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じゃがいもの畑用に苦土石灰を蒔いて耕してから、市原のけやきの会へ。
およそ一年ぶり。調子が悪いからこそ思い切って行ってみようかと思った。
実は最近親の会との距離感について考えていた。
自分のことを話しているときに浮いているなぁと感じたことがあって。
なぜだろうと考えていた。
それで改めて気がついたのだ。
親の会の親御さんと僕との立場の違いに。
親の会にいらっしゃっている親御さんは、自身も子ども(娘)であった(ある)わけで、「子ども」と「親」の二つの立場(経験)がある。
僕には子どもがいないので、どうしても「子」の立場のみで語ってしまう。
しかも当事者だ。
それと、うちの両親(家族)は、かなり変わった両親だと段々年を経るごとにわかってきた。
でも親の会などで、そういうことを話すと、時々こんな風に言う人がいた。
「子どもを愛していない親なんていない。(あべっちさんの)ご両親も言葉がうまく伝えられないだけよ。」と。
「いや、そういうことじゃないんだけどなぁ」と随分思ったものだ。
でもこういう言い方になるのも、わかるような気がする。
「親」の立場で「僕の両親」を見ているからだと。
僕は、僕の立場にたって共感してもらいたかったのだね。
でも・・・親の会にいらっしゃっている親御さんとうちの両親は
きっと違う。
愛する能力が無かったのだと最近は思っている。
仮に「言葉にすることが得意でなかったのだ」ということであったとしても、それは僕からすれば免罪符にはならない。
「無条件には愛されなかった」と僕が思っているのだから。
むしろ言葉足らずだったとすれば、期待もするし(言えたのに言わなかったと)怒りもするが、その能力がなかったのだと思った方があきらめもつくというものだ。
最近は「大変なところへ生まれちゃったね」って言ってくれる人も出てきてくれて、ありがたいことだと思っている。
さてさて・・・前置きが長くなってしまった。
じゃ、なぜ今日は親の会へ行ったのかと言うと・・・
先月代表のMさんからお食事会のお誘いのFAXやお電話を頂いたのに、無視した形になってしまったから。
久しぶりにMさんにお会いしたいと思ったのだった。
僕にとっては初めての方を含めて4名。
この方は今は御自身の親の介護のために神奈川と二重生活をなさっていて、不登校の息子さんのことも気になり、気苦労が大変そうだった。
「今は息子さんの不登校を今すぐどうにかしなくてはということは、いったん置いといて、親の方に集中して、できるサービスは十分利用してまずご自身が楽になることを考えましょう」というようなことを皆で話した。
途中でMさんがこんなことを言い始めた。
「一番子どもにとって辛いのは、親に愛されなかったと思うことです。家が居場所でなくなったら子どもは出ていくしかありません」と。
素敵な人だなぁと改めて思ったわ。
で、僕も例のごとくたくさんしゃべってしまった。
帰りがけに、少しMさんに冒頭の距離感について聞いてみた。
「僕は子の立場でしか言わないから、浮いてるように最近感じるんです」。
すると
「子の立場で言ってくれると、とてもありがたい」って言ってくれた。
「世間体で子どもを見ている親も、自分では子どもを愛してると口では言います。気がついていないんですね。子どものためと言いながら実は自分のためだということに」
そして、最近けやきの会も人が来ないそうで、
「私って何かの役に立っているのかしらねぇって思っちゃうんです」っておっしゃる。
思わず
「何を言ってるんですか!僕はMさんに会いたくてここに来ているんですよ。」と突然の愛の告白みたいになってしまったのでした。
何を言ってるんだ自分。
僕は優しい母に会いたくて親の会に行っているのかも知れないな。(→不純)