湖のほとりから。

花と空と心模様を写真と詩と文に託して。

眼下の景色に思う、、、。

2021-04-28 11:00:00 | ポエム
飛行機って

何度乗っても慣れないなぁと。



いつも、その時が勝負みたいな。



空から見える街並みに

人それぞれの人生があるものと   

思えばその一つ一つを

手に取って覗き見したいけれど

きっと重すぎて

言葉を失うのがオチ。



自分の人生さえ

こんなに重く

こんなに厳粛で‥



そのそれぞれ全てを

語り切ったとて

所詮、人には、人の、それぞれの道。



口出しとて、できやしまい


見たままは見たままなれど

その裏に隠された葛藤と哀しさは

所詮、人には、人の、それぞれの道。



しかし

眼下に広がる日本地図と同じ大地



そのくくりで言えば

小さくか細く窓の下に

龍の形か、トカゲの集まりのように

見えた半島でさえ

現存すること

誰かかきっと暮らしているだろうこと



思えば愛おしさが湧いてくる。



だから私は

日本地図が好きなんだろうか



だから、飛行機は苦手なのに

眼下を眺めるのは好きなんだろうか。
























私の和歌山、友人たちの和歌山

2021-04-26 09:25:00 | 旅行
もう、20年以上の付き合いになるのかな。

大人になってから親友と呼べる心地よい、小気味良い友人がいる。

彼女とは、
ある一定の距離を保ちながら
互いに干渉せず、
かといって誰にも打ち明けられないことも理解しながら
2人で違う方向を見ながらでも
横に居て、思いあいながら
ただ一緒に風を見ているだけでも良いような、、、そんな楽な間柄


確かに、
幼稚園からとか
小学校から一緒だとか
幼馴染などと言う間柄の友人も
とても憧れたけれど、
私にとっては望むことはできない生活で。
幾度も生活が変わり続けていく上で
大人になってからの友人と言う人が数人いる。


彼女はその中の1人。


変わった趣味や
私には無いところが沢山あって
比べることもしないし
互いにリスペクトしているためか
相手を尊重しながら
言いたいことが言えて
言葉はおかしいけれど
彼女本人を個体として
受け入れられている。


違う人格を認めながら
基本の核心的な心根の部分が似ているせいかもしれない。

(大人になって親友となった人、全てに共通なのだと思う)


その彼女が
少し前に
私の生まれ故郷である和歌山市に行ってきたと数枚の写真をよこしてきた。






まさに
私が生まれ育った街の風景

私が生活していた窓から見ていた風景をそのまま切り取ったような

懐かしさにLINEを打つ手が止まらない(笑)

あそこは青春の場所だった。

あれは、よく通っていた道だった。

それは、まさしく私が見た風景だった。


良きも悪くも
大切な時間を過ごした街であり
若い頃の自分と両親がいた時間に
ビューンと戻って、濃ゆい時間を思い出させてくれる写真の数々。


彼女自身は
私の生まれ故郷だからと言う目的ではなく、自分の趣味のために訪れた街の一つの場所だった。


しかし、私の長々としたLINEに呟く文章を彼女が読むうちに
私を通して、その街を彼女が見る形となり、
大層、その街が気に入った様子を知らせてきてくれた。


虎が伏した形に似ているからと
和歌山城は、別名を『虎伏城』と呼ぶ

城下町の佇まいはもうないが
市内の一角に
そびえたつお城は街のシンボル






生活をしている人間には
いつもの何気ない風景だが、

一度、その地を離れた者にとっては懐かしい場所となる。


私が今の地に移り住んで
あそこが良い、ここが綺麗だと言って
わーわー彼女に言っても
彼女が普段見慣れた場所だからか、
平然と

『そう?生まれた時から見てるから』

感動もなんにもないと言っていたけれど
私があまりに言うものだから
あらためて、自分の街を見て
『そうなのか』と思い直したふうで
今は、その風景をしっかりカメラに収めるようになった。


そんなものなのよね


自分の育った原風景は
普段の生活に埋もれていて
離れたり
誰かから聞いて
なるほどと思わない限り
大切なものだと忘れてしまっている。

誰にでも
大事な風景があって
そこに思い出が宿っている


ふと思い出したとき
自分の歩んできた道を振り返ってみて
苦かったり
酸っぱかったりしても
懐かしさに包まれて
全てが嬉しくなっていく、、、、。


月日と言うものは
不思議なチカラがあるものだ。


語ることによって
誰かの風景とリンクして
自分だけの場所ではなくなっていく。


大切な人が居た場所が
自分にとって特別な場所に変わる瞬間


私が彼女から受け取って
思いを言葉で返して
それが彼女の心に沁みて


その場所は彼女にとって
単なる旅行先ではなくなる。


その場所は私にとって
単なる生まれ故郷だけではなくて
私を知る友人が
私の思い出も一緒に旅してくれた場所となる。


実は
もう一人
京都の友人が和歌山を訪れていて
私の家族の思い出とリンクする場所に立っていることを知らせてくれた。






彼女も
彼女自身のために訪れた和歌山の地だけれど、
私とリンクしたことで
彼女の思い出にも私が乗っかってしまった。


立て続けに
和歌山の地を旅した友人が2人


彼女達に
とても素敵な体験をさせてもらった私は幸せ者だ!


その友人たちに
私が様々なことを
思い巡らされていくことに
きっと意味があるのだろうと。


兄のことも
両親のことも
その時の私自身のことも
泣きながら
思い出しながら
色々なことがあっても
現に存在してる自分の身を
有り難く、愛おしく、、、。


そして、
そんな友人達がいることを
あらためて有難いと思う。
私からも大切にしていきたい。




最近で一番嬉しい出来事。

感謝です。






















ナガミヒナゲシの襲来

2021-04-23 06:05:00 | コラム
やっぱり、書いてあったゎ、去年のgooブログ。

去年、この雑草を見つけたのは、
ほんの20本ぐらいの花を付けた茎を根っこから引き抜いただけ。
難しいかと思いながら
撲滅したかな、、、。

結局、甘かった。
私が甘かったでございまする。


今年は、3倍?4倍?
すでに咲き始め、その傍らには
小さなベビーちゃんの花






それでも、一人前に、花をつけようと、構えてる群生を見つけたら
かなり侵食されてきているのを実感して怖くなった。

恐るべし、外来種植物!!!

これほどの繁殖力をもつなら、
バイオのチカラで、食用に変えられたりできないのかしら。

葉っぱは、色味のよいスマートな春菊のようなのに。


って、自宅の庭や畑だけじゃなく
近くの空き地や、畑の脇に
群生するのを見ると
あ〜ぁと、ため息。

写真は、近くの蕎麦畑
休んでる間に群生してしまったようだ。
ここも、去年はチラホラ、花を見るだけだった場所。

一年目に芽をだすわけではなくて、
種は一年から五年にかけて咲くなんて。
ねずみ算以上の強者、、、💦

しかし、人海戦術しかない。

あ、わたしか、、、(笑)
頑張ろう〜💦










14日間の終わり

2021-04-20 08:37:00 | コラム
義母を空に見送って
あれこれ片付けを終え
佐賀から帰宅してから14日が過ぎた。

10日間を過ぎたあたりで
微熱が出た。

喉の痛みも味覚障害もなく
下痢も息苦しくもない
ただ、アレルギー反応が強い💧

正直、怖かった。

佐賀行きの2往復は
飛行機も、ホテルも満席、満室。
葬儀もほぼ通常通り
通夜も含め葬儀全般の料理は
慣習にならい、鉢盛り料理

いったいこれは、、、。

しかし、土地柄と言うものは
遠く離れた者にとっては
こうなんですよと、言われたまま。

風習にならうしかなくて
ましてや、地元の葬儀屋さんが
介入していることで
それなりに見送りのセレモニーを進めるしかなかったので
この14日間は、
密かに、しめやかにしながら
不安とのにらめっこ。
私の微熱はたった一日で終わった
多分、疲れからだったのだろう

喪はあけてないけれど
気持ちは、少し開放された感じ。

義母への悲しみとは別に
一つ、重石が取れた。


自宅を空けた、ほぼ10日間の間に
春の日差しになり、冬の日のような寒い日を超えて、さらに雨に打たれ
庭や畑の雑草は、伸びに伸びて
やれやれ、
次の仕事はこれだぞーと言わんばかりの荒れ放題

これまでの草引きでは間に合わないし、また、足を痛めてしまう。

今回、生まれて初めて、草刈り機を使った(笑)
大まかなところは使えるぞと。

うちの両親が生前に購入していたが数回しか使えなかった、電気草刈り機をうちの相方がメンテナンスしてくれていて、混合ガソリンでの
本格的な重い草刈り機の取り扱いよりも、簡単で、軽い。

遺してくれていたものが
後になって役に立つと言うことが
沢山ある。

有難いことだ。

電気草刈り機のおかげで
なんとか、庭や畑は綺麗になり
なんだか、木を植えたくなって
オリーブの木を2本植えた。

オリーブの実は、2種類のオリーブを並んで植えなければ実らないようだ。

2本

2人

まるで、夫婦のようだ。


家系は実(子供)を遺しながら
そうして続いていく。

双方の両親が亡くなったことで
私達は、家系図において
一番の長になった。

家を守っていくと言うことは
子供に生き方を見せて行くと言うこと?

義母が最後に
私の手をとって
言いたかったことは
『後を頼む』ってことだったように思う。

これからの自分達の生き方

後に続く子供達がわかりやすいように、私達が、また、子供の手を取り
次に繋げていくこと

昨日から今日、そして明日へと
淡々と繋げて行くと言うこと

今を大切に
やるべきことをやっていくしかないわけで。

どうせなら
楽しく、明るく。

と、、、、。
自分が年を重ねてしまったんだと実感(笑)

否応なしに
誰でもこんな時が訪れるのだと思う。

今年は
いやに早足だった桜の季節

コロナのせいもあり
何かと窮屈ではあるけれど
この時代を過ごすには、
何かの意味があるのだろう。















義母の訃報

2021-04-05 23:07:00 | コラム
自分の息子に手を握ってもらい
息子が声をかける

義母は、ぱぁーと目を見開いた

酸素マスクの中の唇が
聞き取れない音量で動いていく

何か分からずとも
テレパシーのように
互いが『うんうん』と頷く

突然、繋いだ息子の手を
振り解き
義母の髪を撫でている私の手を掴もうとする

食べられなくなってからの点滴で
指は膨らんで
プルプルと皮がぶら下がったまま
節々でかろうじて指を形成し
半透明かと思うほど透けていた


空をきる手をしっかりと掴んで
私の手のひらに包んでやると
義母は自分の胸元に引き寄せた。

 
まだ、これほどのチカラが残っているのかと思うほどの私の手を握りしめてきた。


また、酸素マスクの下の唇が動く


聞き取れないけれど
『キツかねー、しんどかねー
大丈夫よー、わかっとるよー
お義母さんのことは大事に思っとるよー、分かっとるー?』
と言うと
さらに、私の手を握りしめて
もう、涙も出てこないような目尻に
一粒の涙を滲ませながら
うんうんと、義母は何度も頷いた。


まだ、元気なこつあるね〜
もう少し大丈夫やね〜


そうして、
3/27日から3/29日までの日程を終えて
佐賀から帰宅した私達夫婦


帰宅した次の日の朝、
病院から危篤の電話があり


また荷物を作り直し
すぐに移動できるように
フライト予約、レンタカー、ホテル予約をしている最中に
旅立ってしまった義母


私はお昼にと
冷凍上海焼きそばを慌ててチンして
スマホ片手に予約に奔走していた時だった。

はぁ、、、。


私達が最後に会えた

それだけでも、感謝せねば。

病院側の感染者委員会にかけてもらい
許可が下りての面会だった。

『いつ危篤になってもおかしくない状況ではいます』

主治医の先生から最初に聞かされたことより、刻一刻と変わっていく容態だった。

病院から親族が帰宅した途端
訃報が伝えられるのは
世間的にみて
よくある、『あるある』なこと

あと1日居れば良かったと
後から思うけれど
危篤状況ではない時点で
決断をするのは、とてもとても難しい。 


結局、私達夫婦は、
3/27から3/29に佐賀に滞在してから、一旦帰宅し
訃報を受けて
再び次の日の3/30から、お通夜、葬儀、その他の手続きを経て4/5まで。


ソーシャルディスタンスに消毒とマスク

現在の三種の神器とも言える感染防止措置はあれど
ほとんど通常通りの葬儀、宴会に近い親族との食事を終えてからは、疲れとの戦い。


その中での今朝、早朝4時
義母が夢に現れた

にこやかな顔
呼び止めても、遠ざかる姿

ハッと気づくと、今日は初七日の日にあたる。
1時間ほどの嗚咽


法要は終わっているけれど
閻魔大王さまから、裁定されて
流れの緩い三途の川を渡ることを許されたかな。
どうだろう。


2年前に撮った私の写真の義母の遺影
義父のいる、御仏壇に添えた


そうして
9日間、茨城と福岡空港を経て佐賀の
2往復が終わった。


飛行機は、やっぱり苦手だけれど
大仕事が終わった疲労感と安堵感


2週間は自粛生活としょう


帰ってきたら、
春の日から冬に逆戻りしていた(笑)