たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

山林所有のあり方 <明治政府の山林所有制度を少し考えてみる>

2018-08-06 | 不動産と所有権 土地利用 建築

180806 山林所有のあり方 <明治政府の山林所有制度を少し考えてみる>

 

日本人は戦国時代や幕末期の激動が好きなようです。大河ドラマでも繰り返し取り上げられても、人気が落ちないようです。刷り込まれているのでしょうか。いや、日本人の感性にあっているのでしょうか。ま、どちらでもいいですが。

 

維新政府が行ったさまざまな改革も話題になりつつも、庶民レベルではさほど舞台としては登場しないように思います。地租改正といった大改革についても、その影響をめぐる庶民の生活をリアルに取り上げられることは上記に比べれば格段に少ないように思います。

 

それでも田畑の場合は、大地主と小作の分化が急激に増大し、小説などの舞台にもなってきたように思います。他方で、山林はというと、それほど注目されてこなかったと思うのは私の狭い了見でしょうか。入会林野が山林の所有利用形態として維新前と維新後、さらには戦後まで、長く続いてきた、と同時に戦いの歴史が刻まれてきたのですが、それほど多くとりあげられていないように思うのです。

 

最近の山林問題は、所有者不明、境界不明、管理されない意味での荒廃状態が話題となっています。しかし、おそらく維新までは使い尽くされて荒廃するリスクが懸念されたりしても、所有者不明とか境界不明といったことはあまりなかったのではないかと思います。

 

わが国では入会林野、あるいは入会権といわれるものが、英連邦ではコモンズ、北欧ではアッレマンスレット(スウェーデン)、ヨカミエヘンオイケウス(フィンランド)などと呼ばれているもの、あるいは熱帯地方や北極圏など先住民世界でのカスタマリーライトといったものも共通の山林などの所有に代わる共同利用概念が根底にあるように思えるのです。

 

ところで、現代の山林所有問題を考える上で、明治政府の山林所有制度の推移を考えておくのも参考になるのではと思っています。というのは渡辺尚志著『百姓たちの山争いの裁判』の中に、「明治時代の林野政策の流れ」がコンパクトに整理されており、私も今後の頭の整頓のために、ここで引用させていただき、考えてみようかと思います。

 

わが国の農山村社会の基礎は林野の入会利用であったように思うのです。それは最後の命綱のように強固なものであったように思うのです。幕藩体制が崩壊し、武士が刀をとられても、人口の大部分を占める百姓はそこに安定的な基盤があったので、江戸幕府が倒れてもびくともしなかったのではないかと思います。

 

地租改正で、地券の交付を受け、地価の3%の租税を納付することになっても、それほど大きなショックもなく、所有権というものの意味合いも漠然としか感じていなかったのではなかったでしょうか。

 

しかし、明治政府がはじめはゆるりと、そして急速に拡大した、山林の民間払い下げ制度は、次第に山林に対する農民の意識を変えていくことになったのではと思うのです。渡辺著作を私なりに簡潔に記述してみます。

 

明治3年(1870)9月、「開墾規則」 払い下げ制度は、まず所有関係の明確でない山林原野からスタートしました。紛争の起こりにくいところからという常套策です。興味深いのは所有者不明ともいうべきところを、政府が払い下げたのです。私有制度が確立していなかったのでできたのでしょうか。

 

明治4年8月の「荒蕪不毛地払下規則」 次は村中入会・村々入会となっていた林野の一部が対象となりました。

 

明治5年 官林の払下げが認められ、わずか2年で民有化を拡大しています。

 

明治7年11月「地所名称区別改正法」 よく意味の分からない法律名ですが、これが大変革の制度と言って良いでしょう。というのは私有であることを証明できないと、公有となるのです。「全国の土地を官有地と民有地の二種に区別したが、この時点で存在した入会地は「所有の確証」がない限りすべて官有地に編入されることになった。」

 

明治9年1月「山林原野等官民有区分処分方法」 上記の大変革をさらに実効生あるものにしたのがこの法律です。「これが、地租改正にともなう、山林原野の「官民有区分」である。具体的には「官有地と民有地の区分の具体的な基準が示された。そこでは、文書等による人民所有の確証が得られない土地は官有地とするものとされた。総じて民有地の認定基準はたいへん厳しく、その結果入会地の相当部分が官有地とされてしまったのである。」

 

これと同じような法令に遭遇しました。私はボルネオでの熱帯林調査の中で、先住民が何世代にもわたって行ってきた焼き畑耕作が英連邦化で導入された法令(名称を失念)の中に、いくつかの条件を定め、その条件に当たらないものは国有地とするというものでした。その一つにたしか排他的占有支配の継続があったように思います。ところが、焼き畑耕作は、土地の栄養を持続的に保持するため、20年周期で焼き畑地を変えていく移動耕作でしたから、ある土地を焼き畑すると(たとえば50haくらい)、20年間は放置するのですから、その土地利用が認められないことになるのです。

 

他方で、明治政府は当初、「江戸時代以来の入会慣行についてはあまり問題にしなかった。そのため、農民たちの、なかにも、たとえ入会地が官有地にされても、従来通りの山野利用が許される、ならばそれでもよいと考える者が多かった。むしろ官有地となったほうが、租税を払わなくて済むと考えた者もいたのである。」そこで悲劇が生まれたのです。

 

最近、森林窃盗とか、盗伐といった言葉を聞くチャンスはほとんどありませんね。でも私が刑法を学んだとき、この言葉がすぐ頭に残りました。戦前はもちろん、戦後もしばらく相当数の事件があったのです。

 

それは明治政府が入会慣行を取り締まるようになり、刑法犯として処罰するという厳罰主義に変わったからです。

 

明治10年 官林監守人制度 「監守人に官林を管理させた。」

明治19年 大・小林区制 無許可で官林に入山した者は森林窃盗の容疑で起訴

明治21年 鑑札(利用許可証)制度 官有地を利用するには鑑札が必要

明治23年 官民有区分に起因する紛争(盗伐)の裁定機関として行政裁判所を開設

しかし、行政裁判所は政府側を追認することに終始して、紛争は収まらなかったのです。

 

明治32年 「国有土地森林原野下戻法」農民に国有地の払い下げを認めたものの、ほんの一部だけだったので、問題解決にはならなかったのです。

 

以上、渡辺著作を引用して私見もすこし書いてみました。

山林所有の官有化がかなり一方的に行われ、農民たちの慣行的利用に対して盗伐という刑罰で対処するという強引な施策が行われてきたことを記憶しておいて良いと思うのです。

 

山林の所有・利用形態は、地域で相当異なり、地域特性を意識しながら、考える必要がありますが、山林特有の所有のあり方というものも考えておくべきかと思うのです。

 

今日はこれにておしまい。また明日。


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