命のカウントダウン(健康余命3605日)

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大学受験のはなし

2019-12-19 10:33:44 | 受験
今朝、娘が学校に遅刻するから送ってくれと言う。

一旦、配偶者が最寄りの駅まで送っりに行ったのだが・・・・

途中で私に電話。

「このまま電車で言ったら遅刻するから、学校まで送ってほしいらしい。私忙しいから無理だけど、行ってくれる?」

反抗期で今朝も挨拶もしなかった娘である。

私の答えは勿論

「ええよ~」

親バカなのである。大いなる オ ヤ バ カ

馬鹿親がわがまま娘の形成を手伝っているようにも思えるが・・・・

送っていきました。

ところで、娘は高校3年生 受験するそうである

受験生なのだ。受験生なのだが・・・・

この年の瀬に遅刻を恐れて学校まで送らせるというのは・・・・

出席日数が足りない恐れがあって、休めない授業がいくつもあるかららしい

かく言う私も高校の時はあきれるほど勉強せず、麻雀パチンコに励み、出席日数では苦労した覚えがある。

私が京都府立洛北高校に在学していたのは1971-1973年

そのころの京都府の高校は、学区制で一学区一校しか受験できなかった。

だから、周囲のメンバーがそのまま、幼稚園、小学校、中学校、高校と進んでいった。

「15の春は泣かせないという」当時の蜷川京都府知事の方針で、京都府には高校受験の洗礼はなかった(私立に行く子を除いて)

その代わり、18の春に多くの仲間が討ち死にした。私も勿論その一人。

高校の時は本当に自由に遊ばせていただいたので(私は勝手に週休3日制として、週に4日出席することに決めていた)、娘の出席日数が足りないと担人の先生から電話をもらった時、遺伝だろうとまず思ってしまった私です。

私は、1973、1974、1981年に受験している。73年が現役、74年が1浪、1浪で大学に入ったのだが4年間在籍したが成績不良で中途退学。その後、名古屋の専門学校に1年通ったあと、サラリーマンを経験したが就職した会社が倒産、その後いろいろな職業を経験するもどれも長続きせず、チリ紙交換業を1年経験した後、再び受験して医科大学を受験し、合格した という経歴を有している。

今日、娘を大阪の学校まで送り届けていく途中で受験に関する 今は亡き父親とのやり取りを思い出した。

あれは1974年 1浪の時だ。 模擬試験の成績では受かりそうもなかったのだが、憧れていた 北海道大学 を受験した。 

北海道に旅立とうとしたのだが、折角北海道まで行くのだからと、スキー道具を携えていくことにした。

いざ、家を出ようとしたときに、背後から 父の声
「おい、ちょっと待て。」

「〇〇(私の名前)。お前は、受かりに行くのか?滑りに行くのか?」

持っていたスキーをバタッと落として・・・・・

滑る道具は、置いていったのですが・・・・・

勿論、見事に滑ったのは言うまでもありません。




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