大陸旅遊倶楽部的日記

三国志・水滸伝・史記の旅と中国茶のほかモロモロ…

宝石山から西湖を一望

2019年01月05日 | 中国の旅

三公園から断橋を通り過ぎて、北山街へ。
北里湖周囲は未だに古い佇まいをもった建物が点在している。
内部がリフォームされて博物館やスタバに変身している建物もある。

▼西湖の北、北里湖と宝石山

北里湖北岸に沿った道、北山街(路)は30年前は路線バスが時折、
本当に時折通るだけだった寂しい道だったが、現在は路線バスや
長距離バス、観光バス、タクシー、マイカーが往来する賑やかな
通りになった。
日没後の北山街は、渋滞した車のテールランプが西湖を彩る
イルミネーションのようで結構綺麗ですよね~。
三公園方面から西湖越しに見るとgood!です。

▼北山街/北里湖の向こうに白堤が見える

▼葛岭(かつれい)/7、27、51、117、118路の停留所

北山街のバス停、葛岭(かつれい)を過ぎると宝石山に入る道がある。
この道、駐車場の手前で分かれ道があり、分かれ道は途中から
切通しのようになっていて幾分風情があるかな。

▼分かれ道は途中からこんな感じ

▼牌坊を潜って上がっていくと保俶塔方面
 右側の崖には仏が彫ってある

保俶塔(ほうしゅくとう)は宝石山山頂に建つ7層の塔で、細身で優美な
ことから美人に例えられる。塔の始まり、由来は色々あるが、
代表的なものは呉越王・銭俶(せんしゅく)にまつわるもの。

それは安史の乱以降、分裂した中国を宋が統一しようとしていた頃の話。
宋の開宝年間(968〜976年)、銭俶(銭弘俶)が宋の太祖・趙匡胤(ちょう
きょういん)に招聘され、都・開封に赴く事になった。
銭俶の叔父・呉延爽(ごえんそう)はその無事の帰還を祈って、9層の
宝塔を建立した。これが、保俶塔の始まりだという。

明末清初の作家、張岱(ちょうたい)の「保俶塔」には以下のように
書かれているそうだ。
五代十国の末期、十国のうち最大勢力を誇った南唐が宋に滅ぼされ、
皇帝は宋の都・開封に移された。呉越王・銭俶(せんしゅく)は、次は
自分の番と、開封に連行されることをとても恐れていた。
そうこうしているうちに銭俶も開封に招聘された。
南唐は皇帝が病と称して趙匡胤の招聘に応じなかったことを理由に
滅ぼされたので、行かない訳にはいかない。
そこで銭俶は仏に願をかけた。
 
無事に開封から戻る事ができたたら、必ず宝塔を建ててお礼をします。
 
開封に出頭した銭俶は、趙匡胤に手厚くもてなされ、二ヶ月逗留した後、
無事杭州に戻る事が出来た。
銭俶は仏に感謝し、塔を建てた。
銭俶を保(まも)った為、保俶塔と呼ばれた。

▼保俶塔

また、西湖にまつわる伝説もある。

昔、西湖に一匹の妖怪が居て、風や波を興しては民衆を害していた。
これを知った銭俶は3本の矢で妖怪を退治した。
民衆はこの事を忘れないために宝石山の上に塔を建立し、保俶塔と呼んだ。 

▼保俶塔から西に進むと岩の間を通る細い道がある

▼宝石山の北側はビルが建ち並ぶ

▼南側は西湖

岩場を上がると西湖が一望できる。
この辺りの岩場が蛤蟆峰(がまほう)。

▼西湖と白堤

▼早朝に登ると舟も観光客も居ない西湖が見られる

▼白堤から望む宝石山

▼蛤蟆峰(がまほう)にズームイン…結構危ないところだよね。