たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

「公子さんは私たち」 <【くにたち上原景観基金1万人の会】3500万円集まる>にさらに参加を

2017-05-21 | 都市のあり方

170521 「公子さんは私たち」 <【くにたち上原景観基金1万人の会3500万円集まる>にさらに参加を

 

上原公子(うえはらひろこ)さんは、以前ブログで取り上げましたが、国立市長として、景観保全の先駆け行政を行い、それと連携するように大きな市民運動が起こり国立マンション訴訟(国立大学通り景観訴訟)において、最高裁で景観利益が法的な権利として認められる金字塔をたてましたが、その一翼を担った人です。

 

その公子さんが、一部の住民訴訟により市長時代の責任が問われ、その後の市長や議会の無責任とも言うべき訴訟対応、そして裁判所の不可解な判断により、国立市から元利金4500万円を超える損害賠償金の支払いを求められています。

 

公子さんが市長時代、市議会を取り巻いた大勢の市民の要望で景観保護の建築条例を作ったことや議会での答弁について、国の法律にたてつくものという評価の下、裁判所で違法判断されたばかりか、市長個人の賠償責任まで認めるという前代未聞の判決が確定しました。

 

日本が導入した都市計画の先進国の一つ、アメリカ・カナダでは、市民のために、それぞれの自治体が厳しいゾーニング条例で景観保全など厳しい規制を行っています。それを憲法違反などで争うのは開発業者が中心で、長い裁判の歴史において多くは地元行政によるまちづくり条例が認められ、開発業者が敗訴しています。地域のまちづくり・景観は地域の政府である自治体が行うということが確立しているといってよいと思います。

 

公子さんは、その先駆け的な行政を、熱い市民の意見を反映して、勇気ある、しかし、着実に合法的に規制条例を作り景観保全を図ったのです。それを違法だとする、国、東京都、そして裁判所の考え方は、時代錯誤ではないでしょうか。

 

公子さん一人に賠償金を負担させては、市民自治は失われます。私も応援の気持ちでカンパしました。しかし、まだ足りないようです。それでも短い間に3500万円集まり、一部は弁済にあてるそうです。

 

1万人の賛同者といわず、100万人くらい賛同してもいいのではないかと思います。これをご覧になった一人でも、ホームページをfbなどに回していただけませんか。

 

よろしくお願いします。 ブログ「たそかれの散策」より。


「痴漢」考 <痴漢疑い、線路はダメ 逃げたら損だし罪になる>を読んで

2017-05-18 | 都市のあり方

170518 「痴漢」考 <痴漢疑い、線路はダメ 逃げたら損だし罪になる>を読んで

 

今朝の空は澄み切っていました。高野の山々の稜線がくっきりと浮かび上がり、少しずつそれぞれの山容が識別できてきたような印象です。といってもまだまだという感じです。というのは多くの頂が聳えていますが、名付け親がいないのか、国土地理院の地形図を見ても名前がついているのはほんのわずかです。それは半分言い訳ですが、やはりいくらgoogle earthの3Dがすごくても、人間の視界に入る見え方と、地球自体の形状との違いというの、うまく表現できませんが、なかなか名前のある山頂ですらうまく視界に移る山頂とが一致しないのです。のんきと言えばのんきな話しですが、これが私の今の趣味でしょうか。とても面白いのです。

 

とはいえ、仕事の方は和解解決などで少し落ち着き、割合余裕が出来つつあるので、読書も少しずつ再開し、昨日夕刊から今朝の朝刊まで興味のある話題が目白押し?で時間がいくらあっても足りません。情報過多といえばそうなんで、無視しても生活に影響があるわけでも自分の考え(というものが仮にあったとしても)にも特段波風がたつようなものでないともいえますが、それでも気にすると数え切れないほど、心を動かされるような記事がありました。

 

一番は<皇室眞子さま、ご婚約へ 小室さん「母親思い」 父の死に「僕がいるから大丈夫」>という記事でした。皇族が婚約されるのですから、これまでの例から行って、庶民といってもそれなりの地位・名誉のある家系の方であろうと勝手に想像していました。このウェブ記事には写真が掲載されていませんが、大阪版の紙面では、小室氏の幼少時代のバイオリンを演奏する凜々しい姿が掲載されていました。彼がインタビューに応じる会見もニュースで見ましたが、しっかりした対応で、高貴さを感じさせるものでした。

 

ところがこの記事では、<小室さんが父親を亡くした後の、母親のことも印象に残っている。「くじけず希望を持って圭君がいろんな経験をできるように頑張っていた。立派な息子に育ってくれてお母さんも喜んでいると思う」と話した。>と幼い頃に父親が亡くなり、バイオリンも辞めたのですね。しかも <高校生の時から料理店でウエーターとして働き、店には母親が友達と一緒によく食事に来ていた。父親が亡くなり、母親が悲しむ姿を見た小室さんが、「僕がいるから大丈夫だよ」と励ましたという話を母親から聞いたことがあると五井さんは振り返った。>というのですから、なんて清々しい青年なんでしょうと感じ入りました。

 

しかも彼はアルバイトをしながら国際基督教大学で学んだ後、現在は法律事務所でパラリーガルの仕事をしながら一橋大学大学院で学んでいるということですから、まさに苦学生の一人ですね。パラリーガルという職種は一般には知られていないと思いますが、一定の規模の法律事務所には必ずいて、弁護士の補助的な仕事をこなす重要な役割をもっていますが、残念ながら多くはまだ十分な資格として認められていないこともあり、評価も賃金も低いと思います。私も20年位前少しパラリーガルの人と仕事をしましたが、まじめで丁寧な仕事をしますが、法的判断に係わるようなことまではタッチせず、あくまで補助作業を行っていました。それから時間が経ち教育システムも充実しつつあるので、条件等もよくなったかもしれませんが、それでも弁護士自体が収入減といわれる状況ですから、若いパラリーガルだと大変だと思います。

 

そういう父親のいない、母親一人で育ち、若い頃からアルバイトしながら学業を続け、いまも決して評価の高くないパラリーガルの仕事に就いている小室氏を相手として選んだ眞子さま、そしてこれを受け入れた秋篠宮ご夫妻含め皇室、宮内庁は、今上天皇皇后の生き方を尊敬し、それぞれの立場で自らのものにしているように感じてしまいました。

 

ともかく小室氏はなんとも気持ちを晴れ晴れさせてくれるようないい青年ですね。その彼を選んだ眞子さまもきっと素敵な方なのでしょう。

 

話しはがらりと変わって、<高浜原発4号機再稼働 経済と命 揺れる地元>は、地裁、高裁で判断が異なり、現在最高裁で審理されていますが、地元という言葉自体が簡単に定義付けできませんし、それぞれの思いや今後のあり方を簡単に書くことはできません。ただ、今後も注視していきたいと思い、取り上げておきます。

 

話題性として大きいのはやはり<トランプ米大統領捜査中止要請 議会の圧力強まる 大統領弾劾には高い壁>でしょうか。この捜査中止という表現を見てつい、映画「ペリカン文書」を思い出してしまいました。いや映画「大統領の陰謀」で活写したウォーターゲート事件も。アメリカはこういった捜査妨害を大統領が行う、それを映画として見事に描き上げる、そういう点ではすごい国だと、人々だと思うのです。たしかThe Pelican Briefでは、大統領がback offという言葉を使ってFBI長官に捜査の一時停止を求めたという記憶ですが、そのことがフラッシュバックのように蘇ってきたのです。<米国露疑惑で特別検察官 司法省、真相解明へ>では、特別検察官を任命したのですから、これは今後どうなることか、ほんとにアメリカが訴訟社会であることを大統領自身が見事に「演出」してくれますね。国民は、移民の人々はそれどころではないのでしょうけど。

 

アメリカではコミー前長官が作成した大統領との会談記録メモの開示が話題になっていますが、わが国ではどうでしょうね。<情報の扱い 公文書?私的メモ? 都合よく線引き 元官僚らに聞く>は情報公開法を張り子の虎にするために、現場の狡猾なやり方がよく取材されているように思いますが、森友学園事件でも財務省の身勝手な保管基準や文書基準には驚くばかりですので、これで厚顔無恥でいられる官僚システムの幾ばくかを改善できる方向になるといいのですが。

 

大局的な目で法制度を見ると、<クローズアップ2017120年ぶり民法改正、成立へ 契約ルール現代化>は無視できないテーマと思います。以前にも少しブログで触れた記憶があります。ただ、今回の改正自体が、現行の取引慣行を大きく変えるものかというと、下乗追認的な改正が中心ではないかと思います。時効期間の統一とか、遅延損害金の法定利率の減額とか、ある意味当然視されるようなものですね。約款も私が弁護士になった35年以上前からの議論を明文化した程度ではないかといった印象です。より現代的な取引にマッチする法改正は議論されていると思うのですが、なかなか改正のまな板にのりませんね。

 

同じく法律問題ですが、<返還請求訴訟「盗まれた」金塊、返して 造幣局が提訴 質店「横領品返す必要ない」>は、質屋さんが気の毒かどうか、刑事裁判で窃盗と判断されているのを民事裁判で覆せるかどうか、悩ましい事件かもしれません。でも大量の金塊を質入れするなんてことは通常ないですね。質屋さんの代理人、横領罪の職務権限や実際の行為形態で反論できる明確な根拠があるんでしょうかね。なかなか大変です。それがあれば刑事弁護人も量刑の観点からしっかり主張しているはずですので。

 

ようやく本日のお題に入ります。これまでに1時間余りかけていますので、簡潔にまとめたいと思います。<アクセス痴漢疑い、線路はダメ 逃げたら損だし罪になる 名刺で身分明かして去る>は、<痴漢を疑われ、逃げる人が後を絶たない。逃げる途中で命を落とすケースも相次ぐ。もし、やっていないのに疑われたら……。長期勾留や有罪率の高さから「逃げるしかない」とも言われてきた。しかし専門家は「逃げるな」という。痴漢冤罪(えんざい)の新常識は?>と【小国綾子】記者が取材しています。

 

<千葉県流山市の三浦義隆弁護士>のブログでの指摘や、<全国痴漢冤罪弁護団の生駒巌弁護士>の指摘を取り上げて、従来は<痴漢の疑いで逮捕され否認すれば通常は23日間身柄を拘束され、起訴されれば有罪率99%以上。法律家すら「逮捕前に逃げろ」と言う時代があった。>が、今は逃げるのはかえって不利で、逃げずに堂々と自分の立場を主張し、無料の当番弁護士制度(これが意外と知られていないのですね)を利用して、警察の取調に対処することを勧めています。そして経済的に弁護人を雇える余裕がなければ、法律扶助、そして勾留後は法テラスを利用して、無実を主張して闘うことを指摘しています。

 

たしかに当番弁護士制度の普及、さらに勾留後の国選弁護人制度の拡充によって、荘散会から弁護人が対処することで、捜査側の強権的な取調を抑制したり、ビデオ撮影を求めて可視化する方向に進んでいますので、取調の公正さが相当程度高まってきたように思います。実際、私でも痴漢事件は扱ったことはないですが、強要、強制わいせつなどボーダーラインの事案で不起訴等で釈放となった事案を相当数扱ってきました。たしかに痴漢事件は難しいと思います。でも基本は具体的な言動をどこまで客観的に裏付けられるかという一般事件と大きくは変わりません。ただ、被害を主張する女性側に有利な心証が第三者にも捜査側に少し偏り具合が強い程度でしょう。ともかく小國記者が取材した弁護士の説明は王道だと思います。

 

で、私がこれを取り上げたのは、弁護士の役割を指摘するためではありません。まず言いたいのは、痴漢の疑いをかけられないように、予防することです。それが一番。それには満員電車には乗らない。そんなの無理というかもしれませんが、時間帯をずらす努力で多少は違います。そして満員電車に乗ったときは、これが重要で、手や肘の動きを第三者から見て不審に思われないように工夫することです。私は満員電車には乗らないように配慮していましたが、それでも首都圏で仕事をしていると、避けられないことがままあります。そういうときは、一つの手はつり革を握る、もう一つの手は鞄を握る。そして女性の近くにはなるべく近づかない。身動きが出来ないほど密集していて、偶然女性と触れる状態になっときは、車両の動き・乗客の動きにだけ合わせて、それ以外の動きは一切しない。ずいぶん昔のことですが、記憶している一部を書いてみました。恥ずかしい話しです。

 

なによりも、もっと重要なことは、満員電車をなくすことです。大阪では女性専用車両が一般化しているようですので、それはそれで一つの手法でしょう。それより満員電車は痴漢の原因の一つになるだけでなく、乗客にとって非人間的扱いです。

 

私は30年以上前から首都圏の集中を阻止することが東京都を含め行政の役割だと主張してきました。都市計画の基本ではないかと思うのです。私自身、さほど諸外国の都市で電車に乗った経験はありませんが、どんなに混雑していても、東京のようなすし詰め状態は見たことがありません。都市計画のあり方を根本的に見直す必要があると思っています。東京都はそれなりに80年代頃からさまざまな措置をとってきましたが、都市計画だけでなく、経済政策、交通政策などその主要原因について、まともにこの問題に取り組んだことがないことが問題でしょう。痴漢問題は枝葉末梢の事柄です。本質的な議論を始めるのは、東京五輪のあり方にも関係しますし、今からでも遅くないと思うのです。

 

7時を過ぎました。相変わらず中途半端ですが、今日はこの辺で終わりとします。約2時間かけました。

 

 


都市と公園 <橋本市の杉村公園を散策しながらふと思う>

2017-05-08 | 都市のあり方

170508 都市と公園 <橋本市の杉村公園を散策しながらふと思う>

 

昨夜はいつの間にかうつらうつらして寝入ってしまい、途中で気づいて寝床に入りました。案の定、目覚めは深夜3時。これでは調子がよくならないと心配したものの、血圧計は139でなんとかセーフ。頭の重さもさほどでなく、目のほうもさほどでもない感じです。そのせいか、鳥の声もすがすがしくよく聞こえてきます。今朝は朝早くはシジュウカラがせわしく鳴いていました。シジュウカラは都会でも生活できるらしく首都圏でもよく見かけましたが、こんな山の中でも分譲地に接しているので結構いいのかもしれません。ヤマガラはむろんいます。しばらくしてウグイスの朗らかな声が聞こえてきました。どうもウグイスは早起きではなさそうです。

 

今日はなにかと久しぶりに仕事をして、いつの間にか6時半をすぎています。そろそろ帰り時ですが、これから本日の話題を考えてとなると、今日は新聞もなく、ニュースも見ていないので、ネタを見つけるのが大変。それで昨夕、近くの杉村公園を散策しながら、なにかと思いついたというか、気になったことに触れてみたいと思います。

 

その前に、私は首都圏で仕事をしている頃、日比谷公園が割合好きで、地下鉄に乗り換えると、東京地裁のすぐそばの霞ヶ関駅まで行けるのですが、わざと避けて、新橋とか有楽町から歩いて日比谷公園を通り抜けしていました。なにがいいか、たしかにいろいろな施設がぎっしりあります。いろんなイベントもしょっちゅうです。時折、有名俳優などがロケしているそばを通ることもあります。人気のスポットです。しかし、私にはあまり関心のないことです。

 

なにがいいか、公園の木々が生き生きしているのです。野鳥もいろいろいます。そして管理をしている人たちが落ち葉を大切にしてきちんと木のそばに集めて、来年の成長に役立つようにしています。日比谷公園の歴史を感じさせてくれるのです。

 

そう日比谷公園は、谷の名前がつくように、元々は入り江で建物を建てるには不適当ということで、埋め立てるとともに、人工的に作られた公園です。でも現在立っている木々は見事なほどの太さで、葉っぱも生き生きとしています。長い時間をかけて管理の人たちが大事に育ててきたことを、その姿で示してくれています。

 

弁護士会館の図書館とか、日弁連応接室?から眺めると、その紅葉に見事さは息をのむほどというと言い過ぎですが、仕事の疲れを癒やしてくれるには十分です。むろん都会的な木々の種類ですし、歩道ですし、またテニスコート、松本楼など多くの施設は、まさに都市公園としかいいようがない体裁となっています。そこは同じ人工の森でも、明治神宮の森とは雲泥の差です。できれば後者を都市の公園にもしてもらいたい気分です。

 

なぜそういうかというと、日比谷公園も、明治神宮の森も、西欧の公園を学んだ技術者が設計し、実施したからです。で、当時はどうか知りませんが、10年ほど前、ミュンヘンを訪れたとき、市庁舎のすぐ近くにあり、都市のど真ん中に近いところに広大な面積を持つイギリス公園(名称は不確か)に入って休みました。なんとも見事なほど自然がそこにあるのです。川幅5m以上はある大きな川が流れていて、森も豊かで、多くの市民がのんびりしています。そこは日比谷公園のように忙しく歩いているような姿は見られません。

 

ドイツでは都市林がいくつもあり、また、有名なクラインガルテン(いわゆる市民農園)もあります。後者は日本のように小規模でなく、ちょっとした小屋を整備して休むことも出来るほど大きな面積です。つまり都市には森と農園が不可欠であり、公園も施設を設けたり、スポーツグランドがあるといったことは必須のものではないのです。

 

わが国では都市公園は、国交省所管で、都市計画法上の位置づけで、都市域における施設の一つととらえられていて、森や農園はその構成要素から除外されています。これに対し、自然公園は環境省所管で、逆に公園内の施設条件が厳しく制約されていますし、山川草木の保全管理も厳しくなっています。しかしながら、都市の進化は、人間にとって必要な情緒性を枯渇しつつあり、人間同士の葛藤でさまざまな心因性の病気に陥っていない人が少なくない状況にあると思うのです。

 

縄文文化が1万年以上繁栄し持続し得たのは、新たに導入されてきた自然破壊的な農業がその人間性と容易に相容れなかったのかもしれません。ヒトにとって、自然の中で生育する木々、草、野生動物などとの触れあいが欠かせないのではないかと思うのです。

 

ましてコンクリートジャングル化して、情報化社会が進展していく中で、人間同士もうまく付き合うことが容易でなくなっていくと思うのです。そういったとき、とりわけその傾向の強い都市には自然の創造が必要となってくるのではないかと思うのです。

 

そして公園は、そういう機能を今後必要とされてくるのではないかと思うのです。医学的措置だけでは、現代の人々が抱える精神的な問題に対処することは困難ではないかと思っています。公園は、その代替的な・補助的な役割を十分期待されてよいように思うのです。

 

で、杉村公園に移ります。日曜日の夕方でしたが、30分あまりの散策で、会ったのは2組だけでした。松林があり、カエデや桜など多くの木々があり、広さも12haを超えるのですから、日比谷公園の16haと遜色がない規模です。しかも後者は施設が多すぎて、木々が立地している面積はかなり狭いと思います。それに比べ杉村公園は施設は郷土資料館と教育相談センターの建物くらいで残りは木々と、池だけです。しかも隣接しているのは三石山の山腹ですので、何千、何万haという森林です。

 

でも残念なのは、散策路の道路構造が歩きやすいとはいえないのです。その形状や材質は統一性がなく、いろいろですが、多くは固まった土であったり、破砕した小石を置いたものとかで、とても歩きやすさを考えたものとはいえないのです。また、一時はやったビオトープも使われてなく、そこへ降りると本来はいろいろな動植物が育ってたであろう区画は閉ざされ、中には入れないようにロープが張られていました。

 

大きな丸山池があり、立派な吊り橋が架かっていましたが、なにか物足りなさを感じてしまいます。やはり吊り橋までのアプローチに魅力を感じさせるものがなく、おそらくそこから眺められる先にあるのが三石山ではないかと思うのですが、そこから見られる景観についても説明がないのです。河童橋にあれほど人気があるのは、そこから見える穂高連峰の景観の素晴らしさ、梓川の清流の清らかさなどでしょう。橋だけの魅力では人を惹きつけないでしょう。

 

しかし、やり方次第では、紅葉や桜の季節、菊花展などのイベントのときだけにとどまらず、日常的に橋本市民、いや大阪を含め関西圏からも人を呼ぶだけの潜在的な魅力があるようにも思うのです。

 

高尾山は、都市公園ではないですが、さまざまな散策路、それぞれに多様な生態系の魅力を感じさせ、その道自体が歩きやすく出来ています。木々の管理もしっかり出来ています。

 

杉村公園では、残念ながら、落ち葉は集められ、斜面地下に落とされるかのように無残でした。木々の腐葉土として役立つような配慮はされていません。散策路の周囲の木々も手入れがされているとは思いにくいものです。

 

おそらく公園管理の予算が十分ではないのでしょう。

 

この公園は、故杉村林之助氏が自宅とともに市に寄付したそうです。松林が好きだったようで、そのそばに自宅を構えていて、現在、松林荘として、一般に貸し出しされています。この建物は昭和初期に建てられた木造2階建て(約200平方メートル)の日本建築です。杉村氏は、教育にも熱心だったようで、同氏の寄付金が橋本市教育基金として活用されているようです。

 

そういえば、杉村氏の顕彰碑のそばに立つのは橋本市教育相談センターです。立派な2階建の建物です。少し離れたところに立地する郷土資料館に比べると、杉村氏の意向がはいっているのかと思ったりするほどです。

 

で、この教育相談センター、郷土資料館、松林荘そして公園と、それぞれ独自の役割を期待されているとは思いますが、うまく有機的な連携ができないものか、今後検討されてもいいのではと思うのです。杉村氏の意思を鑑みれば、それぞれ別々の方向を向いているように見えて、分断されているようで、全体が寂しい印象をぬぐえない気がします。それでは故人の気高い意思に報うものとはいえないのではないかと思うのです。

 

教育相談センターは、いま話題の家庭教育支援とは異なり、子どものための、いじめや、不登校、チックなど多様な教育に係わる問題に対処する機関ですが、橋本市民のうち、どれだけの人がこの存在を知っているのでしょうか。郷土資料館も一度くらいは訪れた人もいるでしょうが、しっかりとその内容を理解するには何度も訪れる必要があるように思うのです。松林荘の存在を知っている人はさらに少ないと思います。

 

全体を見直してみることにより、新たな橋本市の魅力となる可能性を十分に備えていると思うのですが、いかがでしょうか。

 

すでに一時間が経ち、そろそろおしまいとします。

 

なお、今日のブログでは、橋本新聞の次の記事を参考にさせて頂きました。

杉村公園の松林荘…無料開放好評~2500人利用

<お知らせ>心癒す橋本市民菊花展15日まで杉村公園

微笑むお雛さま~松林荘に初展示~見に来てね


応援 【くにたち上原景観基金1万人の会】

2017-04-09 | 都市のあり方

突然ですが、くにたち上原景観基金1万人の会を紹介させて頂きます。 

私もこの弁護団の名前だけの一員でした。

こんな訴訟で負けるはずがない、そして弁護団は活動しているいずれのメンバーも精力的に見事な論陣を張っていて、一審勝訴までは私もフォローしていたのですが、負けるはずがないとの思いもあり、いつの間にか多くのメーリングリスト(この中に入るとほとんど見ない)に入っていました。

 

そしてつい最近、川崎で一緒に活動したある方のメールで、逆転敗訴確定で、新たな運動を立ち上げるとのことを知り、驚くばかりです。なぜ敗訴か、その原因も確認したいですが、その元気がいまはないので、応援だけでもと思っています。

いまの司法、行政(中央集権の行き過ぎ)への疑問を感じる方は、ぜひこの運動をご覧下さい。上原さんは90年代後半から一緒に活動してきた仲間です。彼女の国立への思いはすばらしく、その歴史的考察は、私も何度か参考にさせてもらいました。また、首長時代、さまざまな建築紛争の中で、単純に住民側の立場に立たず、慎重に法的根拠を探る姿勢をなんどか間近で感じてきました。明和事件での具体的な事実関係は、建築条例制定議会の事件を除き、私自身が関与していないので、正確なことはいえませんが、上原さんのしっかりした考え方からは、違法論は裁判所の誤りだと思っています。

 

 

 


再開発事業のこれから <阿倍野再開発 赤字2000億円>を読んで

2017-02-03 | 都市のあり方

170203 再開発事業のこれから <阿倍野再開発 赤字2000億円>を読んで

 

今日は節分、最近は豆まきに恵方巻きが流行しているとか。私のように歳時記に関心の薄い人間にとって、自然と社会の移ろいを少しは感じることができる一瞬かもしれません。

 

明日は立春で、旧暦では一年の始まりで、節分は季節の分かれ目ということで、大晦日と同趣旨ということになりましょうか。それで邪気を祓い、幸せを招き、新しい年を迎えるという意味合いのようです(新谷尚紀監修『日本人なら知っておきたい暮らしの歳時記』より)。

 

この自然と社会の移ろいが前提としていた思想は、戦後活発に行われた再開発事業をどう位置づけるのでしょうね。私は、バブルの不動産騰貴に陰りが見えだした90年代初頭、関東弁護士連合会のシンポ委員会として、首都圏一帯の再開発事業を調査し報告する企画で、一度、その委員として調べて報告を担当したことがあります。

 

私は途中から助っ人で参加したのですが、それまで事業の収益性とか、借家権保護という既存権利者の利益保護の視点で調査・報告の方向が進んでいたのを、当時の社会情勢を反映していないという切り口で、再開発のあるべき姿の主要な要因として、そのような経済的側面も重要だが、地域の環境保全の視点、地域コミュニティの再生の視点を検討する必要があるとして、大きく舵を切ってしまい、そのままその基調でシンポを運営してしまいました。

 

かなり大胆な変更でしたが、委員長はじめ多くの委員が賛同してもらい、当時としては新たな視点で再開発事業のあり方を検討できたかなと、記憶しています。問題はその後、その意見書を行政施策に反映してもらうような働きかけがほとんどできていない、持続性の欠けたことかと思っています。

 

なぜ、四半世紀も前の話をするかというと、毎日記事では、阿倍野再開発事業は、76年から本年17年までの事業期間となっていて、その収支が2000億円という巨大赤字をかかえ、事業主体の大阪市、市民の負担となるからです。

 

私は阿倍野を訪れたことがないので、どんなところか知りませんが、写真で見る限り、周辺一帯が木造戸建ての密集地だったところで、大きな一画を容積率をアップさせ、高層ビルと公共空間や道路などのインフラ整備する、当時はやりの、しかし過去おそらく前例のない規模で行う計画だったことに驚きを隠せません。

 

ちょっと比較するのが適切かは気になりますが、みなとみらいMM21で多くの訪問者で活況を浴びている、横浜市の再開発プランは、企画調整局という新組織により、縦割り行政を廃し、総合的で大胆な基本計画で横浜市の改造を行った発展系ではないかと思います。そのトップであった田村明氏は、著書『都市ヨコハマをつくる』で書いていますが、横浜市全体の独自の都市像について、市民参加を格段に取り入れ、持続的な計画として、進めていったと思います。田村氏を招待してお話しをうかがったことがありますが、その思想は一貫しつつ、時代の変化にも柔軟に対応しつつ、経済性や環境配慮にも十分に考慮して、作業を行っていったと思われます。その弟子層がその後も継続的に、大きな開発計画を実現させています。

 

ベイブリッジや地下鉄などのインフラ、そして金沢先埋立や港北ニュータウン、そして重工業地をみなとみらいに改造と、それぞれ長期計画ながら、いずれも高い評価を受ける計画を立て、実現しているのではないかと思います。

 

他方で、森ビルなどデベロッパーは、首都圏でいわゆる木密集合地をそれなりのノウハウで取得して、人気の高層ビルと公共空間を提供する事業を次々と行って、事業的には成功を収めています。それらは数ha未満の規模だと思います。多数の複雑な権利関係のある土地集団で、再開発を実施することは、事業化するにはいくつものリスクを抱えており、事業期間の問題や外部環境の変化に合わす柔軟性を的確に行ってきた結果かと思います。

 

といって私自身、こういった高層ビル自体が、その立地や、周辺環境に与える影響、地域コミュニティとの関係で、最も適切な解決策であったとか、現在ももっと妥当な手法だといった立場ではありません。ただ、事業収益性といった、事業を行う上で基本的な要素は満足されていると思われます。また、公益性の観点でも、その利用度、周辺への経済効果なども評価されてよいと思います。

 

で、上記の阿倍野再発事業検証報告書を参考に、ざっと読んでみました。基本的には、検証を行った有識者会議の課題と今後の対応策はおおむね異論はありません。

 

その意見はまず、①適切な組織運営ということで、以下の項目について問題を挙げ、対応策としています。

(1)   初動期における十分な事業執行体制の確保

(2)   相互連携とトータルコーディネートの重要性

(3)   財務リスクのチェック体制の確立と外部からのチェック

(4)   意思決定プロセスの明確化

 

これらは当然と言えば当然の内容であるにもかかわらず、問題は最初に大阪市の人的物的に不足する組織体で一般的に不可能な規模の計画を立てた企画者の意図と根拠がほとんど明確になっていない点、巨大テナント誘致を目玉にする事業が各地で破綻している状況や、バブル期崩壊など何度も計画変更を必要とする事業があったのに対応しなかった組織的欠陥が具体的にどこにあるのか必ずしも判然としない点、資料の中では明らかにされていない、意思決定プロセスの明確化をしてきしつつ、検証経過について果たして十分な開示ができているか、疑問が残ります。

 

次の②事業着手までの実現可能性検討は、上記の焼き直し的な印象がありますが、「事業着手前における十分な検討」という点を、検証作業で施工面積28haが極端に広く、しかも権利者が借家人など多数いることを踏まえています。

 

しかし、本来行うべき事業化可能性について、どのような検討がなされたかさえ、検証作業では判然としない点が問題かと思います。

 

この点有識者会議は、採算性が高く波及効果のあるA1地区について、反対世帯が半数いる中で事業を進めた点を問題にしつつ、その事業着手を断念して、別の採算性の低い地区から着手した点も問題にしています。

 

しかし、上記の評価は、結果論としてはそう言ってよいと思いますが、採算性の高い地区を含むかどうか、反対者が多い地区を含めるかどうかは、常に事業化に当たって検討することであり、その中で、それなりの理由があるからこそ事業化を進めるわけで、その理由について具体的な検証を欠いていると言わざるを得ないと思います。事業化の決定までには、76年以前、場合によっては10年近く準備過程を経て、賛成・反対などの意見聴取や計画案のすりあわせを行うのが普通でしょうから、その中で、この計画が決定された要因へのアプローチが、記録が残っていないのか、担当者がいないのか、手詰まりな印象を持ってしまいます。

 

3番目として、③PDCAの徹底(社会経済情勢への的確な対応)をあげ、具体的には次の2つを対応策としています。

(1)   時代の変化に合わせた計画の見直し

(2)   市場ニーズに対応した事業展開

 

ここで指摘されている、保留床の処分先が最も重要な成功のキーである再開発事業で、時代遅れの百貨店誘致や、賃貸市場に変更している中分譲に固執するという事業管理の問題と、資産の適正管理(適宜評価見直しなど)の欠如は、企業でも同様の問題が起こりますが、その場合倒産なりM&Aなどで企業自体が市場から撤退することもあるでしょう。大阪市という行政組織が事業能力の欠如を見事に顕在化しているのだと思います。その事業能力のない組織が気づかずに、全国的にも異質な広大な施行事業を行うことの危険性に、誰も違和感を抱かなかったのは、大阪市だけでなく、現在問題になっている東京都のこれまでも似たような実態かもしれないと感じてしまいます。

 

PDCAは、計画(plan)、実行(do)、評価(check)、改善(act)として、私の記憶では半世紀以上前(もしかして戦前からの話?)から、著名なアメリカ企業家が唱えている原則だったと思いますが、いまさらという感じです。とはいえ、行政においてこれをまったく無視してきたとは思いませんが、一般には動き出したら後戻りできないと、行政組織やその活動を皮肉って言うことが多いかと思います。

 

その意味では、PDCAは、行政組織としてもわかっているけど、できない何かがあると思うのです。そのブラックボックスにメスを入れないと、この一般論では対応策は有名無実化する恐れが高いと心配するのは私一人ではないと思うのです。

 

4番の④情報の透明化として、次の2つをあげています。

(1)   情報公開の徹底

(2)   事業収支の明確化と検証

 

ここでも費用対効果の観点が欠落していることを前提、収支明細の具体的な内容の公開や説明がなされてこなかった点を有識者会議が問題視しています。

 

たしかにそのとおりですが、はたしてこの種の市街地再開発事業において、この事業特性に応じた収支明細を的確に示すノウハウがあるのか疑問を持っています。通常の、行政の予算・決算の内容とは大幅に異なり、独自の会計基準で行う管理会計的な発想が必要だと思いますが、それを外部コンサルに丸投げでは有効ではないと思います。

 

その意味で、第一種、第二種問わず、再開発事業における収支明細の適切なあり方を、専門家とともに市民参加を得て、きちんと議論して確立する必要を感じています。

 

5番目は⑤民間ノウハウの活用は、当然と言えば当然でしょうか。ただ、平成11年度の特定建築者制度改正まで、取り組みなかったという検証結果は、その改正を重視しすぎるのではないでしょうか。

 

特定建築者制度は、その必要性から80年の都市再開発法の改正で生まれており、当時使いにくかったかどうかについての検証がなく、このような指摘だけでは、行政の適切な運営のあり方を十分検証できたとまでいえないように思います。

 

ともあれ、阿倍野再発事業は、広大な28haを長期間かけて完成に近づいているようです。それによって、事業全体の功罪を多様な観点から公開で議論してもよいのでないかと思います。この検証では、単に経済面だけの評価です。事業前後における地域コミュニティへの影響、さまざまな環境評価(事後アセスメント)、社会経済的な影響など、検討すべきことは残されているように思います。

 

私も機会があれば、この地域を歩いてみたいと思いますが、いつになるやら。そろそろ出かける時間になりました。一つの会議への参加は断念して、次の会議に間に合うようには行きたいと思います。