広島でG7外相会議が行われ、「広島宣言」が採択された。
その宣言自体については、G7が一致結束して核軍縮、核不拡散に取り組むというのだから結構なことだろうが、しかし、「核の非人道性」を宣言のなかに盛り込まなかったという点については被爆者団体などから「失望した」という声も出ているそうだ。
また、宣言のなかに「非人間的苦痛」という文言があるが、これについても外務省の強引な「意訳」ではないかという指摘がなされている。朝日新聞電子版の記事によると、原文の英語ではhuman suffering という語句が使われているが、これは「人的苦痛」とでも訳すのが妥当で、“非人間的”と訳するのは無理があるというのである。日本の国内世論に配慮して「唯一の被爆国として主張するべきことは主張した」という体裁を取り繕うために外務省がそういう苦し紛れの“意訳”をしたのではないか……という疑念が出てくる。
実際には、先述のとおり「非人道性」という言葉は核保有国に配慮して盛り込まれなかった。
そして、残念ながら、これは驚くべきことでもない。日本はこれまで、核兵器禁止条約の交渉開始を求める国連決議採択に棄権し続けているし、NPT準備委員会といった場での「核兵器の非合法化」の試みに賛成しないという態度を一貫してとりつづけてきたからだ。これは、日本がアメリカの「核の傘」に守られている、という考え方からきているわけだが、唯一の被爆国として恥ずべきことといわなければならない。
そして、さらに恥ずべきことは、日本国内の政治家などがここにきてまたぞろ核保有論を口にしているということだ。お騒がせの米共和党トランプ候補が日本や韓国の核武装を容認するような発言をしたことで、日本でも核武装論を唱えるような論者が勢いづいてきている。たとえば、先月は、松井一郎大阪府知事が「何も持たないのか、抑止力として持つのか、という議論をしなければならないのではないか」と述べ、今月には、政府が「憲法は核兵器保有を禁止しているわけではない」という答弁書を閣議決定した。
私にいわせれば、これはもう狂気としかいいようがない。
核保有論者の主張は「核による報復を準備しておくことで核兵器によって攻撃されるのを防ぐことができる」というものだ。そっちが核攻撃をしてくれば、こっちも核で応戦する。双方が破滅する。それが抑止力となって核攻撃を防ぐことができる……という発想である。
この仕組みは、その筋の人たちの専門用語では“相互確証破壊”と呼ばれる。英語でいうと、Mutual Assured Destruction――略してMADで、文字通り「mad=いかれてる」とよく揶揄されるのだが、まさにそのとおりで、これはもう『博士の異常な愛情』の世界、狂気以外のなにものでもないのである。
核抑止力というものを別に否定はしないが、しかし、日本が核武装するというのはまったくばかげた話だ。よくいわれることだが、たとえば核実験をこの日本のどこでやるのか。その一点を考えただけでも、日本の核武装は非現実的である。
そして、核攻撃を防ぐという点においても、核抑止力は必要ないという意見を唱える論者が、核大国アメリカで政権に関与していた元軍人のなかにもいる。
コリン・パウエル元国務長官である。
そのパウエル氏について、今から三年前に日本の朝日新聞が取材した記事を以下に引用しよう。(電子版2013年7月10日の記事より)
《米国の核戦略の最前線にいた元軍人による核兵器不要論として注目される。
パウエル氏は、核武装したインドとパキスタンの間で2002年に緊張が高まった際、パキスタン首脳に広島、長崎の被爆後の悲惨な写真を思い起こすよう説いて、対立緩和に導いた秘話も明かした。被爆地の記憶が、実際の国際政治に影響を与えたとの証言だ。
この対立では、両国が核による威嚇も辞さない恐れがあった。国務長官だったパウエル氏はパキスタン首脳に電話し「あなたも私も核など使えないことはわかっているはずだ」と自重を促したという。さらに「1945年8月の後、初めてこんな兵器を使う国になるつもりなのか。もう一度、広島、長崎の写真を見てはどうか。こんなことをするのか、しようと思っているのか」と迫ると、パキスタン側は明確に「ノー」と答えた。インド側への働きかけでも同様な反応だった。こうした説得の結果、危機は去った、と振り返った。
パウエル氏は、かねて核兵器は不必要との考えを示していた。今回その理由を詳しく問うと「極めてむごい兵器だからだ」と明言し、「まともなリーダーならば、核兵器を使用するという最後の一線を踏み越えたいとは決して思わない。使わないのであれば基本的には無用だ」と強調した。
核実験やミサイル実験を繰り返す北朝鮮への抑止策としては「(米国の)通常兵力は強力であり、核兵器を使わなければならないことはない。もし北朝鮮が核兵器を使ったり使おうとしているとみたりした場合、米国はすぐ北朝鮮の体制を破壊するだろう」と主張。
核の抑止力そのものは否定せず、「政治的な意味」があるため北朝鮮は核に頼っているとした。ただ、使えない兵器である核を持つことは、彼らを守ることにはならず、むしろ自殺行為だと強調した。》
パウエル氏は、ブッシュ政権のイラク攻撃に関与した(もっとも、最後まで慎重姿勢を示したといわれる)人物であるが、この核兵器不要論に関しては、私もほぼ同意する。まともな思考力をもっていれば、核兵器など使えない。そして、まともな思考力をもっていなければ、そいつはMADなのだからたとえ自分が破滅するとわかっていても核兵器を使うだろう。したがって、核兵器による抑止は絶対的なものにはならない。核を保有しているから絶対安全などということはない――というのが私の考えだ。
いずれにせよ、日本が核兵器をもつことなど考えられない。
こんな当たり前のことをことさらに主張しなければならないというのは、唯一の被爆国としてじつに情けないことといわなければならない。
その宣言自体については、G7が一致結束して核軍縮、核不拡散に取り組むというのだから結構なことだろうが、しかし、「核の非人道性」を宣言のなかに盛り込まなかったという点については被爆者団体などから「失望した」という声も出ているそうだ。
また、宣言のなかに「非人間的苦痛」という文言があるが、これについても外務省の強引な「意訳」ではないかという指摘がなされている。朝日新聞電子版の記事によると、原文の英語ではhuman suffering という語句が使われているが、これは「人的苦痛」とでも訳すのが妥当で、“非人間的”と訳するのは無理があるというのである。日本の国内世論に配慮して「唯一の被爆国として主張するべきことは主張した」という体裁を取り繕うために外務省がそういう苦し紛れの“意訳”をしたのではないか……という疑念が出てくる。
実際には、先述のとおり「非人道性」という言葉は核保有国に配慮して盛り込まれなかった。
そして、残念ながら、これは驚くべきことでもない。日本はこれまで、核兵器禁止条約の交渉開始を求める国連決議採択に棄権し続けているし、NPT準備委員会といった場での「核兵器の非合法化」の試みに賛成しないという態度を一貫してとりつづけてきたからだ。これは、日本がアメリカの「核の傘」に守られている、という考え方からきているわけだが、唯一の被爆国として恥ずべきことといわなければならない。
そして、さらに恥ずべきことは、日本国内の政治家などがここにきてまたぞろ核保有論を口にしているということだ。お騒がせの米共和党トランプ候補が日本や韓国の核武装を容認するような発言をしたことで、日本でも核武装論を唱えるような論者が勢いづいてきている。たとえば、先月は、松井一郎大阪府知事が「何も持たないのか、抑止力として持つのか、という議論をしなければならないのではないか」と述べ、今月には、政府が「憲法は核兵器保有を禁止しているわけではない」という答弁書を閣議決定した。
私にいわせれば、これはもう狂気としかいいようがない。
核保有論者の主張は「核による報復を準備しておくことで核兵器によって攻撃されるのを防ぐことができる」というものだ。そっちが核攻撃をしてくれば、こっちも核で応戦する。双方が破滅する。それが抑止力となって核攻撃を防ぐことができる……という発想である。
この仕組みは、その筋の人たちの専門用語では“相互確証破壊”と呼ばれる。英語でいうと、Mutual Assured Destruction――略してMADで、文字通り「mad=いかれてる」とよく揶揄されるのだが、まさにそのとおりで、これはもう『博士の異常な愛情』の世界、狂気以外のなにものでもないのである。
核抑止力というものを別に否定はしないが、しかし、日本が核武装するというのはまったくばかげた話だ。よくいわれることだが、たとえば核実験をこの日本のどこでやるのか。その一点を考えただけでも、日本の核武装は非現実的である。
そして、核攻撃を防ぐという点においても、核抑止力は必要ないという意見を唱える論者が、核大国アメリカで政権に関与していた元軍人のなかにもいる。
コリン・パウエル元国務長官である。
そのパウエル氏について、今から三年前に日本の朝日新聞が取材した記事を以下に引用しよう。(電子版2013年7月10日の記事より)
《米国の核戦略の最前線にいた元軍人による核兵器不要論として注目される。
パウエル氏は、核武装したインドとパキスタンの間で2002年に緊張が高まった際、パキスタン首脳に広島、長崎の被爆後の悲惨な写真を思い起こすよう説いて、対立緩和に導いた秘話も明かした。被爆地の記憶が、実際の国際政治に影響を与えたとの証言だ。
この対立では、両国が核による威嚇も辞さない恐れがあった。国務長官だったパウエル氏はパキスタン首脳に電話し「あなたも私も核など使えないことはわかっているはずだ」と自重を促したという。さらに「1945年8月の後、初めてこんな兵器を使う国になるつもりなのか。もう一度、広島、長崎の写真を見てはどうか。こんなことをするのか、しようと思っているのか」と迫ると、パキスタン側は明確に「ノー」と答えた。インド側への働きかけでも同様な反応だった。こうした説得の結果、危機は去った、と振り返った。
パウエル氏は、かねて核兵器は不必要との考えを示していた。今回その理由を詳しく問うと「極めてむごい兵器だからだ」と明言し、「まともなリーダーならば、核兵器を使用するという最後の一線を踏み越えたいとは決して思わない。使わないのであれば基本的には無用だ」と強調した。
核実験やミサイル実験を繰り返す北朝鮮への抑止策としては「(米国の)通常兵力は強力であり、核兵器を使わなければならないことはない。もし北朝鮮が核兵器を使ったり使おうとしているとみたりした場合、米国はすぐ北朝鮮の体制を破壊するだろう」と主張。
核の抑止力そのものは否定せず、「政治的な意味」があるため北朝鮮は核に頼っているとした。ただ、使えない兵器である核を持つことは、彼らを守ることにはならず、むしろ自殺行為だと強調した。》
パウエル氏は、ブッシュ政権のイラク攻撃に関与した(もっとも、最後まで慎重姿勢を示したといわれる)人物であるが、この核兵器不要論に関しては、私もほぼ同意する。まともな思考力をもっていれば、核兵器など使えない。そして、まともな思考力をもっていなければ、そいつはMADなのだからたとえ自分が破滅するとわかっていても核兵器を使うだろう。したがって、核兵器による抑止は絶対的なものにはならない。核を保有しているから絶対安全などということはない――というのが私の考えだ。
いずれにせよ、日本が核兵器をもつことなど考えられない。
こんな当たり前のことをことさらに主張しなければならないというのは、唯一の被爆国としてじつに情けないことといわなければならない。