不登校の息子とビョーキの母

不登校の息子との現在、統合失調症の母との過去

お母さんも、疲れてるんだよ

2019-02-25 09:26:52 | 日記
あれは、父の事業が次第に傾きかけていた、私が中学生の時でした。

その日、母は日が暮れてもコタツに潜り込んだまま、食事も作らず、電灯さえ点けずにいました。

「ちょっと、電気ぐらい点けてよ」
また母の「かまってちゃん」が始まった、と思いながら文句を言いましたが、
「いいから暗くしといて」
と母はコタツの中からくぐもった声で言うだけです。

ムカッとした私が勝手に電気を点けると、
「何すんのよ」
と叫んで、いつにない素早い身のこなしで起き上がり、また消してしまいます。

貧しい我が家には台所と風呂場の他に二間しかなく、六畳が茶の間、四畳半が子供部屋になっていました。
と言っても各部屋が完全に独立しているわけではなく、ふすまで仕切られているだけです。

私と姉は仕方なくテレビも暖房もない子供部屋に避難して、どんより沈んだ顔を見合わせていました。
私が台所へ行って簡単な食事を作り、畳に食器をじかに置いて食べました。
母の行動が理解できず、我が家に何かただならぬことが起きているような不安を感じました。

やがて父が帰ってきて、真っ暗な中でコタツに潜り込んでいる母を見ると、
声を掛けるのがためらわれたのか、私たち姉妹に
「どうした?」
と聞きました。

「知らないよ。電気点けてって言ってもダメだって言うし、ご飯も作ってくれないし」
父が帰ってきてくれてホッとした私たちが、口々に訴えると、父は困ったような顔をして、
「お母さんも疲れてるんだよ」
と言いました。

それを聞くと母はようやくもそもそと起きてきて、まだむっつりとした表情を浮かべながらも風呂を沸かし始めました。

まるで、私たちを不安と困惑に陥れた今夜の奇行が、
「お母さんも疲れてるんだよ」
という一言を引き出すための手の込んだお芝居だったとでもいうように……。

そんな見え透いた芝居にまた引っかかるのが癪に障って、私はそれ以来わざと母の奇行を無視しました。そして高校に入ると部室に入り浸ってだんだんに家に寄りつかなくなりました。

「そんなことをいくらやったって、同情なんかしてあげないよ。もっとママが嫌いになるだけ。さあ、早くバカな芝居はやめてよ」
と思いながら。

まさか、本当に気が狂いかけていたとは……。

発狂前夜

2019-02-19 09:55:41 | 日記
父の自殺は、工場の経営不振から来る借金を、生命保険で清算するための計画的なものでした。

父が死んでしばらくした頃から母は、
「近所の奴らが悪口を言ってる」
とか、
「借金取りが押し掛けてくる」
とか言い始めました。

借金に関しては、医者の叔父が間に立って債権者たちと話をつけてくれたはずでした。
ただ、ちゃんとしたところから借りた借金ばかりではなかったはずで、
あとから言いがかりをつけられたとしてもおかしくはありません。

しばらく留守がちだった父親が自殺したのですから、
近所のうわさ話の種くらいになってもおかしくはありませんでした。

妙につじつまの合った妄想だったので、
私たち姉妹はそれが妄想ではないかなどとわざわざ疑ってもみませんでした。

そのうち今度は家に昼間一人でいる間中、テレビを大音量で点けているようになったようでした。

「ようでした」というのは、私は大学に入ってからあまり家に寄りつかないようになっていたし、
姉は東京で就職して祖母の家で暮らしていたからです。

たまたま昼間に家に帰ったりすると、我が家のある路地の角を曲がった瞬間から、
テレビの音が風に乗って聞こえてきます。

10メートル、5メートル、近づいていくにつれてその音は大きくなっていき、私の家の前で最高潮に達します。

「ちょっと、テレビ小さくしてよ。近所迷惑じゃない」
玄関を開けながら私が怒鳴ると、母は少しボリュームは下げるものの、テレビを消そうとはしません。
こずるそうな奇妙な微笑を浮かべ、
「だって、近所の奴らが悪口言ってて、うるさいんだもん」
と言います。

この奇妙な微笑が統合失調症の特徴の一つだということも、当時の私はもちろん知りませんでした。

てっきり、一種の幼稚なデモンストレーションなのだと思っていました。
「私はここで、一人で、気が狂いそうなつらい時間を過ごしているの。
さあ、私を見て。私の不幸に気付いて。そして私を助けて」
と……。
依存心の強い母なら、いかにもやりそうなことに思えました。

そのテレビは私が高校生の時に壊れてしまい、音しか出なくなっていた代物でした。

テレビを修理したり買い替えたりする気力も、すでに母にはなかったのでしょう。
お金がなかった、というのもありますが。
私たちの学費も生活費も、当時はすべて祖母が出していました。

父の門限

2019-02-12 09:01:15 | 日記
私が物心ついた頃から、父と母の夫婦喧嘩は、ほとんど毎日のようにくり返されていました。

母は父の門限を8時と決めていて、それを過ぎると玄関のカギをかけてしまいます。

今思えば成人男性に門限があるのも、それが8時というのも異常な気がしますが、
母が決めたことなので仕方がありません。

門限を過ぎて帰ってきた父は、最初はふざけたように
「悪かった、開けてくれー」
などと言って、どんどんと玄関を叩いていますが、母がドアを開けないと、その音がだんだん激しくなってきます。

「火ィつけるぞ」
と、脅すように言って、郵便受けから火のついた紙切れを投げ込んできたりします。
それからぐるぐる家の周りを回っては、風呂の窓だの勝手口だの、入れそうな所をあちこち物色し始めます。

その物音を聞きながら、母は小気味良さそうな、勝ち誇った表情を浮かべています。
姉は(またか)と言わんばかりに、うんざりした顔で母を軽蔑したように眺めています。

臆病な私の胸は、悪いことが起こる予感にどきどきと鳴り始めます。
(ああ、私とお姉ちゃんがテレビなんか観ていなければ、8時になったことがママにばれなかったかもしれないのに……)

けれど実際、母が8時過ぎまで気付かずにいるなんてことはありません。
父の帰宅時刻を管理するのが人生最大の関心事ででもあるかのように、いつも8時になる30分も前から、
ちらちら時計ばかり気にしているのですから。

やがて父は、勝手口のカギを力任せに壊して入ってきます。もうその頃には本気で腹を立てかけています。

「入ってこないでよ」
 母は金切り声で叫び、父を外に押し戻そうとしますが、柔道初段の父はびくともしません。

むしゃぶりついてくる母を、まだ少し余裕のある表情で眺め、
「ほら、どうした、どうした」
などとからかいます。子供の手前、照れくささもあるのでしょう。

母にはそんな子供への配慮はありません。力でかなわないと見ると、怒りに任せて、茶碗を投げる、花瓶を投げる、やかんを投げる。
父はひょいひょいと器用によけますが、たまにもろに食らいます。

「いい加減にしろ、俺は外で働いてきたんだぞ」
 父の声にわずかずつ、真剣な怒気が混じり始めます。

私の心臓はいよいよ早鐘を打ち、狭い家の中に、安全な隠れ場所を探してはうずくまります。
火の気のない台所の隅に、押入れの中に、冷たく湿った風呂場に。

特に居心地がいいのは布団の中です。
布団にすっぽりとくるまり、恥骨に手を当てて何度も力を込めて押していると、股間からじんわりと温かい恍惚感が広がって、
つかの間不安から逃れることができるのでした。

父の自殺

2019-02-05 09:25:29 | 日記
父が自殺したのは私が大学1年生の夏でした。
当時私は反抗期とでもいうのか、父とはなんとなくぎくしゃくしていました。
突然の死で、死に顔も見なかったためか、あまり悲しんだ記憶がありません。

当時姉は東京の祖母の家に下宿しながら働いており、私と両親の3人暮らしでした。
もっとも父は工場の経営が思わしくなく、ほとんど家には帰ってこない状態でした。

ある日私が友達と長電話していると、母がしきりに背後から
「早く切りなさい」
とせかしてきました。

母が私の長電話を嫌がるのはいつものことでしたが、その時は誰かの電話を待っているみたいでした。
人付き合いを全くと言っていいほどしない母のところに、前の日から珍しく何度も電話がかかってきていました。

やがて何度目かの電話を受けた母は、慌てたように身支度を整えると、
「ちょっと行ってくるね」
と言って出かけてしまいました。

「どこ行くの?」
と聞いたら、少し顔をしかめて、笑うような表情をしました。母の表情はいつも分かりにくいのです。
「いいの、あんたは、何も分かんないんだから」
というのが口癖で、私たち姉妹に何か相談するということのない母でした。

釈然としない思いで家で待っていると、黒い服を着た父方の親戚の伯母が2人連れ立って来ました。

面食らった私は、伯母たちを家に待たせて近所の和菓子屋にお茶うけを買いに行きました。
店まで歩く道々、淡々とした気持で
(お父さん、死んだのかな?)
などと考えながら……。
何も事情が分からなかったので、伯母たちにあれこれ聞かれるのが嫌だったのかもしれません。

「人間、いつかは死んじゃうんだから、やりたいことをやって生きるのがいいんだ」
と、口癖のように言っていた父でした。
(そういうことを口にする奴ほど死なないものだ)
と、私は内心バカにしていたものでした。

「父は死んだんですか」
と伯母たちに聞くのもマヌケな気がして、お茶を出したきり黙っていたら、
伯母たちも顔を見合わせながらやがて帰っていきました。

母が白い箱を抱いて帰ってきたのは翌日のことでした。

「お父さん?」
と聞くと、母は、お骨を見やってうっすら苦笑しました。
(そうなのよ。こんなになっちゃって、しょうがないわね……)
とでも言うように。