たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

逃走犯とミステリー <アクリル板破る><スニーカーに履き替え><脚立で塀を><写真と防犯カメラ映像><バイクや自転車><空き家>なぜ捕まらない

2018-08-26 | 刑事司法

180826 逃走犯とミステリー <アクリル板破る><スニーカーに履き替え><脚立で塀を><写真と防犯カメラ映像><バイクや自転車><空き家>なぜ捕まらない

 

12日夜、富田林署で弁護人との接見後に逃走した樋田淳也容疑者の行方は今日もまだ判明していないようです。

 

直後にこのブログでもアクリル板の破壊という表現と、弁護人の対応、富田林署の対応などを少し取り上げました。その時点では逃走してもまもなく逮捕されるものと高をくくっていましたが、2週間以上も都会のど真ん中(ま、この周辺は田舎的雰囲気もありましょうか)で終日にわたって3000人の警察官が捜索しているというのに、一向に手がかかりも見えてこないようです。これはミステリーでしょうかね。

 

わが国の警察官がこれだけの大捕物体制を続けていて、どこにいるのやらさっぱりわからないといのはどういうことでしょう。

 

もう一度この事件の顛末を振り返りながら、少し考えてみたいと思います。ちょうど久しぶりに当番弁護士である警察署に接見に出かける用があり、改めて接見室のアクリル板を確認しました。やはり仕切りの鋼鉄製囲いの中に設置されているアクリル板は強固でした。

 

アクリル板と鋼鉄の囲いの接着剤は何か特定できませんでしたが、コーキング剤の一種でしょうか。富田林署の場合30年くらい前に設置されたようですが、接着剤が劣化していたのでしょうか。それもはっきりとしたことがわかっていませんね。

 

その後の報道でもアクリル板を壊したとか、破ったとか、押し開いたとか、いろいろな言及があったようですが、実際の画像などが開示されていないのでしょうか、見たことがないので、よく分かりません。たしかある報道では、樋田容疑者がサンダルでアクリル板を蹴飛ばしたというのですが、それでアクリル板自体が物理的に破損したというわけではなさそうです。鋼鉄の囲いとの間に隙間を作りそこから出て行って、接見室の外に出たようです。

 

ただ、樋田容疑者の防犯カメラの画像からは少し小太りで、その隙間から抜け出ることができたのか、それも気になっています。

 

防犯カメラ画像に映っている顔、体格と、最初に公開された顔写真とは大きく違う印象です。おそらく多くの人は最初に顔写真が韻書として残っており、その後の防犯画像は開示の仕方も全体像の中ですので、あまり印象として残らないように思います。

 

顔写真は、今回の逮捕時の写真でしょうか、ちょっといつ頃の写真かも確認できていませんが、その当たりのキャプションに工夫が必要ではないかと思うのです。

 

だいたい顔写真は、そのときどきで違った印象に映ることがありますね。捜索している警察官にもそういった識別能力があれば別ですが、AIの画像認識をより活用する必要があるかもしれません。

 

弁護人が接見終了後に管理係に連絡しなかった点は、この事件以前からほとんどの場合連絡励行が当たり前だと思いますので、不思議な印象をぬぐえません。

 

とはいえ、通常、接見室から警察署の外に出る場合、当直勤務の警察官が大勢いる横を通って玄関外に出るというのがほとんどの警察署の構造ではないかと思いますが、一人、私服の弁護士が通ったとき、注意を払わなかったのも不思議です。たしか弁護人の接見は夜間730分頃ですので、受付時も当職が対応しており、その当直は何をしていたのでしょうかと思ってしまいます。ふつう顔を合わせて、礼をするかそれなりのポーズをして帰りますね。

 

むろん100番通報がいくつか連続して入って、緊急事態の時は、そういった弁護人の出入りに気づかないこともやむを得ないかもしれませんが、そのような事態であったという情報は聞いていませんね。

 

ま、ここまででも不思議な話ですが、それ以上にスニーカーの存在です。ほんとにスニーカーが接見室の外に置いてあったのでしょうか。私も長年首都圏や和歌山の警察署を多数訪問したことがありますが、そんなものが通路や見えるところに置いてあるなんてことは経験がありませんし、想像すらできません。で、このスニーカーの持ち主は判明したのでしょうか。製品も特定できたのでしょうか。ニュースを追っていませんので、未確定ですが、すでに分かっていれば、公開するのが本来でしょうね。

 

脚立の話もそんなのありと驚くしかありません。大阪府内の交通事故で、加害者側の意見だけで調書を作成して不起訴処分した事例がありましたが、このような捜査をしていたら、市民の理解を得ることは困難でしょう。そんなことをつい思い出してしまいました。

 

樋田容疑者は、逃走直後からバイクを利用してたしか45件のひったくりをしたとされていますね。当初合計額が4万円だったのが、いつの間にか5万円になっていますね。確認が不十分だったのでしょうが、このような事件ではとりわけしっかりした被害者聴取が求められますね。

 

バイクの形状とかもはっきりしませんが、盗難品であればなぜすぐに分からないのでしょう。被害者からの申告がないと言うことでしょうかね。あるいは自転車に乗っているとかの情報もニュースで垣間見ましたが、バイクにしても自転車にしても型式・形状はできるだけ早く公開してもらいたいものですが、どうなっているのでしょう。

 

と長々とまた前置きが続きましたが、今日のお題は空き家問題です。

 

むろん樋田容疑者が、リチャード・キンブルのような有能な逃走犯?であれば別でしょうが、これまでの容疑事実からはよくある累犯者的性質をもった男と思われます。池澤夏樹著『アトミック・ボックス』の主人公の女性のように聡明でかつ勇気と高い目的を抱き、優れた仲間の支援があれば、もうとっくにどこか別の場所に移って、捜査側の頭脳や捜査網の先を行っているでしょう。それはありえないでしょうね。

 

で、空き家です。大阪府内に限定しなくても、周辺府県まで逃亡することはそれほどむずかしくないと思いますが、このところ事件を起こしていないとなれば、どこかに潜んでいる可能性が高いと思われます。

 

では警察官が3000人体制でローラー作戦により一軒一軒しらみつぶしでチェックしているはずなのになぜ皆目見当がつかないのでしょう。

 

むろん友人とか知り合いの援助の可能性も否定できませんが、これまでの犯罪歴からするとその可能性は低いのではと思っています。他方で、どこかの空き家に隠れている可能性の方が高いと思うのです。

 

しかし警察官は空き家も調べているはずというのは、残念ながらあてにならないと思うのです。空き家は所有者が誰でどこにいるか連絡先を突き止めるだけでも大変かもしれません。最近は駐在所のおまわりさんが一軒ずつ訪問して管内の住宅の居住者について台帳をしっかりつくり現在状況を反映しているというのは少ないのではないでしょうか。

 

つまり、いくら大勢の警察官が住宅を調べても、空き家の場合、所有者意思の確認ができないと、家の中に入るわけにいきませんね。ですから、空き家を調べたといっても、部屋の中、押し入れ・天井などを調べるなんてことはできそうにないと思うのです。

 

むろん窓ガラスを割ったり、あるいはサッシや玄関ドアが施錠されていないとかの異常が見つかれば、放置はしないと思いますが、樋田容疑者はたしか屋内盗もやっていたように思うのですが、かなり器用な人間のようですので、アクリル板をすり抜けるように、うまく家の中に入っている可能性を考えるのです。

 

むろんこれは机上の推定に過ぎませんので、山の洞穴とか、農地の納屋など、その他いくつでも潜伏の可能性がありますので、捜査の網を絞り込む根拠としてはまだまだ薄弱です。

 

ただ、空き家は全国に多数あり、とくに首都圏にはかなりの数に上っているはずです。東京オリンピック・パラリンピックでは大勢の外国人が来日します。そのときテロリストや犯罪者も紛れ込む危険もあるでしょう。そのときこの空き家は彼らの危険な巣窟になるリスクがあります。

 

空き家問題は、農地で言えば耕作放棄地、山林で言えば荒廃した林地と類似した背景をもっています。しかし、その危険性は他と比較にならないと思います。本格的な対応が求められるでしょう。

 

今日はこれにておしまい。また明日。


報道とのおつきあい <警察署から容疑者逃走 大阪、接見室アクリル板破壊>などを読みながら

2018-08-13 | 刑事司法

180813 報道とのおつきあい <警察署から容疑者逃走 大阪、接見室アクリル板破壊>などを読みながら

 

今朝の空気もとてみ澄んでいて、高野の峰々は緑が鮮やかでした。いや目覚めたときはまだ朝日が一部しかあたってなく、全体は濃い緑というか群青色のように見えました。次第に朝日が稜線をくっきり浮かび上がらせたかと思うと、山襞全体が日光浴しているみたいに輝いていました。

 

早朝は爽やかで気持ちがいいのですが、どんどん暑くなり、部屋から外に出ると、車の中は蒸し風呂状態です。エアコンがすぐに和らげてくれるのですが、エアコンにばかり頼っていては体がなまってしまいそうです。

 

今日は銀行で成年後見事件の口座開設をする必要があり、手続が終わるのを待っていました。お盆休みというのに、結構、新規契約の来客が多く、順番が来るまでも時間がかかり、その後も手続に相当かかりました。合計で1時間半でしょうか。その間に藤森隆郎著『林業がつくる日本の森林』をおおよそ読了しました(ななめ読みですが)。せっかくだからこの内容を今日のブログにしようかと思ったのですが、専門家らしくなく平易に書かれているものの、かなり単純化していることもあり、すぐにはとりあげられそうにないので、次の機会にしたいと思います。

 

で冒頭の見出しは、他に思いつかなかったので、つい取り上げることにしました。

 

報道各社は、刑事事件では警察発表を基に、第一報からどんどん中身が充実していくように思います。その意味で第一報は注意して見ておく必要がありますね。いや、その後も同様の注意が必要ですが、とりわけ第一報は?と思うような記事が少なくないですね。

 

今回取り上げたのも、その?を感じたので少し注目したのです。

 

弁護士との接見(面会)後に、被疑者(容疑者)が面会室から逃走したというのです。そんなことがありうるのかと、面会室に入った経験のある方なら誰でも思うでしょう。弁護士の私にはまず想定できませんでした。留置場の担当官がいるし、面会室のドアも、留置場への出入りのドアも、施錠されており、どこから逃げれるというのだろうと、弁護士なら誰もが思うでしょう。

 

それでネットで各社の記事を見ると、最初の段階では不思議な記事となっていました。

東京新聞は<警察署から容疑者逃走 大阪、接見室アクリル板破壊>、京都新聞も<警察署から容疑者が逃走、大阪 接見室のアクリル板破壊>、時事通信も<警察署から男逃走=面会室のアクリル板壊す

 

このアクリル板破壊とか壊すとかの記事には驚きです。私も何百回?とあのアクリル板の前で被疑者や被告人と話をしたことがありますので、あのアクリル板を壊せるなんてありうるのかと思ってしまいました。だいたい、イスはたいてい固定していて破壊道具に使えません。素手で壊すとしたら相当の腕力でしょうけど、ま、無理でしょうね。いずれにしてもいくら防音装置がしっかりしていても振動等でわかるはずですから、あり得ないですね。

 

もう少し記事をフォローしていると、産経新聞が<【富田林脱走】「どうも時間が長い」ドア開けたら無人>の中で警察発表を基に図入りで解説していました。アクリル板をこじ開けたようですね。産経は別の記事<富田林脱走】前室に署員不在…面会用アクリル板、枠から外れる>では、<面会室のアクリル板は通常、金属製のサッシの枠内に収まっているが、片側が外れた状態になっていた。板を押せば数十センチの隙間ができることから、樋田容疑者がその隙間から面会者側のスペースに抜け出し、前室を通って脱走したとみられる。>と推定しています。

 

では普段読んでいる毎日はどうかというと、最初の一報は<大阪府警富田林署から勾留中の容疑者が逃走>で、やはり<アクリル板が破られていたという。>ということですから、富田林警察署の混乱ぶりがあったのかと思うのです。

 

ただ続報では毎日は<富田林署逃走面会室隣室の署員スニーカーなくなる>で、<室内には、容疑者と面会者を隔てるアクリル板が3枚あり、このうち1枚が面会者側の部屋に押し出すように曲げられ、鉄製の枠との間に最大約10センチの隙間(すきま)があった。>と客観的な記事となっています。

 

とはいうものの、アクリル板が壊されていたのではなく、枠から外されていたということですが、そんなことが可能なのか、想定したことがありませんでした。通常ありえないことですね。当該枠がどういう状態であったのか、なぜ枠からアクリル板が外れたのか、その確認が必要でしょう。

 

今後二度とこのようなことがないよう、警察はしっかり調査して欲しいものです。

 

他方で、弁護人の接見は7時半ころから8時過ぎには終わったというのに、警察署員が面会室を確認したのは945分頃というのですから、この対応も疑問です。むろん私も含め弁護人の接見ではときに2時間、3時間、あるいはそれ以上にわたることもありますが、普通は1時間くらいでしょう。たいていの警察署では、1時間を過ぎて長くなると、確認の意味もあってとんとんとドアを叩いて中を確認することもありますが、それはときに他の弁護人が待っていることもあり、急ぎでなければ交代してもよいことがあり、警察署員がその趣旨を伝達することもあります。

 

ともかく弁護人は終了したら、知らせて欲しいと言われており、私も被疑者を一人にしておくことはなにかあった場合に問題となりうるので、被疑者には終了後すぐにドアを叩いて署員に知らせるよう促しています。

 

今回の事件の弁護人の対応がどうかということは事実関係が明らかでないので、差し控えたいと思います。ただ、私たち弁護士は、被疑者との面接交流権を警察署員の立会なしで認められていますし、接見禁止処分決定がある場合でも弁護人だけに認められていることは、尊重されるべきですが、他方で、被疑者の健康管理や万が一の逃走の場合に社会に与える影響を考慮すれば、捜査側への配慮も必要と思っています。

 

アクリル板の設置がいい加減であったとすると、その管理責任こそ問われるべきかと思います。これも事実調査を踏まえて議論すべきことでしょう。

 

30分あまりで急ぎ足で書きました。今日はこれでおしまい。また明日。


大量殺傷事件と司法 <村上春樹氏 寄稿 胸の中の鈍いおもり 事件終わっていない>などを読みながら

2018-07-29 | 刑事司法

180729 大量殺傷事件と司法 <村上春樹氏 寄稿 胸の中の鈍いおもり 事件終わっていない>などを読みながら

 

昨夜は逆走台風が東方から東海、近畿、さらには中四国に向かうというので、めずらしく雨戸を閉めて寝ました。最近、眠る前はまだ嵐の前の静けさ状態でした。すぐ眠りについてしまいましたが、夜半、ガタゴトという音でぼんやりした状態でやってきたなと思いつつ、それほどひどい轟音でもないので、再び熟睡となりました。

 

今朝薄明かりの中、静けさと野鳥の鳴き声で目が覚めました。雨戸を開けると、高野の峰々が鮮明に見えています。もう台風が遠ざかったな、結構早かったなと思ったのです。台風一過、やはり空気が澄んでいるのでしょうか、日の光に照らされた屋根瓦の黒と蔵の白壁がツートンカラーで一帯の和風建築群がとてもすてきに見えました。

 

雨に濡れたプラスチックカバーから毎日新聞朝刊を取り出し、ひょいと目に飛んできたのが<村上春樹氏寄稿 胸の中の鈍いおもり 事件終わっていない オウム13人死刑執行>でした。オウム事件の死刑囚の執行では毎日のように報道されていましたが、私自身は地下鉄サリン事件やその逮捕事件当時、海外に滞在していて、ほとんど情報を身近に感じていませんでした。帰国後裁判が始まっても当時は刑事事件をまったくやっていなかったこともあり、知り合いがTVに頻繁に出演してたようですが、TVもほとんど見ていませんでしたので、自分が関わっている事件処理で他に目をやる余裕がなかったのかもしれません。

 

ただ、90年代後半の坂本堤弁護士家族事件に不審を抱いたり、オウムの選挙運動の奇怪さに、単なるバブル世相の反映と言えない不安を覚えていたことは確かです。それでも日本を離れると、ほとんど日本の情報が入ってこなかった時代、日本のことに関心を抱く状況になかったことも確かです。

 

死刑執行に関わりさまざまな報道がありましたが、ぼんやりと見ていました。そういえば地下鉄サリン事件の被害者の遺族の方がその都度記者会見で、その心の奥にある深い悲しみを押し隠すかのように、淡々と発言している場面からは、この間の裁判および執行という司法の役割は、国民の期待に応えたものであったのか、問われているようにも感じました。隣に知り合いのNさんが座っていましたが、私がたまたま見たニュースでは発言は報道されていませんでした。被害者弁護団事務局長であったように記憶していますが、被害者遺族の発言こそ重視されるべきとの立場だったのでしょうか。

 

弁護士にとっては、被害者および亡くなった場合の遺族の立場にたったときと、他方で、日弁連を筆頭に各地の弁護士会、弁護士の多くが死刑反対の決議を長年繰り返してきていることとの関係で、難しい判断を求められるのかもしれません。私も微妙な心の揺れを感じます。そんなとき、村上春樹氏は、自己の立場とこのオウム事件死刑執行という事件経過について、日本を代表する小説家として、また現代を生きる知識人、あるいは人間として、悩みを抱いた寄稿文を発表したのですから、これは取り上げたいです。

 

記事では<1995年の地下鉄サリン事件に衝撃を受けた村上さんは、被害者や遺族へのインタビューを著作にまとめ、裁判の傍聴を重ねるなど、深い関心を寄せ続けてきた。「胸の中の鈍いおもり」と題する寄稿で、刑の執行への複雑な思い、裁判での印象、残された課題について率直につづっている。>と紹介しています。

 

村上氏は死刑制度反対の立場です。

<一般的なことをいえば、僕は死刑制度そのものに反対する立場をとっている。人を殺すのは重い罪だし、当然その罪は償われなくてはならない。しかし人が人を殺すのと、体制=制度が人を殺すのとでは、その意味あいは根本的に異なってくるはずだ。そして死が究極の償いの形であるという考え方は、世界的な視野から見て、もはやコンセンサスでなくなりつつある。また冤罪(えんざい)事件の数の驚くべき多さは、現今の司法システムが過ちを犯す可能性を--技術的にせよ原理的にせよ--排除しきれないことを示している。そういう意味では死刑は、文字通り致死的な危険性を含んだ制度であると言ってもいいだろう。>

 

他方で、この事件は違うというのです。

<「アンダーグラウンド」という本を書く過程で、丸一年かけて地下鉄サリン・ガスの被害者や、亡くなられた方の遺族をインタビューし、その人々の味わわれた悲しみや苦しみ、感じておられる怒りを実際に目の前にしてきた僕としては、「私は死刑制度には反対です」とは、少なくともこの件に関しては、簡単には公言できないでいる。「この犯人はとても赦(ゆる)すことができない。一刻も早く死刑を執行してほしい」という一部遺族の気持ちは、痛いほど伝わってくる。その事件に遭遇することによってとても多くの人々が--多少の差こそあれ--人生の進路を変えられてしまったのだ。有形無形、様々(さまざま)な意味合いにおいてもう元には戻れないと感じておられる方も少なからずおられるはずだ。>

 

ただ、遺族のインタビューを通じて本を書くことを通して、自分の何かが変化したという村上氏、その遺族の気持ち次第で、司法判断が変わっていいのかとも問いかけるのです。

<そのように「遺族感情」で一人の人間の命が左右されるというのは、果たして公正なことだろうか? 僕としてはその部分がどうしても割り切れないでいる。みなさんはどのようにお考えになるだろう?>

 

村上氏は、冷血で残酷な犯行を行ったオウム真理教信者の裁判を傍聴して、その彼らを知ろうとするのです。<とくに林泰男(元死刑囚)の裁判には関心があったので、そちらを主にフォローした。>しかし、その心の奥にある真意には到底届かなかったようです。

 

そして村上氏が裁判当事者に対して、痛烈な言葉を発していることに注目したいと思います。

<正直に申し上げて、地裁にあっても高裁にあっても、唖然(あぜん)とさせられたり、鼻白んだりする光景がときとして見受けられた。弁護士にしても検事にしても裁判官にしても、「この人は世間的常識がいささか欠落しているのではないか」と驚かされるような人物を見かけることもあった。「こんな裁判にかけられて裁かれるのなら、罪なんて絶対におかせない」と妙に実感したりもした。>

 

これは私も人ごとではなく、自省を促されているように思うのです。ただ、一人の裁判官が村上氏の目にもほっとする姿勢、言動、そして判決であったようです。

<担当裁判官であった木村烈氏がとても公正に、丁寧に審理を運営しておられたことだ。最初から「実行犯は死刑、運転手役は無期」というガイドラインが暗黙のうちに定められている状況で(林郁夫=受刑者・無期懲役確定=という例外はあったものの)、審理を進めていくのにはいろんな困難が伴ったと思うのだが、傍聴しながら「この人になら死刑判決を出されても、仕方ないと諦められるのではないか」と感じてしまうことさえあった。>

そして<判決文も要を得て、静謐(せいひつ)な人の情に溢れたものだった。>というのです。

 

見方によるかと思いますが、おそらくどの裁判官が担当しても大変な事件だったと思います。弁護士については、ある弁護人はさまざまな脅迫があり、私が事務所の別の弁護士と仕事をしていてそこを訪れると、大変な防犯装置をつけていました。むろん、法廷ではしっかり弁護を行うのが当然ですので、かりに村上氏やあるいは一般の傍聴者から、世間的常識を欠落しているのではと思われることがあっても、それが弁護の必要上やむを得なければ、後日なんらかの形で説明するのが望ましいのではと思うのです。

 

それにしても事件は、死刑判決と確定で厳粛な結論がくだり、そして死刑執行により事件が終局するかのように思える節があります。

その点、村上氏は

<今回の死刑執行によって、オウム関連の事件が終結したわけではないということだ。もしそこに「これを事件の幕引きにしよう」という何かしらの意図が働いていたとしたら、あるいはこれを好機ととらえて死刑という制度をより恒常的なものにしようという思惑があったとしたら、それは間違ったことであり、そのような戦略の存在は決して許されるべきではない。>

 

そして最後に

<我々は彼らの死を踏まえ、その今は亡き生命の重みを感じながら、「不幸かつ不運」の意味をもう一度深く考えなおしてみるべきだろう。>と。

 

村上氏の言葉は含蓄に満ちています。実は村上文学を一度も読んだことがありません。いつか「アンダーグラウンド」を読んで見ようかと思います。

 

最後になりましたが、今週の本棚の書評<渡辺保・評 『言葉の魂の哲学』=古田徹也・著>では、言葉の選択という、人にとって最も本質的な部分で、倫理性が問われること、そこにその人の生存価値があるということを感じさせてくれました。

 

それは

<カール・クラウス・・・が言葉の選択を唱え、「倫理」を唱えたのは、言葉を選択するという行為の核心こそ「倫理」だと考えたからに他ならない。「倫理」・・・は人間の行動の規範というべきものであって、言葉を選ぶという行為は人間の存在の根本だからである。言葉を選ぶ時の人間は、その「場」を相対化し、そのなかで自分にどの言葉がピッタリくるかどうかという判断に責任をもたなければならない。>というのです。

 

そして最近、言葉が力をなくし、張り子の虎のように情けない状態にあると感じます。その点、筆者は

<「自分でもよく分っていない言葉を振り回して、自分や他人を煙に巻いてはならない。出来合いの言葉、中身のない常套句で(言葉への)迷いを手っ取り早くやりすごして、思考を停止してはならない」>と警告するのです。

 

今日はこれにておしまい。また明日。


認知症と家族・社会 <認知症と司法 1日鑑定、発症見過ごし・・・>などを読みながら

2018-01-05 | 刑事司法

180105 認知症と家族・社会 <認知症と司法 1日鑑定、発症見過ごし・・・>などを読みながら

 

実家から帰ってきて、今日から事務所で簡単な事務整理をしました。やはり少し疲れが溜まっているのかもしれません。認知症の母はすでに私のことを息子と認識できないでいます。とはいえ、ちょっとした会話はできます。感情というものも薄れてきたようです。帰った当初は食事も自分でできない状態でしたが、次第に回復して自分で箸を持って食べることもできるようになりました

 

20年くらい前から少しずつ進行していて、当初は妄想がひどく、感情も少し激しくなることがあり、同居の家族に何かをとられたと私に電話をかけてきたものでした。それが最近では電話をかけてくることもなくなり、こちらから電話をしても受話器をとることもなく、家族に電話を替わってもらって話をしようとしても、これ誰とか怖がって話しもしなくなりました。おかげで?オレオレ詐欺にあうこともなく平穏な毎日を過ごしています。

 

私のことも、会って話すと、きっと親しい人と思って気安く会話をしてくれます。私自身は仕事上、軽度の認知症の方、あるいは重度の認知症の方、さまざまな方ご自身、あるいはご家族から依頼を受けて仕事をしたことがあり、普通の人よりは平静に対応できると思いますが、それでも自分の母親がどんどん悪化する状態は辛いものです。とはいえ、私の母親の場合、割合笑顔を絶やすことがないのと、怒ったりすることもないので、介護施設のヘルパーさんとか、病院のスタッフ、少し以前では徘徊した当時のおまわりさんも、癒やされると言って喜ばれる?と家族は話すのですが、お世辞としてもありがたいです。

 

そういう意味では害のない認知症患者でしょうか。ま、90代半ばに向かっているひ弱なおばあちゃんですから、害のないのは当然でしょうか。

 

他方で、若年者とか、70代までの認知症だと、活動性もあれば、力も残っていますね。その点では交通事故に限らず罪を犯すリスクもあるでしょう。

 

今朝の毎日記事<認知症と司法 1日鑑定、発症見過ごし 専門家「画像診断含め複数検査を」>は、万引きを重ねるなどの中で認知症の疑いがある人について適切な精神鑑定の必要を訴える内容でした。

 

事例は<2011年12月。長野県内のスーパーで、男性(86)はソーセージなど未精算の食品16点(6890円相当)を店外に持ち出し、警察に通報された。

 窃盗容疑で逮捕された2日後、男性は弁護士に「はめられた」「魔物のせいだ」と話した。不審に思った弁護士が家族に聞くと、男性の脳には障害があった。>というものでした。

 

この方は過去に脳外傷があり、異常な言動も見られ画像診断でも異常が見つかっていたのです。

<03年、男性は自宅の階段から転落し、脳挫傷で約2カ月間入院。08年ごろから妻(83)に手を上げたり、高速道路を逆走したりするようになった。10年、病院で受けたMRI(磁気共鳴画像化装置)や脳血流の検査で、脳挫傷の後遺症とみられる脳の空洞が見つかった。脳の障害で行動や感情が抑制できないと診断された。>

 

しかし、上記のスーパーでの窃盗事件について、検察側は簡易鑑定を依頼した結果、責任能力ありとなり、起訴され、弁護側が依頼した医師による4階の面接・画像診断で認知症により犯行を繰り返したとの意見がでて、裁判所の職権での鑑定ではさらに詳細の検査の結果<「事件当時、認知症で行動を制御する能力を失っていた」>とされ、男性は無罪となったのです。

 

精神鑑定については、その疑いがあれば通常行われますが、毎日の解説が簡単に説明しているので引用します。

<刑事事件で、容疑者や被告の精神状態や責任能力などを精神科医に依頼して調べる手続き。検察が起訴前に実施するのは、容疑者の同意が必要で数時間の診断を受けさせる「簡易鑑定」と、裁判所の令状で3カ月程度留置する「本鑑定」。本鑑定では面接や心理検査に加え脳画像診断を行うこともある。>

 

ところで、脳外傷により認知症が発症するかどうかについては、私自身はあまり聞かないのですが、その外傷がなんらかの影響を与えてその後の治療経過や日常生活の中で悪化していったのかもしれません。

 

この点、ウィキペディアの<認知症>では次のように解説していて、外傷による場合を区別していますが、医学的知見はどうかはいつか調べてみたいと思います。なお、脳脊髄漏出症も以前は外傷によるとの見方は医学界では否定的であったとされていますが、最近では外傷・外圧による場合もあることが認められていると思いますので、この点はあまり重視しないでよいかもしれません。

 

その定義を引用すると

<認知症(にんちしょう、英: Dementia、独: Demenz)は認知障害の一種であり、後天的な脳の器質的障害により、いったん正常に発達した知能が不可逆的に低下した状態である[1][2][3]。>

また<医学的には「知能」の他に「記憶」「見当識」を含む認知障害や「人格変化」などを伴った症候群として定義される。>一方で、先天的な障がいについては、知的障がいといわれますね。

 

判断力の低下としてよく話題になる統合失調症は認知症と区別され、<頭部の外傷により知能が低下した場合などは高次脳機能障害と呼ばれる。>と指摘されています。

 

で、この記事では、検察側が簡易鑑定に頼っている点を問題視して、本来の精神鑑定を起訴前の段階で行う必要を訴えています。しかし、実際には刑事司法の予算の限界もあるでしょうし、精神科医の人数から言っても、現在の鑑定件数の増大にさえなかなか対応できていないのが現状ではないでしょうか。

 

この点、もう少しAIの精神鑑定分野への導入を本格的に検討してはどうかと思うのです。画像診断能力も専門レベルに匹敵するほど飛躍的に高まっていますし、診断スピードも正確性も高まっていると思われるのです。また、最近の音声認識・発語能力・質疑能力は、長谷川式レベルで判断するよりも、極めて高度な判断ができるようになっているかと思います。直ちに導入するとまではいえないと思いますので、たとえば5年くらいの試行期間を経て、AI診断を導入することを検討することで、簡易鑑定の誤りとかを是正できるのではないかと思います。またより多くの認知症を疑う人を診断できるでしょう。

 

もう一つ1月3日付け記事で<認知症と司法 温厚な父が突然「犯罪者」 手にかけた妻、今も案じ>という、今度は殺人という極めて凶暴性のある犯行です。認知症の場合でどのような症状になればここまでの凶暴さが生まれるのか、気になるところです。

 

この点先のウィキペディアでは次のような分類を紹介しています。

 

まず中核症状というのがあり、それは<程度や発生順序の差はあれ、全ての認知症患者に普遍的に観察される症状を「中核症状」と表現する。 記憶障害と見当識障害(時間・場所・人物の失見当)、認知機能障害(計算能力の低下・判断力低下失語・失認・失行・実行機能障害)などから成る>というのです。

 

これに対し、それ以外の症状として、周辺症状という分類があり、これが問題を複雑にするのかもしれません。

<患者によって出たり出なかったり、発現する種類に差が生じる症状を「周辺症状」、近年では特に症状の発生の要因に注目した表現として「BPSD(Behavioral and Psychological Symptoms of Dementia:行動・心理障害)」「non-cognitive symptoms」と呼ぶ。>

 

具体的な症状は多様で、その中には暴言暴力もあるわけですね。<主な症状としては幻覚(20-30%[2])、妄想(30-40%[2])、徘徊、異常な食行動(異食症)、睡眠障害、抑うつと不安(40-50%)、焦燥、暴言・暴力(噛み付く)、性的羞恥心の低下(異性に対する卑猥な発言の頻出など)などがある>

 

これをわかりやすく分類した表が掲載されていましたので引用します。

オーストラリアにおけるBPSD管理指針[13]

Tier

診断

有病率

症状

管理

1

認知症なし

-

-

予防に努める

2

BPSDのない認知症

40%

-

予防・進行を遅らせる処置をする

3

軽程度BPSDの認知症

30%

夜間騒乱、徘徊、軽い抑うつ、無気力、反復質問、シャドーイング

プライマリケア管理

4

中程度BPSDの認知症

20%

大うつ病、攻撃的言動、精神病、性的脱抑制、放浪

専門医受診のうえプライマリケア管理

5

重いBPSDの認知症

10%

深刻な抑うつ、叫び、激しい錯乱

専門の認知症ケアが提供される施設

6

非常に重いBPSDの認知症

1%以下

物理的攻撃、深刻な抑うつ、自殺傾向

老年精神施設にて管理

7

激しいBPSDの認知症

まれ

物理的暴力

集約された特別治療施設

 

妻を殺害した事件では、蓄積した鬱状態が認められると思いますが、そこからどのような事態になれば判断能力を失って犯行に至るかは、これから解明されるべき課題でしょう。

 

仲の良かった夫婦、妻が統合失調症となり、一変し、妻は夫を長年にわたって追い詰め、それでも夫は逃げることも抗うこともなく、妻の世話を黙ってしてきたというのです。その夫が15年春<風呂の沸かし方が分からなくなり、湯飲みがないのに何度もお茶をつごうとした。男性が病院へ連れていくと、診断は「レビー小体型認知症」。幻視や幻聴、抑うつ症状が表れる病気だった。>というのです。それでも夫は妻の世話を続けるのですね。

 

それが一年後に突然、妻の首を絞めて殺してしまうのです。夫は自首して、<動機は「家事をしないことへの不満」とされたが、地裁は「一切暴力をふるうことなく生活してきたのに突如、殺害を実行するのは正常な心理状態ではない」と指摘。認知症の影響を認め、懲役3年、執行猶予5年(求刑・懲役5年)の判決が確定した。>

 

認知症患者の言葉はそのとおり真に受けることはできません。この事案はこれだけではわかりませんが、鬱状態が相当深刻になり、自己を制御できないところまで至っていたのでしょうか。

 

ここでは精神鑑定がどのような結果だったのかは明らかではありませんが、事件前の診断も重視されたのでしょうかね。

 

そろそろ1時間半になります。このくらいでおしまいでしょうか。また明日。

 


依存症?の犯罪への対応 <性犯罪や万引の常習者についてどう考えるか>

2017-09-06 | 刑事司法

170906 依存症?の犯罪への対応 <性犯罪や万引の常習者についてどう考えるか>

 

昨夜のNHKクローズアップ現代では、<広がる“遺贈”人生最後の社会貢献>というテーマで遺贈を新たな視点で取り上げていました。最近の終末期や死後をめぐる報道は多様な在り方を求めているせいか、驚かされるものがあると同時に、どちらかというと外観や形態が物資的豊かさを感じさせるものの、精神的な豊かさとは遠ざかるように感じるのは私一人ではないように思うのですが・・・

 

さてこの社会貢献型遺贈ともいうべきニューフェイスは、ま、いまはやりのエンディングノートで扱われるものに比べれば、少し気持ちが晴れ晴れとするような印象があります。だいたい、エンディングノートというと、葬儀の在り方や遺骨の処理をめぐる墓地や散骨といった話、そして必須の財産処理といった、生きる人間の心の在り方からすると、どうでもいいような事柄ばかり(むろん信仰のある方は前者が一番であってよろしいと思います)。財産処理にいたっては、誰に何を相続させるかといった配分の問題から遺留分・寄与分への配慮で心を悩ます方が大勢います。私自身、多くの公正証書遺言にかかわってきたものですから、その悩みはわからなくもないのですが、心の解放というか、自分の生き方を大事にした方がいいといつも話すのです。

 

財産を公益団体に寄付するとか、遺贈するとか、欧米では富豪に限らず庶民がやっているのではと思います。NHKの報道では、最近わが国でも増えてきたと言うことで歓迎したい話です。ただ、信仰も同じですが、生きているうちに、きちんとその宗教に帰依したり、公益団体を支援したいというのであれば活動に参加したりして欲しいと思うのです。それこそ、死に方であり、生き方ではないかと思うのです。この話は簡潔にするつもりが少し長くなりました。別の機会に改めて取り上げたいと思います。

 

さて本日の話題に入ります。毎日の昨夕記事は<文科省わいせつ教員、処分歴共有 来年度から、再雇用防止>を、今朝は<窃盗症懲役より罰金刑 再犯万引き、東京地裁など判決 治療・更生考慮か>を、前者は文科省サイドの情報源でしょうか、後者は法曹実務からの情報でしょうか、あまり両者の関係を意識せず、取り上げています。

 

わいせつ行為といた性犯罪とここで取り上げられている万引き(窃盗)は、繰り返す傾向が強く、依存性のある一つの病気的な性質をもつというとらえ方は古くからあったと思います。いずれも一時的な、過渡的な行為で終わることも少なくないと思いますが、他方で、簡単には直らないことが少なくないこともよく知られているかと思います。

 

性犯罪には痴漢、盗撮、下着泥棒、わいせつ行為、強姦(今年6月の刑法改正でたとえば「強制性交等罪」等名称が変わりましたが、なんかこっちの方がいやらしく感じるのは感覚がおかしいでしょうかね)などがありますが、私も仕事上すべて手がけてきました。この種の犯罪はできれば担当したくない(女性の敵、いやその逆も新法ではあり)気持ちでしたが、当地では選別できず、事件が回ってきたら取り扱います(東京だと、昔は結構選択の自由がありました)。

 

で、この種の性犯罪をする人は、性格的に傾向性があるように見られ、繰り返してやってしまうと被害者が厳しい目で見ます。実際、逮捕されるまで繰り返す人がほとんどです。では、一回逮捕され、処断されても同じかというと、私が手がけた事件では、その後繰り返したというのは聞いていません(情報不足なので正確ではありませんが)。ただ、逮捕され不起訴で釈放されたような場合は、また繰り返す人もいることは確かです。そういう事案を扱ったこともあります。

 

私自身は、心療内科的な治療を受けることを勧めています。実際にその後調べたり、情報が入ってきたりした訳ではないのですが、家族の支援や医療対応がしっかりされていると、少なくない人が改善するのではないかと思っています。直らない依存症といったものではないと考えています。タバコやアルコールの依存症は強度だと言われることもありますが、これらも治療方法によっては大きく改善する事例を聞いています。

 

いろいろ書きましたが、上記毎日記事では、<子どもへのわいせつ問題を起こした教員の処分情報の共有に向け、文部科学省は来年度から、都道府県教育委員会間で運営する「教員免許管理システム」の大幅改修に乗り出すことを決めた。こうした問題で免職や停職になった事実を伏せ別の場所で教員に再雇用されるのを防ぐためで、同省は関連経費として4億8000万円を来年度予算の概算要求に盛り込んだ。>というのです。

 

たしかに子どもへのわいせつ行為をするような教員は、その後も繰り返し行っている事例があることは確かで、適切な情報共有により、教員の採用や採用後の職務内容について、厳しいチェックがなされてもよいかもしれません。これまであまりに情報共有がなされてなかったことに問題の一因があると思われます。

 

しかし、他方で、わいせつ行為を行った教員も、改善する可能性はあると思うのです。わいせつ教員を一度で教育界から締め出すようなことが果たして適切かは、その改善プログラムとか支援制度の内容によっては、問題視されてもよいと思うのです。

 

とっても教育熱心な教員が、子どもからも好かれて、つい躓いた場合もあるでしょう。子どもを傷つけたことを深く意識し反省して、改善への道を適切に歩む教員には更生の機会を与えて欲しいと思うのです。その点、<尾木直樹・法政大特任教授の話>とされる<子どもへのわいせつ問題を起こした教員が再び教壇に立つことはあってはならない。採用や研修では、わいせつ行為への厳しい意識を持って臨むべきだ。>は、以上のような教員の更生をも配慮した上であれば、同感です。

 

もう一つの万引きです。これは苦い経験があります。だいたい、万引き常習者には、本来、誠実でまじめな人が少なくないのです。私が担当した万引き常習者の一人は、まさに好青年でした(といってもすでに40代近かったでしょうか)。建築士の資格をもち、私との会話もしっかりしていて、その反省の弁は、涙ながらにその心の痛みを告白するものですから、ついつい信じてもいいかと思ったのです。

 

いや、被疑者と弁護人の関係は信頼関係が基礎ですから、基本は信じるように努力するのですが、証拠との関係などで詐欺師などはなかなか信用がおけない人が多いのです(昔はその詐欺事件を多く担当していたのですが)。

 

脱線しました。で、その万引き常習者、保釈をとって欲しいと私に懇請するのです。ご両親はかなりの高齢で、自宅もきちんとしていますが、年金生活で余裕がないから、無理だと思うと説得したのですが、止まらない涙を流しながら繰り返し訴えるものですから、弁護人としては、節約した生活を心がけているご両親に保釈金をお願いできるかと聞くと、なんとかするというのです(当時はまだ日本保釈支援協会ができていないかったか、当地までふきゅうしていなかったか)。

 

それで検察官を説得して、保釈決定をとり、保釈金を納め、本人がご両親の元に帰りました。それから何日もしないうち、本人が再び万引きをして逮捕されたのです。これにはがっかりしました。でもそうなのです。本人自身は、いかにまじめで正直でありたい、たぶん私と話しているときはそういう気持ちが心から出ているのだと思います。でも自由になると、再び、病気のように、万引きをしてしまうのです。それも自分が家の中にすでにもっていて必要でないようなものでも。

 

毎日記事で紹介されている<(クレプトマニア)  物を盗もうとする衝動に抵抗できずに万引きを繰り返す症状。>として、法廷で訴え、精神科の治療を受けることを、医師とも打ち合わせして、裁判所も治療的措置を念頭に、保護観察付きの執行猶予判決を出しました。

 

この毎日記事の量刑事情がより一般化すれば、罰金刑が望ましいかもしれません。ただ、処断後の更生を考えると、前刑の保護観察期間中が相当程度あれば、罰金刑でもよいと思いますが、その期間がわずかしか残っていない場合、罰金刑が有効かは難しいところでしょう。いずれにしても、精神科などの治療、社会的支援と家庭支援がうまく機能しないと、更生はおぼつかないですし、といって懲役刑の選択も抑止的効果は限られるでしょう。

 

姦淫や盗むということは、古今東西、厳しい戒律があったわけですが、昨今の事情はそういった戒律・社会的規範などが有効に機能しない犯罪者を生み出しているように思うのです。具体的事情に応じた社会システムが構築される必要を感じています。

 

今日も一時間半を超えてしまいました。この辺でおしまい。