NHKをなんとなく見ていたら、あの日偶然そこにいて
と言う番組をやっていた。その時代の象徴的な場所を移した映像に偶然その姿が残されていた人が、その後どんな人生を歩んだのか?
先ほど見たのは、六本木ヒルズの開業間もない時の映像に残された人々がその後どう生きているかを追うと言う趣旨だった。ダイアルQ2関連で一時大成功していたが、偽造プリカ関連で売り上げ激減、倒産し、借金まみれになってヤクザに2度も監禁された。しかしその後立ち直り、以前以上の成功を収めている方。
もう一人は六本木ヒルズの高層階にオフィスを構え、27歳で社長をされていたイケメン男性。この方はヒルズに誘ってもらった関連会社の倒産に巻き込まれて倒産。その後ホームセンターで地道に働いたて家族を養っておられたそうですが、その後自分の趣味のシューティングゲームに使うエアガンの改良に地道に取り組み、地に足をつけて生きておられる方、それぞれ一人ずつ紹介した内容で、良い番組構成だったと思います。
翻って、自分のターニングポンとを考えてみた。
それは26歳の6月末の事だった。その梅雨、私はチリ紙交換をしていた。
23歳の時にそれまで4年在籍していた慶応大学工学部を学業不振で放校処分となり(4年在籍しても3年生に進級できなかったので放りだされた)名古屋の経営後継者養育学校に1年通う事になった。そこも持ち前のさぼり癖で危うかったのだけれど、生徒が6人しかいない特殊な学校だったので、職員の方たちの手を煩わしながら何とか卒業証書を手にしたのだ。
何とか特殊な経営後継者養成所を卒業したと思ったら、その数か月後には肝心の継ぐべき会社があえなく倒産してしまった。建設会社など複数の企業の職員応募に履歴書を出したのだけれど、面接さえしてくれるところはなかった。当時は、中途採用をする企業が少なかったし、私の経歴も一流大学を中退したあと専門学校に1年行って卒業、そして京都の中小企業に就職して3か月も経たないうちの倒産したという理解のし難いそして縁起の悪そうな履歴であった。
そうそう、塾の講師の応募があって、試験を受けたら、ほぼ満点に近い成績だったようで、採用された。「惜しいですねぇ、社会科で2問だけ取りこぼしがありました」と、言われた。言葉の裏に「どうしてもっとまともな就職をしないのか?」と問われている気がした。「私は社会不適合者だから。」と、思ったけれど、勿論そんな事は口に出さなかった。
その塾は、いわゆる「おちこぼれ」相手の塾で、私はそんな塾の存在を知らなかったので、面白くは感じたし、子供たちは可愛かったのだけれど、塾を経営している婆さんと、その息子の厭味ったらしい性格、阿呆さ加減と金に対する汚さに辟易して一か月少々で職を辞した。
働き口が無くて、どうしようかと思っていたら、高校の遊び仲間から、「チリ紙交換せえへんか。結構自由やで。」と誘われた。聞けば、軽トラを「大将」から借りて、賃料は払うが、どう働くかは各人の自由だと言う。塾で、非論理的なアホな上司の下で働く鬱陶しさを重々感じていたので、「自由」と言う言葉はとても心に響いた。
そして、実際に働いてみたら、本当に自由だった。
日々、車の賃料は発生するものの、その日働こうがずっと寝ていようが全く誰にも指図されないのだ。働かなければ収入が無いだけ。反対に頑張って働くと、当時は結構な収入になった。
その当時、故紙の買い入れ価格が結構高くて、要領よく働くと、大卒の初任給の2倍くらい得る事も十分可能だった。だから、当時のチリ紙交換業界には、一般社会で生きづらさを感じている様な一癖ありそうな奴らが集まっていた。
チリ紙交換業は、収集した新聞紙や雑誌、段ボールなどの重さで収入が決まる。支出は車の賃料、ガソリン代と収集した故紙と交換に渡すティッシュペーパー代など。ティッシュペーパー代など大したことは無いので、私は出し惜しみせず、特にボスっぽいおばちゃんには箱ティッシュなどをポンポン渡した。そうすると、お得意さんになってくれたり、周囲の友人の家に声をかけて故紙集めの協力してくれたりするのだ。
雨の日であれば、オフィス街で2階以上のところを回るとか、休日であれば普段機織り機の音が煩くい西陣を回るとか、頭を使うと成績が上がるのが面白かった。それで、結構な成績を残して、チリ紙交換業界内の引き抜きにあったりもして何とも面白く、「天職だ、私は生涯この業界に骨をうずめる」なんて言っていたのだが、梅雨には勝てなかった。
その年の梅雨は、本当にシトシト雨が降り続いた。一週間も雨が続くと、「チリコ殺すにゃ刃物は要らぬ、雨の三日も続きゃいい」などと都都逸もどきをうなったりする余裕もあっったのだが、10日以上も降り続いて、「こりゃ、職を考えなあかんな」と、思い至った。
そんな事を考えている時に、下宿に残された受験参考書、蛍雪時代が大量に廃棄された。家に帰ってそれを読んでみると、蛍雪時代に受験生のやる気を鼓舞する「目指せ医学部」などと言う記事があった。
何をやっても大したことが出来ず、企業にも採用されず、塾に就職しても長続きせず暗澹としていた私にとって、大学受験は成功体験だった。1浪の時、慶応に受かったのだが(補欠合格)高校の先生にそれを報告したら、「何処のケイオウや。」と、言われた。「あの、ワセダケイオウの慶應義塾大学です。」と言ったら、先生はしばらく茫然とされた挙句、「なんで江川を落としてお前を入れるんや」と、言われた。
同じ年に、ピッチャーの江川卓さんも慶応大学を受験しておられて、不合格だでした。私は工学部ですし、江川さんは文科系ですから、大学が同じいっても、全く比較対象にはならないとは思ったのですが、先生の口からそんな言葉が漏れる位、私はどうしようもない生徒でした。
私の高校の成績は相当に悪かったです。当時の京都の公立高校は、何処の高校も難度は均一でした。当時の京都府知事は蜷川さんで、なんと共産党のかたでした。売り文句が「15の春は泣かせない!」で、高校入試で落ちて泣く生徒は少なかったのですが、そのかわり18になって大学受験ではほとんどの生徒が泣きました。
楽をすればそのツケはどこかで必ず払わなければならない様です・・・・
その当時の低レベルの公立高校でも、卒業できるかどうかの成績でした。内申の平均が5段階評価で2.6だったかなA~Eまでの評価でDでした。Eだと卒業できないのだから、卒業できた最低レベルです。
3年生の夏にいやおうなく全員受けさせられた模擬テストがありました。
その数学の問題が難しくて、1問も全く理解できず、当然0点だったのですが・・・帰って来た成績表を見ると、数学の成績、320人ほどの中で155番でした。あれっつ何で?何にも分からなかったのに。記述式だから、絶対に0点のはずなのに????
成績表を見てようやく理解できました。私、やはり0点でした。0点なのに320数人中155番だったのは・・・・受験した同級生の半数程度が0点だったからでした。
そんな学校での内申Dでした。高校に行くよりも雀荘に居る時間の方が長い様な高校生活でしたから・・・
長くなりすぎましたね・・・でも、続きます!