2018.2.28
昔々の遠い記憶です。ほぼ忘れかけた遠い記憶です。
私は結婚をすることで自由を求めた。それは母の管理下から逃れるための一つの手段だったと言っても過言ではない。けれども世の中というものはそう思い通りに行かないのも現実である。結婚をして10年目に私は母と同居をするのであった。
母はすでに70歳になっていた。ほぼ母は70歳まで働きづめだったと言っても過言ではない。70歳を過ぎた母にこれ以上働けとは言えなかった。ましてや年金暮らしである。わずかな国民年金で独り暮らしは無理だった。さりとて弟の家では部屋も無く母を引き取る余裕もなかった。私は主人と相談し、母を呼び寄せたのである。
私と主人は母に6畳の部屋を与えた。それが私たちに出来る1番のことだった。その年の5月の初めから私と主人は母と同居しての生活が始まるのであった。少ない母の年金の中から少しばかりの生活費をもらった。私が独身の頃に家に入れていた生活費よりその額は安かった。
が、同居して母がおとなしいわけはなかったのである。翌年の4月に無理やり地元の高齢者大学に入れた。なぜならこの街で母の友達はいなかったのだ。母は何とか高齢者大学に通い数人の友達も出来たが、やがてその友達も一人亡くなり、二人亡くなりとなるのである。せっかく自分で作った友人は悲しくも癌や病気で死んでゆくのだ。母は何とか4年間無事通い卒業をしたのはいいが、その後、親しくなった友人が何人か亡くなってゆき、入っていたクラブもやめた。70年の人生の大半を働いて生きて来た母の身体はもうぼろぼろだった。その頃から母は週3日整形外科に通った。緑内障にも白内障にもなった。
幼くして母は実の姉と母を亡くした。父は再婚し新しい母が来たが新しい母は何せ18歳だった。その母は次から次へと子供を産んだ。母は生まれてくる妹や弟を背負って家事もするのである。そのころの母に楽しいことなどあるはずもない。遊びに行くことも出来なかったのである。
とりあえず母は女学校を出ると働いた。働いたお給料の大半を母は実家に仕送りした。なぜなら次から次へと生まれれ来る妹や弟に母の実家は父親の働きだけでは無理だったのだ。
昔々の遠い記憶です。ほぼ忘れかけた遠い記憶です。
私は結婚をすることで自由を求めた。それは母の管理下から逃れるための一つの手段だったと言っても過言ではない。けれども世の中というものはそう思い通りに行かないのも現実である。結婚をして10年目に私は母と同居をするのであった。
母はすでに70歳になっていた。ほぼ母は70歳まで働きづめだったと言っても過言ではない。70歳を過ぎた母にこれ以上働けとは言えなかった。ましてや年金暮らしである。わずかな国民年金で独り暮らしは無理だった。さりとて弟の家では部屋も無く母を引き取る余裕もなかった。私は主人と相談し、母を呼び寄せたのである。
私と主人は母に6畳の部屋を与えた。それが私たちに出来る1番のことだった。その年の5月の初めから私と主人は母と同居しての生活が始まるのであった。少ない母の年金の中から少しばかりの生活費をもらった。私が独身の頃に家に入れていた生活費よりその額は安かった。
が、同居して母がおとなしいわけはなかったのである。翌年の4月に無理やり地元の高齢者大学に入れた。なぜならこの街で母の友達はいなかったのだ。母は何とか高齢者大学に通い数人の友達も出来たが、やがてその友達も一人亡くなり、二人亡くなりとなるのである。せっかく自分で作った友人は悲しくも癌や病気で死んでゆくのだ。母は何とか4年間無事通い卒業をしたのはいいが、その後、親しくなった友人が何人か亡くなってゆき、入っていたクラブもやめた。70年の人生の大半を働いて生きて来た母の身体はもうぼろぼろだった。その頃から母は週3日整形外科に通った。緑内障にも白内障にもなった。
幼くして母は実の姉と母を亡くした。父は再婚し新しい母が来たが新しい母は何せ18歳だった。その母は次から次へと子供を産んだ。母は生まれてくる妹や弟を背負って家事もするのである。そのころの母に楽しいことなどあるはずもない。遊びに行くことも出来なかったのである。
とりあえず母は女学校を出ると働いた。働いたお給料の大半を母は実家に仕送りした。なぜなら次から次へと生まれれ来る妹や弟に母の実家は父親の働きだけでは無理だったのだ。