

 

そうでなくとも100年時代というと当然のようにそのくらい生きるのが当たり前から、義務のように感じたとすると、かえって生きづらいのではないかと思ってしまいます。むろん長生きがよくないなんて不遜なことを言うつもりはありません。社会や国家が100年生きなさいといった意識づくりをするのには警戒の念をもちたいと思うのです。

 

むろん、自らの不摂生や有害な飲食などにより健康を害して命を縮めてしまうのは避けて欲しいと思いますが、基本的には生き方は自由であり、死を迎えるあり方もできるだけ本人の自由を確保するのが本来ではないかと思うのです。短命に終わっても責められるべきではないと思うのです。

 

100年時代が一人歩きしないことを懸念します。他方で、死のあり方をまじめに若い頃から考えておくのも心の作法ではないかと思うのです。武士道の葉隠れに依拠して死を常日頃から考えておくべしなんて考えは毛頭ありません。ただ、人は生まれた瞬間から死と直面しています。生死の狭間はだれ一人知り得ないことで、ある時期には対峙しておくことが肝要ではないかと思うのです。

 

私は仕事柄、人の死がどうしてこのような形で起こるのか、通常ではありえないような死というものを若いうちから直面してきました。そして自分の死ということについても30年以上前から考え、遺書もなんどか書き換えてきました。

 

杞憂までは考えませんが、予期しない危険をできるだけ回避して死から遠ざかる意識は長く保ってきたつもりですが、それでもいつどのようなことで死は突然起こるか分からないことを意識してきました。

 

そんな私も100歳まで生きようとまでは考えていません。生死は運であり、寿命も天の配剤と思っています。

 

前置きがまた饒舌になり、なかなか本論に入れないので、この辺でこの話はやめときます。

 

さて、番組では、まず自宅で最後をと考えていた高齢者本人と家族だったのに、異変に気づいた家族がつい救急車を呼んだところ、旧教医療の現場では搬入された患者に対しては最大限の救命措置を講じることが必然とされています。患者は心肺停止の状態でしたので、心臓マッサージや強い薬で蘇生させ、自発呼吸がないと人工呼吸器の挿管という延命措置で、多くはそのまま死ぬまでその状態が続くというのです。

 

その家族は、医師から挿管するかどうかを尋ねられ、本人の意思が自宅で最後をといっていたのを尊重する気持ちと、少しでも長生きして欲しい気持ちの相克を、家族間で相談し、結局、挿管することにした例でした。

 

挿管当初は少しでも生きながらえてと思うかもしれませんが、それが一年、いや五年、さらにとなると、患者の姿を見ているのも結構辛いものとなるかもしれません。でも挿管をはずことは基本、難しいでしょう。裁判例が医療現場に理解を示すようになり、医師が総合的判断で抜管した場合、正当な医療行為と認められることになる可能性があるでしょうが、まだまだそれほど基準が明確とはいえないので、難しい選択でしょう。

 

もう一つの家族の場合は、人工呼吸の挿管をしなかったところ、一時間くらいで亡くなられました。まるで家族が死を決めた、命を縮めたと思われるかもしれません。でも私はその人の自然な寿命であり、自然死ではないかと思うのです。そのご本人の意思であり、家族がそれを尊重してしたのであれば、それを批判するのはいかがかと思うのです。

 

高度の認知症になれば判断できないことが多くなりますから、事前にご本人が意思を表明しておく必要があるでしょう。いや脳梗塞とかさまざまな疾患により意識が低下、なくなることがあるわけですから、しっかりしたうちに、自分の死を受け止めて、どのような最後を迎えるか、決めておくのは残された家族たちのためにも、自分のためにも重要なことであり、責務ではないかと思うのです。

 

介護施設などの入所の際、延命措置をするかどうかを尋ねる文書に回答するような手続が用意されており、事前指示書といった様式も多く普及しています。最低限、この程度のことはいつでも可能なので検討しておいていいのではないかと思うのです。

 

中世の世界では死は目の前にあったといわれています。常に浄土の世界をよりどころにしてたわけですから、死を問い、語ることは庶民にとっても当たり前であったのでしょう。仏教もその面ではとても有効だったのかもしれません。

 

しかし、人生100年時代と言われようが、現在、私たちの生き方がさまざまな影響を与えていることも理解していてよいと思うのです。自分の始末はやはり自分がすべきではないか、いかに生きるかを真剣に考えるのであれば、いかに死ぬかも同じく考えるのが世の作法ではないかと思うのです。

 

死から逃げても、私たち人という存在は、その問題から逃げられません。中世と異なり、より楽な状態で考えることができます。考えてみませんかと思う次第です。

 

私のブログはまあいえば、死の作法を学びつつ、生き方を学ぶために、書いているのかもしれません。

 

一時間を少しオーバーしました。このへんでおしまい。また明日。

 

 


死と生の狭間と作法 <『恍惚の人』>を読み終えて

2018-09-22 | 人の生と死、生き方

180922 死と生の狭間と作法 <『恍惚の人』>を読み終えて

 

私はだいたい45冊の本を並行して読んでいます。あまりジャンルにこだわらないといっても、自然、指向性はある範囲にとどまっています。月20冊近く読むというか流し読みしますが、小説は読んでも1冊くらいでしょうか。その小説も好きな作家はなんども読んでしまいます。

 

そのうちの一人が有吉佐和子ですね。それ以外にも何人か女流作家がいますが、有吉作品は好みの一つです。今日取り上げる『恍惚の人』は先週くらいから読み出し、金融関係や古代ものとか、その他いろいろ読んでいる合間に息抜きに読みながら、今朝読み終えました。

 

この本はいま話題の新潮社から昭和47年に刊行されたのですね。この頃は私も若かった、登場人物に大学紛争に参加していた学生がいますが、安保協定の勉強会はしても紛争からは離れた位置にいた学生でした。でも当時の状況は懐かしく思い出されますが、当時はわが家に似たような状況もなく、この本が話題になって、「恍惚」が流行語的な感じであったのはぼんやり覚えていますが、ほとんど関心がありませんでした。

 

でもいつころでしたか、たぶん弁護士になってからだと思いますが、だいぶ以前に読んだ記憶があり、なぜ手に取ったのかは忘れましたし、内容も覚えていませんでした。しかし、読みながら、有吉佐和子の実態を捉える表現力はぐいぐいと引きつけますし、凄惨な状況や登場人物の性格描写や態度の中に、人間というものの有り様の一面を見せてくれる一方、その展開になんともいえないヒューマニズム、その中にユーモアさえ感じさせてくれます。

 

この『恍惚の人』が取り上げた内容は、それから半世紀近く経過していますが、いまなお訴えるものがあるように思えます。むろん介護サービスや介護施設の整備充実は格段の進歩がありますし、認知症への対応など、より早い段階から進行を遅らせたり、将来的には治療可能な病気になる可能性すら見えてきましたし、なにより認知症者に対する意識が大きく変わったと思います。私自身もその一人ですが。

 

介護施設に入所されている高齢者の多くは、残念ながら快活に暮らしているとはいえないように感じます。施設は立派になり、介護スタッフも明るく元気にきびきびと対応していますが、入所されている高齢者の方は表情があまりでていません。服用のせいなのでしょうか、認知症の進行のせいでしょうか。病気の影響もあるのでしょう。

 

ユマニチュードなどの対応はまだ日本では普及していませんが、施設に入れたくないという家族の気持ちもわかるような気がします。他方で、家族で自宅介護を続けることができなくなったという気持ちもわかります。この小説の中ででてくるそれぞれの家族の話は、現在も生きている悩みでしょう。

 

義父茂造は、意識が正常であった頃、不平不満苦情だけ言い続ける嫌みな性格でしたが、認知症の症状が出てからは次第に穏やかな性格になり、食欲以外の感情がほぼ喪失ないし軽減してしまいます。人からどう言われようと、どうされようと、あまり感受性もなくなるのかもしれません。

 

この小説を書いた有吉佐和子さん、84年に自宅で急性心不全で亡くなったそうですね。まだ53歳の若さで、残念です。10年以上前にこの小説を書いたわけで、主人公も自分より10歳くらい上の女性を描いています。彼女の描くのは女性が主人公、あるいはそうでなくてもとても魅力的な人が多いですが、この小説でも普通の女学校出で共働きをして大企業に勤める夫を兼業主婦として家事全般を担う、当時の典型的な女性を取り上げつつ、やはり心の中の変革みたいなものを取り上げて、魅力的にしているように感じるのです。

 

夫信利は、当時のサラリーマンとしては(場合によっては現在にもいるかもしれませんが)典型的なふがいない男性として描かれています。私も当時ならそうだったかもしれませんが、その後少し成長したように思っています?

 

とりとめのない話になりましたが、高齢者のかかえる問題を事前に少しでも検討しつつ、死の作法を意識的に行えること、さまざまな選択可能性のうちどのような方法をその場合に選ぶかを日々考えておく必要をこの小説を読みながら反芻したのでした。

 

高齢者の道は、おそらく以前より大きく開けていて、事前に予測が相当できるようになっていると思います。その選択は、このブログの証になるかもしれませんが、自分というものがあるのかないのか、おそらくは後者であることだろうと思いながら、孫悟空のように自由な選択を心がけ、自分に責任をもつという道となると考えています。

 

まだ具体的なあれこれを提示できませんが、この千日ブログが終わるまでにはなんとか表現できればと思うのです。

 

そういえば最近樹木希林さんが亡くなられ、ガン告知以降、お元気で、独特の語りで死への心構えというか、生のあり方を示されていたかと思います。どのような事態となっても、病や死はいつどのような形で起こるか分かりませんし、必然の出来事ですので、高齢者として常に意識しておきたいことと思っています。

 

他方で、病から死に至る中で、家族などに大きな影響を与えることも、この小説で一つのあり方を示してくれているようにも思えます。そこにも魅了されたかもしれません。

 

今日はこれにておしまい。また明日。