いつだったか父が
目が霞んできたから
柱の時計が見にくくなってきたと
告げられて
当たり前に年を食うのだな、なんて
80もとうに過ぎた父に
憎まれ口を叩きながら
ホームセンターに行って
据え置き形のデジタル時計を買ってきた。
父は年寄りにしては
とても目が良い方で
少しの老眼鏡さえあればことは足りる人だった。
年寄りともなれば白内障がかかり
かすみもする、見えにくくもなる、
やっと、この人もみえづらくなってきたかと
半ば安心、半ば寂しく思ったものだ。
その時計を買ってきた時は
その2年後に訪れる父の死なんて予見もせず
おそらく90歳はゆうに生きるのだろうと
それこそ、半ば嬉しく、半ば厄介だと
この先の行く末がどうなるか
不安と戦っていたのかもしれない。
父がその後
肺がんで逝き
あとを追うように母が逝き
両親の部屋の中を数ヶ月かけて片付けた所で
冬が来たので
途中で切り上げた。
今年も桜も咲き
一昨年が最後の桜だったんだ思うと
私も少し寂しくて
ここ数日は何を見ても泣いてばかりだった。
さてさて
暖かくなってきて
こんなに気持ちを揺らされてしまうのは
両親の部屋が物置のようになってしまったことが
きっとあの世から
綺麗に片付けなさいっていう
サインなのかもしれないと
やっとのことで重い腰を上げて取り掛かった。
押入れの深い場所に
2人の残したものがあるが
もう少し整理しなきゃと
突っ込んだ手に当たったものを取り出すと
とうに息が切れて止まってるはずだと
思っていた、あのデジタル時計が
『今』を刻んでいた。
まさに、『今』を、、、。
主人は亡くなってしまったというのに
押入れの奥で刻々と時間を刻んでいたのだと
思った瞬間から涙がこぼれた。
『生きていた!』
無機質な時計なのだけれど
父の布団に寄り添うように
あの天国へ召される瞬間さえも
時を刻んでいたんだよね。
私は1人で看取って
1人で泣いたけれど
ここに戦友がいたなんて、、、。
初めて気づいたよ。
ごめんね、暗い場所に居させしまったね。
しっかりと時を刻んでいたんだね。
父が何度、夜に起きて
時計の頭を押しただろう
夜中でも見れるように
そうした機能のものを探したのは私だけど
不安な夜も
嬉しい夜も
寄り添っていてくれたのだと思う。
愛おしくて
ただのデジタル時計だけれど、そうじゃない。
意味がそこに宿ったものとなった。
これからは私と一緒に時を刻もうね。