集団的自衛権の行使例を検証するシリーズの第三弾として、今回は、いよいよベトナム戦争をとりあげる。
ベトナム戦争は、そのはじまりから終結にいたるまでの経緯の理不尽さ、規模の大きさ、犠牲の多さ、結果の不毛さといった点で、集団的自衛権史上でも屈指の失敗例といえる。
一応、ベトナム戦争開戦直前までの歴史を大雑把に書くと、次のようになる。
――19世紀からフランスの植民地であったベトナムは、第二次大戦中の日本による一時的な占領期間を経て、戦後フランスとの独立戦争に勝利し、フランス勢力を撤退させることに成功する。だが、それですんなり独立とはいかなかった。当時の東西冷戦の時代背景のなかで、米中ソなどの思惑がからみあい、北緯17度線を境界として南北に分断され、ちょうど北朝鮮と韓国のようなかたちになった。朝鮮半島と同様、北は社会主義陣営、南は資本主義陣営に属した。
そして、その南側の「ベトナム共和国」を支援したのが、アメリカである。
共産主義がインドシナ半島に浸透するのを防ぐために、アメリカは生粋の反共主義者であるゴ・ディン・ジェムを政権につけた。しかし、この男はとんでもない独裁者で、それで都合が悪くなると、クーデターを支援してカーン政権を誕生させるなど、アメリカは露骨に南ベトナムの内政に干渉した。この政変以後、南ベトナムは1年半ほどの間に8回もクーデターが繰り返されるという混乱状態に陥る。このような状況の中でおきたのが、ベトナム戦争である。
まず、経緯の理不尽さについて。
戦争そのものの発端は、1964年のいわゆるトンキン湾事件である。
この事件は、1964年、8月2日、北ベトナムの沿岸をパトロールしていた米海軍の駆逐艦マドックスが、トンキン湾の公海上で北ベトナムの哨戒艇に攻撃されたというものだ。その後8月4日にも攻撃があったとして、ジョンソン大統領は報復攻撃を宣言。翌65年には、北ベトナム側を爆撃する「北爆」にも踏み切り、ベトナム戦争は一気に拡大していく。
さて、戦争の発端となったトンキン湾事件だが、8月4日の攻撃については、後にねつ造であることがあきらかにされている。
また、8月2日の交戦についても、「ただパトロールをしていただけのアメリカの駆逐艦が突然奇襲を受けた」というような性質のものではない。
当時アメリカの支援によって、南ベトナムが北に対して介入する「34A作戦」と呼ばれる作戦が展開されており、マドックスはこれを支援する「デソート」哨戒作戦に従事していた。つまり、北ベトナムにしてみれば、マドックスは自国に対する攻撃を支援している駆逐艦であり、当然攻撃対象となるわけである。つまり、この2件の攻撃は、前者は、米軍の挑発的な行動に対して北ベトナムが反撃してきたものであり、後者はねつ造ということになる。この事件で、米議会では、戦争拡大の全権を大統領に白紙委任する「トンキン湾決議」が採択されることになるわけだが、当時のリンドン・ジョンソン大統領は、議会で嘘をつき、全権委任のようなことをさせたのである。しかも、「慎重に行動する」という約束も守られず、ベトナムへの介入は際限なく拡大していく。
そして、北爆に関しても、直接には65年の2月に南ベトナムの米軍基地が南ベトナム解放民族戦線(親北ベトナムのゲリラ組織)の攻撃を受けたことを理由としているのだが、実際には前年にすでにホワイトハウスの戦略会議で65年早期の北爆実施大綱が承認されており、報復というのは口実にすぎないといわれている。
残されている資料からあきらかになっているのは、アメリカは1964年のかなり早い段階から北ベトナムへの進攻という方針を決めていたということだ。しかし、自分の側から攻撃をするのははばかられる。そこで「攻撃を受けた」と言いがかりをつけて、議会をだまして大統領に対する白紙委任をとりつけ、軍事介入の道をひた走った。
このように、アメリカが嘘や捏造で戦争に突き進んでいったというのがベトナム戦争である。
これは集団的自衛権の行使事例の一つであるわけだが、こうした経緯をみていれば、「集団的自衛権によって平和と安全が守られる」などとはいえないことがよくわかる。むしろ、米軍と密接な関係にあるおかげで、南ベトナムは集団的自衛権の行使によって戦争に巻き込まれたのである。
このようなアメリカの身勝手さは、ベトナム戦争のさまざまな段階で見られる。
たとえば、トンキン湾事件から4年後の1968年。この年、北ベトナムと解放戦線は、南のサイゴン政府に対して大攻勢をかける。いわゆる「テト攻勢」である。これによって、一時はサイゴンのアメリカ大使館までが占拠されるという事態に陥り、このあたりからベトナム戦争は潮目が変わってくる。サイゴンでの戦闘がテレビ中継され、アメリカでは戦争反対の声が拡大していき、さらに、この年に起きた“ソンミ村の虐殺”も、それに拍車をかける。
この状況に、アメリカは「ベトナム化」という方針を打ち出した。
ベトナム化とは、「ベトナムのことはベトナムにまかせる」という意味で、つまりアメリカは前面には出て行かず、南北ベトナム間で決着をつけさせようということである。
自分で戦争を引き起こしておいて今さらなにをいっているんだ、という話なのだが、これがアメリカという国の思考回路なのだ。あれこれ手出し口出ししておいて、都合が悪いとなるとさっと手を引いて、あとは自分たちでやってくれ、という。こうした歴史を教訓とすれば、アメリカとの同盟によって日本が守られるなどという保障はどこにもないのである。
そして、アメリカの身勝手はこれにとどまらず、ベトナム戦争の最終盤においても発揮される。
1970年代になると、アメリカはさらに一歩引いたところまで後退し、1973年にパリ和平協定に調印し、ベトナムから軍を撤退させる(※)。ただし、この和平協定は形ばかりのもので、実際にはアメリカはその後も南ベトナムを支援し続けるつもりでいて、そのために大量の軍需物資を提供していた。その結果、戦争終結までの二年間は、南の軍事力は北をはるかに圧倒していた。
しかし、にもかかわらず、南ベトナムは敗北する。
原因はいろいろあるだろうが、その一つに、アメリカ側が支援を大幅に削減したことがある。
1970年代前半には、いわゆるオイルショックとニクソンショックという二つの大きな国際的事件があり、そのいずれもが、ベトナムに対する援助の削減という方向に働いた。また、時を同じくして、ウォーターゲート事件で1974年にニクソン大統領が辞任に追い込まれる。南ベトナム支援に積極的だったニクソンの辞任は、アメリカのベトナム政策に少なからぬ影響を与え、1974年には、南ベトナムへの支援は大幅に削減されていく。「これ以上南ベトナムを援助しても無駄になるだけ」という判断もあって、議会もペンタゴンも、事実上サイゴンを“見捨てる”決定を下していった。アメリカの支援なしには持続不可能な状況に陥っていた南ベトナムは、これによって急速に崩壊にむかっていく。
この顛末は南ベトナムの側からすれば開いた口がふさがらないだろう。自分の都合で勝手に戦争をはじめておいて、南ベトナムをそこに巻き込み、勝てそうにもないとみると、援助を打ち切ってしまうのだから。
これは、以前どこかの政治家が挙げていたたとえ話になぞらえていえば、友人のアソウくんが他校のグループに勝手に喧嘩を売って自分も一緒に喧嘩する羽目になり、その喧嘩が不利になると、言いだしっぺのアソウくんだけが勝手に逃げ出してしまった……というようなものである。取り残されたアベくんは、他校グループに袋叩きにされるしかない。
そしてそれが、南ベトナムを実際に見舞った運命だった。
アメリカの後ろ盾をほとんど失った南ベトナムは、物理的戦力のうえではいまだ圧倒的に有利であるにもかかわらず、敗戦に敗戦を重ね、1975年に無条件降伏。10年余にわたった戦争は終結し、北によってベトナムは統一された。
結果としては、アメリカは、自分の起こした戦争で存亡の危機に立たされた南ベトナムを見捨てて支援を打ち切り、見殺しにしてしまった。繰り返すが、自分で戦争を起こしておいて、である。
二点目に、ベトナム戦争の規模の大きさについて。
この戦争は、南北ベトナムだけでなく、カンボジアやラオスといった周辺諸国にも飛び火した。サイゴン軍と米軍が相手にしていたのはゲリラで、ゲリラたちは国境などおかまいなしにインドシナの密林のなかを縦横無尽に移動する。そのため、周辺諸国にも影響を及ぼさずにはいなかったのである。また、ラオスのパテト・ラオ(ラオス愛国戦線)はベトナム戦争開始以前からアメリカにとって脅威となっていたし、カンボジアは表向き中立だったものの、実際には北ベトナムや解放戦線を支援し、物資や基地を提供していた(そのためアメリカは、1970年に親米派のロン・ノル将軍にクーデターを起こさせ、カンボジアに親米政権をつくった)。
そして、そういう状況があったから、密林をなくすために、あの悪名高き“枯葉剤”が使用された。“オレンジの代理人”とも呼ばれたこの薬剤に含まれるダイオキシンが新生児の異常を引き起こす(アメリカ側は因果関係を認めていないが)など、戦争が終ったあとにも長期にわたって傷跡を残すことになる。
また、ベトナム戦争には、ほかにも複数の国が関与している。北ベトナムは共産主義陣営の中国やソ連が支援していたし、南側はアメリカが支援し、オーストラリアやニュージーランド、韓国など、複数の国が資本主義陣営として参戦した。これらもまた集団的自衛権の行使事例とされるが、集団的自衛権を行使したことによって、これだけ大規模な戦争になってしまったわけだ。ベトナム戦争は、集団的自衛権がむしろ紛争を拡大させ、泥沼化させるという実例でもある。
犠牲の多さについて。
ベトナム戦争の死者がどれぐらいなのかというのははっきりしないが、百数十万人とも、二百万人を超えるともいわれている。ほかの事例との比較は難しいが、第二次大戦後の紛争のなかでもかなりの犠牲者数であることは間違いない。
結果の不毛さについては、いうまでもあるまい。
多大な戦費を費やし、多くの犠牲を払いながら、結局アメリカは南ベトナムを守ることはできなかった。「自国に都合のいい独裁体制を維持する」という目的自体どうかと思うが、百歩譲ってそれを正当なもの、あるいは冷戦下でやむをえないものと認めるとしても、その目的も果たせていないのである。結局ベトナムは「社会主義共和国」として統一され、「共産主義の浸透を防ぐ」ことはできなかった。
しかも、ベトナム戦争の不毛さは、単に目的を果たせなかったというだけではない。そのうえ、膨大な戦費を費やしたことで自国の衰退をも招いている。まったく馬鹿げた所業というほかないではないか。
これが、集団的自衛権によって引き起こされた歴史的事実である。
「集団的自衛権によって平和が守られる」という主張が幻想だと私が主張するのも、おわかりいただけるだろう。
そして、アメリカという国がそんなに頼りになるものではないということもこれでわかる。米軍の存在は、戦争に対する抑止にならなかったし、実際に戦争が起きたときにそれに勝つ助けにもならなかった。それどころか、アメリカは、むしろ戦争を引き起こす引き金を引き、そうしておいて、戦争に勝てそうにないとなると“同盟国”を見捨ててしまったのである。
「米軍が駐留していることによって日本の安全が守られる」と主張する人たちは、この事実を直視すべきである。米軍が駐留しているということは、ある意味ではそれ自体が戦争を引き起こすリスクを抱えることであり、また実際に戦争になったときにアメリカが日本を守ってくれる保証などないのだ。日米安保条約に基づく行動も、究極的には議会の承認が必要であり、議会が“ノー”といえば米軍は手を引かざるをえなくなる。そして、たとえ軍事的事情がどうあれ、政治的、経済的に困難な状況があれば、議会は“ノー”という。それが、ベトナムの教訓である。
ベトナム戦争は、複数の国に多大の犠牲を出したうえに、集団的自衛権の行使によって守られるはずの南ベトナムは消滅してしまい、行使した側のアメリカも、多くの兵士の命が失われただけでなく、経済的・政治的・心理的に大きなダメージを受けた。あえて誰が得をしたかといえば、集団的自衛権行使によって攻撃を受けた北ベトナムなのである。ばかげているとしかいいようがない。
前回までに挙げた東欧や中東での集団的自衛権行使事例も失敗に終ったものばかりだったが、ベトナム戦争はそれらをはるかに凌駕する、あまりにも無惨な失敗である。そして、先にいってしまえば、これ以後の事例もたいていこんなものだ。集団的自衛権は、事態をなんら解決に導くものではなく、泥沼化させ、悪化させるだけでしかない。前時代的な植民地主義と覇権主義の残滓であり、平和も安全ももたらさない、百害あって一利なしの代物なのである。
※…ちなみに、この和平交渉の担当者として、アメリカ側のキッシンジャーと北ベトナム側のレ・ドク・トは、1973年のノーベル平和賞に選ばれているが、このうちレ・ドク・トのほうは賞を辞退している。戦争をはじめたのはアメリカであり、そのアメリカ側の関係者とともに平和賞を受賞することはできない、という理由からである。
ベトナム戦争は、そのはじまりから終結にいたるまでの経緯の理不尽さ、規模の大きさ、犠牲の多さ、結果の不毛さといった点で、集団的自衛権史上でも屈指の失敗例といえる。
一応、ベトナム戦争開戦直前までの歴史を大雑把に書くと、次のようになる。
――19世紀からフランスの植民地であったベトナムは、第二次大戦中の日本による一時的な占領期間を経て、戦後フランスとの独立戦争に勝利し、フランス勢力を撤退させることに成功する。だが、それですんなり独立とはいかなかった。当時の東西冷戦の時代背景のなかで、米中ソなどの思惑がからみあい、北緯17度線を境界として南北に分断され、ちょうど北朝鮮と韓国のようなかたちになった。朝鮮半島と同様、北は社会主義陣営、南は資本主義陣営に属した。
そして、その南側の「ベトナム共和国」を支援したのが、アメリカである。
共産主義がインドシナ半島に浸透するのを防ぐために、アメリカは生粋の反共主義者であるゴ・ディン・ジェムを政権につけた。しかし、この男はとんでもない独裁者で、それで都合が悪くなると、クーデターを支援してカーン政権を誕生させるなど、アメリカは露骨に南ベトナムの内政に干渉した。この政変以後、南ベトナムは1年半ほどの間に8回もクーデターが繰り返されるという混乱状態に陥る。このような状況の中でおきたのが、ベトナム戦争である。
まず、経緯の理不尽さについて。
戦争そのものの発端は、1964年のいわゆるトンキン湾事件である。
この事件は、1964年、8月2日、北ベトナムの沿岸をパトロールしていた米海軍の駆逐艦マドックスが、トンキン湾の公海上で北ベトナムの哨戒艇に攻撃されたというものだ。その後8月4日にも攻撃があったとして、ジョンソン大統領は報復攻撃を宣言。翌65年には、北ベトナム側を爆撃する「北爆」にも踏み切り、ベトナム戦争は一気に拡大していく。
さて、戦争の発端となったトンキン湾事件だが、8月4日の攻撃については、後にねつ造であることがあきらかにされている。
また、8月2日の交戦についても、「ただパトロールをしていただけのアメリカの駆逐艦が突然奇襲を受けた」というような性質のものではない。
当時アメリカの支援によって、南ベトナムが北に対して介入する「34A作戦」と呼ばれる作戦が展開されており、マドックスはこれを支援する「デソート」哨戒作戦に従事していた。つまり、北ベトナムにしてみれば、マドックスは自国に対する攻撃を支援している駆逐艦であり、当然攻撃対象となるわけである。つまり、この2件の攻撃は、前者は、米軍の挑発的な行動に対して北ベトナムが反撃してきたものであり、後者はねつ造ということになる。この事件で、米議会では、戦争拡大の全権を大統領に白紙委任する「トンキン湾決議」が採択されることになるわけだが、当時のリンドン・ジョンソン大統領は、議会で嘘をつき、全権委任のようなことをさせたのである。しかも、「慎重に行動する」という約束も守られず、ベトナムへの介入は際限なく拡大していく。
そして、北爆に関しても、直接には65年の2月に南ベトナムの米軍基地が南ベトナム解放民族戦線(親北ベトナムのゲリラ組織)の攻撃を受けたことを理由としているのだが、実際には前年にすでにホワイトハウスの戦略会議で65年早期の北爆実施大綱が承認されており、報復というのは口実にすぎないといわれている。
残されている資料からあきらかになっているのは、アメリカは1964年のかなり早い段階から北ベトナムへの進攻という方針を決めていたということだ。しかし、自分の側から攻撃をするのははばかられる。そこで「攻撃を受けた」と言いがかりをつけて、議会をだまして大統領に対する白紙委任をとりつけ、軍事介入の道をひた走った。
このように、アメリカが嘘や捏造で戦争に突き進んでいったというのがベトナム戦争である。
これは集団的自衛権の行使事例の一つであるわけだが、こうした経緯をみていれば、「集団的自衛権によって平和と安全が守られる」などとはいえないことがよくわかる。むしろ、米軍と密接な関係にあるおかげで、南ベトナムは集団的自衛権の行使によって戦争に巻き込まれたのである。
このようなアメリカの身勝手さは、ベトナム戦争のさまざまな段階で見られる。
たとえば、トンキン湾事件から4年後の1968年。この年、北ベトナムと解放戦線は、南のサイゴン政府に対して大攻勢をかける。いわゆる「テト攻勢」である。これによって、一時はサイゴンのアメリカ大使館までが占拠されるという事態に陥り、このあたりからベトナム戦争は潮目が変わってくる。サイゴンでの戦闘がテレビ中継され、アメリカでは戦争反対の声が拡大していき、さらに、この年に起きた“ソンミ村の虐殺”も、それに拍車をかける。
この状況に、アメリカは「ベトナム化」という方針を打ち出した。
ベトナム化とは、「ベトナムのことはベトナムにまかせる」という意味で、つまりアメリカは前面には出て行かず、南北ベトナム間で決着をつけさせようということである。
自分で戦争を引き起こしておいて今さらなにをいっているんだ、という話なのだが、これがアメリカという国の思考回路なのだ。あれこれ手出し口出ししておいて、都合が悪いとなるとさっと手を引いて、あとは自分たちでやってくれ、という。こうした歴史を教訓とすれば、アメリカとの同盟によって日本が守られるなどという保障はどこにもないのである。
そして、アメリカの身勝手はこれにとどまらず、ベトナム戦争の最終盤においても発揮される。
1970年代になると、アメリカはさらに一歩引いたところまで後退し、1973年にパリ和平協定に調印し、ベトナムから軍を撤退させる(※)。ただし、この和平協定は形ばかりのもので、実際にはアメリカはその後も南ベトナムを支援し続けるつもりでいて、そのために大量の軍需物資を提供していた。その結果、戦争終結までの二年間は、南の軍事力は北をはるかに圧倒していた。
しかし、にもかかわらず、南ベトナムは敗北する。
原因はいろいろあるだろうが、その一つに、アメリカ側が支援を大幅に削減したことがある。
1970年代前半には、いわゆるオイルショックとニクソンショックという二つの大きな国際的事件があり、そのいずれもが、ベトナムに対する援助の削減という方向に働いた。また、時を同じくして、ウォーターゲート事件で1974年にニクソン大統領が辞任に追い込まれる。南ベトナム支援に積極的だったニクソンの辞任は、アメリカのベトナム政策に少なからぬ影響を与え、1974年には、南ベトナムへの支援は大幅に削減されていく。「これ以上南ベトナムを援助しても無駄になるだけ」という判断もあって、議会もペンタゴンも、事実上サイゴンを“見捨てる”決定を下していった。アメリカの支援なしには持続不可能な状況に陥っていた南ベトナムは、これによって急速に崩壊にむかっていく。
この顛末は南ベトナムの側からすれば開いた口がふさがらないだろう。自分の都合で勝手に戦争をはじめておいて、南ベトナムをそこに巻き込み、勝てそうにもないとみると、援助を打ち切ってしまうのだから。
これは、以前どこかの政治家が挙げていたたとえ話になぞらえていえば、友人のアソウくんが他校のグループに勝手に喧嘩を売って自分も一緒に喧嘩する羽目になり、その喧嘩が不利になると、言いだしっぺのアソウくんだけが勝手に逃げ出してしまった……というようなものである。取り残されたアベくんは、他校グループに袋叩きにされるしかない。
そしてそれが、南ベトナムを実際に見舞った運命だった。
アメリカの後ろ盾をほとんど失った南ベトナムは、物理的戦力のうえではいまだ圧倒的に有利であるにもかかわらず、敗戦に敗戦を重ね、1975年に無条件降伏。10年余にわたった戦争は終結し、北によってベトナムは統一された。
結果としては、アメリカは、自分の起こした戦争で存亡の危機に立たされた南ベトナムを見捨てて支援を打ち切り、見殺しにしてしまった。繰り返すが、自分で戦争を起こしておいて、である。
二点目に、ベトナム戦争の規模の大きさについて。
この戦争は、南北ベトナムだけでなく、カンボジアやラオスといった周辺諸国にも飛び火した。サイゴン軍と米軍が相手にしていたのはゲリラで、ゲリラたちは国境などおかまいなしにインドシナの密林のなかを縦横無尽に移動する。そのため、周辺諸国にも影響を及ぼさずにはいなかったのである。また、ラオスのパテト・ラオ(ラオス愛国戦線)はベトナム戦争開始以前からアメリカにとって脅威となっていたし、カンボジアは表向き中立だったものの、実際には北ベトナムや解放戦線を支援し、物資や基地を提供していた(そのためアメリカは、1970年に親米派のロン・ノル将軍にクーデターを起こさせ、カンボジアに親米政権をつくった)。
そして、そういう状況があったから、密林をなくすために、あの悪名高き“枯葉剤”が使用された。“オレンジの代理人”とも呼ばれたこの薬剤に含まれるダイオキシンが新生児の異常を引き起こす(アメリカ側は因果関係を認めていないが)など、戦争が終ったあとにも長期にわたって傷跡を残すことになる。
また、ベトナム戦争には、ほかにも複数の国が関与している。北ベトナムは共産主義陣営の中国やソ連が支援していたし、南側はアメリカが支援し、オーストラリアやニュージーランド、韓国など、複数の国が資本主義陣営として参戦した。これらもまた集団的自衛権の行使事例とされるが、集団的自衛権を行使したことによって、これだけ大規模な戦争になってしまったわけだ。ベトナム戦争は、集団的自衛権がむしろ紛争を拡大させ、泥沼化させるという実例でもある。
犠牲の多さについて。
ベトナム戦争の死者がどれぐらいなのかというのははっきりしないが、百数十万人とも、二百万人を超えるともいわれている。ほかの事例との比較は難しいが、第二次大戦後の紛争のなかでもかなりの犠牲者数であることは間違いない。
結果の不毛さについては、いうまでもあるまい。
多大な戦費を費やし、多くの犠牲を払いながら、結局アメリカは南ベトナムを守ることはできなかった。「自国に都合のいい独裁体制を維持する」という目的自体どうかと思うが、百歩譲ってそれを正当なもの、あるいは冷戦下でやむをえないものと認めるとしても、その目的も果たせていないのである。結局ベトナムは「社会主義共和国」として統一され、「共産主義の浸透を防ぐ」ことはできなかった。
しかも、ベトナム戦争の不毛さは、単に目的を果たせなかったというだけではない。そのうえ、膨大な戦費を費やしたことで自国の衰退をも招いている。まったく馬鹿げた所業というほかないではないか。
これが、集団的自衛権によって引き起こされた歴史的事実である。
「集団的自衛権によって平和が守られる」という主張が幻想だと私が主張するのも、おわかりいただけるだろう。
そして、アメリカという国がそんなに頼りになるものではないということもこれでわかる。米軍の存在は、戦争に対する抑止にならなかったし、実際に戦争が起きたときにそれに勝つ助けにもならなかった。それどころか、アメリカは、むしろ戦争を引き起こす引き金を引き、そうしておいて、戦争に勝てそうにないとなると“同盟国”を見捨ててしまったのである。
「米軍が駐留していることによって日本の安全が守られる」と主張する人たちは、この事実を直視すべきである。米軍が駐留しているということは、ある意味ではそれ自体が戦争を引き起こすリスクを抱えることであり、また実際に戦争になったときにアメリカが日本を守ってくれる保証などないのだ。日米安保条約に基づく行動も、究極的には議会の承認が必要であり、議会が“ノー”といえば米軍は手を引かざるをえなくなる。そして、たとえ軍事的事情がどうあれ、政治的、経済的に困難な状況があれば、議会は“ノー”という。それが、ベトナムの教訓である。
ベトナム戦争は、複数の国に多大の犠牲を出したうえに、集団的自衛権の行使によって守られるはずの南ベトナムは消滅してしまい、行使した側のアメリカも、多くの兵士の命が失われただけでなく、経済的・政治的・心理的に大きなダメージを受けた。あえて誰が得をしたかといえば、集団的自衛権行使によって攻撃を受けた北ベトナムなのである。ばかげているとしかいいようがない。
前回までに挙げた東欧や中東での集団的自衛権行使事例も失敗に終ったものばかりだったが、ベトナム戦争はそれらをはるかに凌駕する、あまりにも無惨な失敗である。そして、先にいってしまえば、これ以後の事例もたいていこんなものだ。集団的自衛権は、事態をなんら解決に導くものではなく、泥沼化させ、悪化させるだけでしかない。前時代的な植民地主義と覇権主義の残滓であり、平和も安全ももたらさない、百害あって一利なしの代物なのである。
※…ちなみに、この和平交渉の担当者として、アメリカ側のキッシンジャーと北ベトナム側のレ・ドク・トは、1973年のノーベル平和賞に選ばれているが、このうちレ・ドク・トのほうは賞を辞退している。戦争をはじめたのはアメリカであり、そのアメリカ側の関係者とともに平和賞を受賞することはできない、という理由からである。