たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

元禄高野騒乱と裁許 FM橋本の放送を聞いてふと考える

2017-02-11 | 日記

170711 元禄高野騒乱と裁許 FM橋本の放送を聞いてふと考える

 

今朝は周りの雪景色にほれぼれしつつ、雪上で伐採作業をする元気もなく、のんびり新聞を読み、事務所に出かけました。途中、NHKCDを聞いているのですが、もう一つチャンネルがありFMはしもとが偶然、耳に入りました。普段は飛ばしてしまいますが、高野弾圧と言った言葉が漏れてきて、ふと耳をそばだてて、聞くことにしました。

 

すると、私がずっと関心をもっている大畑才蔵のことも少し取り上げられたりしたので、事務所に入っても、何年ぶりかでラジオにスイッチを入れて、聞き続けました。ラジオが事務所の中にあるのも忘れていて、使えるかな、なんて思いながら、最後まで聞きました。ほんのさわりだけですが、大畑才蔵が書いた古文書、「高野山品々頭書」(仮題)をネタにして、これを朗読して、少し解説していました。途中から聞き出したので、解説者のお名前も知りませんが、才蔵ファンの一人として、楽しい一時でした。

 

それでこの高野山内紛争とその幕府が下した大規模処分の概要について、なかなか資料がない中、才蔵の上記古文書などを踏まえながら、書いてみようかと思います。

 

これは一つは、江戸時代の裁判および執行手続きの、過渡的段階での画期的な事案であること、幕府側からその前後関係について背景などを踏まえる必要があるのではないかと思うこと、他方で、高野山側から長年にわたる相克の歴史の一環であり、最近発生した事案ともなんらかの脈略をも感じていること、その記録の一部を残した才蔵のその後の百姓としての生き方や農業土木者としての活躍とも関係する可能性があること、などを愚考しながら、少し言及しようかと思っています。

 

その前に一言、今朝の毎日記事に掲載された現代の裁判のあり方に係わるニュース<知的障者 「シャバが怖い」 窃盗累犯、福祉の谷間>は、昨日のブログでも触れた一面の問題です。刑事弁護の役割の一つとして、えん罪をなくすための弁護が重要であることは当然です。また有罪であるとしても、その犯罪の中身や量刑を適切に判断され、処断されることのために、しっかり活動することも同様だと思います。他方で、処断された後の処遇や服役して社会復帰した後の更生については、少なくない弁護士が心を痛め悩んでいるものの、より積極的な活動ができているかというと、私を含め、それほど多くないと思っています。

 

そんな中、記事で取り上げられた奈良の弁護士は、知的障害者の弁護活動の一環として、彼の過去の履歴から支援してくれる可能性のある施設に連絡して、法廷に出てもらい、事後の対応を約束してもらっています。裁判は、ある罪を犯した人に対して妥当な量刑を下すことですむ時代ではないでしょう。法曹三者だけでなく、周辺の支援体制の構築やネットワークづくりと言った社会的なインフラ整備をも考えて、その人にあった個別適切な処遇のあり方を模索していく時代ではないかと思います。それは機械的に量刑基準に当てはめて行うことでも、あるいは全部ないし一部執行猶予といった措置だけでなく、知的障害の程度や高齢者の特性、成人でもその年齢や背景などを考慮して、更生に向けた処遇のあり方を新たに制度設計する必要を感じています。

 

もう一つ、昨日取り上げたアメリカ連邦控訴審は、電話による口頭弁論(日本流に言えば審尋でしょうか)を経て、入国停止の大統領令対する即時停止仮処分について、宗教的差別などを理由に、全土的に適用される決定を下しました。刑事司法の先達として、ある種見本的な姿を見せてくれたようにも思います。むろん、本当の議論は本案訴訟でよりしっかりとした議論が行われるのだと思いますが、ただ、私のわずかな情報で見る限り、大統領側がこの大統領令が意図する危険性の立証は容易でなく、逆に、この命令により大規模で不可逆的な人権差別が合理的根拠もなくなされる危険の立証は容易でしょうから、行事差し違えといった判断は、今後も可能性が低いように思います。

 

さて、本題に戻ります。この高野山紛争は、高野山に平安期から存在する、学侶(密教に関する学問の研究・祈祷を行った集団)、行人(ぎょうにん、寺院の管理・法会といった実務を行った集団、武装した僧兵も含む)、聖(全国を行脚して高野山に対する信仰・勧進を行った集団)がいて、主に学侶と行人の間で対立を繰り返していました。

 

私の狭い知見では、12世紀の覚鑁上人が、空海入滅後に腐敗衰退した高野山を、新たな浄土思想を加味して復興させたものの、旧勢力による暴力により追い出され、両者の間で激しい対立が生じたのが最初かなと思っています。その後宝徳2年(1450年)に学侶・行人間で1,000人もの死傷者を出す衝突を起こしたのが第2段。そして今日紹介するのが第3段目です。

 

これには伏線というか、背景があるように思うのです。戦国時代、高野山は17万石、覚鑁をついだ根来寺が70万石、その間の根来寺も10万石くらい?、さらに雑賀衆も何万石というか、交易や戦争請負人として巨万の富を得ていたでしょう。それが信長・秀吉により壊滅され、高野山も、壊滅寸前のところで、武士出身の応其上人が秀吉と和議して、結局、21000石を安堵されました。しかし、17万石あったとされ、各地から浪人など多数が跋扈していたと思われる高野山ですから、簡単に、企業解体のようにうまく整理解雇?できたか、まして自然の要塞ですから、相当数が残っていてもおかしくありません。

 

それでも応其上人が目を光らして、秀吉が力を持っているときは平穏だったと思われますが、秀吉没後の関ヶ原の戦いで、応其上人が西軍に味方する活動をしたことから、高野山を出た後は、応其上人が行人のトップに後を託したものの、学侶、行人との対立は先鋭化したと思われます。

 

この紛争の最初の処断は、寛文6年(1666年)に、行人をまとめる興山寺(応其上人開基)座主の曇堂を奥州白川藩預かりにし、行人の下山を命じています。それに高野山領を監督する立場だったのでしょうか、伊都郡奉行ほか1名を改易(免職)、1名を閉門としています。

 

それでも紛争は収まらなかったのでしょう。ついに3年後には、かむろ村才蔵と伏原村才右衛門に密偵を命じて、それから、江戸時代を代表するような(これは私の勝手な見立て)大裁判執行事件となる元禄5年(1692年)までの23年間は少なくとも調査を行っていたものと思われます。

 

才蔵と才右衛門の調査内容は、記録がないのでわかりませんが、彼ら2人が抜擢された理由として指摘されている、才蔵が高野山への道筋の入り口に住んでいることや、才右衛門の村には大工が多いと言う点は、手がかりの一つとはなっても、むしろその裏があると思われます。

 

世の中は江戸時代の初期の不安定な状態から、大坂城陥落、さらに寛永14年、15年(1638年)の島原の乱で、ようやく落ち着きつつある時代でしたが、今なお宗教戦争、宗教の権益をバックに強い武力勢力が勃発するおそれが、世情不安を駆り立てる危険はありました。

 

その意味で、江戸幕府も、御三家の紀伊藩も、高野山紛争を穏便に収める必要性はあったと思われます。

 

で、当時の法律・裁判制度がどうであったかは、今のところはっきり分かりません。難波氏の「江戸時代の刑事裁判」を参考にして私見を述べます。近代刑法の大原則、罪刑法定主義としては、ある程度確立したのは吉宗が命じてつくらせた、享保5年(1720年)の「享保度法律類寄」、その後本格的なものとして完成したのが寬保2年(1742年)の「公事方御定書」です。後者は有名ですが、長い間確立した法制度がない中で、処断が行われていたのです。

 

さて、高野山紛争での処断は、基本的には遠島とか、追放が中心ではないかと思われます。預かりの場合武士であれば切腹かもしれませんが、僧侶なり行人ですので、それはなかったのでしょう。

 

で、この御定書ではどうなっているかを確認したかったのですが、はっきりしません。

主殺し、親殺しなどは、引き回しの上、磔となっていますが、他方で、単に人を殺したときは死罪としつつ、遠島になるような場合は人以外に車でひいた場合しか触れていないようなのです。

 

では、高野山紛争で、行人たちに下された、下山(追放)ないし遠島と思われる処断は、いかなる根拠かは、いまのところ分かりません。

 

そしてこの法律に当たる公事方御定書も、裁判である裁許も秘密とされていましたので、内容がわからないのも当然かもしれません。アメリカの大統領令の意思決定過程が曖昧模糊としているわけですが、それは現在の立法過程や行政過程として問題であっても、江戸時代であれば、トランプ氏も問題にされることはなかったでしょう。

 

と長々と前置きになりましたが、その江戸時代屈指の大裁判執行とは何かですが、おおよそ以下のような経過をたどっています。

 

元禄5721日から816日まで、寺社奉行の本田紀伊守以下約500人が現橋本市東家に滞在し、審理および執行を行ったのです。なお、本田は、正しくは本多正永が正しく、元禄元年に寺社奉行に抜擢されています。この人そのものも興味深い方です。というのは本多氏は、元は7000石の旗本で、寺社奉行となって1万石に加増され、その後、次々と加増され、元禄16年(1703年)には沼田藩4万石の城主となって出世しています。つまり、九度山に蟄居し大坂城で活躍した真田幸村の兄信之が上田城とともに領主となった沼田城は、真田家内紛で、この本多氏が勝ち取るという不思議な?縁です。

 

ともかく本多裁判長ならぬ寺社奉行が、500人もの役人を連れて江戸から裁判をする、しかも26日もかけるというわけですから、並々ならぬ大裁判です。そして高野山からは721日から24日にかけて行人を呼び出し、伊都郡奉行所にて25日から審理を開始しています。審理中、行人たちは拘置所などないので、近くの民家に仮の囲い場所を用意して拘束していたようです。

 

730日に評定を行い、その際、紀州藩士などが数千人が警備のために来ています。

この日に行ったのかは判然としませんが、行人寺にある武具、金、米、衣類を開封(これは差押え?)して、門戸は大工が釘で打ち付けて開かないようにしています。

 

明暦元年の高野山寺は、寺数が1853軒です。このうち行人坊が1517坊で、学侶坊が194坊、聖方が118坊、客僧坊が35坊ですから、行人坊が断然多く、力が強かったと思われます。上記の次第で、元禄4年に行人坊の1237坊が閉門(前年に裁許があり、翌年に執行となったのかと推測していますがわかりません)となっています。

 

それにしても、現在は117寺ですので、いかに多かったか、当時の図面を見ると小規模な区画で密集しています。

 

で、僧侶数は3768人で、行人が2665人、学侶が548人、聖が317人などですので、数の上でも他を凌駕していますね。

 

このような高野山実態を踏まえ、この審理の結果一部は裁許で、高野山の山腹、天野に45人を追放したり、30人が学侶にて出家・転向させたりしています。

 

で、興味深いのは、87日には本多寺社奉行ら3名の上使が高野山に登り、翌日には帰ってきていますが、寺の取りつぶしなどの執行がきちんと行われているかを検分したのでしょうか。

 

87日から8日にかけて囚人?となった行人を乗せる板囲いした大船と警備船を用意して、伊豆大島、薩摩、壱岐、肥後天草などへの遠島処分となった合計627人を乗せて、橋本から若山、さらに堺、大坂に出て、そこからそれぞれの島流し先に送られています。

 

詳細は正確に記述できたか、遠近両用のめがねを見ながらも、文献の文字を読みづらくなり、少々、間違いはあると思います。

 

いずれにしても江戸の最高裁長官的な寺社奉行が500人の職員を連れ、しかも地元も数千人を警備に当たらせて、裁許、断行したわけですから、これだけ大きな裁判執行は江戸時代でも希有ではないかと思うのです。

 

で、尾張藩畳奉行朝日文左衛門の日記「鸚鵡籠中記」に、面白い記述があります。

 

才蔵の811日の記述で、627人の行人が、遠島処断が下された後、けさ衣を脱がされ、奉行所下の紀ノ川の河原で、焼き捨てられたとされていますが、これがこの日記で事実確認されただけでなく、新たな騒動が起こったことが記述されています。

 

この日記には、袈裟衣を焼いた、その煙りを戦火と勘違いした周辺の藩士が慌て駆けつける騒ぎになり、紀州藩がこれら諸藩の藩士たちに半日かけて説明するといった、今から思えばユーモラスな光景も記録されています。

 

これだけの裁判執行ですから、周辺でも大変な騒ぎがあって、緊張していたことがわかりますが、ユーモラスでもあり、富士川の鳥の羽ばたきに驚いた平家武者のように平和を感じさせます。

 

この高野山紛争、現代版は、以前、fbに長文で書いた記憶がありますが、まだ続いているので、いつか触れてみたいと思います。空海さんに合掌。


道物語その1 里道の活用を考える

2016-11-12 | 日記

161112 道物語その1 里道の活用を考える

 

今朝はいい日和。一昨日枝打ちしていて、ブリ縄の枝が折れて木から転がり落ちた際、左手を打ち腫れ上がってしまったため、昨日は一休み。今朝は痛みが和らいだので再開。こんどは新しい枝を選んで脚の支えにしたので、しっかりと枝打ちができました。木の上からの見晴らしは格別です。枝打ちすると、樹木の間も見通しがよく、木々自体、そこから見通せる風景もいいです。いつかこのよう樹林を誰も楽しめる道を作ってみたいとずいぶん以前から思っていたことを思い出しました。

 

鎌倉に住んでいた頃、裏山が祇園山といって、鎌倉武士がつくった特徴的な都市構造の一要素である、自然の要害(世界遺産登録を目指す重要な要素)の一画が身近な存在でした。時折その稜線を歩いていまいましたが、鎌倉中心街のそばにありながら、その喧噪が嘘のように静寂で、ただコゲラ、シジュウカラなど野鳥のさえずりと、私の落葉や落枝などを踏む音だけがこだまするのがとても安らぎを覚えたものです。

 

ちょうどその頃、大佛次郎が提唱した古都保存運動を継承していた風致保存会が、市民参加をへて新しくうまれ変わろうとしていたときで、私も参加しました。今後の運動について議論するのですが、百家争鳴で、みなさん、熱心な議論をするのですが、なかなかおさまりがつかない状態でした。

 

そのとき私は、鎌倉には多くの里道、赤道が残っており、これを活用して、世界遺産に向けた保全策と、新たな観光資源にしてはどうかと意見を述べましたが、結局、大勢が参加しやすい、いくつかの案が実施されることになり、私の案は没になった記憶です。ただ、この里道は、鎌倉の緑地がさまざまな開発にさらされていたとき、保全策の一つとして大いに役立ったのではないかと思っています。そして私自身も、誰も知らないような鎌倉の赤道を、というか、ほとんど道とはいえない藪漕ぎをしたり、小さな沢を渡ったりして、鎌倉の隠れた魅力を堪能していました。あるときは、突然、遠くに富士山が見事な姿で眼前に現れたりして、この赤道らしき山道を歩くのは仕事の息抜きには最高でした。

 

さて翻って、紀ノ川沿いにある小高い山々を見ていると、それ自体すばらしい景観に思えるのです。少し山腹にそって作られた農道を歩くだけでも、清々しい心持ちと、南側だと和泉山系の山並み、北側だと高野や紀伊の山々が、そして樹林が和やかな気分にしてくれるのです。眼下を臨めば、ときおり大きく蛇行する紀ノ川の流れが、そして河畔林や田園風景がやはり気持ちを涼やかにしてくれるのです。

 

最近、黒河道(くろこみち)が高野七口の一つとして世界遺産追加登録となったことがニュースになりました。高野山の寺僧にハタゴンボなど地元の野菜を届ける、いわば高野山の隠れた動脈だったかもしれません。高野七口の歴史的な比較検討がどこまで進んでいるのか、気になるところですが、ともかくこのような古道の再生・復活は喜ばしいことと思います。

 

とはいえ、私が里道(赤道)などとともに、新たな散策路を考えているのは、この紀ノ川沿いの岸辺、山並みは、とても魅力的な21世紀的なフットパス(歩く道)になると愚考するかからです。

 

イギリスは、所有権思想を中心とする資本主義を進めたリーダー国でしたが、いくつものさまざまな権利を裁判例で認めてきました。その一つが「歩く権利」です。ご承知の通りイギリスは大地主所有地が国土をカバーしてきましたが、民衆はその私有地内を自由に歩く権利を主張し、裁判で認めさせ、法律をつくり、全土にフットパスを張り巡らせています。

 

英連邦、コモンウェルスの一つ、カナダ・ブリティッシュ・コロンビア州都ビクトリア市に滞在しているとき、その一旦をいろんな場所で経験しました。海岸は、長い散策路が作られ、一部は木道が整備されているところもありますが、まったくの自然の崖状態のところもあります。でも自然を愛するカナダ人は気に留めません。

 

川は自然に近い状態で、大量のサケが遡上するのを間近に眺めることができる近郊もあります。

 

わが国では、川は人工の河川敷をのぞき、いつの間にか釣り師か、バーベキューを楽しむ一部のひとだけ利用する場所になってしまったように思うのです。残念なことです。

 

山は木々が放置され、誰も管理をしようとしないということすら、気に留められなくなって長い年月を経ているように思います。

 

そこは多くの人の安らぎの空間になりうる場所ではないかと思うのは私だけでしょうか。一本の小道をつくるだけで、人が入り、自然の中に育まれる感覚を得ることが可能になる舞台の一つではないでしょうか。そうなれば、山の管理も次第に進むように思うのは甘い考えかもしれませんが。


高齢者の意思能力

2016-10-25 | 日記

高齢者の意思能力

 

農村や漁村などでは高齢者が割合お元気にされています。農作業も90歳くらいまではその人の調子に合わせてされているように見受けられます。しんどいときは休む。夏は朝夕の涼しいときにさっさと作業する。毎日その人が自分で負担にならない程度をわきまえてこつこつと作業しているように思えます。ある意味見事な処世術でしょうか。

 

世の中は、オレオレ詐欺とか、子どもから、あるいは施設の介護者からの虐待といった、いろいろ悲しくなる事件が聞こえてきます。

 

ところで私自身、高齢者の方から、いろいろな相談を受けたり、事件処理を引き受けたりしてきましたが、悩ましい問題の一つがその意思能力を的確に判断することの難しさです。

 

普通に日常的な話しは受け答えができる人が、財布がなくなったのは妻が持ち出したのだとか、預金が勝手に下ろされているが、長男の嫁がやったとか、別居したのに夫が近くで見張っているとか、さまざまな深刻な訴えがあります。それぞれ丁寧に一つ一つ本人の訴えに沿って仕事を勧めます。家の中を一緒に探したり、子どもに話しを聞いたりしていると、夫が一人で住んでいる家の庭の土の中から出てきたりします。あるいは別のケースでは銀行で過去の預金取引履歴を出してもらったり、預金払い戻し請求の書類を出してもらったりすると、どうも本人の署名で間違いないことが分かったりします。この種の問題は、多種多様に起こっています。

 

そのような問題の核心は、高齢者(には限りませんが)の意思能力の低下、喪失について、判断することの難しさも関係します。最近の裁判例で、興味深い事例がありました。土地取引といった場合、多くの関係者が関与します。このケースでは、ご本人は当時58歳ですから高齢者手前ですが、医師、公証人、司法書士、弁護士、宅建業者、そして裁判官といった専門家が、いずれも意思能力の有無をそれぞれの専門的見地から判断しています。ところが、それぞれ異なってしまったのです。

 

事の発端は、母親が娘に遺産である土地を全部相続させるという遺言を残したことが始まりです。それに異を唱えた兄が妹と、その10分の9については遺留分減殺合意を、残りは自己に売り渡す契約をして、公正証書を作成し、登記も了し、兄が全部を取得しました。兄は直後に不動産業者に1.3億円で売却したのです。

妹は子どもの頃統合失調症に罹患し、継続して治療を受け、兄との合意当時も入院中で、妹に成年後見が開始しました。後見人となった弁護士が兄との合意について意思能力がなく無効であるとして、兄と買主の不動産業者を相手に、各登記の抹消を求めて訴え提起し、裁判所で認められ、判決が確定し、不動産業者は土地所有権を失いました。これが最初の裁判。

次に、その業者が、登記手続きをした司法書士を相手に、妹の意思能力の欠如を前提に、司法書士が委任者の登記意思やその能力、意思能力の有無を確認すべき義務を負うのに、怠ったなどを理由に損害賠償請求の訴訟を提起したのですが、こんどは裁判所が妹の意思能力を認め、敗訴となっています。

 

2つの訴訟では、成年後見申立の際に主治医の診断は統合失調症等を理由に判断能力欠如としたのに対し、公証人は意思能力を認め、司法書士も同様です。これに対し、成年後見人となった弁護士は意思能力なしと判断して訴訟提起し、その訴訟では裁判官もこれを認めたのです。

これに対し後の訴訟では、裁判官は、カルテなど診療記録を基に、妹の症状経緯を詳細に分析し、医師の回復可能性がないとの診断の誤りを指摘し、公正証書作成や登記手続き時点で意思能力があったことを認めています(平成24627日東京地判・判例時報217836頁)。判決文を読む限り、後者の裁判官の認定に軍配を上げたいですね。

 

成年後見事件で申立人や後見人として仕事をしているとよく分かるのですが、医師の診断が主治医であっても、この分野については妥当しないことが少なくないように思っています。精神状態というのは、必ずしも安定的なものでないこと、意思能力という法律行為をする能力については医師の診断も一要素に過ぎないことなど、指摘できるかもしれません。

 

ところで、公証人は、一般に、本人かどうかの確認や、意思能力の有無をできるだけ的確に判断するように、長谷川式などを参考に質問しどのような回答があったかとか、付添の家族の情報をしっかり記録している人が多いと思います。司法書士や弁護士にもそのようなチェック機能とその記録が求められていると思います。

ただ、最も基本は、ご本人に対する礼節と親和の心をおろそかにしないことと思うのです。明治維新の前後に訪れた異国人から日本人が敬意をもって見られた大きな要素の一つは、他人に対し礼節をと親和の気持ちをもって処する姿勢ではないかと思います。

 

とはいえ、私はこのような最近の傾向を垣間見ながら、般若心経を思い浮かべてしまいます。お金や資産といった形は実体がないのですから(色即是空、空即是色)、結局、感覚も意志も知識もないのですので(無受想行識)、思い悩んでもしかたないことかもしれません。