まちみちふうけい

間もなく10年目も通過点

No.1187 聖徳太子とその伯母

2019-09-02 10:17:33 | みち
おはようございます。















近鉄平端駅前へとやって来ました、近鉄橿原線にあって天理線との分岐駅、急行も停車する駅なのですが駅舎は小さく狭いロータリー、周辺は駅前側は民家が密集しているが反対側は田園風景が広がる所でこの駅自体は乗降客はそれほど多くないと言ったところ。その天理線の前身となっていたのが天理軽便鉄道、大正時代には平端駅からは西へと進んで今のJR法隆寺駅まで鉄道が走っていました、今回はまずその廃線跡をたどって行ってみることとしましょう。線路は平端駅前から民家の中を縫うように抜けて行って・・・ちなみに天理軽便鉄道には平端駅はなく、天理から前栽、二階堂からと停車して次の駅である・・・額田部の町並を通り過ぎて昭和工業団地へとたどり着く。この辺りからは西名阪を沿うように走って安堵町へと入る、ここではもう何度も取り上げたことのある安堵町、奈良県内では鉄道にも高速にも無視された不憫な地だと言うイメージがありますが、自転車で走る時には重要なポイントとなる町です。

















さて、斑鳩町へとやって来ました、上に並べた写真は中宮寺、法隆寺、境内に入るには拝観料がいるので取られない所まで立ち入って写真を撮りました。実はこの辺りを走っていると中宮寺ってどこにあるねん?ってくらいに分かりにくい所にあるんだよねえ、バス停はあるしガイドブックにも大きく載ってるし、しかし法隆寺界隈を巡っていても中宮寺の入口が見当たらない。法隆寺の境内を突っ切る道には露店が立っていてその突き当りに夢殿への入口の山門がある、そこをくぐって真っ直ぐ行ってしまうと拝観料を取られるが、左へと進むと写真3枚目にある碑が立っていてその先に中宮寺の入口がある、なるほど、これは分かりにくいわ・・・。中宮寺とは聖徳太子の母親が開基した寺院・・・あれ、聖徳太子の母親って推古天皇ではなかったの?違います、推古天皇は伯母さんに当たります・・・、もしくは聖徳太子が母親の宮殿を寺院に移設したとの説もあるがはっきりとはしていない、しかし聖徳太子が推古天皇の摂政として政治を行っていた時の拠点となっていたのがここだと言うのは確かなことである。ただ「聖徳太子」と言う人物自体も結構謎なんだよね~、この名前で呼ばれるようになったのは後世のこと、当時は馬小屋で生まれたとのことで厩戸皇子と呼ばれたとか、その「uma」が蘇我馬子にかかっていると言う説もあるとか。














推古天皇は日本で初めての女性天皇、聖徳太子は摂政として政治を行っていたわけですが、この頃は皇位継承もいろいろと血生臭い争いが行われていた頃、その中でよく見る名前が「蘇我氏」この頃は蘇我馬子がいろいろと政治に関わっていたことになりますが、3者の間には危うくも均衡な関係が保たれていたのでしょう、そのおかげで聖徳太子はいろいろな政治改革を行って行くこととなります。聖徳太子が政治の拠点としたのが斑鳩宮、さっき紹介した中宮寺のこと、推古天皇が都を置いていたのが小墾田宮・・・現在では明日香村豊浦付近・・・、聖徳太子がこの両方の都を往来していた時に通っていた道が現在では太子道と言う名で残っている。斑鳩町から安堵町を経由して上の写真にある三宅町エリアへ、写真1枚目にある馬に乗っているのが聖徳太子、安堵町に立っているでっかい中井貴一とはえらく印象が違うが推古天皇の補佐となったのが18歳の頃、まさに写真にあるような少年の頃から政治の世界に足を踏み入れていたと言う事になる。若い政治家が天皇である伯母とその補佐役のオッサンにこの国がどういう在り方を進めて行くのかを考えながら、この道を進んでいたのだろうか、しかしその3人の中では一番若かった聖徳太子が一番最初にこの世を去ることになってしまう、時は622年、若い頃の激務が祟ってしまっての殉職と言う感じもする。その4年後には蘇我馬子が亡くなり6年後には推古天皇も亡くなってしまう、女性と若者とオッサンの間に保たれた均衡が崩れ去った瞬間、それから大化の改新までは17年間は豪族が実権を握る時代になるのだが・・・、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。          まちみち



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