湖のほとりから。

花と空と心模様を写真と詩と文に託して。

『ジョリハの窓』に思う。

2018-11-04 17:13:27 | 日記
最近、人から相談されることが多くなった。

別段、私は、何も肩書きもなければ何もない。
すこし心理学をかじって
すこし占星術もかじって
どれも、まだまだ、中途半端になっているのだが、
すこしは年齢も重ねて
人様の話を聞いてから
アドバイスほどではなく
幸運への尻尾を掴んで欲しいと
自分の事を例えて話をしたりしている。


難しいことはわからない。
ただ、生きることが楽になればいいと思うだけ。


私の例えだけではチカラが弱い場合
人は数字や図形を見て
『なるほど〜』と思うらしい。


私が考えた図形や考え方ではないものの
有名な心理学のグループセッションなどに
使われているものを示すと
初めて見る人には、納得しやすいみたいだ。


私とて、その手の専門家ではなく
仰々しく語ることはできないけれど
ストンと、腑に落ちれば
案外、自分のことに置き換えて
先に進めるタネを見つけられたりする。



『ジョリハの窓』





①解放の窓
自分も他人もわかっている自分。
自分が考えている姿と他人に見えている姿が一致している。
これが大半を占めて大きくなればなるほど良いコミュケーションが取れると言われる。
それには、自己開示という効果を生み出し、自分をオープンにでき、飛躍、成長のカギとなる。



②盲点の窓
他人には分かっていても、自分には、自分がわかってない、いわば『裸の王様』状態。
これでは、良いコミュケーションがとれるはずもなく、人からのアドバイスに耳を傾けることが大切となってくる。
自分へのフィードバックを促す。



③秘密の窓
自分は、自分のことが分かっているが、他人には、分かっていない自分。
本当は自分を隠しているので、これも、良いコミュケーションが難しくなる。
こちらも、できるだけ自分をオープンにすることで、この場所を小さくすることが①の『解放の窓』を広げていく自己開示効果を生む。



④未知の窓
自分も他人も分かっていない未知の部分。新しいことにチャレンジしたり
今までやらなかったことをしたりすると
未知の可能性の窓が開かれて
さらに新しい自信や飛躍、成長への①の部分を広げられる。


と、書くと、心理学っぽいでしょう。


昔から良い言葉があります
『人の振り見て我が振り直せ』だとか。


自分が相手をよく見て、
人の話をよく聞き、自分自身に問いかけ
謙虚であり、
自分を出して主張し
相手の主張も尊重して
互いが知ろうとすれば
良いコミュケーションが取れるということ。

片方が、そっぽ向いていると
難しいことになるけれど
双方が無理ならこちらから歩み寄る。


歩み寄ることも、
自分が謙虚になる一つだと思うのです。
成長もできることに繋がる。


話だけではわからないけれど
図解すれば
なるほど〜と思える。

しばらく見たら、なるほどではなく
『あたりまえ〜』
はなから知っていることの説明になる


それがなかなか難しい。
あたりまえの事
いくつも、かつて
自分の目の前で起こっていた事象を確認するようなこと。


しかし
誰しも人ですから
何度でも確認しながら。



その状況に応じて。



もう、必要ないよってこと
決してないと思うのです、いくつになっても。


私も、、、フィードバックしながら。


だから、ここに書いてるってこともあります。









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殿さまガエルの雲に

2018-11-04 10:49:27 | ポエム
世間や社会から
取り残されたような
気持ちもすこしだけ

取り残されたままでいたいような
気持ちもすこしだけ

世捨て人じゃあるまいし

早く早くと
急き立てられているような

泣いてはいけません
前を向いて進みましょうと

確かに正論
確かに答え

時として
この答えが苦しい時がある

一歩として
繰り出せない時は
何をしても何もできないもの

時間は流れ
出会うべきものに出会ったら
重い腰を上げ
うつむくのをやめて
自分の未来のために
顔を上げていける時が
やってくるのでしょう


ちょっとだけ
焦っていた私が
ひとやすみ


今まで何をして
無駄な時間を過ごしてきたのかと
尋ねられたら
その答えは何にも用意はできていないけど


ジャンプする前の前
決心を決める前のまま
じっと
何かを見据えているような気持ち


見えない誰かに
話しかけながら


空を見上げたら
殿さまガエルのような雲


君も飛びたがっているんだね
けれど、行き先は決まっているの?





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姫だるまの行く末

2018-11-03 11:21:17 | 日記
丁寧な文章は
ときとして
事務的な
冷たい印象を残してしまう

けれど
言葉の選び方で
それは深く心に刻まれて
安堵感のあるものになる


先日
姫だるまの供養をしていただくように
お手紙とお布施を一緒に
入れたものをお寺に送ったわたし。



それは
人を形取ったものには
魂が宿ると言われていることを
信じた者が辿る最終決断として


そのヒトガタの魂のためなのか
自分の安堵感のためなのか
自分との心の小さな戦い
気にしない人には戦いもない



受け取ったお寺の住職さんは
いかように供養し
いかように魂を
空に帰したかを
丁寧に細かく
親切に綴ったものを
私に差し向けてくださった


なんの変哲もない文字と封筒
綺麗な字とは言い難いもの


しかし
事務的ではなく
思いを込めて供養してくださったことがわかるものだった


そう
空に帰してくれた


有り難かった
心があったまった


自分では
どうすることも出来ないものを
人様の手を借りて
遂行できたことは
一つの甘えのように見えるが
神様、仏様に
行く末を預けた思い。


無事に
また一つ終わったことに感謝です。


そして
私はまた、秋晴れの空を見上げる







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秋の深まった日に思う

2018-11-02 23:37:17 | ポエム
写真のネガのように
空にかざして見るような
思い出のシーンが
まぶたの裏に焼きついた

それはモノトーンのままで
セピア色になるには
まだ早い

クッキリとした
輪郭とあたりの情景

鮮やかに
鮮明に浮かび上がる

早足で
駆け抜けたかったのは
しっかりと
焼き付けたものだけを
大切にしたかったのかもしれない


春が来て
夏が過ぎ去って
秋が深まった


木々の色や形が変わるように
そんなにも
時間が過ぎてしまったことが
不思議なような


もう一度と
願ったりしたものの
その時の思いは思いのまま

だから
美しいの

だから
切ないの

こうして私は思い出を
抱きしめながら生きていく







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3年前に書いた『オカンの昼ごはん』について

2018-11-02 08:30:41 | 日記
三年前に書いた文章が出てきた。
この時は、介護の最中でも
大変になる前のこと。
母が動けなくなっても、まだまだ序の口のころ。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


先月、私が風邪をひいて
心も体もほとほと弱っていた時
思いっきり涙を流し浄化されて助けられた、この本。

山田ズーニー著書
『オカンの昼ごはん』と言う本だった。

著者はとある小説から
『人生は短い。一番大事なものはなんですか?』
そう問われたような気がして
一番大切なものの為に実家に帰省する。
そこで見たものは、ろくにお昼ごはんもつくれなくなった自分のオカンの姿だった。

オカンの記憶が鮮明なうちに
その集中力が持続するうちに、父母とやりたかったことを
私はやってこられたのだろうか?
自分自身に問いかける。
そして、親の老いと死の影を受け入れざる終えなくなってしまうとき
「青春のおわりの瞬間」だと言っている。

誰しも自分の親は
不死鳥かエスパーのごとく
そこに居るものだとみんなが思っている。
それが、親が昨日できてたことが今日はできないと言う現実を
見た時から始まる苛立ちや悲しみ、やるせなさ。
そして、腹立たしさ。
それは、オカンやオトンに向けられてはいるが
そのほとんどが、実のところ自分が受け入れ難い部分なわけを
悟るまで続いていく、
果てしない自分のエゴでもある。

著者は
ブログでそれを問いかけた。
答えていく様々な人たち。
その原寸大の人々の中から
また、自分なりの問いを見つけていく。
自分自身のこと。
仕事のこと。
『医療』と『福祉』と『教育』のこと。

そして
生きた人生の教科書のような親の姿から
「それでもこれだけは」と湧き上がってくるもの、
それが『望み』であり
望みを自覚したとき、光が差す瞬間を『希望』だと。
幸せとは違う、夢というのでもなく、楽観でもなく、
希望としかいいようのないものと締めくくってある。


本を読み終えたとき、
私は優しさを忘れていたことに気がついた。
あるような顔をして
希望を見いだせることをわすれていた。
改めて、突きつけられて
自分の辛さに負けそうになっていたことを悟った。


折しも
大切にし過ぎて
しまいこんであった娘から私への手紙をみつけたところだった。


5年前の私の誕生日に
娘とケンカした後だったと記憶しているが
ノートの切れ端になぐりつけるように書かれていた。

『オカン、お誕生日おめでとう
なんだか不思議だね
きっと年をとっているのに多分、私の中で
オカンはずっと変わっていなくて
私も変わっていなくて。
いくつになっても、オカンとオトンはいなくならないと思っている。
私はオカンを尊敬していて、オカンみたいになりたくて
オカンはなんだかんだで幸せで
そんなオカンをみてる私も幸せで。
私がオトンとオカンの子供で良かったと思ってる。
今まで色々あって、きっと私は成長してるんだけど
まだまだ大人になっていない部分なんて沢山あって、
だから、今までありがとう。
オカンはずっとずっと元気で
私に心配かける事がないように。
ずっと私のオカンで居てもらわなきゃ困ります』



君と同じだよ。まだまだ青臭いのは私もだよ。
ただ、少し先を私は歩いているだけ。


君が私の背中を見て歩いているなら
私は立派に歩いてみせなきゃ。
娘が親を思う気持ちが同じなら
私も娘として、親として
こうして、本に助けられたように
いつか、君がこの道を通るとき、
わかりやすいようにしてあげることも私のつとめ。


君の青春が終わってから気づく
親への思いに苦しまなくていいように、、、、。


この本と娘からの手紙は
何処かいるであろう目には見えない人からの
メッセージに込められた私への
エールのような気がしてならなかった。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


私の両親を自分で看取った今
また、この時とちがった思い。

私は著書によれば
青春がおわって大人になったことになる。
なのに、いまだ、痛みはともなう。


果たして、自分は、
親が安心して次を託せる娘だったのか、
はたまた
子供に、自分の後ろ姿をキチンと見せられるようになったのだろうかと自問自答。


まだ、親に甘えたい自分を余計にみつけてしまっているのを自覚したからこそ、過ぎた青春を思ってしまう。
寂しさの中で。


だけど
娘が私が居なくはならない感覚は
いまだに変わっていない。
面白いことに。


私とて、病気でヨレヨレになって
死に際の両親に対しても
亡くなる寸前まで
『まさか!こんなはずはない!』と思う気持ちと戦っていたことを思えば
いまの娘の気持ちは分かることになる。



けれど、
『その時』感じた時に
どう動けるか。


反目しても
見たくなくても


事実を理解した上で
大切にしょうとする気持ちが
尊いのだと思う。


その尊さは
相手(娘に対して自分)にも存在していなくてはならないものだと思うので
それなりに、毅然としていたいと
あらためて思う、今日この頃。


親って、有難い存在。
色んなことをいまだに教えてくれる。


また、自分とて、親の端くれ(笑)






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