夏休み最後の日に息子は、
「宿題が終わらなければゲームはやめろってお母さんが言ったから、
どうせ今日が最後だから思い切りゲームするんだ」
などと妙な言い訳をしながら、宿題を放り出してゲームを始めてしまいました。
要するに学校に行かない口実です。
「なんでもお母さんのせいにして!」
と私はキレました。
でも、口実をつけるだけまだましかもしれません。こんなこともありました。
休み始めて間もない頃、夫が息子を無理に立たせて学校へ連れて行こうとしました。
「ほら、行くよ」
すると息子は、その瞬間に眠ってしまったのです。
まるで力ずくで学校へ行かされるという恐ろしい現実から眠りの中に逃げ込むように。
「何してんだよ、起きろよ」
夫も最初は息子がふざけているのかと思って、苦笑しながら起こそうとしました。
けれど息子は一瞬で深い眠りに落ちてしまっていました。
私も夫も、それほど厳しい親ではなかったと思います。
成績を叱ったこともなく、習い事もやりたがればやらせ、
やめたがれば無理強いはしませんでした。
それでも「学校にだけは何が何でも行かせなければ」という常識にとらわれていて、
知らず知らずのうちに子供にそれを強いていたのでしょう。
どんな口実を付けても絶対逃げられない時、人間は身体症状に逃げ込むか、
死を選ぶのではないでしょうか。
あの時の私と夫は、学校に行かないことを許さない親でした。
それに比べると、二度目の時は、息子が「今日から昼夜逆転する」と
宣言できるくらいには話の通じる親になっていたのだと思います。
とはいっても息子の昼夜逆転宣言に、あの時私は泣いて反対しました。
昼間寝ている姿を見ることは、統合失調症の母を思い出して怖かったし、
高校には行けると思っていたのにそれさえダメになる、
この子の未来がずっと閉ざされてしまうと思いました。
息子の本当の望みが社会からひきこもることなら、ゲームとか昼夜逆転といった、
目に見える症状をしらみつぶしに矯正していっても徒労でしょう。
別の症状が現れるだけです。
親にできることがあるとすれば、
安心してゆっくり休めるようにしてやることくらいなのかもしれません。
「一体いつまで休めば元気になるの?」
と、悲鳴を上げたくなることもありますが。
「宿題が終わらなければゲームはやめろってお母さんが言ったから、
どうせ今日が最後だから思い切りゲームするんだ」
などと妙な言い訳をしながら、宿題を放り出してゲームを始めてしまいました。
要するに学校に行かない口実です。
「なんでもお母さんのせいにして!」
と私はキレました。
でも、口実をつけるだけまだましかもしれません。こんなこともありました。
休み始めて間もない頃、夫が息子を無理に立たせて学校へ連れて行こうとしました。
「ほら、行くよ」
すると息子は、その瞬間に眠ってしまったのです。
まるで力ずくで学校へ行かされるという恐ろしい現実から眠りの中に逃げ込むように。
「何してんだよ、起きろよ」
夫も最初は息子がふざけているのかと思って、苦笑しながら起こそうとしました。
けれど息子は一瞬で深い眠りに落ちてしまっていました。
私も夫も、それほど厳しい親ではなかったと思います。
成績を叱ったこともなく、習い事もやりたがればやらせ、
やめたがれば無理強いはしませんでした。
それでも「学校にだけは何が何でも行かせなければ」という常識にとらわれていて、
知らず知らずのうちに子供にそれを強いていたのでしょう。
どんな口実を付けても絶対逃げられない時、人間は身体症状に逃げ込むか、
死を選ぶのではないでしょうか。
あの時の私と夫は、学校に行かないことを許さない親でした。
それに比べると、二度目の時は、息子が「今日から昼夜逆転する」と
宣言できるくらいには話の通じる親になっていたのだと思います。
とはいっても息子の昼夜逆転宣言に、あの時私は泣いて反対しました。
昼間寝ている姿を見ることは、統合失調症の母を思い出して怖かったし、
高校には行けると思っていたのにそれさえダメになる、
この子の未来がずっと閉ざされてしまうと思いました。
息子の本当の望みが社会からひきこもることなら、ゲームとか昼夜逆転といった、
目に見える症状をしらみつぶしに矯正していっても徒労でしょう。
別の症状が現れるだけです。
親にできることがあるとすれば、
安心してゆっくり休めるようにしてやることくらいなのかもしれません。
「一体いつまで休めば元気になるの?」
と、悲鳴を上げたくなることもありますが。